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第2話:一発屋小説家の事情

 目が覚めると、自称幽霊の男はいなかった。  うっすらと障子の向こうが明るい。時間にして、昼近くあたりだろう。  昨夜のことは夢だったのかもしれない、と思いながら体を起こすと、まずは激しい頭痛が襲い、その後は腰に鈍痛が走った。酒に酔ったことも、男に突っ込まれたことも夢じゃないことがわかり、銀次は起こした体をまた布団に伏せた。  再確認もかねて、自分にかけられている薄手のタオルケットをそっとめくれば、やはり服は着ておらず、周囲を見渡せば、昨日着ていたスーツはシャツと一緒にハンガーにかけられていた。  男があのシャツのボタンをひとつずつ外しながら服を脱がせ、優しく撫で回すように銀次の体に触れ、その唇は銀次のそれを……と記憶の糸が徐々に手繰り寄せられ、慌てて銀次は頭から布団をかぶった。  今は、できれば思い出したくない。再び眠りを呼び戻そうと、ぎゅっと目をつぶった。  裏庭のガラスを叩く音で、銀次は再び目を覚ました。そのまま居留守を決め込もうとしていたが、古い板ガラスが木製の枠と合わせてガシャンガシャン鳴るので無視はできない。  銀次はついにタオルケットを蹴飛ばし、跳ねるように起きて、無造作においてあった部屋着のTシャツとハーフパンツを着て、部屋の障子を勢い良く開けた。  そこには、薄暗い外の中で、立っている着物姿の昨日の男がいた。 銀次は、渋々、窓を開ける。 「どーも。昨日、助けていただいた幽霊でございます」  銀次は、そのまますぐに閉めようと窓に手をかけたが、それを察したのか慌てて男は窓を掴んだ。 「そんな殺生な……あっしと旦那は、もう知らない間柄じゃないでしょう」 「はぁ?おまえ、散々俺の体を……」 「え?なんですって?聞こえませんねぇ?」  その男はわかりやすくとぼけて見せた。  銀次は思わず口をつぐんだ。そもそも、気持ちよくさせられたのはこっちだ。もともと経験が少ない上に、ご無沙汰だったのだから、何年分かの性欲を吐き出した気もする。  それで、今の今までぐっすりと眠ってしまったのもわかっている。すでに外は薄暗かった。おそらく夕闇の迫る時間なのだろう。  銀次は窓を押さえていた手を緩めた。 「で、なんの用だ?恩返しでもしてくれるのか」 「それも悪くないですが、旦那は昨日酔っていたようだし、夢とでも思われてるんじゃないかと思って」  そう思い込みたかったが、腰の鈍痛がそうさせては、くれなかった。  それにしても、幽霊といえば、幸薄そうで、悲しみの表情を浮かべているのが相場と決まっているのにこの男は、銀次の顔を見て穏やかに笑っている。 「まぁまぁ細かいことは気にせず、これも何かの縁ということで、茶でも馳走してくださいよ」 「……勝手に飲んで、勝手に帰れ」 「じゃ遠慮なく」  軽く頭を下げ、男は草履を脱いで窓から部屋に上がった。  銀次の家に誰かが訪ねてくるということはめったになかった。できれば自分の空間には人を入れたくない性分である。  けれど昨日あんなことをしてしまった仲だ。少なくとも気持ちよくしてもらった相手を手のひらを返したように邪険にするのは気が引ける。 「で、おまえはなんて名前なの?」 「あっしの?」 「そっちは、俺の名前知ってるだろ。なんか……フェアじゃない」  ああ、なるほど、と男は呟いた。 「あっしはみんなから染(そめ)さん、と呼ばれてます」 「染さん?」 「呉服屋の店主をしておりまして」  それで着物か、と銀次は納得した。着こなしもさまになっているのは商売道具だからなのだろう。  今日の着物は鈍い灰色で、縦にストライプのような柄が入っていて、この男の細身の体に合わせられたかのように、よく似合っている。 「染さん……」 「あいよ、他に聞きたいことは?」  聞きたいことは、山ほどある。どこから来たのか、呉服屋の男がなんでここにいるのか、幽霊なんてすぐバレる茶番をいつまで続ける気なのか、そして昨日の夜のことをどう思っているのか。いや、これは別に聞かなくてもいいが。 「あっしからも聞いてもいいですかい?」 「いいけど……」 「普段はずっとここで小説を書いてるんですかい?」 「まぁ、最近は書いては消しての繰り返しでほとんで残してないけど。あとは、バイト代わりに、人の本の校正をしたり?」  一日中、机に向かっていればなんとなく自分が小説家であると自覚できる。あとは読んだことのある本棚の本を、何度も読み返したりして一日を終えることが多い。 「じゃあいずれは、あっしと旦那の出会いも本になりますかねぇ?タイトルは『幽霊に襲われまして』とかどうです?」 「それなら『自称幽霊に襲われまして』だ」 「きっと売れますぜ」  幽霊と名乗る男に襲われた話なんて、どこに需要があるんだ、と呆れたが、男はそのタイトルを気に入ったらしい。何度もタイトルをぶつぶつと繰り返していた。 「で、昨日はなんであんなに飲んでしまったんで?」  まるでこっちが本題と言わんばかりに、さらりと聞かれ、銀次は黙った。  大学在学中に書いた小説が、有名な賞である"むつらぼし文学賞"を受賞し、小説家としては華々しいデビューを飾ったが、それによって、銀次の人生は急変した。受賞してすぐの自分は、雑誌やテレビにも引っ張りだこで、たかが大学生にチヤホヤしてばかみたいだ、と周囲の大騒ぎもまるで他人事のように感じていた。  そして次は当たり前のように誰もが「次回作は?」と問いかける。できることなら、期待に答えたかった。この波の中、期待通りの作品を次もまた輩出することができれば一流の小説家なのだろう。自分はそうではなかった。それだけのことだ。  今日は、一流の作家先生の中に、三流以下の作家の自分がぽつんと立っていた。あの風景は、思い出すだけでも胸が苦しい。あらためてわかった。"南風銀水"はめでたく一発屋作家の仲間入りを果たしたのだと。  自分は本が好きで、物静かなところで好きなように書きたいものを書くのが好きなのだ。ただ、それだけなのに。 「話したくないのなら話さなくてもよろしい。誰にだって飲みたい日もありましょう」  言葉に詰まっていた銀次をさりげなく気遣ってくれる。この男はどれくらい自分よりも年上なのだろうか。これを大人の余裕というのだろう。嫌味のひとつやふたつに、いちいち腹を立てていた自分がちっぽけに感じる。 「あとは、そうだねぇ。男の体はどうでしたか、とか?」 「……ノーコメントだ」 「旦那も悪くはなさそうだったように思えたのは、気のせいかねぇ」 「そ、そもそも出会ったその日にそんなことをするなんて、ありえない!」  苦し紛れにそう言い返してはみたものの、あんなにも気持ちのいい経験をしたことはなかった。どちらかといえば自分は淡白な方で、そういった興味もあまり持たないまま、学生時代を過ごしてしまった。  あの頃は、グラビアアイドルの写真集を見るくらいなら、文学書を読んだほうが自分には合っていたくらいなのだ。  よいしょと隣に擦り寄り、男は銀次の耳元で囁いた。 「いつだって気持ちよくしてあげますよ、旦那」 「別に俺がしたいわけじゃない」 「はいはい。それならあっしのためってことでいいでしょう」 「よくない!」  幽霊と名乗る、不審者で変質者だというのに、この男のペースに終始巻き込まれているような気がする。 「これも何かの縁ですし、しばらくはここでご厄介になります」 「は?なんだそれ」 「取り憑かれたと思って相手してください、旦那」 「まだ幽霊ごっこするのかよ」  銀次が呆れてため息をついても、男はにこにこと笑顔を絶やさなかった。

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