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七月の屋上

「ねえ」  泉が体を寄せてきた。早口にささやく。 「僕のファーストキスと童貞あげるから、処女くれない?」  七月の梅雨の晴れ間の昼休み。屋上には昼食常連が久々に出てきて、青空の下「あちいー」などと文句を言いながらも、楽しげに弁当や購買で買った品を思い思いの場所で食べている。  俺も泉と購買で買ったカレーパンとクリームパンと牛乳を持って出てきた。  そして食べ始めて一分。  泉が俺に言ったのだ。  食べかけのカレーパンを落としそうになり、すんでの所で持ち直した。 「はあ?」  隣の泉を見る。 「何言い出してんだよ」  泉はにっこり笑う。 「言葉通り」  女顔の泉幸彦は全学年の女子一部とごく一部男子にモテる。笑顔が色っぽいだの、流し目がすてきだの、俺からするとどこに目をつけてんだって感じのご意見様だ。  現に今の発言を聞け。普通ではない。 「俺にメリットがない。断る」 「つれないなぁ」 「俺は魚じゃねーよ」  カレーパンをぱくつく。  デニッシュを持った手を膝において、また耳に口を寄せてきた。  くすぐったいぞ。 「じゃ、逆でもいいよ」  頭いたー。 「何考えてんだよ」 「セックス」  あまりの堂々とした態度に俺はぽかんとし、慌ててまわりを見た。  誰も聞いていないだろうな、今の。  こちらに注目している生徒はいなかった。  俺はため息をついた。 「お前なー、いくら話しているのが俺だからって、ふざけるのも大概にしろ?」 「ふざけてないけど?」 「なお悪い」  俺は泉に向き直った。 「俺は好きになった子に童貞を捧げると決めてんの。何が悲しゅうて保育園以来、男のつきあいをしてきたお前に捧げなくちゃいけないんだよ」  泉が露骨なため息をつきながら首を横に振った。 「わかってないなぁ」 「何が?」 「朔夜(さくや)が昔っからそう言っているのを僕が知らないわけないじゃない?」 「なら、話はそこで終わりじゃん」  泉がきっと俺の顔の前に人差し指を立てて見せた。 「それ、朔夜だけの誓いじゃないからね」 「はあ?」  泉が指を振る。 「僕も同じだってこと、忘れてない?」 「そうだっけ?」 「当たり前だろう!?」  泉が「何だコイツは」などと無礼なことを独りごちている。  俺はカレーパンを腹に収め、クリームパンの袋を開けた。 「それ、クリームパン?」  突然、泉が訊ねてきた。 「そうだけど」  泉がおもしろそうに俺とパンを見比べた。 「一時期、クリームパン嫌がってたのに食べられるようになったんだ」 「そんな時期あったっけ?」 「あったよ」  俺が口を開けたタイミングで、泉が意地悪げに笑った。 「僕が、クリームパンのクリームってザーメンぽくない?って言ったあと」  走馬燈のように記憶が頭をよぎった。死ぬのか俺は?  小学校の時、学童保育もなくなった四年生頃だろうか。お互いの習い事の合間に遊べる日が時々あった。  その日は泉の家に行って探検し。そして、泉の母ちゃんの部屋の押し入れで、悪魔の書物群を見てしまったのだ――裸の男同士がくんずほぐれつやっているマンガ本どっさり。  子ども心に「これはやばい」と危険信号をふたりともが察して、段ボール箱を押し入れに力を合わせて押し戻し、隠すため布も丁寧にかけて封印したのだ。記憶とともに。  その後で、おやつのクリームパンを黙って食べていた時、泉が爆弾発言をかました。 「クリームパンのクリームって精液っぽいのかな」  俺はクリームパンを噴いた。泉はかまわず続ける。 「あのマンガの人、ちんちんくわえてたよね」 「泉のバカヤロー。もうクリームパン食えないじゃんかー」 「お父さんの本棚のエロ小説でも、女の人がちんちんくわえて、精液飲んじゃうシーンあるんだよね。甘いのかな」  いったいどんな父親だよ。小学生の子どもの手の届くところにエロ小説置くなよ――そう思いつつ。口に残ったクリームパンを泉が差し出したティッシュを受け取り、出したのを思い出した。 「あー……」  俺はクリームパンを袋に戻した。  もう食べられない。下手すれば一生食べられない。 「何で急にそんなに意地悪なこと言うんだよ、忘れてたのに」 「本当に忘れてたんだ」  泉がびっくりしたような声を出したので、俺は上目に見返した。 「そうだよ。忘れてたよ、あの日のことは」 「忘れてたの!?」  なぜか泉の口調に棘を感じた。 「え? 何? まだ何かあんの?」 「あの日にふたりで誓ったんじゃないか。あのエロ本みたいなやりまくりスケベじゃなくて、好きになった人とセックスしようねって」 「そうだっけ?」 「そうだよ!」  腹を立てている風の泉がデニッシュをがっついた。 「僕にとってはね、あの日は神聖な日だったの。朔夜はまるで、わかってなかったんだ」  デニッシュを平らげた朔夜が焼きそばパンを開けかけて、手を止めた。 「ということは、すべて忘れちゃった?」  そう言われて俺は泉に目をやる。  泉幸彦(ゆきひこ)は呆然と俺を見つめていた。 「泉?」  心ここにあらずというようすで泉が口を開いた。 「なんで幸彦じゃなくて、泉なのかも疑問だった。僕は朔夜って呼んでるのに。みんなみんな忘れちゃったからなんだ」  泉がパンとまだ明けていなかった野菜ジュースのパックを持って立ち上がった。 「帰る」  泉が昇降口の方へ行ってしまう。俺は慌てて自分の荷物をまとめて、後を追う。  泉は階段を下りてもう廊下にさしかかっている。 「泉!」  振り返らない。  階段を一気に駆け下りると、試してみた。 「幸彦!」  立ち止まって、振り向いたその女顔の目と鼻が何だか赤い。  他の生徒が横を通っていく。だが俺の目は幸彦しか見ていない。  俺は思い出していた。 「男同士でも好きになっていいんだね」 「せっくすできるみたいだね」 「なら、僕が朔夜が好きなのはいいんだ」 「泉、俺のこと好きなの?」 「うん、保育園の頃から。朔夜は?」 「俺はまだわかんないな」 「ええー?」 「でも好きになるかもしれないだろ?」 「うん」 「そうしたら、お前の事幸彦って呼ぶよ」  泉の目が輝いた。 「それ、いいね。僕にしかわからない合図だ」  ふたりの秘密にこっそり微笑いあった。  幸彦が言った。 「どうせそれも忘れてたんだよね」 「思い出した」 「思い出しておいて、呼び止めるだけに使ったわけ?」 「それならここまで追ってこない」 「どういう……」  俺はがばっと幸彦の体を抱きしめた。 「好きだ」 「朔夜?」 「今まで俺は誰も好きにならなかった。おかしいのかなと思ってた。でも違う。もう好きな人が側にいたからだ。幸彦が好きだ」  言い切った俺ははあはあと乱れた息を整えていく。  その俺の体にためらうように幸彦の腕が回された。ワイシャツの胸を合わせた幸彦はびっくりするくらい熱い。 「知ってたよ」 「ごめん。お待たせ、幸彦」  俺よりちょっと背の高い幸彦の胸に抱き込まれる形になった俺は、目をつぶってはやし立てるまわりの連中の存在を無視した。  すべてを思い出した俺は、幸彦を改めて独占したが、好物のクリームパンは再び手放すことになった。  帰りのバスの中隣り合わせで幸彦に謝られた。 「ごめんね、朔夜」 「それで思い出したし、はっきりわかったんだからいいさ。それにまた時間が経ったら食べられるかもしれない」  しばらく考えていた風の幸彦が俺に耳にささやいた。 「本物を飲んでみたら違いがわかって、また食べられるようになるかも」  俺は顔をしかめて幸彦をにらんだ。  幸彦は笑っている。  俺は幸彦の手を握った。幸彦がびっくりした顔をした。  してやったり。  駅までの揺れるバスの中、俺たちはずっと手を繋いでいた。

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