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忍び寄る過去2

 浅い眠りから覚めて、それでも眠気は感じない。軽い朝食を済ませて家を出ると、梅雨だとは思えないほど澄み渡った空が広がっていた。これでは侑惺を独り占めできないな、とぼやいて、すぐに今はそれどころではないかと苦笑する。  昨夜の夢を思い返すと決して楽しいばかりではないのだが、記憶探しの旅だと表現すれば、冒険のようで楽しくなってくる。真面目に考えるべきことなのだろうが、思い悩むのは宵娯の性分に合わない。本当に八方塞がりな時や、あるいは侑惺とのことに限っては例外のようだが。  記憶を失う前の自分はどうだったのだろうか。なくしてしまったことで人格やら性格やらが変わってしまったとしても不思議ではないのかもしれない。そうしたら、記憶を完全に取り戻してしまった時に、自分はどうなってしまうのか。 「桜庭」  名前を呼ばれて、物思いに沈んでいた思考が現実に引き戻された。いつ電車に乗ったのか意識にない。隣にいる侑惺の存在にさえ気付かなかったことは初めてだ。  慌てて笑顔を取り繕い、侑惺と目を合わせたが、何か不自然だったのか、不思議そうな顔をされた。 「どうしたんだ」 「ちょっと考え事」  応えると、侑惺の指先が伸びて眉間に触れてくる。それだけで鼓動が跳ねた。 「何?」 「眉間にしわが寄ってる。悩み事なら、話聞くよ」  本気で心配そうにしてくれているのを感じて、じんわりと温かい心地がする。眉間から髪へ移り、慰めるつもりなのか撫でるように動く手を掴まえて、手のひらにすっぽりとくるんだ。いつものように振り払われなかったことにほっとしながら、ぽつりと溢す。 「悩み……なのか分からない」  先を促すでもなく、ただ耳を傾けてくれている侑惺に語って聞かせることに決めた。 「この学校に入学する前まで、昏睡状態で入院していた。それが原因かどうかは分からないが、目覚める前の記憶がないんだ。分かるのは、自分の名前だけだった」  侑惺の瞳が驚きで見開かれていく。何か口にしようとしたようだが、そのまま、ただ宵娯を見つめてくる。それに背中を押されるようにして、先を続けた。 「不安な気持ちはなかった。新しい自分に生まれ変わったというか、産まれた時から体が大きいみたいな感じで、ここから自分の人生が始まると思っていた。過去に囚われる必要性は感じなかった。それなのに、今になって夢を見て。それが過去に関するものだと自然と分かったんだが、事実を確認するために鍵を握る人物に話が聞きたいと思った。その男は、学校に出入りしているみたいだが、名前も知らないから、どうやって手がかりを探そうかと悩んでいたんだ」  一息に話してしまうと、侑惺は半ば呆然としながら、宵娯の手を握り返した。聞きたいこともあるだろうに、問い詰めることもなく、ただこう言った。 「よく生きていてくれたな。いや、よく目覚めてくれたというのが正しいのかな」  うまい言葉が見つからないのか、もどかしそうに顔をしかめていたが、それだけで十分だった。胸を打たれて、どうしてか涙ぐみそうになる。  自分を憐れむつもりはなかったが、誰かに話したかったのだろうか。それとも相手が侑惺だからだろうか。視界が滲んできた時に、侑惺が力強く頷いた。 「俺にも手伝わせてくれないか」 「手伝うって」 「その人に会いたいんだろう。それとも、俺は何もしない方がいいだろうか」 「侑惺」  ありがとう、と返事の代わりに応えると、温かい雫がついに溢れた。    まずは職員室に向かい、教師に聞き込みを行うことにした。長身の宵娯よりも背が高く、また白衣で見慣れない男だと伝えればすぐに分かるはずだと思われたが、そうはならなかった。  教師たちは示し合わせたようにそんな人物は知らないと言ってのけたのだ。その間、目配せし合っていたので、何か知られたら困ることに違いない。色目を使えば簡単かもしれないとちらりと思ったが、侑惺の存在がある今はもう他にそれを使うつもりはなかった。 「何かを隠しているみたいだった」  職員室を出て教室に向かう途中、侑惺がぼそりと呟く。それは宵娯も考えていたことだった。 「桜庭は、その男のことを何も知らないのか?前にも会ったことがあるのかもしれないとかは」 「どこか記憶に引っかかるんだが、はっきりしたことはなんとも。たぶんもう一度会うか、うまい具合に記憶が戻れば分かるんだが」 「そうか……じゃあ、また後で。何か気が付いたことがあれば教えてくれ」 「ああ」  互いに手を降り、それぞれの教室に向かう。その最中のことだった。  不意にどよめきが起こり、人垣が割れた。そして、宵娯の目の前にその異様な人々が現れる。白衣に身を包んだ、年齢も性別もばらばらだが皆一様に無表情な一団。夢の残滓が舞い戻り、頭から冷水を浴びせられたように血の気が引いた。 「君が、朝霧宵娯君だね。ようやく見つけたよ」  声色までどこまでも冷たく、感情を伴っていない。逃げなければと思うのに、足がすくんで動けない。そんな状態を知ってか知らずか、男はそのまま近付いてきて囁いた。 「君のお母さんに会いたくないか」  その台詞にどんな魔力が込められていたのか。目の前に夢で見た情景よりも鮮やかな桜の花弁がぶわっと広がり、一瞬のうちに目まぐるしく記憶の映像が駆け巡った。そして、そこにはいないはずの長身の男の影を追って、呻くように呟いた。 「そうか、あれは父さん……」  記憶が急激に戻っていくことによる影響か、視界が明滅し、頭が割れるように痛んだ。  誰かが時間がありませんと焦り、舌打ちしてやむを得ないなと返す声がしたかと思えば、突然首の後ろを殴られて意識が薄れていく。  完全に気を失う手前で、侑惺が宵娯と叫んだ気がしたが、それを確かめることも叶わなかった。  

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