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19.主たる者と
その後、案内されたのはこの街で一番大きな建物だった。この街を夜の城と呼ぶのは恐らくこの建物がその名の由来なのだろう。
そこは外観から豪華絢爛で細部まで作り込んであり、内部はきらびやかだが清楚という矛盾すら感じる手の込んだ建物だった。さらに遊郭も兼ね備えているせいか、通された先の奥まった一室ですら甘い香りが鼻孔を擽る気がする。この建物は一歩踏み込んでしまえば眩暈がするほどに豪奢で気高く、そして雰囲気に酔えば体ごと溶かされてしまいそうな空間だった。
豪奢だが、比較的落ち着いた部屋に通された雨月は出された茶をそっと口に含む。適温で煎れられた茶の仄かな甘味とほどよい渋味が舌を満足させた。そして、茶の香りが鼻から抜けて胸にも広がる。柔くまろやかな香りだが、胸に入って来るとその香りは重厚な彩りとなって居心地よくそこに居座った。たった一口だけだが、緊張がほどけていく。
「ええ茶ですわ 」
「だろう?茶食 みの妖 からしか手に入れられない品でね。うちの上客からも太鼓判をもらってる茶なのさ」
褒められた茶の事を得意気に話す丞庵は嬉しそうに笑っている。茶の出所を聞けばとても貴重なものだと予想がつく。だが、丞庵はまるで水でも飲むかのようにかぱかぱと茶を飲んでいる。さすがに数杯目で八角が文字通りどついた事でやっと飲むのを止めた。
「雨月殿、このバカなお館のしょうもなく仕方ない姿をお見せする事を今から謝罪しておく。申し訳ない…できれば要件は早めに済ませて頂いた方が、互いのためとなる事を進言しよう…」
「…あんたはんもあてとは別の意味で苦労してはるようですな」
「あ、雨月殿はそんな目で吾を見ないでよー!これでもここの主としての役目はちゃんと果たしてるんだからねー!八角が厳しいだけだから!」
何を言われてもあっけらかんとした様子でわいわいと騒ぐ丞庵は、大きな溜め息を吐く八角の様子からどうやら通常運行らしい。そして一頻 り騒いだ丞庵は言いたい事が済んだのか一つ息を吐いた。
その後に大分ゆっくりと一回だけ瞬きをする。雨月はその様子を見て己を落ち着けるための所作かと思ったが、それは正解に近い不正解だった。
ゆっくりと上がる瞼 の中からぼんやりと光っているようにも見える金の目が現れる。先ほどまでの丞庵の騒がしさは鳴りを潜め、纏 う雰囲気は全く別のものだ。ほけほけと暖かかった空気が一瞬です、と冷えて周囲の空気すら変えてしまったように錯覚する。
「さて、雨月殿、改めて…ここを治める吾、丞庵として仕切り直す。無月くんに頼まれた話だ。君の望みを聞いてみようか…」
薄い笑みを湛 えて、居住まいを正した丞庵はこの土地の主としての姿になったようだ。まるで先ほどと同じ人物とは思えない。それでも雨月は態度を変える事なく背筋をすっと伸ばした。
「お館様に聞いてはるかもしれまへんが…あてのこの体に刻まれた呪印を解く方法を教えてもらえまへんか?」
「解呪?そんな事のために吾の所まで?」
「ええ…あんさんからしたら『そんな事』かもしれまへんが、あてにしたら大事 なんですわ」
「ふむ…なら、それを見せてもらえるかな?」
雨月の話を聞いた丞庵が何かを思慮するように言う。すると、それを聞いた雨月は返事の代わり己の着物の前を躊躇いなくはだけた。上半身から下腹部まで躊躇いなく丞庵に晒して、星月が描いた呪 いが全て見えるようにする。
白くすべらかで陶磁器のような肌は鍛えられているが、逆にそれが色香を醸していた。見えそうで見えない下半身も含めて今の雨月の姿は、見るものが見れば劣情すら覚えただろう。しかしここにはそんな者はいない。
丞庵はさらけ出された肌を一見しただけで下腹部でその視線を止めて顎に手を当てた。
「……へぇ、これは見なくなって久しい呪 いだ。むしろ、これが残っている事に驚きだよ」
「そないな大層なもので?」
「ああ。珍しい。主な用途が用途だし、使うのも面倒だし、完成まで変な所で難しいしで使い手が居なくなっていったんだ。誰がこれを君に?」
「……星月様ですわ」
「無月の息子…?」
「ええ」
できれば術者の名を出したく無かった雨月だが、解呪の手助けになればいいと苦虫を噛み潰したような顔で答える。
術者の名を聞いた丞庵は、感嘆のため息を吐いた。彼の記憶が正しければ、星月は鬼としてはまだ幼いはずだ。しかし、目の前の雨月を縛り付ける面倒な呪 いを完成させている。すでにそれだけの力量を持っている事に驚きを隠せない。
「無月の息子だとしても凄いな。名前に月を持つだけあるね」
「ええ。坊っちゃんの力は侮れまへん」
「それにしても、実力は置いといて何でその子がこんなに古い呪 いを知ってるんだい?これ自体はさっき話した通りの理由で残っていない。仮に残っていたとしてもよほど偏屈な事しか書いていない本くらいでしか確認できないはずだけど…」
丞庵の何気ない問いに雨月の端正な顔が歪んだ。口元から覗いた牙がキシリと音を立てた。
「…簡単に言えば、坊っちゃんを汚した上に…これを教え込んだ憎い奴がおるんですわ」
雨月の様子からなんとなくの状況を察した丞庵は気まずげに視線をさ迷わせる。詳しい内容を伝えてこなかった無月を内心恨むしかない。様々な意味でひどく面倒な事かもしれない話と察したが、怒りを隠しもしない雨月を宥める術 など丞庵は持ち合わせていなかった。
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