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四章 か寄る心に -玖拾漆夜 こぬひとを-
朝四時。
東の空に朝日が昇ろうとしている。夏の盛りはもう過ぎていて、一月前なら明るかった空はまだ白み始めたばかりだ。
遠く思えた百夜通いも残すところ五日を切っているが、連絡もなくこんなに遅くなるのは初めてだ。こちらに向かっているだろうと思うと、外に出るのは憚られた。携帯電話は机の上で静かに置物と化している。
事故にでも遇ったのだろうか。不吉な予感を頭から追い出すように頭を振る。待つことしか出来ない歯がゆさをごまかすように本を開いても、目は紙の上の文字を滑るばかりで内容はほとんど頭に入ってこない。
百夜通いが始まってから、少しずつ読書量が減っていた。読んでも理解していなくて読み返すことも増えている。僕の中の小野が占める割合が増していくのに気付く度、どうにも気恥ずかしかった。
遠く、カラスが鳴いた。雀たちも起き出して、おしゃべりに花を咲かせている。そこに微かな人工の音が混じった気がした。
スクーターのエンジン音ではない。しかし、急いているようなその音は不思議な予感を持って僕を襲い、玄関へ走らせる。早朝にも関わらず音を気にせずドアを開け放った。
「っ草町……!」
耳に馴染んだ心地好い声に呼ばれたかと思えば、強い力で体ごと引っ張られ驚いている間に目の前でドアが閉まった。熱に包まれた体は引きずられるままへたりこむ。
耳元で熱い息づかいが聞こえる。まとわりつく熱は男の腕で、ぎゅ、と力を込められた。状況を理解し始めた脳が、顔のすぐ横にある栗色を認識する。
薄暗い玄関で、小野に抱き締められたまま座り込んでいた。驚愕で早鐘を打つ心臓が休まることはなく、意味合いを変えてより速く強く血液を送り、体温を上げる。
「くさまち……」
こんな距離で、そんなに悩ましい声で名前を呼ぶな。際限なく上がる熱に呼吸を忘れそうになる。必死に吸い込んだ空気は小野の匂いがして、目眩がした。
「オレ、間に合った……?」
まだ荒い息を鎮めようと深呼吸を繰り返す小野が、細く呟いた。頑なに腕の力を緩めないので、泣いているのではと勘ぐってしまう。
「ああ。間に合ったよ」
短く返して、右手で栗色を撫でた。少しずつ力が緩んでいっても、背中に回された腕が解かれることはなかった。溢れさせまいとするように肩に顔を押し付けられている。
どうしたら、見えない涙を止めてやれるだろう。もしも今、想いを伝えたら顔を上げて笑ってくれるのだろうか。
「好きだよ」
小野は、一日に一度だけ好きと言う。何度も言ったら気持ちが軽くなると思っているような、それでも言わずにはいられないと、その一度にありったけの心を込めているような告白をする。
答えたいのに、今応えたら何かが駄目になってしまいそうで何も言えない僕を、彼は笑うだろうか。
答える代わりに左手を小野の背に伸ばすけれど、途中で拐われて叶わなかった。札を押し付けるように繋がれた手に、祈るような思いで力を込める。
今、ちゃんと傍にいる。できるならずっとと、願っている。小野が望む限り、離れたりしないから泣かなくていい。
愛おしいその伽羅が、様々な感情を抱えてもなお光を湛えていますように。
人を好きになることを教えてくれたこの百夜、毎晩触れた百人一首。その選者がうたう、愛しい人に二度と会えない悲しみ、切なさ、それでもなお愛することを止めない強さと弱さ。苦しいくらいに共感できる日が来るとは思わなかった。
来るはずだと待ち続けること。来ないことを知っていても想わずにはいられないこと。違いはあれど、どちらも相手を想って胸を焦がすことに変わりはない。
そして、待ち人に会えたとしても、やっぱり苦しいのだ。喜びで、愛しさで心が震える。息の仕方を忘れそうになる。
辛くても、知らなければよかったとは思わなかったことを、少しだけ嬉しいと思った。
「……間に合って、よかった。色々大変だったんだけど、後で話す。帰るね。……待っててくれて、ありがとう」
ゆっくりと、身体と腕が離れていく。名残を惜しむように、指先が襟足に触れた。
「休んで、いかないのか?」
「休んでってほしい?」
再び少し顔を近づけて問われた。その目に天鵞絨を見出してしまって、言葉は耳を素通りしていく。
「……このまま一緒にいたら、襲っちゃいそうだからダメ。じゃあね」
傍に居たい。触れたい。触れてほしい。僕の中のそれらはまだ幼い子どもが抱く程度のもので、きっと小野のしたいようにされたら怖じ気づく。引き留めたい思いはあれど、行動には出られない。
「……また、夜に」
待っている。共に在れる日を、胸を焦がしながら。
「うん」
僕をじっと見ていた小野が、ふわりと笑って頷いた。
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