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第4話:北川呉服店の染さん

 銀次の通っていた大学は国立の名の知れた大学だった。別にやりたかったことはなかったが、なんとなく母が父の勤めている大学にいってくれることを望んでいることを察し、なんの疑問も持たず、そこに入った。民俗学の学者であるらしい父の授業は二回ほど受けたことがあるが、それでも父というよりは、大学の先生という顔しか見ていない。他には同じ大学にいながら、父に関わる授業やゼミは避けていたように思う。  むつらぼし文学賞受賞の知らせが大学に来た時も、父からはなんの言葉もなかった。大学の学長のほうがよっぽど喜んでくれたと記憶している。そんな自分に興味のない人間が倒れたからといって、息子として何かしてあげられることなんてすぐには浮かばない。  歩いて十分ほどのところに大学があり、今はちょうど夏休みなのだろうか、Tシャツにジャージ姿の学生をちらほらと見かけた。大学を通り過ぎてすぐの駅側の敷地に、附属病院がある。受付で父の名前を告げると、訪問リストのような帳簿に名前を書かされ、見舞い客用の札を渡された。病室は個室らしく、二階のフロアの突き当りを案内された。『南銀一』とプレートのついた部屋の扉の前に立ってもなお、「何を話そうか」と思案する。いや、寝てるかもしれない、とまずは扉を開けた。  窓からのさしこむ風にレースのカーテンが揺れていた。それをぼんやりと眺めている初老の男がベッドに横たわっている。白髪交じりの髪に、薄い水色の浴衣を着せられていて、その顔は自分にとてもよく似ていて、まぎれもなく自分と血のつながりを感じた。 「……父さん」  小さく声をかけてもこちらを見る様子もない。黙って扉を閉め、部屋の中へ進む。ベッドの傍らには、点滴がつるしてあり、その管は父の腕に続いていた。 「何しにきた」  低い弱弱しい声が、近づいた銀次を迎えた。 「緑子おばちゃんから、連絡もらって……大丈夫なの?」  大丈夫ならば病院にはいない。気の利いた言葉なんて考える余地もない。 「補習の授業が続いてな。熱中症らしい。血圧が急に上がった」 「そう……」 「おおげさなんだ。少し横になれば治ると言ったのに」  父が体が弱いなどとは聞いたことがなかった。どちらかといえば、全国を飛び回り講演をしていたという記憶しかない。  とにかく命の別状がないと知って、安堵する。もうそれだけわかれば帰ってもいいのでは?と脳裏をよぎったが、緑子が来るまではここにいなければいけない雰囲気だった。手持無沙汰過ぎて、部屋を見渡すとベッドの脇に椅子があったので、それを手前に引いて、ひとまず座る。 「年なんだから、ほどほどにしたら」  父の年齢もよく覚えてないくせに知った口をきく。 「休ませてくれないんだ。仕方ないだろ」  どうやら自分の意思ではないことを強調する。根っからの仕事大好き人間だと思っていたのに、意外だった。 「そいえば南教授は単位、簡単にもらえないって聞いたことある」 「私が普通なんだ。他が甘い」 「そうかな」  思わず、ふっと顔が緩んでしまった。大学中に父の授業を履修した同級生が「おまえの父ちゃんは鬼」とよく言っていたのを思い出したからだ。 「おまえは優秀な生徒だったらしいからな。学長が言っていた」 「うそ。そんな話してたの?」 「俺が聞いたわけじゃない。あっちが報告してくるんだ」  学長と南教授の会話に自分が出ていたなんて、急に意識させられた父性に戸惑ってしまう。 母が心配することもあり、大学の成績にも気を遣った。ほどよい距離感を保っていた父に、自分の成績のことでわずらわしいことを言われたくなかった。急に父親ぶられたら、当時の自分ならきっと反抗していただろう。  そして、ぎこちないまま、会話がきちんと成立していることに気づいた。父だと意識せず、ただのおじさんだと思えばなんともない。しょせん男同士、無駄な会話は必要ないのかもしれない。それにいつも聞いているだけになってしまうあの男との会話より、自分のペースで話しやすい。 「今は、どこに住んでるんだ」  そういえば、引っ越したときも父が不在のときで、緑子に伝言をしたんだった。父には連絡さえしなかった気がする。今思えば、それで文句ひとつ言ってこない父もどうなんだ。 「あ、大学の近くにあった中古の平屋を、その……安く買ったんだ」  今の家は、大学在学中にずっと気になっていた家だった。誰かが住んでいる気配がまったくしなくて、まるで妖怪でも出てきそうなくらいの古びた平屋のくせに、趣だけはある。その後、不動産屋を調べて聞いてみれば、家を取り壊すかどうかを悩んでいたらしく、もし住んでくれるのなら、とありえないほどの安価な価格を提示してきた。  聞けば、三十年近く前に住んでいた人が部屋を大改造しており、本棚部屋が多数あるという買い手がつかないような間取りになっていて、それでも近所の住民から家を取り壊すのは反対されており、そのままになっていたのだという。自分の作品は受賞してから書籍化され、その印税で唯一、自分のために買ったのはその家だけだった。 「大学の近くの平屋……まさか、おまえあの一丁目の平屋か」  今までずっと窓を見つめていた父が突然起き上がって、こちらを見た。改めて父の顔を見ると、自分の記憶の中の父の顔よりも年老いていた。自分を見つめてくる父の顔をまじまじと見つめてしまい、お互いの間に沈黙が流れたが、慌てて肯定する。 「うん、そう。一丁目の平屋。すっごくぼろいところ」 「そうか……」  父は何か思い当たることがあるようだった。 「父さん、前に住んでた人を知ってるの?」  以前にも、あの男が「この家に住んでいた昔の住人に会いたい」言っていたことを思い出した。自分の生まれる前のことなので、もうその住人は生きているのか、死んでいるのかもあやしい。 「私だ」 「は?」 「あの家に住んでいたのは私だ」 「はぁー!?」  まさか、自分の父親の住んでいた家に住んでいたとは思うまい。 「ずいぶん、派手に改造したね……」 「元はあの家は別の持ち主がいて、一緒に住むことになったときに、好きに改造していいと言われてな。たくさんあった本を納められる部屋が欲しくてわがままをきいてもらった」 「うん、今では俺が本を片付けている」 「そうか……」  驚いたショックでまだ動悸がする。父とこんな風に話せただけでも、自分の中では革命が起きているのに、あの家はもともとその父が住んでいた家で、それを知らずに自分が住んでいたという事実。そして、男が会いたいと言っていた前の住人は自分の父親だったのだ。 「父さん、呉服屋に知り合いがいたりする?」 「な……」  なにげなく聞いた質問に、父親は動揺した。 「なんでそんなことを聞くんだ」 「いや、あの家の前の住人に会いたいって人がいて、呉服屋の人なんだけど」 「それはいつの話だ」 「え?最近知り合いになって……」 「それは別人じゃないのか。染さんは、もう亡くなったと聞いてる」  その名前に聞き覚えがあった。 「染さん……」 「北川染衛門。商店街の中にある北川呉服店の店主だ。あの家はもともと彼の持ち物だった」 「亡くなったって……」 「葬儀には参列できなかったが、知らせだけは届いた。染さんはもうこの世にいない」 ――この世にいない。  その言葉がリフレインする。まさか、あの男は本当に幽霊だというのか。毎晩、うちにやってきて雑談して、時には手を出してくる変質者で不審者である男の、ただのふざけた設定なのだと思っていた。それが、まさか本当に幽霊だなんて思わない。 「疲れた」  父はそう言うと、ぽふんと布団に横たわり、背を向けた。 「なんかいろいろ話しちゃって…」  ごめん、と言いかけて言葉をのんだのは、父の背中が震えていたからだ。 「父さん……」 「もう帰れ。そのうち緑子がくるだろ」 「うん」  染さんの話をしてから、父の様子がおかしくなったのはわかっている。背中を向けて震える背中が物語る。おそらく父と『染さん』は、古い付き合いで、一緒に住むほどの近い関係なのだと。一度にたくさんの情報を得て、頭がぐるぐるとまわる。何よりも一番響いているのは、あの男のことだ。  立ちあがり、部屋の扉を開けようとしたそのときだった。 「銀次」  呼ばれて振り向けば、父は背中を向けたままだった。 「何?」 「今日はありがとう」  礼を言われるなんて思わずに、返す言葉がない。 「今度、家に行ってもいいか」  さきほどよりも小さく呟かれた声は、不安げに揺れている。 「うん。掃除しとく」  父の返事はなかったが、そのまま個室を出た。

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