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会長√
放課後の生徒会室。
三つの席が空席だということに慣れてきてしまっている俺は少しおかしいのかもしれない。だがあの平穏な日常を取り戻すことなどもう出来ないのだろう。だから俺は今ある日常に慣れていかなくてはいけない。
だって、空席が五つだったときよりは幾分とマシなのだから。
だけど。
この現状は誠に遺憾である。
「おい馬鹿」
「………」
「無視すんなやボケ」
「………」
「おいこら馬鹿咲」
「…いっ、痛、」
暴力的で口の悪い生徒会長。
ギロリと鋭い目付きで見られ、「あ、やばい」と思ったらこれだ。話し掛けられるよりも先に逃げるという選択肢を選べなかった自分に深く後悔する。
「いったいなー、何すんのー?」
「一度で返事しろって、いつも言ってるだろうが」
「俺は馬鹿でもボケでも馬鹿咲でもないもーん」
これは事実だ。
俺は何一つ間違った事を言っていない。それなのにペンのキャップを額に投げ付けてくるなんてちょっと野蛮すぎやしませんかね、バ会長。地味に痛いんだよ、ボケ。
お返しにてめーの眼球に投げ付けてやんよ。とか思ってみるものの、今の俺のキャラには不相応なので妄想の中だけで止めておくことにしよう。命拾いしたな糞会長。
俺は投げ付けられたペンのキャップを床から拾い上げた。
「口答えすんじゃねぇよ、うっぜーな」
「………」
死ね。
だけどその言葉も口には出さない。思った事をすぐ口に出す馬鹿な子供のような会長とは俺は違うのだ。
そう、我慢だ我慢。堪えろ充。笑顔を絶やすな。
理性的な俺と餓鬼なお前との差を味わいやがれ。
「はぁい、かいちょー。ペンのキャップ落としたよー。ペンのキャップすらまともに閉めることが出来ずに手を滑らせたかいちょーの代わりに俺が拾って上げたよ。偉いでしょー?ね?褒めて褒めてー」
「……チッ、うぜぇ」
ふんだんに嫌味を込めて会長の席までペンのキャップを届けに行ったら、心底不快そうに眉間に皺を寄せた会長に睨まれた。そして手の上に乗っていたキャップを乱暴に奪われて少し痛かったのだが、その嫌そうな顔を見れただけでも俺は満足だ。ふん、ざまあみやがれ。俺に生意気な口叩きやがって。口で俺に勝てると思うなよ。今までの分は、いつか倍返ししてやる。
「それで、そんな賢い俺に何のご用ですかー?」
「あ゛ー、クソ」
「んふふ、なぁに?」
人を不快にさせる点に置いては負けはしないぜ。
苛立ちを隠せず、後頭部を掻く会長を見て俺は満面の笑みを浮かべた。この勝負(別に勝負はしてないけれど)も俺の勝ちだな。
「チッ、おら。」
「んー?」
そしてバサッと乱暴に手渡された数枚の書類。
あ、またもや嫌な予感がする…。
「これは前年度のだ。これを参考にしながら今年の分を犬塚と作れ。明日までな」
ほーらな。
「分かったら、さっさとあっちに行きやがれ」
「え?やだよ」
「…あ?」
「俺一人で作ってもいいでしょ?」
「犬塚と作れっつってんだろ」
「やだ」
はっきりと嫌だと告げる俺に、会長の眉間が更に増えた気がした。
「てめぇが一人で作っても何も意味がねーんだよ」
「なんで?俺一人で作った方がはやいよ」
「…お前は犬塚の教育係だろうが」
「あ、それね。辞退する」
これまたきっぱりと告げた俺に今度反応を示したのは、今まで黙っていた犬塚だった。
「…ね、犬塚?」
「………」
了承を求めるように首を傾げて訊ねれば、犬塚は俺が教育係を止めるのが嫌なのか、ただ無言で首を横に振った。
チッ、素直に頷けよ。
「…何だお前ら揉めてんのか?」
「べっつにぃー」
「…揉めてなど、いない」
喧嘩などはしていない。だがこんな変態と一緒に作業など出来るわけがない。ファーストキスならぬ、二番目、三番目、…そしてもはや数えられないくらいに無理やりキスを仕掛けてきたこいつと傍に居れるわけがないのだ。このままではファーストキスだけではなく、ファーストバージンすらも奪われてしまうに決まっている。童貞すら捨てられていないというのに、男の俺が先に処女を無くすなどということは絶対に合ってはいけないこと。というか墓場まで持っていく。絶対に。
犬塚とは目も合わせず、ふーんと澄ました態度を取り続ける俺を見て、会長は溜息を吐いた。
「餓鬼じゃねぇんだ。私情を生徒会に持ち込むな」
「………」
「…あ?何だ」
「べつにー」
それをあんたが言いますか。
一人の少年に溺れて長い数日職務を放棄していたくせに。今はそれなりに仕事をしてくれているから、別にもういいけれど。
「とにかく。俺はやだよ」
「我侭言うなボケ」
「わがままじゃないもーんだ。それに俺が悪いんじゃないかんね。犬塚に問題があるんだから」
「お前以外に原因があるとは思えねーな」
「うわー。さべつだー、さーべーつー!」
「あー、うるせー…」
あーくそっ。
仕方ないが俺と犬塚のどちらに問題があるのかと問えば、十人中十人が俺に問題があると言うだろう。非常に不本意な事だが。
……どうしようか。
素直に言うべき、なのか…?
「だってさぁー」
いくらこの学園に同性愛者が多いとはいえ。容姿も可愛くない上に、性格からも可愛げの「か」の文字すら見当たらない俺が、「男からケツを狙われています」なんて伝えるのは冗談でもキツイと思う。しかもそれを敵対している会長に伝えるのはどうかしていると自分でも理解出来る。呆れられるか、笑われるか、嫌悪するか、はたまたこの他の反応を示すとしてもだ。
俺にとっては屈辱的なことこの上ない。
だがだ。
これ以上犬塚にちょっかい出されるよりは何百倍もマシだと言えよう。背に腹はかえられぬ。
「聞いてよかいちょー」
「あ?」
「あのね。犬塚が俺にセクハラしてくるんだよー」
「……は?」
一拍置いて声を出したかと思えば。会長の眉間に皺が数本寄った。
いやいや。会長の言いたいことは分かるよ。別に分かりたくないけれど。「愛咲の分際で何をほざいてやがる」って言いたいんだろ。俺だって自分でこんな事言いたいわけじゃねーよ、ばーか。俺が恥を忍んで珍しくお前を頼ってんだよ。だからその見境なく発情する駄犬をどうにかしやがれ。おちおち隣で仕事すら出来ねぇだろ。
しかし。俺のその願いは通じることなく。
バ会長は口元に手を当てて吹き出した。
「お前にしては、面白い冗談言うじゃねーか」
死ね。
こちとら冗談じゃ済まねーんだよ。
貞操の危機だぞ、貞操の。俺男なのに。
「本当だってぇ!」
「気持ち悪い事ほざくなボケ」
「嘘じゃないのに…」
「冗談言ってる暇あるなら手を動かせ」
「ねー、犬塚!俺の言った事間違ってないよね!」
俺のこと性的な目で見てるでしょ?と犬塚に訊ねる。
気持ち悪いことをほざいているという自覚はあるが、此処まで来たら引くに引けない。これからもこんな発情犬と隣で仕事するよりもマシだ。
そして。
案の定、犬塚から返ってきた答えは「ああ」という肯定の言葉だった。
「…マジかよ」
その犬塚の返答に会長は珍しく目を開いて驚いている。犬塚は冗談を言うキャラではないというのは会長も知っているからだ。どうやらやっと俺の言ったことを理解してくれたらしい。
「ね?会長?俺嘘つきじゃなかったでしょ?」
会長は黙ったまま、一度だけ首を縦に振った。
どうやら会長にはよほど衝撃的な事実だったらしい。
いや、被害者の俺すらも衝撃的だけど。
さあ。
理解してくれたなら一刻も早く対処してくれ。俺を犬塚の教育係に外すとか、いっそのこと去勢でもしてやってくれ。
去勢!去勢!
と、内心一人盛り上がっていると、会長はやっとその重たそうな口を開いた。
「犬塚、…お前大丈夫か?」
しかし俺が想像していた言葉ではなく、会長はむしろ犬塚を気遣う様な台詞を吐いた。
「眼科でも行ってこいよ。」
「はあ?!」
「いっそ性検査もして来い」
「ちょっ!かいちょー!」
「愛咲に対して遊びでもだ。こいつだけは止めておけ」
こちらに指を向けてくるものだから、俺は怒りのまま会長の指を叩き落した。いっそのことだから指をちょん切ってやりたいくらいだ。
「遊びではない。本気だ」
そして久しぶりに喋ったと思ったらお前も馬鹿か犬塚!
どいつもこいつも阿呆のような発言しやがって。本気とかふざけんなっ。ばか、去勢しろ。
「会長!被害者は、おれ!」
会長の服の袖を掴んで、猛抗議。
すると会長はやっとこの異常な状況に気付いたらしい。
「……犬塚、お前婚約者が居るだろ」
「…勝手に親が決めたことだ」
はあ?!犬塚てめえ!婚約者がいやがったのか!
ふざけんな!どこのご令嬢だ!どうせ清楚で綺麗な子なんだろ!それなのに俺に手を出しやがって!
腹立つ。
謝罪なんていらねぇから、その婚約者を俺にください。お願いします。
「大体こいつに手を出すとは…」
ゲテモノ好きだな、お前。と犬塚に憐れみの目を向けた会長に俺は心底腹が立った。
まぁ確かに、俺の事をネコの立場として性的な目で見ている犬塚は、物好きの変態馬鹿野郎だと思うけれど。だけど会長から侮辱されたまま反撃もしないのは嫌だ。
「なぁにそれ?俺がゲテモノだって言ってんの?!」
「当たり前だ、馬鹿。何度も言わせるな」
「俺だってそれなりにモテるんだよぉ?」
学園の可愛い子ちゃん達からも人気者だし、と付け加えてみたのだが、自分で言って少し吐き気がした。性的な意味で男に好かれても嬉しいわけないからな。
でもこんなバ会長から「ゲテモノ」呼ばわりされて素直に引き下がれるわけがない。この性格破綻者の会長に言われてしまったらもう終わりじゃないか。
「ふーん。俺の魅力の一つも知らないくせに、いつも口だけは達者だよね、かいちょーって」
「はっ。お前に魅力なんざねぇだろ」
「あ、そんな事言っちゃうんだぁ」
いつも通り語尾を伸ばし、ニコニコと笑みを浮かべてチャラ男の演技に徹しているのだが、俺を見下ろしながら鼻で笑った会長に俺の怒りは静かに最高潮に達した。
「俺がその気になれば会長だって俺にメロメロになると思うのになー」
どうにかしてこいつに一泡吹かせられないだろうか。
いつもより声のトーンを高めにしてゆるやかな口調で喋りながらも、あれやこれや脳内で対策を練る。
しかし。
俺が予想していなかった所で事は動き出すこととなった。俺が適当に放った言葉に会長は乗ってきたのだ。
「いいじゃねぇか。お前が言うその魅力ってやつで、俺を虜にしてみせろよ」
「……へ?」
思考が一瞬停止した瞬間だった。
会長の返しは俺の予想範囲外だったため、おもわず素の声が出てしまった。
「何だ?出来ねーのか?」
「…で、出来るよー!余裕だしぃ」
ニヤニヤと口角を上げて笑う会長に、本当に心底腹が立つ。何だか会長の口車に上手く乗せられてしまったようで嫌だ。ここからでも何とかして俺のペースに戻さないと。
だけど。
「(どうやってメロメロにするんだよ…っ)」
まさか会長がこのような事を言い出すとは思っていなかった。完璧に作戦ミスだ。会長も俺が適当に放った言葉だと分かっていて言い出したのだろう。
…やばい。
このままだとこの阿呆会長に口でも負けてしまう。
でもそれだけは絶対に嫌だ。
大体人をメロメロにする魅力なんて俺なんかに一つもねぇよ。精々出来たとしても、目と頭がおかしい犬塚くらいだ。
「おら、どうした?素直に降参するか?」
「ふ、ふんっ。会長こそ今の内に、俺への謝罪の言葉を考えておいてよねっ」
ああああああ!くそ!
こうなったらやるしかねー!
此処まで来て引き下がれるわけがないのだ。当たって砕けろだ。そうすればどうにかなると思う。…多分。
意を決して会長に近付くために一歩踏み出せば、それよりも先に犬塚に腕を掴まれてしまった。
「愛咲、止めろ」
どうやら俺たちの無駄な争いを止めようとしてくれているらしい。確かにその助けは素直に嬉しい。…だが、時既に遅しだ。犬塚の言葉に素直に「うん、分かったぁ」なんて言ってみろ。少なく見積もっても数か月は「負け犬」と呼ばれ続けるだろう。
俺は会長に見えないように、少し乱暴に腕を振り払いながら、「黙って見てろ」と犬塚だけに聞こえるように凄んだ。そうすれば犬塚はそれ以上何も言えなくなったようで、大人しく俺の言葉に従ってくれた。
珍しく聞き分けがいいな。良い子だ。俺が会長との勝負に勝ったら、後で頭でも撫でてやんよ。
「おい、するなら早くしろ」
「はぁい、ダーリンお待たせー」
待たされて少し苛々しているこの会長を、俺がどうやって落とせというのだろうか。確実に無理ゲーじゃねぇか。
女の子の落とし方すら知らないのに。
いきなりラスボスなんて、ムリゲーのクソゲーだ!
心の中でそんな悪態を吐きながらも、俺は先日見た純愛物のAV(もちろん男女物)でグッと来たシーンを見よう見真似で試してみた。
「(…えっと、)」
まずは会長の両手を取る。
男の手を握ることに多少の不快感があるが、ここはグッと我慢。
会長の手は思っていた以上に大きくゴツゴツした男らしい手だった。ペンだこもあることから、勉強も生徒会の仕事も、会長なりに頑張っているようだ。
「(ふーん。こいつもそれなりに苦労してるんだな…)」
俺は触られただけで痛そうなペンだこを優しく指の腹で撫でてあげた後、指を絡ませながら、会長の両手を上から優しく包み込んだ。
そしてあのときの女優がしていたように、上目遣いで会長を見上げて、首を少し横に傾ける。
「かいちょー、……好き、だよ?」
おまけにあまーい声を出してみる。
あと台詞は適当に補ってみました。
だがやはりと言うべきか。
自分がしてみても色気も魅力も感じ取れない。むしろ鳥肌が立ってしまったくらいだ。
くそ、今回は俺の負けか。そんな事を思いながら絡ませた指を解こうとした瞬間……。
「……っ、?!」
俺は会長の手によって乱暴に机に押し倒されてしまった。
「い、…っ」
机に打ち付けられた肩と背中がまじで痛ぇ。しかも背中に受けた衝撃の所為で、一瞬息が止まったぞ。手加減なしかよ。
犬塚といい会長といい、頭おかしいんじゃねぇか。生徒会メンバーの間では、人を机に押し倒す事が流行ってるのか。ふざけんな。お前らのような筋肉馬鹿に一般人の俺が勝てるわけねぇだろ。
「ちょ、…かいちょ、痛いって」
まるで逃がさないと言わんばかりに押さえつけられている肩。負けじと俺も会長の手首を力の限り握りつぶして抵抗をしているのだが、会長は全くビクともしない。
「も、…かいちょー、」
そんなに俺のぶりっ子姿は気持ち悪かったか?そりゃ、悪い事したな。大体俺に会長を魅了する力なんてあるわけねぇだろうが。それなのにやってみろと言い出した会長が悪いんだぞ。俺だけの責任ではないはずだ。
だからこの勝負は引き分けにしよう。と、いつも通りニヘラと緩んだ笑顔を見せておちゃらけようと思っていたのだが…。
「………っ」
ギラリと鋭く光る獣のような目をして俺を見下ろしてくる会長を見て、俺は何も言えなくなった。
「(何をマジになってんだよ…)」
そこまで怒ることないだろうが。
こんなのいつもの冗談の延長戦だろ?それなのにそんな目で見下ろすなよ。
その時は、俺の気持ち悪い姿を見て会長は怒っているのだと思っていたのだが。
そうではない。
だって俺は、…この目に覚えがある。
犬塚だ。
犬塚が俺を見てくる時と同じ目。
…獲物を狙う捕食者の目。
どうにかしてでも今すぐ逃げ出さないといけなかった。暴言を吐いてでも。股間を蹴り上げてでも。
だが俺がその事に気が付いたのはもう既に手遅れだった。
「…ひ、…ぁ、っ」
だって。
もう既に食われてるし。
「い、痛い…っ」
比喩表現ではなく。それは本当に言葉通りに。
「食われてる」のだ。俺の首元に顔を埋めてきたかと思えば、会長は俺の肉を食い千切らんとばかりに歯を立ててきやがった。
ブツリと嫌な音が聞こえた。皮膚を噛み千切られる音がこんなにも生々しいと思っていなかった。
「か、いちょ…やめ…っ」
皮膚が破れ、会長は溢れて来た俺の血を啜っている。しかも仕上げとばかりに、患部にねっとりと舌を這わせてくるものだから、変な感触に嫌でも身体が震えてしまう。
会長にこんな危ない性癖があったとは知らなかった。出来る事ならば一生知りたくもなかった。
やばい。怖い。色々な意味で最後まで食われそう。情けないけど泣きそうだ。
「……愛咲」
「かいちょ…っ」
久しぶりに口を開いたかと思えば熱っぽい声で俺の名を囁く会長。興奮しているのか会長の目は赤く充血している。
そしてそれと同様に、俺の名を呼んだ会長の唇は俺の血で赤くなっていた。
そして会長はその唇を俺の唇と重ねてきた。
「…んっ、」
先程の過激な行動とは打って変わってただ触れるだけのキスだった。
だが優しかろうが激しかろうが、俺が犬塚だけではなく、二人目も男とキスをしたという事実は変わらない。
情けないやら悲しいやら。
目尻に溜まっていた涙がホロリと零れ、頬を伝った時。急に会長が「熱っ」と声を上げた。
「……頭を冷やせ」
どうやら犬塚がホットコーヒーを会長の頭に浴びせたらしい。
ホットコーヒーでどうやって頭を冷やすんだよ馬鹿。
…助けるのが遅いんだよ、ばか。
「あ、えっと…」
早く俺の上から退け。と、以前の俺ならば気軽に言えただろうが、今はキャラの設定上そうはいかない。
「か、いちょー?…だいじょうぶ?」
とりあえず、まずは会長を心配してみることにしてみた。色々な意味でこいつの頭は大丈夫だろうか?
俺にいきなり襲い掛かってきた事もそうだが、火傷の方もそれなりに心配だ。だって犬塚が手に持っているカップは、俺がたった数分前に会長に注いで上げたものだ。まだ冷めていないはずのそれはかなり熱いと思う。
「…かい、ちょ?」
ポタポタと茶色の雫を頭から垂らし、頬に伝うその姿は、まさしく「水も滴るいい男」と言えよう。…水じゃなくてホットコーヒーだけど。間違いなく俺が今着ているシャツにもその雫が垂れ落ち、茶色の染みを作っている事だろう。シャツは会長か犬塚に弁償させるとして、とにかく早く俺の上から退いてくれないだろうか。
いっそ股間でも蹴り上げてみようかなと焦れ始めた時。会長がゆっくりと上体を起こした。それに伴って俺の身体は自由になる。そのことにホッと安堵し、俺も身体を起こそうと上半身に力を入れたのだが。
それよりも先に、会長が俺の脇の辺りに手を差し込み、まるで小さい子供を持ち上げるように俺の身体を持ち上げたのだ。
「え、っ…ちょ、」
男子高校生の平均体重がどれくらいなのか知らないが、俺は決して軽くないはずだ。
もちろんすぐに椅子に座らされたのだが、持ち上げるとかどんな腕力をしてるんだよ。
「………」
会長に噛まれた事も。キスされた事も。
会長がコーヒー浴びせられた事も。持ち上げられた事も。どれもこれも。非日常過ぎる出来事で。
まず第一声に何を発せればいいのか分からない。
何も言えずただ会長を見上げていれば、会長は急に俺の頭をガシガシと撫でてきた。
「…わ、っ」
といっても、別に乱暴な手付きというわけではなく。人を撫でる事に慣れていないその手付きは、少しだけがさつだった。
「……悪い」
しかも謝罪付き。
「あ、…うん」
噛み付いてきて、唇まで奪ったのだから、一生許さないつもりだった。当たり前だ、大罪者だ。
だがまさか謝罪されるとは思っていなかったため、驚いておもわず「うん」と頷いてしまった。
こいつも人に謝るということが出来るんだと、他人事の様に思ってみる。というか、この学園で会長に謝罪されたのは俺が初めてではなかろうか。
「犬塚。…後は頼む」
「言われなくても分かっている」
「…手は出すなよ」
「お前が言えた事ではないだろ」
そして会長は犬塚と数度言葉を交わした後、チッと舌打ちをして生徒会室を出て行った。
やっと嵐が去ったのだと俺は安堵したのだが。
「……っ、犬塚、!?」
それは間違いで。
一波が去り、二波が来ただけの極僅かな違いだった。
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