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6.伸ばされた手

 どれくらい月が夜を告げただろうか。やけに寂しくて何かにすがりたくて星月は今夜も鈴を鳴らす。するとこの日に現れたのはいつも代わる代わる現れる使用人ではなかった。 「雨月…」 「ご無沙汰していて申し訳ありまへんでした」  最初に顔を合わせたきりだった雨月を見て、星月は無意識に体を格子に寄せる。雨月は星月にとって幼い頃から知る最も親しい父の従者であり、使用人だった。  格子の向こう側にいる雨月は、今まで通り膝を付いて頭を足れる。思わず星月が再度名前を呼べば顔を上げて小さく笑った。現在では無月と星月だけに向けられる静かに凪いでいる笑みは初めて見た日から何も変わらない。  その笑みを見た星月の目から唐突に涙が溢れ出した。 「坊っちゃん?!どないしはりましたか?!」  星月の涙にらしくもなく焦って問うてくる雨月は格子越しでも手を伸ばせば互いに届く位置にいる。星月の震えるまだ幼い手が雨月の羽織を縋るように掴んだ。 「雨月…雨月ぃ…」  逃げないように、縋るように掴んだ羽織は離さずに星月は雨月がいる事を確認するように手を滑らせて強く握る。  その幼い手が触れた雨月は、昔から星月の中の記憶と何も変わっていない。慰めるように重ねられた雨月の手を取った星月はその手が離れないように絡める。  雨月の少しひんやりした肌が、星月のまだ暖かい体温にしっとりと吸い付き、幼い手が頬に触れれば絹のように(すべ)らかな髪の毛が指の間を流れていく。 「雨月…ここから、出して…」  堪らず、涙と共に絞り出された星月の訴えに雨月は一瞬息を詰まらせる。しかしその訴えに是の答えは用意されていない。 「申し訳、ありまへん…あてにはお館様の命を違える事はできまへんのや…」  無月の命ならば、例え星月がどんなに願っても雨月の首が縦に振られる事は無い。星月も分かっているつもりだっあが、それでも悲しみは止まらず涙となってボロボロと溢れてくる。星月が泣いても、雨月は涙しか拭えない。ならば、と星月は再び口を開いた。 「なら、今だけでいいから…こっちに来て…雨月なら、来れるでしょ…?」  涙ながらに訴え、懇願する星月に雨月ははっとする。何があったにせよ、生まれや環境から星月が今まで独りになる事はほとんど無かった。独りであってもその時は自由があった。ずっと独りで誰ともまともに話せず、限られた空間でただただ時間を流すのは辛かろう。他の者が恋しくて苦しかろう。  何より星月が生まれた時、何か大きな頼みが無い限り面倒を見てほしいと無月本人からも頼まれている。それは様々な事柄があっての信頼でもあった。ならば、雨月の答えは決まっている。 「承知しましたわ」  この座敷牢は少し特殊で鍵が無い。代わりに決まった者が格子の一画に手を触れて縦に撫でると、この部屋自体にかけられた(まじな)いがその者に対してのみ格子を視角だけのものとする。もちろん雨月も『決まった者』の一人であり、格子を無いものとできた。  そして雨月は格子を越えて座敷牢の中に踏み込む。  途端、星月が抱きついてくる。思わず身を強ばらせる雨月だが、それは戦に慣れすぎた体の悪い癖だ。すぐに聞こえてきたくぐもった泣き声に雨月はそっと己に縋り付いたまま小さく震える子供の頭を撫でる。見下ろした頭も縋りつく華奢な四肢もまだまだ幼い。雨月は孤独と不安で泣き出した子供の慰め方など知らない。だから腰を下ろしてから、泣く星月を両の腕で囲って撫でる事しかできない。 「ひぐっ…雨月、うづぎぃ…行か、ないで…!」  それでも、星月にとってそれは救いになっていたようだった。ここに来てから触れる事のできなかった暖かさと、己を包んでくれる優しい腕、頭を撫でてくれる慈しみは何ものにも代え難い。 「坊っちゃん、あてはまた明日必ず来ます」 「…ッやだ、やだぁ…ヒック、ずっと、ここに…僕と、一緒にいてよぉ!」  雨月の言葉に星月は更に身を寄せて、まるで駄々をこねるように首を振るがそれに返される言葉は無い。  縋って泣いて懇願するそれはやがて星月が泣きつかれて寝てしまうまで続けられた。  その日から雨月は毎夜星月の元へ通った。それは星月が安心するように、不安にならないようにするためだ。  座敷牢の中で、他人を求めてすり寄ってくる星月が安心して寝るまで共に過ごすのが、雨月にとって毎夜の習慣事になるのはすぐだった。

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