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四章 か寄る心に -佰夜 ももしきや-
あと数時間で、九月が終わる。
大学では見かけなかった。連絡もない。けれど、きっといつも通りに、アルバイトが終わる頃やってくるのだろうと思う。
先日愛車が突然故障してから、小野は電車を乗り継いで来る。修理から戻るまで一週間程かかると言っていた。
普段の交通手段が突然使えなくなって、終電は終わっていて始発まで待ったら間に合わない。そしてそういう時に限って携帯電話の充電が切れている。だからと言って走って来るとは思わなかった。
事情を聞いた時、無茶をすると呆れながらも、そうまでして来てくれたことを嬉しいと思った。
「……何をしているんだろう」
日が短くなって、早くも薄暗くなり始めた空の下で一月ぶりに小野邸を見上げる。相手は通うと言っているのだから僕は待っていればいいのだが、どうしてもじっとしていられなかった。一年半続けて初めて私用でアルバイトを休み、こんな所まで来ている自分を不思議に思う。
家にいるとは限らない。これから出掛けて、そこから直接来るかもしれない。そもそも、本当に来るかどうかだって僕が決めることではない。
文献の上で、かつての百夜通いが成功したことはない。だからだろうか。まとわりついて離れない不安をぬぐいさりたくて、少しだけでいいから姿が見たかった。
「草町くん?」
「あ、小野の……ご無沙汰してます」
「どうしたの?将宗に何か用?」
買い物袋を提げたおばさんは普通に会話をしながら近づいてきた。とても近い。両手が塞がっていなかったら頭を鷲掴まれていたかもしれない。
「あの子、今日は夕飯要らないって言ってたから帰らないかもしれないけど……聞いてない?てっきり草町くんと遊ぶんだと思ってたわ」
「あ、いえ、僕は……」
この優しい人を、小野を心から愛している人を泣かせてしまうのだろうと思うと石を飲んだように喉が重くなる。
彼が伸ばし続けてくれている手を、今夜とろうとしている。繋ぐことができたなら、きっと僕からは放せない。
「ありがとう、ございます」
「?わたし、何かしたかしら?」
不思議そうに首を傾げるおばさんに、謝ったりしたくなかった。そんなことをするくらいなら、最初から小野の気持ちに応えようなどと思わない。
伝えたいのは、小野と出会わせてくれたことへの感謝だった。
「よくわからないけど……どういたしまして。会えて嬉しかったわ。また遊びにいらっしゃいね。来られるなら弟くんも一緒に。涼しくなってきたし、お鍋しましょ」
本当に、この母子は笑顔がそっくりだ。無性に会いたくなる。名前を呼んでほしくなる。
「また、来ます」
「ええ。またね」
おばさんと別れて電車に乗り、乗り換えのために一度改札を出る。この駅も、何度二人で訪れただろう。夏の盛り、迎えに来てくれた小野の顔を見て安心したのも、随分前のことに思える。
モノレールの高い視点から街を見下ろす。ふと目についたのは、デートをした公園で、唐突にアイスが食べたくなった。もう朝晩は大分涼しくなっていて、いつもだったらそんなことは思わない。
デートっぽいと笑ったあの顔をもう一度見たいだなんて、そんな理由で何かを欲しがることもあるのか。恋を自覚をしても、まだ未知の感覚を覚えることは多かった。
アイス、ラーメンと焼き肉、おかゆ、餃子とスイカ、食べ物だけでも小野を思い出すものがたくさんある。傍に居れば居るだけ、そういうものが増えていくのだろう。そして少しずつ忘れていく。隣にいることが当たり前だと勘違いした時に。
ひとつひとつを、どれだけ大事にできるだろう。小野は、勘違いしたっていいじゃんと笑うだろうか。最期のその時まで、勘違いかどうかなどわからないのだからと。当たり前にしたいと、しようと努力することを止めたくない。
モノレールが減速して、やがて完全に止まる。大学とアパートの最寄り駅の改札を出て、少しだけ立ち止まって大学の方を振り返った。記憶に在る限り、初めて小野に出逢った場所。多くの時間を共に過ごした場所。
始まりの場所に背を向けて歩き出す。いつまでも同じ場所にはいられない。大事な場所ではあるけれど、そこだけで我慢出来るほど大人しい気持ちではなかった。もっと別の場所へ、もっと先の未来へ、二人で行きたい。
何度となく二人で歩いた道を行く。いつもの喫茶店の店先で、マスターが看板を下げていた。
「こんばんは」
「おや、こんばんは。今日はお一人ですか?何か飲まれます?」
閉店時間は一応あるが、ギリギリでも客がくればきちんとコーヒーをいれて満足するまでいさせてくれる。マスターの気遣いのおかげでこの店が灯りを落とす時間はまちまちだった。
「焼きおにぎりふたつ……お願いできますか?持ち帰りで」
「はい。中で少々お待ちください」
両親とも、祖父母とも年代の違うマスターの落ち着いた雰囲気に、家路を急いていた気持ちが凪いでいく。窓際の席で、手入れされた小さな庭を眺めた。片隅で、曼珠沙華が鮮やかに咲き誇っている。
子どもの頃から、何故かこの花を見つけるとただ眺めてしまう。幼い頃、道端に咲くそれに触ろうとして、祖父に毒があるから触ってはいけないと怒られた。こんなにきれいなのに誰にも触ってもらえないのかと、寂しくはないのかと祖父に尋ねて困らせた。
数年の後、ふと思い立って図鑑を調べたことがある。毒を持つが故に悲しい異名ばかりを与えられた美しい花。
「花言葉は、ご存知ですか?」
香ばしい香りを袋からこぼしながら、マスターが話しかけてくる。
「悲しい思い出、でしたっけ」
「そうですね、それが一番有名かもしれません。でも、悲しい言葉ばかりでもありませんよ。私が一番気に入っているのは……想うは、あなた一人」
悲しいのは、愛を知っているからこそだろうか。幸せを知らなければ、不幸という概念は存在しない。
僕が今抱えている不安も葛藤も、恋を知ればこそ。ならば、それすらも抱えて生きていきたい。
「また、お友達といらしてください。新作の試食をお願いしたいので」
「僕たちでいいんですか?」
「学生のお客様は多いですが、常連になってくださる方は思いの外少ないんですよ。いつもありがとうございます」
お世話になっているのはこちらの方なのに、礼を言われて恐縮してしまう。きっとまた二人で来ると約束して会計を済ませ、マスターに見送られてアパートへ向かう。
手の中のぬくもりを分かち合いたいと願う人がいる。想うのは一人。あの花の赤に似た、胸を焦がすような感情を教えてくれたのは、僕だけに向けられたたった一つの想い。
すっかり日の落ちた西の空に沈みかけた細い月を見つけた。自覚したのは満月の晩。確か、百夜通いが始まったのも満月の頃だった。満ち欠けを繰り返すそれを、いつまでも隣で見ていたい。
理由はないけれど待っているような気がして、殊更ゆっくりと足音を立てないようにアパートの階段を上る。上りきった先で見つけた、自室の前に座り込む小さく塊を抱きしめたい衝動に駆られる。
「風邪をひくぞ」
三歩分の距離を空けて声をかける。ぴくりと肩が反応して、顔が見えるようになる。驚いたように見開かれる目に常夜灯が映り込んできらきらと光る。その中の緑が見たくて、近付いて小野の傍にしゃがみ込んだ。
「……バイトは?」
「休みもらった」
「は?」
「なんとなく、集中出来そうになかったし。上の空で授業するのは崇子さんに失礼だし、給料ももらえないから」
信じられない、と顔に書いてある。確かに僕らしくない行動をした自覚もあるが、そこまで固まる程だろうか。右手を伸ばして、頬を摘んでみる。
「別に夢じゃないぞ」
「あ、うん。そうみたい……こないだから、草町オレのこと引っ張り過ぎじゃない?」
「よく伸びるから面白くてな」
文句を言っても払いのけることはしない。だから調子に乗ってみることにした。頬を摘んでいた手でするりと顎まで撫でる。
「こないだの仕返し?」
離れた瞬間に、手首を掴まれた。眉間に皺を寄せた、複雑な顔をしている。
「小野、変な顔になってる」
「草町だって、らしくない」
「そうか?」
「そうだよ」
軽口の応酬をしながらも、視線は絡んだままだった。掴まれた手首が熱を持つけれど、掴んでいる小野の手はさほど熱くない。いつからここに座り込んでいたのだろう。
「中、入るか」
「待って」
立ち上がろうとすると引き留められた。苦しげに歪んだ顔で何が言いたいのか、なんとなく分かる。きっともう、小野は友人として僕の部屋に上がらない。
今日は百夜通い最後の夜。約束の日。
駄目なら友達でいると言ったけれど、恋愛感情なんてこんな面倒なものを一日二日で切り替えられはしない。
あの時どんな覚悟を持っていたのか、今なら少しだけ分かってやれる。
「さっき、小野の家に行って来た」
「え?」
「バイト休むって連絡して、家でじっとしてるのも、図書館で読書もできそうになかったから、会えないかと思って」
ぽかん、と驚いていた目が、少しずつ遠くを見るように細められた。
「オレも、色んなトコ行ってきた。公園とか、図書館とか……初めて逢った場所も」
もう一度、小野の焦点が僕に合う。まっすぐに僕を見てから腕を引かれて一緒に立ち上がる。正面から向き合うと、握られていた手首が解放された。
「今日で、百夜だ。毎日言って、発散して少しは楽になれるかもとか思ったけど全然だった。初めて言ったあの時よりずっと、オレは草町が」
息が、苦しそうだった。ゆっくりと吐き出して、吸って、手を伸ばす。
「――好きです。オレの……恋人になってください」
声は震えて、顔は強張って、それでも視線だけはまっすぐに僕を見ていた。伸ばされた手の中の百枚目のうたが、百夜通いの終わりを告げる。
時代は流れていくけれど、美しいものは確かにそこにあって、存在したことを決して忘れないと心に刻むうた。
僕もきっと忘れない。小野を好きだと想うことを、好きだと伝えられる喜びを、応える声のある幸福を。
どんなに時が経っても、百夜を何度繰り返しても。
「本当に、僕でいいのか」
「草町じゃなきゃいやだ」
即答されて、視界がちかちかと瞬いた。息が苦しいのは僕も一緒だった。意識して、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「僕からは、放してやれないぞ」
「オレのセリフだよ」
その心全部で、僕を求めてくれている。目が、声が、言葉以上に心を届けるのだと、小野が教えてくれた。伽羅に混じる天鵞絨に戸惑っていた心は、いつの間にかそれすらも愛しいと叫んでいる。
「それは僥倖」
最後の一枚を、想いの証を受け取って口付けた。
急く気持ちを必死で宥めて鍵を開ける。腕を引いて中に入れば、ドアが閉まり切る前に抱き寄せて唇を寄せた。
灯りのない玄関で、ただ小野の存在だけを認識する。小野には、何が見えているだろう。互いに見えている世界は少しずつ違うけれど、話して、触れて、少しでいいから共有していきたい。
ほんの数秒触れて、名残惜しく思いながらぬくもりから離れて閉じていた目を開ける。息のかかる距離で、互いの睫毛に触れそうな距離で、見開かれた目が僕を見ていた。
瞳に僕が映り込んでいて、愛しさに衝き動かされるまま引き寄せて反射で閉じられた瞼に唇を押し付ける。
一瞬、先日食まれた首筋や舐められた手の平を思い出した。ドクンと大きく響いた鼓動に理性が戻ってくる。羞恥心まで一緒に連れて来てしまって、耳の先が熱かった。
「すまん、我慢できな」
言い終わらないうちに一歩踏み込まれて、口付けられた。触れて、離れて、食まれて一歩後ずさった先は壁で、そのまま縫い留められてしまう。
身長差のせいで上向かされた頬に、熱いものが伝う。ゆっくりと雫が首まで落ちるのと同じ速さで、二人して座り込む。
「おかしいなあ……こんな、ありえないくらい、幸せなのにね」
目の前で顔をぐしゃぐしゃにして笑うから、思わず抱き寄せた。頭を抱え込んで、髪に頬を埋める。息が苦しい。心臓が痛い。歯を食いしばって眉間に力を込めた。
理性が連れてくる羞恥心と戦いながら、それでも腕の力を緩める気にはなれない。読書にしか興味がなかった自分が、小野に口付けて、抱きしめている。ぬぐい去れない違和感を抱えたままでは不安で、日常の糸口を探した。まだ、もうしばらくはいつもの僕らでいたい。
「小野、焼おにぎり食べよう」
「……ナニユエこの流れで焼おにぎり?」
「帰って来るとき買ってきたから。まだ温かい」
胸の上にある小野の頬を撫でて、顔にかかる前髪を耳にかけた。くすぐったいのか、小野がみじろぐ。
涙は、多分止まっている。これからきっと一番近くにいられるという期待を持っていても、今までの友人としての僕らの関係を棄てられるわけではない。どちらも大事で、失したくないと思っているのは、小野も同じなのだと思う。
大事なものを二人で大切に持ったまま、もっと先の未来を見に行きたいと思うのは欲張りだろうか。
「電気点けよう。こんなに暗いんじゃ、小野が見えない」
「……見えなきゃダメ?」
両手で頬を包んで、額同士を合わせた。
「さっき泣いたから、目がきらきらしてるだろう。見たい。電気点けるから立ってくれ」
「暗がりで愛を語ろうよ」
「明るくてもできるだろ」
「……えっちも電気つけっぱでするとか言わないよね?」
直接的な言葉に、髪の中で遊ばせていた手が止まる。真剣な顔で、こちらを覗き込んでいる気配がする。口付けて、抱き合って、その先に至る覚悟を問われている。
小野には僕の表情がきちんと見えているのだろう。仕方のないことだけれど不公平だ。はっきり見えない小野の顔から目を逸らす。
「真っ暗は、いやだ」
「……今度、間接照明的なもの買いにデート行こ」
「行くから、電気」
「はーい」
離れ際にまた口付けられた。一瞬だけ触れて、手を取って引っ張り上げられる。背後でカチ、と音がして、視界が一瞬白けてから戻ってくる。
日常が戻って来たような感覚を覚えながら、向かい合っていつものように食事を摂った。
「こわい?」
食事を終えて、さてコレからどうしようかと思った時、短く問われた。変わっていく関係のことだろうか。触れ合うことだろうか。もっと先の行為のことだろうか。それとも、小野のことだろうか。
衝動に駆られるまま口付けたり、腕の中に閉じ込めたり、いつもの僕ならまずしない。理性が働かないのは、きっと相手が小野だからだろう。
嫌ではない。変わっていくだろうこれからを楽しみにも思う。それでも、ほんの少しこわいのも本心だった。
「こわい。でも……傍に居てくれるだろう?」
「――うん。ね、草町。キスしたい」
ベッドに腰掛けていた小野に招かれるまま近付いて、口付けを交わす。枯れる事なく溢れる感情の名を、知っている。
「小野」
「ん?」
確かめるような強さで触れてくる小野の名を呼ぶ。僕がもらってばかりだったものを共有していきたい。手を伸ばして抱きしめて、また口付けた。満月の夜に知った心を、恋を教えてくれた大好きな人に捧げる。
月が満ちては欠け、昇っては沈んでいく。
その繰り返しの中、傍らで小野が僕を呼ぶ。
心を寄せてくれる。
その声に、心に、恋を――愛しさを知った。
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