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(延長戦)壁は壊せるか(8)

 俺たちは倉田さんたちの住む家を辞し、帰途についた。  途中のスーパーで夕食用の買物をする。今夜は作るのが簡単なものがいいと幸彦がいうので、俺がカレーとサラダにしようと提案した。  家のキッチンで仕度を始める。  俺がジャガイモの皮を剥いているところへ、たまねぎを切る幸彦がスマフォアプリを見ながら英単語の問題を出す。俺が答えて、幸彦に「だめー」とか「正解」とか言われる、いつもと同じひとときだ。  いつもと同じということはなんてありがたいんだろう。  こうして幸彦と料理しながら過ごせるのは、今この時しかない。今夜地震でも起きたら、もうのんびり受験勉強も料理もできなくなる。明日買物に行く途中でどちらかが事故に遭ったら、もうこの穏やかな日々は終わってしまう。  倉田さんたちは「今」を大切にしていた。  相手を思いやり、その希望を叶えたいと思っている。このまま一人残るであろう大切な人に、愛し合った記憶を形として受け取って欲しいと思っている。  俺たちはそんな関係になれるだろうか。  極限まで追い詰められる前に、俺はもっともっと幸彦を大切にして、愛して、幸せにしようと頑張れるだろうか。  いや、やるんだ。覚悟を決めて幸彦と歩いて行こう。それすれば目の前は明るい気がする。  そんなふうに思える理由の一つは、たぶんすみれさんの件に動きがありそうだからだと思う。  あれだけ俺たちを悩ませ、腹を立てさせたすみれさんの絵に価値を見出す人がいたという事実。  価値観の逆転。  俺たちはすみれさんの絵に価値を見いだせなかった。でも、あれを素晴らしいと感じる人がいた。  残り少ない命を燃やしてするセックスをすみれさんの絵で遺したいとまで言ってくれた。  俺たちは狭い狭い視界の中で暮らしていたのだと改めて思う。  芸術家になる、画家になるというすみれさんの決意だって、生半可なものではないのだろう。努力しても画力があっても強運が必要な世界らしい。その中で「なる」と公言しているのは、きっと覚悟あってのことなのだ。  すみれさんがもし倉田さんたちの絵を引き受けたら、俺や幸彦にかまっている暇はなくなるだろう。いや、興味がなくなる可能性もある。  そもそも壁だと思っていたのは壁ではなかったのかもしれない。倉田さんが言ったようにすみれさんは幸彦を、俺たちを温かい目で見て表現したのかもしれない。その表現があまりに斬新すぎて俺たちには理解不能だったが、数多くの絵を勉強した人にはわかるものだったのかもしれない。  それなら壁はないことになる。  俺たちは何を恐れていたのだろう。 「すみれさん、絵を引き受けるかな?」  弱火でカレーを煮込みながら、俺たちは勉強に戻る。 「わからない。やりたがっても、両親がどう思うかもわからないし」 「そうだな。うら若き二十歳の乙女が他人のセックスを見て絵を描くなんて許さないってなっても、おかしくはないな」 「僕は挑戦して欲しいけどね」  幸彦が俺を見る。 「絶対藝大大丈夫だと言われてたのに二年浪人して結局駄目で、結構落ち込んでいたんだよね。必死に泣きたいの我慢していたみたいだった」  すみれさんの泣き顔は想像がつかない。この前の幸彦に似ているのかな。 「今の大学だって並みのレベルじゃないよ。でも、美術をやるには藝大って言うところはあるから。大いにプライドを傷つけられて、ものすごい反発心があるんじゃないかな。駄目だと言われるならやってやる、みたいなね」 「確かに、抑えられたら暴発しそうなすごみはあるな」 「ここで一回、すみれちゃんの絵を受け入れてくれる人に優しくされるのは、張り詰めている気持ちのガス抜きになるんじゃないかな」  スマフォのアラームが鳴り出した。  幸彦が鍋をチェックに行く。俺もついていく。  お玉で幸彦がカレーを焦げ付かないようにかき混ぜる。 「ご両親が理解してくれるといいな」 「倉田さんがうまく話してくれるとは思うけどね」 「そうだな」  俺は背後から幸彦の体を抱きしめた。 「俺は幸彦を大切にする。気持ちも体も」 「僕もだよ、朔夜」  俺たちはカレーの香りの中で幸せな口づけを交わした。 ――壁は壊せるか 了――

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