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18.主従とは?

 さらりと挨拶をした男は、にこにこと人好きのする笑顔を浮かべたまま三人の側まで歩み寄る。先ほどの言葉で彼がこの永年夜の享楽街を統べる者だと分かった。  そして遊女達とも顔見知りらしい。だが、近付いて来た男とその周囲を見ていた遊女達は、なぜかだんだん挙と動不審じみた動きになっていく。  その戸惑いは、男に対面したからではないらしい。もっとも、対面しただけで慌てるというならば彼が現れた時点で彼女らの反応はもっと違ったはずだ。  だが実際は、男が軽く世間話をし始めれば遊女達も当然のように軽いノリで楽しげに言葉を返していた。しかし、いざ男が近くに来ると遊女達の動きがどこかぎこちない、というよりもよそよそしいのだ。 「あの…殿…お話、楽しいんだけど…えーっと」 「ん?なんだい?」 「主様は、その…もしかして本日はお一人でいらっしゃってるんですかえ…?」 「そうなんだ!聞いてよ!!」  聞きづらそうな遊女達に対して、男は少し大袈裟に話し出した。賑やかに笑って話すのは、男にとってそんなに重要な事ではないらしい。 「部屋で寝ちゃったらさぁ、角の生えた八角(はっかく)に起こされた…」  肩を竦めながら少しふて腐れた風に言われる言葉に雨月は首を傾げた。部屋で寝る事で彼は怒られる事があるのだろうか。一人だけ疑問符を浮かべていたが、そっと嘆息したくぅと頭に手を当ててため息を吐くももが続けた言葉で思わず納得してしまう。 「また、客室で寝たんですか」 「いや、部屋(自室)まで戻るの面倒だったしお客もいなかったからさ…」 「それでも、ねぇ…?お客様の部屋で寝んしたら怒られますわ。今の雨の時期になって、これで何回目でおんすか?」 「何回目だったかな?とりあえず八角達が部屋を整えてる隙に出てきたんだよね」 「主様…今頃八角様に角が増えてるんではありんせんかえ?」 「そうかもね」 「なら早う戻った方がいいのではありんせんか?」 「うーん…でもあの八角に正座させられるといつの間にか石抱きみたいにされるからなぁ」  遊女と男の何ともいけない会話は進む。雨月は何も言えず、彼にしては非常に珍しいきょとんとした顔でその様子を見ているしかできなかった。  しかし突然背筋を這い上るような寒気を感じて、瞬時に刀に手をかけながらざわりと動いた場所を見る。するとそこには新たに現れた影があった。 「あ…八角…」 「お館…覚悟はできてるか?」 「ひえ…」  いきなり沸いて出てきたように見えたのは一人の男だった。八角と呼ばれた彼は忍にも似た動きやすそうな服で上掛けを羽織っており、仮面で顔半分を覆っている。だが、起伏の無い声は、低く冷たく主人への怒りに満ちみちていた。見えていないのに、八角の仮面の下の目は丞庵を冷たく見ているのがありありと想像できた。いや、実際絶対零度の眼差しなのだろう。  対面するだけでひやりと冷えた刀身を肌に当てられるような錯覚すら感じるのは、彼の怒りのせいか別の何かか分からない。八角に対面した時にひっそりと冷や汗を流しかけた雨月はその直後に言葉を失った。  八角は現れたその瞬間に己の主人の首根っこを掴んで逃げられないようにする。それはまるで、脱走した飼い犬の首輪を掴む怒った主人のようにすら見えた。まるで主に対する従者の態度には見えない。  思わず途中から呆気にとられて固まっていた雨月に 八角は向き直ると丁寧に一つ頭を下げた。その後に今度は感情の起伏が全く感じられない声で言う。もちろんその間も男の襟首からは手を離さない。 「雨月様とお見受けする。無月様より手紙を頂いてお待ちしていた。詳しくはこの男の楼閣にて話をしたいがいかがだろうか?」 「この男って…吾にはちゃんと丞庵(じょうあん)て名前があるよ…」 「黙れ。客人にちゃんと名乗れない者など知らん」 「え…ちょ…あの、八角さん、いつから見てたの?」 「遊女と談笑し、不敬にも客人を雨の鬼と(のたま)った辺りからだ」 「最初からじゃん!…あ、いだだだだだ!!ごめんなさい!!ごめんなさい」  無言で八角に頭をわし掴まれ、ぎゃんぎゃんと一通り騒いだ男はやがて力尽きて地面に捨てられた。どうやら、これもこの街の日常の一幕らしく、ほぼ皆誰もが「またか」と言わんばかりの冷めた目で見てくる。  やがて落ち着いたらしい男がゆっくりと立ち上がってから、改めて一息吐きながら雨月に向き直り頭を下げた。 「お見苦しい姿を見せてすまなかった。改めて、吾の名は丞庵。夜の城と呼ばれるここの主だ。よろしく」  丞庵から差し出された手は八角が容赦なく叩き落とし、雨月が取ることはかなわない。 「雨月殿、申し訳ない。しかし、お館…あなたの手は例え鬼であっても…いや、鬼だからこそ気軽に触れてもいいものではない。その方を(むしば)んでしまう」 「おや?そうかい?」 「…白々しい…切り落としてやろうか」 「ごめんて!!冗談!!」 「重ね重ねお詫びする。主は主たる由縁がある…無礼を許してほしい」 「え、あ…ああ、かまいまへん」 「よし、じゃあ吾の家に行こう!さ、着いてきて!」  雨月に向かって手招きしてくるその手は、真っ黒で不可思議な赤い模様が走っているのだけが見て取れたのだった。

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