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第5話:父を捨てた染さんのこと

 廊下に出て、すぐの革張りのベンチに腰をかけた。  銀次は、はぁと溜息をついて、ぼんやりと上を見上げた。  染さんと呼ばれるあの男の名は『市川染衛門』。父と深い仲で、もともとのあの家の持ち主で、そして今はこの世にいない。父があの家に住んでいたのが、三十年近く前というなら、自分が生まれる前の話だ。以前、母と父のなれそめを聞いたことがあった。父の幼馴染だった母は、昔から父のことが好きだったが、結婚をしたのは晩年に近いと聞いている。もしやそれに『染さん』の存在が関わっていたりするのだろうか。自ら、男色だと告げていたあの男は、もしかすると父とそういう関係だったのだろうか。それに自分のことを知っていたあの男は、自分が息子であることを知っていたのであろうか。  もし、自分に父を重ねていたとしたら?自分を通して父を見ていたとしたら?  幽霊であるあの男と、毎晩のように体を重ねている自分は、これから先どうしたらよいのだろう。 「銀次くん?」 「緑子おばちゃん……」  両手に紙袋をぶらさげた緑子がこちらに向かって歩いていた。 「お父さんに会った?」 「うん、今は寝てる」 「そう、よかった。たいしたことないとは聞いてたけど、こんな機会でもなければ親子で話さないでしょ」  その言葉を聞いて、気づく。父の安否は最初からわかっていたのだろう。父と疎遠になっている息子に対して少しでも話ができればと、緑子が気を遣ったのだとわかる。 「二、三日で退院できるって。ちょっと働き過ぎだから休むといいわ」  緑子はけらけらと笑った。元から寡黙な父に比べて妹である緑子は、むかしから明るく朗らかだ。  けれど、今の銀次はそれどころではなかった。 「ねぇ、おばちゃん」 「何?」 「呉服屋の人で、北川染衛門さんって知ってる?」  その名前を聞いて、緑子の顔色が一瞬で変わったのがわかった。 「どこで……その名前を?」 「うん、今、父さんとそんな話になって」 「兄さんが銀次くんに言ったの?……そっか」  緑子は、驚きの表情から、安堵の表情になり、隣、いい?といって銀次の隣に座った。 「染さんは、おうちが呉服屋をしてる、兄さんの大学の同級生よ」 「会ったこと、ある?」 「うん、何度も。最後に会ったのは、おうちに挨拶に来たときかな」 「挨拶?」 「そう。兄さんと一緒に暮らすからって」  その挨拶の意味に、別の意味があることを感じてしまった。 「父さんは、その染さんのこと好きだったのかな」  そんなことを緑子が知らないかもしれない。息子である自分が聞くことではないかもしれない。けれど、思わず口に出してしまったのは、自分が今一番気にしている核心に触れたかったからだろう。 「染さんが兄さんを捨ててくれなかったら、銀次くんは生まれなかったと思うよ」 ――染さんが兄さんを捨てた。  新たな事実に、言葉が出ない。 「あ、私が言ったって内緒にしてね。じゃ、兄さんに着替え届けてくるから」 「うん……俺、帰るね」 「ありがとう、銀次くん。兄さん、きっと嬉しかったと思う」 「……それはどうかな」  緑子の言葉も耳に入らないまま、銀次はそのまま病院を後にした。 ***  病院からの帰り道、外はすでに薄暗くなっていた。駅に向かうビジネスマンや学生とすれ違いながら、銀次の足は商店街へ向いていた。  父は、北川呉服店は商店街の中にあると言っていた。スマホで地図アプリを起動し、その名前を告げれば、病院から歩いてすぐの場所にあった。買い物客でにぎわう商店街は、昔ながらの古い店が立ち並んでいる。その中に『北川呉服店』と書かれた重厚な看板を見つけた。 スマホの画面を見ても、ここに間違いない。  店の前には誰もいなかったが、入口のガラス扉は閉まっていて、すでに閉店の時間を過ぎていたようだ。  銀次はそっとガラス扉の中から、店内をのぞいた。豆電球らしき薄暗い部屋の明かりの中で、壁には色とりどりの着物が壁にかけられていて、その奥に一段あがった畳の部屋があり、あのあたりで反物を広げたりするのだろうとわかる。  そして、すぐ上の軒先に、四枚のモノクロの遺影が飾られているのを発見した。一番右は一番古い写真とわかり、徐々に視線をうつしていくと、最後の写真に見覚えのある写真がみえた。 『四代目 北川染衛門』  そこには、あの男の写真が飾られていた。他の三人よりも、ひときわ陽気な笑顔で写真に写っていて、聞きなれた声も脳内再生されそうだ。  これで確信した。毎晩うちに来ているのは、北川染衛門の幽霊なのだ。 「もし……」 「あっ」  初老のご婦人に背後から声をかけられた。 「何か、ご用でしたか?」 「いえ、なんでもありません。失礼しました」  頭を下げて、そのご婦人の横をすり抜けて、一目散に走り去った。  途中、何人かと肩がぶつかった。すみません、と声をかけるだけで、ひたすら家まで走った。息を切らしたまま、玄関の鍵をあけて部屋に入り、そのまま膝をかかえて座った。今日あったことを脳内で整理したいのに、落ち着かない。疎遠だった父とあんな風に話せるようになったのは、なんとなくあの男のおかげのような気がしている。あの男と話すようになってから、人と話すことが楽しいと思えたし、今日も自分のペースでゆっくり話せた。  それだけで済めばよかったのに、思わぬところであの男の素性がわかってしまった。父のかつての想い人で、一緒に住むほどの間柄。そして、男から別れを告げられた父は、その後母と結婚し、自分の父親となる。そんな自分を息子として、愛情を注げない気持ちはわからなくもない。  何より、毎晩現れるあの男の心中がわからなかった。なぜ、自分のもとに現れるのだ?父に会いに行かない理由はなんだ?もしかして、自分が想っていた相手の息子だと知らないのか。  毎晩話をして体を繋げて、今まであの男と築いた関係は、名前のついたものではない。恋人でもなければ、友達でもない。けれど、今こうしてあの男が幽霊であるとわかった今、それは、すなわちあの男はこの世にはいないことになる。  そのことが少なからず自分にはショックらしい。この先にどんな期待をしていたのだろう。自分で自分がばかみたいに思う。幽霊を好きになったなんて、最高に傑作だ。  しばらくして、ガシャガシャンと窓を叩く音がした。あの男が来たとわかる。 つもなら腰を上げるがそんな気になれなかった。  膝を抱えて座ったまま、銀次は微動だにしなかった。

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