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一空間目③

「……何してんだお前」 「えっと、いえ、その…」 寝起きだからなのか。はたまた彼の素なのか。 鋭い目付きで見下ろされ、掠れた低い声で声を掛けられ、たじろいでしまう。 何を言えば正解なのか。 一、素直にゲームがしたかったというべきか。 二、感傷に浸っていましたというべきか。 三、それともとりあえず謝るべきなのか。 「…う、煩くして、ご、ごめんなさい」 一番はまず有り得ない。二番はもっと有り得ない。 消去法で三番しか残らず、俺は彼の質問に答えることはせず謝った。 「……うぜえ謝るな。邪魔」 しかし神田さんは、俺が行動に移した三番は気に入らなかったようだ。正座をしている俺の背中に蹴りを入れ(とはいっても弟達の蹴りからしてみれば全然優しい)、冷蔵庫の方へと足を進めて行った。 一方俺はというと、蹴られてしまったせいでコロンと倒れてしまった。 ……無駄に場所を取ってごめんなさい。 口に出すと怒られそうだったので、俺は心の中で謝罪をする。ダイエット、するべきかな…。 そして神田さんは倒れた俺を見下ろしながら、冷蔵庫から取り出した冷水を飲んでいく。ゴクゴクと喉を鳴らして、喉仏を上下させるその様は、なんというか…。一言で表せば、「エロい」。ただ水を飲んでいるだけというのに何でこんなにもなまめかしく感じるのだろうか。 「………」 自分にはない男の魅力。魅了されてしまったかのように彼から目を逸らせずにいると、何を思ったのか神田さんは飲みかけだったペットボトルを傾け、冷水を俺に浴びせてきた。 「ちょっ、!?つ、冷たッ」 な、何?何で!? 頭と上半身。冷たい水が降り掛かる。張り付いたシャツが想像以上に気持ちが悪い。 いきなりのことに戸惑い大きな声を出せば、神田さんは楽しそうに笑みを浮かべた。 「物欲しそうに見てくるから、飲みてえのかと思った」 ど、ドエスだ。信じられない。 初対面の人間に「這い蹲って舐めて見せろ」とか、頭がおかしいんじゃないかと思った。それに物欲しそうに見てたとかそんなのではない。百万歩譲って物欲しそうに見てたからといって、頭から浴びせてくる馬鹿が何処にいる。確かに太っているけれど、俺は断じて家畜ではない。 初対面。初対面だぞ。 確かにずっと見続けていた俺も悪いだろうけれど、いきなり水を浴びせられるのはさすがに腹が立った。 「……猫被り野郎のくせに」 怒りに我を忘れてボソッと呟く。 その言葉は彼の耳に届いてしまったらしく、「あ?」と神田さんの声が聞こえてきた後に、俺は事の重大さに気が付いた。 冷水を浴びせられたのにも関わらず、怒りで上昇していた体温。しかしその体温は取り返しのつかない発言をしてしまったせいで、再びグーっと下がっていった。更に細かく言えば、今の俺は顔面蒼白状態だ。 「ち、違っ、い、今のは…っ」 謝るべきか、否定するべきなのか。それすらも分からずに、顔の前でひたすら掌を左右に動かす。神田さんの表情を見ても、無表情のままで、それがより一層俺を不安にさせている。 俺の意思とは関係なく、勝手に声に出てしまった言葉。弟達の悪質なイジメに比べれば、水を掛けられるくらい、どうってことないはずなのに、つい反抗的な言葉を口にしてしまった。 それは本当に初対面の人にされて腹が立ったからという理由だけだろうか。 …いや、多分違う。俺はおそらく気を抜いていたのだと思う。弟が側に居ない場所だから。調子に乗ってしまっていたのだ。 弟以上に性格に難が有りそうな神田さんが近くに居るというのに。 本当に取り返しのつかない発言をしてしまった。弟からの苛めを「兄弟喧嘩は止めなさいよ」と優しく注意されるのとは全くの別物だ。相手は神田皇紀さんだ。下手すれば社会的に抹殺されてしまうかもしれない。 「ご、ごめんなさい!許してください…っ」 そしたらきっと両親にも迷惑を掛けてしまう。その考えに行き着いた俺は、水溜りの出来た床におでこを押し付けて、土下座しながら謝った。 生温くなった水が額に当たり気持ちが悪い。だが気にしている暇はない。 力強く床に押し付けた額が痛い。だがそれすらも気にしている暇すらない。 「二度と逆らいません。…見逃してください、お願いします」 しかし神田さんからは一向に返事がない。 一体今彼はどんな感情を抱いて、どんな表情をしているのだろうか? 呆れ?怒り?侮蔑?…想像がつかない。 「………、」 不安と恐怖で押し潰されそうになり、床から額を離し、ゆっくりと顔を上げる。そして下から彼の表情を覗き見て、俺は心底後悔した。 ……こいつ、笑ってやがる。 それは本当に悪どい笑みで。弟がいつも浮かべていた笑みとは少し違う。 捕食者が狩りの最中に浮かべていそうな凶悪な笑み。 彼のその表情を見て、後悔と恐怖で固まっている俺をどう思ったのか、神田さんは俺の後頭部を足で踏み付けてきた。 「……ッ」 ゴンッと鈍い音が響き渡る。 グリグリと足で踏み付けられ、無理やり頭を下げさせられるのは、非常に屈辱的なのだが、逆らえるわけがない。 今の俺たちをRPGで例えるならば、魔王とレベル1の村人C。…勝ち目など戦いを挑む前からないのだ。 「…猫被り野郎か」 「いや、その…あれは言葉の綾というか、本心ではないというか…」 「初めて言われたな」 「…本当にごめんなさいっ」 「まあ、いい。特別に許してやる」 思った以上にお前は面白い。と言われ、足を退けてもらったのが、これは気に入られたのか、褒められたのか、けなされたのか、判断しづらい。 だがどれにしても死刑宣告と変わりないということだけは、俺の頭でも分かった。 足を退けてもらい、無理やり下げられていた頭を上げたのだが、踏み付けられた後頭部と、打ち付けた額が思った以上に痛い。 何で俺はこんな理不尽な目に遭っているのだろう…。 おもわず泣きそうになってしまったが、泣いたら余計に神田さんを喜ばせてしまいそうなので、グッと堪える。だが先程までの屈辱的な出来事を全部カメラに撮られ、お姉さんにも見られていると思ったら、想像以上に辛くて堪えそう。 「おい、床拭いとけ」 「……はい」 全ての原因であるお前が責任持って拭きやがれ馬鹿野郎、そう思ったが今度は胸の中で止めた。もう二度と彼に逆らうまい。勝ち目のない戦はするものではない。当たり障りなく、へこへこ頭を下げていれば、そこまで強く当たられることもないだろう。 それが弱者である俺の唯一無難な生き方だ。 備え付けのタオルで濡れた床を拭きながら、憂鬱感を拭うために、気付かれないように小さく溜息を吐いた。 「…おい」 「は、はい?」 「…俺は猫被っているように見えるのか?」 「え……?」 まだその話題引きずるの? まだ怒っているのか?何と答えればいいのか分からず、無言で居れば、今度は神田さんが大きく溜息を吐いた。 「どっちの俺がいいか?」 何その質問?何で俺にそんなことを訊くんだ? それにどっちがいいなんて、“テレビの中の神田さんがいい”に決まっているじゃないか。訊くまでもないだろう。何故わざわざ訊ねる必要があるのだろうか。 「おら、早く答えろ」 「……え、」 無言を貫こうと思っていたのだが、どうやらそれは許されないらしい。 これは困った。 どちらを選べば正解だろうか。いや、むしろ正解はあるのだろうか。 テレビの中の神田さんと答えれば、「素の俺は気に食わねえというのか」と怒られそうだし。 目の前に居る猫を被った神田さんと答えれば、「嘘を吐け。このクソでぶ野郎が」と罵られそう。 「ど、ドチラノカンダサンモステキですよ…?」 無難に。無難に答えればいい。 少し棒読みになってしまったが、気にしないでください。 「あ?答えになってねぇ」 しかしはっきりと答えろと凄まれてしまえば、もう嘘を吐けるわけがない。 「て、テレビの中の神田さんが…好きでした…っ」 正直にファンだったことまで伝えれば、神田さんは何か考えごとをするかのように、顎を触る。 「…ふーん」 「………?」 一体何だったんだ?俺は無事正解を選べたのだろうか。 だから神田さんは怒りもしないのだろうか。…嵐の前の静けさではないことだけを祈っておく。 「…あ」 ふと視線を右にやれば、先程手に持っていたゲームのパッケージが水で濡れて床に落ちているのに気が付いた。 急いで中身を確かめてみれば、少し説明書が濡れてふやけているだけで、ディスクは何の支障も出ていないようで安心する。 パッケージも拭き、一応説明書を乾かすために中から取り出しておこう。 「おい」 「…はい?」 すると再度神田さんから声を掛けられた。 「な、何ですか?」 俺はまた失態を犯してしまったのだろうか。でも煩くしてないし、指示された通り床も拭き終わったところだ。一体今度は何を言われるのか不安になり身構えていれば、神田さんからは予期せぬ言葉を掛けられた。 「手に持ってるのは何だ?」 「え?…あ、ゲームです。濡れちゃったから」 あなたのせいで。 そう頭で思うだけで、嫌味な台詞は絶対に口にはしない。 「ふーん。貸してみろ」 「…?…はい」 言われた通りソフトを手渡せば、神田さんは興味津々とばかりにパッケージ裏を凝視している。 「………」 ゲームと神田さん。 本当に変な組み合わせだ。ゲームとは無縁な人だと思っていたので本当に変な感じがする。 …と、そこで俺は思い出した。 彼に手渡したゲームの内容を。ゾンビだ。出てて来るゾンビを銃火器で倒していくグロ表現のあるゲームだった。テレビに出ていた爽やか好青年の神田さんならば不似合いなのだが、俺の目の前に居るのは猫被りのサディスティック野郎だ。彼がそんなゲームを気に入らないわけがない。 「このシリーズ、5まで出ていたのか」 「え?プレイしたことあるんですか?」 「2まではな」 今回から二人プレイも搭載しているのか、すげーな。と説明書をまじまじと読みながら喋る神田さんの言葉にドキッとした。 …俺も一緒にゲームさせてくれるのかな? 淡い期待を抱く。 いつも一人でゲームしていたため、少し寂しかったから。すると俺のその気持ちを汲み取ったのか、そうでないのか分からないが(多分ただの気まぐれだと思う)、神田さんはゲームソフトを俺に見せながらこう言った。 「一緒にやるか?」 「…いいんですか?」 「ああ」 内心ガッツポーズ。 本当に俺はどれだけ人に飢えてるんだよ、と一人ツッコミを入れながら、ニヤけそうになる頬を両手で押さえながら、俺は神田さんに近付く。 だけど。 「でもお前下手そうだよな。足引っ張りそうだし、邪魔になりそうだな」 そう簡単に彼が優しくしてくれるわけがない。 そんなことは先程までの出来事で体験済みだというのに、俺は再び騙されてしまった。 ニヤリと口角を上げて悪どい笑みを浮かべながらいけしゃあしゃあと述べる彼はすごく楽しそう。 やっぱり俺はこの人と二ヶ月間も上手くやっていけそうにない。 「や、やっぱり俺は遠慮しておきます…!」 むかつく。 うん。この感情はむかつくで合っていると思う。だけどほんの少しだけ寂しい。期待していただけにショック。 そう、俺は邪魔なんだ。邪魔者。やっぱり俺は隅っこで小さくなっているのがお似合いだ。…家でも此処でも。期待するだけ馬鹿だった。俺なんて何処に行っても上手くやっていけない、異端者。 神田さんから離れ、踵を返せば…、 「おい」 「…な、なんですか?離して…っ」 急に腕を掴まれた。 反射的に振り払おうと腕に力を入れたのだが、思った以上に強く掴まれ、びくともしない。力入れ過ぎだよ。痛い。 「か、神田さん…いたい」 一体全体いきなり何なんだ。 すると神田さんはハァと深く溜息を吐く。溜息を吐きたいのは俺の方だというのに。 「お前馬鹿だろ」 「…なっ!?」 「冗談だ。真面目に受け取るなよ」 「………」 「ほら、座れ」 床を手で軽く叩き、そこに俺に座るように促した後、神田さんはゲーム機を接続し始めた。俺はその手馴れた様子を眺めながら、戸惑いつつも逆らわず指示された通り座る。 「……」 本当に彼は訳が分からない。 意地悪なことを言ってきたくせに、今のは冗談と言ってきたり。真に受けるのが馬鹿なのだろうか。 どうすればいいのか分からないけれど、もしかしたらこれは不器用な彼なりの優しさなのかもしれない。 決してそうではないのだろうが、そう思うと、ふわりと心が軽くなった気がした。 「おい」 「…はい?」 「PS4使ったことあるか?」 「いえ、PS2なら少しだけ…」 PS2ならば、よく弟と二人で遊んでいたけれど、これは触ったことすらない。最近はPSPやDSばかり使っていたし。 素直にプレイしてないことを告げれば、神田さんは「PS2使ったことあるならコントローラーの使い方は分かるから問題ねえか」と呟いていた。 おら、と手渡されたコントローラーを受け取りながらも、俺はまだ戸惑っている。本当にどういう心変わりなのだろうか。彼の性格からして何のメリットもなく誰かと協力するなんて柄ではなさそうなのに。 つくづく優しいのか意地悪なのかよく分からない人だ…。 そんなことを思いながら、ゲーム機とテレビをケーブルで接続させている神田さんの後姿を眺めていると、どうやら接続が終わったようで、振り返った神田さんと視線がぶつかり合ってしまった。 「……ぁ」 視線がぶつかったのは決して偶然ではない。 だって俺が見てたから。神田さんを。ずっと。 別に変な意味で見ていたわけではないのだが、焦ってしまうのは何故だろうか。 わざとらしく視線を逸らすのも悪いし、かといってこのまま見つめ合うのも耐えられない。何と声を掛ければいいのか分からず焦っていると、俺より先に神田さんが口を開いた。 「…お前さ」 「は、はいっ」 「さっきから俺のこと見すぎ」 「えっ!?」 そして早速指摘されてしまった。 俺が神田さんを見ていたのは事実なわけで。それを本人から指摘されると物凄く恥ずかしいわけで…。 「…っ、ご、ごめんなさい、その…違うくて、」 熱くなった頬を手で押さえながら、とにかく謝った。 もしかしたらそっちの趣味があると思われてしまったのではなかろうか。確かにずっと見ていたけれど、俺は断じて違う。 「へ、変な意味で見てたんじゃないんです」 「それは、分かってる」 「………、」 「ただ俺が職業柄、視線に敏感になってるだけだ」 どうやら神田さんは背中越しでの俺の視線も感じ取ったらしい。 「ガキみたいな真っ直ぐな目でずっと見られるとさすがに照れる」 そして神田さんはそれだけ言うと、何事もなかったかのように俺の隣に腰を下ろした。 「…え?…へっ?」 “照れる”? 今のは神田さんの口から出た言葉? 今更俺一人の視線くらいで何を言っているんだ。あんたは有名人じゃないか。それも超が付くほどの有名人。たくさんの人から見られることに慣れていて、その中には綺麗な女の人とか可愛い女の子が居たはずなのに、…何で俺如きに。 「……っ、」 そういう風に言われると俺の方が照れるじゃないか…っ。 熱くなった頬を掌で隠すように覆い、俯く。 「おいこら、やるぞ」 しかしその余韻を解いたのは張本人である神田さんだった。コントローラーで俺の頭を軽く叩いてきたのだ。 本当に彼は訳が分からない。 ……でも不思議と叩かれた頭は痛くなかった。

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