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第5話

 スーツ以外の服装は少し困る。適当にシャツとパンツというシンプルな上下に少し肌寒いからと紺色のスプリングコートを羽織った。入場料を払って足を踏み入れると、記憶の中にある通りに非現実的な、ただひたすらに美しい光景が広がっていた。  赤に黄色、薄紅などのチューリップが一面に広がっていて、思わず吐息が零れた。運よく今日は青空が広がり、温かな日差しが注がれている。人工的なものではない、天然の香りを鼻孔で感じながらゆくりと楓は歩いた。殊更ゆっくりと歩いて一面のチューリップを楽しむ。  昼に入場した楓だが、気づけば閉園が近づいていた。長い時間、この美しい光景に魅入られていようだ。そんな自分に苦笑して、楓は出口へと足を進める。電車に乗る頃には、すでに日が暮れかけていた。  電車に少し揺られた後、薄暗い道を歩く。街灯もあり人通りも多いが、どこか独りポツンと歩いている錯覚に陥った。まだ非現実的な植物園を引きずっているのだろうかと苦笑して、ふわりと一つ欠伸を零した時だった。 「楓ではありませんか?」  呼びかけられた声に楓はふと足を止める。振り返れば知った声の主がふわりと微笑んでいた。 「悠。久しぶりですね」  楓は少し戻って悠と呼んだ青年の前に立った。悠は楓の数少ない友人で、今も付き合いがある。とはいえ多忙な楓よりさらに多忙な日々をおくる悠とはなかなか会うことができず、以前会ったのは半年ほど前だったと記憶している。 「お久しぶりです。こんなところで会うとは奇遇ですね」  静かに微笑む悠は楓と同じく知的な印象を与える美形だが、楓よりも柔らかな雰囲気がある。恐らくは内面の優しさがにじみ出ているのだろう。どこか陽だまりのような温かさのある青年だ。楓と違い彼はアルファであるが、物腰柔らかく高圧的なところがないので付き合いやすい。  楓も悠も敬語で話すタイプの人間なので、何も知らない人が見ると二人はとても他人行儀のように見えるのだが、実際はとても仲が良い。 「たしかに。スーツということは、悠はまだ仕事の最中ですか?」 「ええ。今は上司が会食しているので、私はここで待機しているんです」  悠の仕事は秘書だ。悠があまり詳しく話す人間ではないので、楓も何も聞かないためにどんな会社の秘書であるとか、何をしているとかは聞いたことがないが、雰囲気的に大物の秘書をしていることは何となく察せられた。 「それはお疲れ様ですね。速やかに終わるといいのですが」  そんな楓の言葉に悠は苦笑しながらも頷いた。 「そうですね。明日が休みなのが唯一の救いですよ」  ヒョイと肩をすくめて、悠は腕時計で時間を確認した。もうそろそろ上司の会食も終わるだろう。側に停めてある黒塗りの高級車の鍵をポケットの中で握りしめた。 「また時間があるときに食事でも」  悠の言葉に楓は頷いた。会社の付き合いでの飲み会などは苦手であるが、相手が悠であるならば楓も楽しめるというものだ。 「また連絡します。では、お疲れ様」  軽く頭を下げて楓は踵を返した。

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