2 / 11

第2話

「……う」  頭がズキズキと痛む。  ゆっくりと瞼を開いて映った光景がよく見慣れた自分の部屋のもので、安堵した。召喚に失敗した回数は多いから危険な目にもそれなりに逢ってきたけれど、さすがに竜がどこかに潜む森の中で気絶するというのは死んでもおかしくないことだったと思う。彼らは人よりも遙かに優れた力も知能も持っているという。だからこそ、人間なんてちっぽけな存在はきっと簡単に潰せてしまう存在くらいにしか思っていないのだと高名な魔導士や召喚士たちは口を揃えて言う。 「そもそも、あんなの使役しようって考えるやつが異常なんだよな」  それにしても、オレのような落ちこぼれの召喚術であんな大きな竜がでてきたということはよほど魔界との間の歪みが大きく綻んできているのだろうか。そこまで考えたところで、開いた扉から弾丸のように飛び込んできたものにオレは呆気なく寝台の上に押し倒された。 「グリフィス! ちゃんと家に戻ってこれたんだ、良かった」  真っ白いからよく分からないが相棒――魔犬のグリフィスはオオカミにそっくりの体躯をしている。魔犬にもランクがあるらしいが、オレにとってはグリフィスが傍にいてくれればそういうものはあまり気にならなかった。もともとあの森に召喚術を使いにいったのも、学生時代の旧友に泣きつかれて仕方なく下級で人によく懐きそうな召喚獣を手に入れるためだった。同じ召喚術を学んでも、一生自分の召喚獣を手にできない者だってたくさんいる。  ひとしきりグリフィスと戯れてからようやく上体を起こすと、間借りしているオレの部屋の扉に背を預けるようにして……あの存在自体がオレへの嫌みのような男が立っていた。すっかりグリフィスだけだと思っていたオレが驚くのすら見物していた男は大して興味もなさそうに扉から背を離す。 「ど、どうしてまだここにいるんだよ……」 「随分なご挨拶だな、ここまで運んできてやったのに。それよりお前が召喚士なのを見込んでの頼みがあるから付いてきたんだ――召喚士なら知っているだろう、"暁の鳥"を」  いきなり飛び出た単語にオレは目を丸くして、それから不審者に対してまるで借りてきた猫のようにしているグリフィスへと視線をやる。"暁の鳥"は魔界へと追いやられた種族の一つにつけられた通り名で、鳥のような羽毛に覆われた大きな両翼に人に似た美しい容姿を持つ、竜よりも更にめずらしい……まさに幻のような存在だ。 「知ってるけど、でも伝説くらいでしか……その"暁の鳥"とあんたと、どう関係するんだよ」 「探している」  短い答えに会話を続けるのが難しい。それにしても、魔界にいる"暁の鳥"を探しているのならもっと高名な召喚士のところに行かなきゃ見つけられないんじゃないだろうか。……そう思っていると、オレの心を読んだかのようなタイミングで男は琥珀の眼差しをこちらへと向けてきた。 「魔界にはもういない。彼らの最後はもう既に奪われている……この、人の世界にな。魔界の王が変わるには"暁の鳥"の声が必要だ。だから、探している」 「初めて聞いた話だけど……そもそも、何であんたが魔界の王サマのこととかそんなに詳しいんだ? 探しているっていうけど、どうして必要に――」  魔界のことは召喚士であってもほとんどのことは知らない。人と話すことができるくらいの上位召喚獣は滅多に現れないし現れたとして自分の世界のことをほいほいと話すような人なつこいヤツなんて上位クラスにはほとんどいない。だというのに傭兵もどきみたいなこの男が異様なほどに詳しそうなのが怪しく思えていぶかしんでいると、男は最初に現れたときと同じような皮肉げな笑みを浮かべてゆっくりとした足取りでこちらへと近づいてきた。 「それは私も王位争いに関わっているからだ、マスター」  より一層低い声音。思わず身震いしてしまいそうな声が発した言葉にまたオレは動揺する。頼みの綱であるはずのグリフィスは耳をぺたりと伏せておとなしく寝台から離れて行ってしまった。いつもなら自分よりクラスが上の召喚獣にも果敢に立ち向かう相棒が、だ。 「マスターって……」  不意にあの黒竜の声が男のものと混じりあったような錯覚に陥った。混乱し始めるのと同時に、グリフィス同様に逃げを打とうとしたオレを逃がさないとばかりに強く寝台に両腕を拘束されて目を見開いてしまう。  そこにいるのは鋭利な容貌を持つ人間、のはずなのだ。 「ただの人間にしてはよく保つな、お前は。お前の飼い犬のように逃げ出せなかったら人間の気は狂うのが常なのだが。気に入った」 「……あ、あ……あんた、まさか――」  オレよりひと頭半は余裕で高い長身が覆い被さってくる。そいつの切れ長な琥珀の瞳は、その瞳孔は爬虫類のように縦に割れていって――。 「私がお前を選んだんだ、目的を果たすまで付き合ってもらうぞマスター。少なくとも、私の気を保つのに適う程度の力を持っているのだから精々私の気を鎮めることだ」 「……っ、なにする気だよ、言っておくけどオレ殴ったって金なんて出ないぞ! それからっ!」 「威勢のいいことだ。……なるほど、お前の価値に気づいた人間がいなかったのは幸運だったな」  マスター、とオレのことをそう呼びながら馬鹿にしたような目つき。半泣きになりながらもようやくオレは檻かなにかのようにオレにのしかかっているこの男の正体が分かりかけていた。ふつうの人間の瞳孔が突然縦に割れることなんてどうがんばってもあり得ない。そんな瞳を持っているのは爬虫類と一部の魔物――例えば、竜だけだ。そして人に変じることができる魔物というのは本当のごく一部、人間が勝手に決めたランクで言うのならば上位の更に上、高位の魔物たちだけだった。 「……あんた、よほど腹空いてるんだろ。だからオレみたいな貧相なのを食べようとしてるんだ」  昔聞いた話の中に竜は人間なんか簡単に丸飲みできるっていうのもあった。こんな人の姿をしていても正体があのでかいヤツなんだったらオレは間違いなくこいつにとって餌以外の何者でもないだろう。思わず恨めしい口調になりながらも最後の気力でやつを睨みあげると、一瞬ヤツが不意をつかれたような顔をして、面白いとでも言いたげに口の端をつり上げた。  それから空いていた方の腕がオレに伸びてきてつい目を閉じてしまうと、てっきり首でも絞められるのかと思ったのにまったく手入れしていないオレの髪を緩やかに梳く気配にオレの頭の中で疑問符が踊り出す。 「確かに餌にするならば随分と貧弱だしな。その生意気そうな紅い瞳が色に犯されるのを見る方が楽しそうだ」 「……な……ンッ?」  深い口づけ。生きてきた間に数えたくらいしかしたことのないものが遠く霞んでしまうような、一番深く濃厚なものにオレの冷静な思考が一気にはじけ飛ぶ。相手が人だろうが魔物だろうが関係なしに突き飛ばしてやろうともがいているのに、憎たらしいことに隆々とした筋肉を誇るそいつの身体はびくともしない。 「ふざけ……ッ! ヤメ――」   一体なにが起こるのか、なにが起こってるのかオレの頭が考えるのを放棄してしまう。まともに見た最後のものは、琥珀の瞳を細めて笑う、魔物の愉しげな笑みだった。

ともだちにシェアしよう!