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四空間目⑤

「…っ、」 神田さんへの恐怖よりも、自分の貞操の危機をひしひしと痛い程感じ取った俺は、渾身の力を振り絞って神田さんを突き飛ばした。まさか俺が力技に出るとは思っていなかったのだろう神田さんは、上手く受身を取れずに尻餅をついていたのだが、突き飛ばされた衝撃を後ろ手で止めることによって便器で頭を打つなどということはなかった。 それを横目に見ながらほっと胸を撫で下ろす。流石に怪我は負わせたくない。 そして無事と分かれば後は此処から脱出すべき。 湯船から飛び出し、尻餅をついたままの神田さんの横を走って通り過ぎる。 「(…よしっ)」 手を伸ばしてドアノブを掴む。 自分が全裸だということはもはやどうだっていい。例え監視カメラの向こう側の人達に変態だと罵られようと関係ない。とにかく俺を助け出してくれ…っ。 そんなことを脳内であれこれ考えながらドアノブをひねった瞬間だった……。 「ひ、っ!?」 足首を掴まれ物凄い力で引っ張られてしまった。 B級映画さながらの恐怖だ。分かりたくもないけれど、今ならば犯人から逃げ惑う彼女達の気持ちが嫌というほど分かる。 「や、やめッ」 抵抗らしいことも出来ぬまま引き摺られてしまい、唯一の希望だった脱出への扉から手が離れてしまった。 …あ、あれ?というか俺は前にもこんな体験しなかったか? シンクロ率が四百パーセントをも越えるほどに今の状況が酷似している。 ……確かあれは。 「前と全く同じ状況だな」 そうだ。 …ヨーグルト事件。 「か、かんだ…さん」 「学習能力が無えなお前は」 いや、一つだけ違うことがあった。 あの時と違って今の神田さんはピクリとも笑っていない。 その熱の籠った目と表情からは怒りすらも感じ取れる。 「逃げるなって言っただろ」 「………」 「まだ全部洗えてねえだろうが」 逃げることは無理だと当に諦めた俺は、ただ時が過ぎて解決することを両手で股間を隠しながらひたすら祈る。相手が何一つ脱いでいないのに、自分だけ生まれたままの姿で居るのは物凄く恥かしい。神田さんだってこんな醜い身体を見たくもないだろうに…。 神田さんの行動全てが理解出来ない。一体どこまで洗えば気が済むんだこの人は。 それに子供じゃないんだから身体くらい一人で洗えるぞ。それを伝えようかと迷ったが、俺はその考えをすぐに取り止めた。無駄な抵抗は神田さんを更に怒らせるだけだ。 気付かれないように深い溜息を吐けば、神田さんから足を持ち上げられた。 「な、何?」 それはまるでシンデレラにガラスの靴を履かせようとする王子様のような優しい手付きで。俺の丸っこい足を両手で包み込み持ち上げた神田さんは、そのまま何の迷いも躊躇いもなく、口元に持っていき。 そして、舐めた。 「ファッ!?」 思わず言葉にならない奇声が口から零れた。 だけどそれは仕方の無いことだろう。それくらいは温かい目で全力で見逃して欲しい。 だって誰がこんな事態になると予想できただろうか。きっと神田さんの思考回路を読める人なんてこの世に居ないはずだ。 男でしかも可愛くなくて、おまけに全裸のデブの足の裏を舐めるなんて正気の沙汰とは思えない。 「…っ、頭おかしいんじゃない、んですか…?」 「………」 素直にその感情を言葉にしてストレートに伝えてみたのだが、当の本人は俺の言葉など無視。それどころか足の指に舌を絡めてきてくらいだ。 くすぐったいし、ぬめぬめして気持ちが悪い。 「…止めてくださいよ」 その端正な顔を蹴り上げて逃げてもいいだろうか?この状態ならば正当防衛が適用されるような気がする。神田さんのファンにバレたらめった刺しされてしまいそうだけどね…。 「っ、もう…」 指の間まで舐めんな。くすぐったくて変な声が出てしまうだろうが。 素直に従わず何度も逃げ出そうとした俺への嫌がらせかよ、こんちくしょう。 …しかしこれが消毒で合っているのか?それともこれが神田さん流の消毒とでも言うのか…。 だってこれではむしろ唾液でダラダラになって汚れていくような気がする。 そんなことを言うと更に神田さんのファン達から酷い目に合いそうな気がするけど。 名前が皇紀だけに唾液も高貴ってか? 「…ッ、ぅあ」 そんな風に現実逃避をしていると、まるで味わうように指を舐めしゃぶられた。出したくもないのに、閉じていた口から上ずった声が漏れてしまう。 流石にこの状況が肉体的にも精神的にも耐えられなくなった俺は、掴まれている脚を振り上げようと試みる。 だけど如何せん相手は筋肉隆々だ。俺のぶよぶよの身体と違って、筋力も握力も桁違い。思ったように脚が動かない。 仕方ないと早々に振り上げることを諦めた俺は、立て膝の状態のまま押さえ付けられていたもう片方の脚を神田さんの股間に目掛けて突き出した。 つまり簡単に言うと、神田さんの股間を垂直に蹴ってやったのだ。 こうすれば流石の神田さんでも痛みと驚きで力が緩むと思ったのだが……。 「…痛えな、こら」 衝撃の事実に逆に俺が驚いてしまった。 「な、んで…勃起してるんですか?」 俺の気のせいだと、間違いだと思いたいのだが…。 俺の足の裏は、はっきりと硬くなった神田さんのアレの感触が伝わっているので間違いではないはずだ。 ズボンの下には特大サイズの砲台が隠れていらっしゃるのを、俺の足の裏は生々しく感じ取ったのだ。 「(…訳が分からん)」 直接本人に訊ねる勇気が俺にはないので、敢えて心の中で叫ばせてもらおう。 ど こ に 勃 起 す る 要 素 が あ っ た !? 否、無い!絶対一ミリも無い! むしろ萎えるシチュエーションしかなかった気さえする! 本当にあらゆる意味ですごいお人だよこの方は! 取り合えず、ずっと触っているのは嫌だったので脚を動かそうとする。 …だが。何を血迷いやがったのか、神田さんは俺の脚を更に引き寄せ、その強大かつ女性からは凶器としか思われないであろう勃起したペニスを俺の足の裏にゴリッと擦り付けてきた。 「ちょっ!?」 …何だこれ?こんなにも嬉しくない逆セクハラは生まれてこの方初めてだ。 それとも神田さんは実はサドではなく、男の足を舐めて、更に踏まれて喜ぶ隠れドエムだったというのか? もしかしてそれをずっと俺に分かってもらいたかったのか…? ………今俺は、試されている? 「…お、男の足で踏まれて何勃起してやがるんですか、この…ぶ、豚野郎」 「あ゛?」 「ひぃっ!う、嘘です!冗談です…ッ」 低い声で凄まれて恐怖のあまり俺は涙目。 豚野郎は見た目通り俺です、ごめんなさい、許してくださいッ。何でもしますから。と必死に謝る俺に神田さんは余計にギラリとした目で俺を見下ろしてきた。 こんな目で見下ろしてくる奴がドエムの訳があるかよ。 見当違いもはなはだしいわ!俺の馬鹿豚野郎! 恐怖とキャパシティオーバーで頭の中がぐちゃぐちゃになってしまった俺の目元からは、ついに一筋の涙が零れた。 ああ、もう。…消えたい。 早く今日という日が終わればいいのに…。 だけど神様はいつだって俺の敵だ。 「…なあ」 「は、…はい?」 「何で勃ってると思う?」 知りません。むしろ知りたくないです。というか、どう考えてもそれはセクハラです。 その問いに答える気も考える気もない俺は、神田さんの機嫌が早く直らないかなあとか思いながら、苦笑いを浮かべて首を傾げる。 そうやってはぐらかした俺に神田さんは、ハハッと何ともこの状況とは不釣合いな爽やかな笑い声を上げて、とんでもないことを言ってのけた。 「お前を今からグチャグチャに犯すのが楽しみなんだよ、糞野郎」 ……その瞬間。 俺の涙腺は崩壊した。

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