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彼の婚約者
バイト先は、自宅から自転車で十五分程の距離にある地域密着型のスーパーのレジ係り。ほぼ一日おきにのペースで買い物に通っていたら、レジの女性に、うちで働かない!?と声を掛けられたのがきっかけ。その時は、声が出ないからと断ったもの、それでも出来る仕事はあるからと、店長さんに口説かれた。
人材派遣会社と貸ビル業を経営する信孝さんからは、別に働かなくても、家で家事と留守番をしてくれれば十分。そう言われたものの、何時までも甘えてばかりはいられない。何度も何度も頼んでようやく許可が下りた。時間は、平日の昼から夕方の七時まで。お正月と、お盆、特売日など繁忙期は、土日もバイトが入るけど、なるべく信孝さんと一緒にいれるように配慮して貰っている。
二十分程で、終点の総合病院前に到着した。真新しい白い建物を横に見ながら歩くと、直ぐにスーパーが見えてきた。休日なので、駐車場が込み合っている。
もともとクリーニング店があった場所に、最近流行りのカードゲームのコーナーを拡充し、その脇に、焼きたてパン屋さんとイートインコーナーを新設した。それが、功を奏し、最近は家族連れのお客さんが増えた。
「お疲れ様です」
着替えを済ませ、といってもカーキー色のエプロンを身に付けるだけ。交代になるパートさんと引き継ぎをして、レジに入った。仕事をしている間は余計な事を考えなくて済む。
バイトを始めて、嬉しかった事は、本名を知らない僕に、 『縣 尚』という名前を信孝さんが付けてくれたこと。
「縣さん」
同僚や、馴染みのお客さんに、そう呼ばれる度、何気無い幸せを実感出来ること。
叶うなら、この名前になれればいいのに。そう思っていた。
今となっては、永遠に叶うことはない。それでも、僅かな希望だけは持ちたくて、゛今゛を懸命に生きているのかもしれない。
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