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第3話 失われた恋
高校に入学した時、俺は既に自分の性的対象が同性だということを完全に理解していた。中学の時に二十代前半の若い体育教師に淡い想いを抱いたことをきっかけに、色々と同性愛についてネットで調べて、自分がそうなのだということを受け入れたからだ。しかし、自分がどういう性なのかまだよく分かっていなかったから、中性的に見えるように髪を肩くらいまで伸ばしていた。
商業高校で元々女子の割合が多いこともあったが、恐らく醸し出される何かがあったのだろう。男子は俺にいっこうに寄り付かず、俺の性に理解のある数人の女子とつるんでいた。カムアウトしているから余計な気を遣わずに済むし、一緒に居て楽だった。
二年に上がる頃には、俺が言ったわけでも友人がアウティングしたわけでもなかったが、何となく「そうっぽい」という噂が学校中に広まっていた。両親に伝わらなければ問題はないから、特に気にすることはなかったが。事実、そうなんだし。
高校二年の春を迎え、五月に開催される学園祭の準備が始まった。俺は一年帰宅部だったのだが、友人の洋子が作った裁縫部に入った。部員は仲の良い友人三人と後輩一人、そして俺の五人だけ。普段は家庭科室を部室として使い、ただおしゃべりしながら好きな縫い物や編み物をするだけの気楽な部活動だ。
裁縫部の学園祭の出し物は、雑貨屋だった。みんなで服や小物を作って売ることになったのだが、洋子が面白がってコスプレをしようと言い出した。学園祭のノリというやつだろう。足が長く切れ長の目で、黒髪のロングだった洋子はどう考えてもぴったりのチャイナ服を俺が推薦し着ることになり、他はメイド服を選んだ。そして俺に振られたのは、この学校の女子の制服を着ることだった。
乗り気じゃない俺だったが、洋子にごり押しした手前引き下がれず、とりあえず試しに着てみようということになり、洋子がジャージに着替えて、脱いだ制服を俺に渡した。
「大丈夫、似合うから! 着替えてきて!」
そんな訳ねえだろと悪態をつきつつ、仕方なく誰もいない男子トイレを狙って制服に着替え、急ぎ足で部室に向かった。
放課後の文化部以外誰もいない時間帯で良かったと胸を撫で下ろし、部室の前の廊下に差し掛かった時だった。向こうから大きな声で騒ぎながら歩いてくる、この高校の問題児が全員集合したような集団を見つけて、思わず溜め息が出た。
その中心に居るのは、森繁茂雄 。気に入らないというだけで喧嘩を吹っ掛けて何人も病人送りにしてきた地域で知らない学生はいない不良だった。その素行の悪さで敬遠されているかと思いきや、モデル並みの長身で顔が整っているため、女にはやたらとモテた。見掛ける度に違う女を連れているので女癖の悪さも目立ったが。
面倒臭いが擦れ違わなければ、どうやっても家庭科室兼部室には行けない。肩を落としながら集団の方へ向かって歩き出す。
「ホモが女子の制服着てんぞ!」
「なんだあれ! キモっ」
俺の姿を見付けて指を差しながら仰け反りながら笑う姿と声に、内心苛立っていたが、まあ似合わない女装をしていれば仕方ないと聞き流した。
「そうまでしてチンポ突っ込まれたいのかよ!」
集団の一人がそんなことを言っているのが、つい耳に入ってしまう。金髪のロン毛で、阿呆なのが顔から丸分かりという感じの男だったのだが、趣味じゃないのも良くなかったのだ。
「はいはい、あんたの粗チンなんかこっちから願い下げですよ」
横を通り過ぎながら、つい言葉に出てしまった。元々それほど気の長い質じゃないから、からかわれると大体誰にでもこういう返しをしていた。
「はは、お前粗チンだってよ」
記憶が正しければ、こう言って笑ったのは森繁茂雄。グループのボスが笑ったものだから、他の奴等も噴き出す。
「んだとコラァッ!」
本当に粗チンだったのかどうか知らないが、恥をかかされた男は俺の着ていたブラウスの胸ぐらを掴むと、全力で左頬に拳を振るった。足元に転がる俺の学生服、痛みと同時にブチブチと何か千切れる音。床に叩きつけられた時に、ブラウスのボタンが二個飛ぶのが見えた。
「……謝れよ」
「あァッ?」
気は長くない。しかし、本気で怒るほどのことは、そうはない。でも、この時は違った。こめかみ辺りの血管が切れる勢いだった。
「ボタン千切れただろ! 洋子に謝れっつってんだよ粗チン野郎ッ!」
頬の痛みも、口の中が切れて血の味がすることも、またぶん殴られるとかいうのも、どうでも良かった。男を睨み付けながら立ち上がろうとしたところで、腹を蹴り上げられ床を転がる。異変に気づいた洋子達が部室から飛び出してきているのがわかった。
ブッ殺してやると思って拳を握り男を睨み付けた瞬間だった。森繁茂雄が、男の後頭部を掴んでそのまま床に叩きつけたのだ。
「お前が悪いよ。こんなんじゃ着て帰れないじゃん」
そう言って前歯が欠けた男をジャージ姿の洋子の方に引っ張っていって、彼女の目の前でもう一度床に顔面を叩きつけた。
「洋子ちゃんにごめんなさいは? 言えねえんならもっかいやるよ?」
俺に聞こえる声ではなかったが、きっと謝ったのだろう。洋子に「ごめんね」と一言言った後男の髪を掴んで引き摺り、顔面蒼白の数人とまたかといった様子の数人の仲間に向かって放った。
「悪いな、前歯欠けたのは謝るわ。でも、お前が悪いんだぞ」
「保健室連れてって怪我の治療してもらってきて」と数人の仲間に指示しする。項垂れたままの男は両肩を抱えられて去っていった。
さっきまでの騒動などまるでなかったかのようにしんと静まり返った廊下で、森繁茂雄が俺の方を振り返り、ゆっくりと歩いてくる。その時の俺は、目の前で起こった衝撃的な出来事に頭が真っ白になっていた。
森繁茂雄が俺の目の前に片膝をついて、微笑みながら手を差し出す。
「お前、面白いね。名前何て言うの」
「……香澄 、慧 ……」
多分この時既に、俺は森繁茂雄に心を鷲掴みにされていたのだろう。名前を言うだけで、手を握るだけで、震えたのは初めてだったから。
引っ張り上げられ、立ち上がると腹部に鈍い痛みが走り前屈みになる。
「大丈夫か? 弱いのに無茶すっから」
とそっと俺の肩を支えてくれる。ブラウス越しに伝わる手の温もりにどきりとして「だ、大丈夫」と身体を引いた。
視線を感じてちらと様子を見ると、森繁茂雄は俺を頭の上から足先まで、値踏みするように見ていた。
「似合ってる。その辺の女よりよっぽど可愛いよ、慧」
心の臓をぐさりと一突きに、とどめを刺された感じだった。冗談だと頭で分かっているのに、こういう時はまともに受け取ってしまうのだから、ご都合主義な思考回路には困りものだ。
「そんなこと言って惚れられても知らねえぞ」
後ろから仲間の誰かが茶化す。もう、惚れてるから、残念だが手遅れだ。
「ははっ、別に良いよ。好意向けられんの嬉しいし」
「来るもの拒まず過ぎんだよ、シゲは!」
呆れた仲間の声に笑いながら、床に転がっていたボタンを二つ取ってから目の前の教室の看板を見て目を丸くする。そして俺の腕を掴むと家庭科教室にずんずんと入っていった。
「シャツ脱いで」
「えっ」
「ボタンをさ、付けたいから」
一瞬いやらしい想像をしてしまった俺は、顔が一気に熱くなって、ブラウスを慌てて脱いだ。手渡すと、俺の顔を見て森繁茂雄が笑う。
「女装、学園祭でするの? 何の出し物?」
裁縫部の使っている道具箱を渡すと、白い糸と針を取り出した。一回で糸を通し、慣れた手つきでボタンを縫い付け始める。
「雑貨屋……服とかアクセサリーとか作って、売る」
「へえ、器用なんだな」
「し、シゲちゃんもね」
こんな呼び方をしたら怒るかなと思ったけれど、シゲは怒らなかったし寧ろ機嫌良さげににこりと微笑んだ。笑うと幼くなるのが、何とも言えず、いとおしい。
ボタンを付け終えると、いつの間にか教室に入ってきていた洋子を手招きしてブラウスを渡す。
「ごめん、これで着れっかな」
洋子が俯きかげんにこくりと頷いた。ああ、洋子も森繁茂雄の魅力に取り憑かれてしまった。
教室を出ていく時、シゲは何か思い出したように振り返って俺の方を見ると、
「買いに行くよ。今度は迷惑掛けねえから」
と「じゃあな」と手を挙げて仲間と一緒に去っていった。しばらくの間、皆開け放たれたドアを呆然と見つめて固まっていた。
学園祭までの間に、洋子達はスカートやワンピースなど服を中心に作っているようだったので、俺はアクセサリーやシュシュなどの小物と編み物が得意だったのもあってあみぐるみのくまとうさぎを一つずつ作った。
前日の放課後に家庭科室の机を移動して作ったものを陳列すると、本当に小さな雑貨屋みたいになったのを覚えている。シゲが来ると言っていたことを思い出し、やけに緊張したことも。
しかし、当日。シゲが来ることはなかった。その後知ったことだが、学園祭前日他校と揉め事を起こしていたようだ。想像でしかないが、学園祭に自分が行けば迷惑を掛けると思ったのではないだろうか。気紛れで来なかったのだ、とは、その後のシゲとの関わりの中で、どうしても思えないから。
来なかったことにがっかりはしたが、みんなの服や俺の作ったアクセサリー類は完売したので、学園祭の後、打ち上げに焼肉を食べてカラオケで盛り上がった。しかし、あみぐるみは二千円にしたせいか売れず、くまもうさぎも手元に残ったけれど。
「ごめんな、学園祭行けなくて」
数日後の放課後、部室の戸をノックされ、現れたのはシゲとその仲間数人だ。シゲに前歯を半分折られた男もいて、目が合うと顔を背けられた。まあ、そうだろうな。
「いや、別にいいけど」
そう言うと、シゲは「はは」と声を出して笑って俺の髪をくしゃくしゃに撫で回した。不貞腐れた顔でもしていたのだろうか、自分では分からない。
「メアド交換してよ。慧とは気が合いそうだし、たまに遊びたいし」
ブレザーのポケットから携帯電話を取り出し、「赤外線使える?」と聞いてくる。意味の分からない展開に動転して、いつもズボンの後ろに入れていることを忘れてジャケットの中も探してしまった。
「じゃ、遊べる時連絡して。俺もするわ」
と、何がなんだか分からないうちに電話番号とメアドを交換して、集団を引き連れて嵐のように去っていった。
その日の夜など、興奮し過ぎて寝れず、それどころか、シゲとどうこうする妄想に取り憑かれて、空が白んでくるまで自慰に勤しんだ。携帯電話のアドレス帳に浮かぶ四文字の漢字だけをネタにそこまでできるって我ながら凄いなと、高台にある自宅の二階から朝もやを眺めた。
しかし、その後シゲと遊ぶことは数えきれないほどあったし、バイクの後ろに乗っけてもらってドライブしたことさえあった。
けれども、普通に友達としてシゲのグループに交ざって他愛ない会話をするくらいだったし――俺のことをキモいと思っている奴は勿論いただろうが、そういうことはシゲの手前誰も言わなかった――、まるで何とも思っていないように、俺の恋心など全くそんなものは無いのだというくらい表には出さなかった。
きっと、シゲと仲間との中で、たまに「この間の子とはもうヤったの?」とかいう下世話な話が飛び出してきて、「ヤったけどもう飽きた」とか本人の口からクズ発言を連発されるうちに、もういいやと諦めてしまったからだろう。
シゲはストレートだ。基本求められれば、余程のブスでない限りは一回くらいは寝ていた。
一回や二回ですぐに違う女に乗り換えたけど、相手の女から恨まれることは殆どない。相手も解っていて付き合ったのだから。
俺は、余程のブスどころか、その範疇に無い、遠い遠いところにカテゴライズされた人間だった。だから始めから、そんな望みは抱かない方が良かったのだ。
けれど、諦めたはずのその望みは、高校三年の冬を迎え、目前に迫った旅立ちの時期にひっそりと芽吹いて春に花開こうとしていた。
県外の美容専門学校に学校推薦で早々と入学を決め、一月以降は卒業式の予行くらいしか学校に行く予定が無かった。シゲはというと、始めから進学するつもりもまともに就職するつもりもないようで、単位ギリギリで卒業できることが分かってからは一層女遊びも喧嘩も激しくなっていった。
俺を含む複数で遊んでいる時に喧嘩に捲き込まれて、鉄バットで殴られそうになったことが一番危ない事件だろうか。しかしそういうことに遭うと分かっていても、卒業まで残る日数を考えたら、シゲと過ごせるこの一分一秒が大切だった。
そう、その頃。俺は、卒業と共にこの繋がりが消えると確信していたのだ。同じ地域に住んでいて、同じ学校で、同じ学年。その全ての繋がりが消えた時、俺とシゲのこの友人関係は、縁は切れる。そう、確信していた。
だからきっと、あの卒業式の前日。シゲに初めて自分から「卒業式の予行の後、ドライブに連れていってくれ」と誘った。朝からデートだと言わんばかりに入念に身体を洗って、学校へ出掛けた。勿論シゲが卒業式に出席しないのは分かっていたので、予行練習が終わった後、急いで待ち合わせ場所に向かった。
「シゲちゃん!」
まだ肌寒い中、バイクに腰かけてあんまんを食べているシゲを見つけて駆け寄る。二人でとは言わなかったから、誰か一緒かと思ったけれど、珍しく一人だった。
「どこ行きたい?」
「……どこかな」
考えていなかった。というか、本当に、何処だって良かったのだ。卒業式の前日に、シゲを独り占めできるのなら、なんだって。
バイクの後ろに乗る俺に笑いながら、「じゃあ俺の行きたいところな」とエンジンを掛けた。市街地から郊外に向けて走らせ始める。
「卒業式明日だからな、センチメンタルになってるんだろ?」
シゲの肩を掴み、その後ろ頭を見詰め押し黙る。頭は良くないのに妙に聡い時があって、今日一人で来たのも、偶然そうだったわけではないだろう。
「慧は美容師になるんだっけ。器用だもんな」
「……シゲちゃんも手先器用じゃん。俺と一緒に、美容師目指そうよ」
「ははっ」
秋の、進路を決める時期に、それが言えていたら違っただろうか。いや、シゲは他人にどうこう言われて意見を変えるタイプじゃない。今と同じように笑い飛ばされていただろう。
俺の家がある高台の方にバイクを走らせる。街が一望できて一番高いところまで行けば海が見えて眺望が良いので、ライダーたちは好んでこの道を走った。
「そういえば、言ってなかったと思うけど、前学校行ったとき洋子ちゃんに告られたぜ」
洋子が、あの一件以来、シゲに恋心を抱いているのは知っていた。洋子はきつい顔つきではあるが美人だし、スタイルも良く、内面は凄く女性的で優しい。
だから、彼女がシゲに恋心を打ち明けたら、必ずシゲは受け入れる。それが嫌で、俺は卑怯な人間だから、シゲと遊んだ話をあえてしないようにしていた。
今、その嫌らしい自分が炙り出されたようで、目の前が真っ暗になる。
今日も変わらず、洋子と話し笑い合った。嫌な妄想が溢れそうになった時、目の前の信号が赤になり、バイクが止まる。
「断ったけど」
「えっ……?」
来るもの拒まず去るもの追わず。シゲの恋愛観は常にそうだと思っていたが、違うこともあるのか。
生まれようとしていた嫉妬の感情は、頭から冷水を浴びせられて一気に消え失せる。
「これでも相手は選んでるっつの。洋子ちゃんみたいな良い子は、俺みたいなのが相手したら傷つくだろ」
「つまり……尻の軽い女しか相手にしないってこと?」
「ははっ、そういうこと」
恨まれないはずだ。同じように男をとっかえひっかえしてるような女だけを相手にしていれば、始めから身体だけの関係でお互い後腐れがなく終われるというもの。
誰でも相手をしているのかと思っていたが、同類が集まってきていたのだ。一回だけでも経験できればいいや、と。
俺が女だったら、と望んだことはない。男であることが嫌だったことはない。
でも、もし俺が女だったら、酷いセックスだろうがなんだろうが、シゲと繋がりたかった。それで簡単に捨てられて、傷つきたかった。
俺には、始めから、そんな選択肢すら用意されていない。
「じゃあ……俺は?」
青信号になって、一瞬遅れて走り出す。俺が変なことを言ったから、さすがに動揺したのだろう。
いつもはそんなのは冗談にして笑い飛ばすシゲが黙っていた。沈黙に押し潰されて言葉が出なくなる前に、俺は恋心に釘を打って表に出ないようにする。
「それだけ遊んでたら、男と経験したいとか、ちょっと思わない?」
口から出た言葉が純粋な恋心に泥を塗りつけて、ただ好きだという想いがそこからどす黒く変色していくようだった。
「興味はあるな」
ぽんと返ってきた軽い答え。スカイダイビングをやってみないかと誘われた時も同じように言いそうだ。
「でも、お前本当にホモなんだな。皆が勝手に言ってんのかと思ったけど」
酷い男だ。俺に興味が湧いてアドレス交換しようなんて声を掛けたのは、同性から好意をもたれるのが面白かったからじゃないのか。
不良でもない俺を遊びに誘っていたのは、自分に恋心を抱いているやつが一喜一憂するのを見るのが楽しかったからじゃないのか。
そんな酷い男を、こんなにも好きだと想うなんて、俺はどれほど愚かしいのだろう。
「まあ、そうだな。慧ならいいかな」
愚かしい俺は、どう考えても魔が差しているとしか思えないその言葉に喜んだ。ずっと羨ましいと思っていたシゲの過去の女達の中に仲間入りできるのだ。
その中で俺は唯一の男。初めての男だ。それで、充分だと思った。
「……うち、来てよ。親十時くらいまで帰らないし。ここから結構近いんだ」
声は震えていないだろうか。ちゃんと尻軽のように言えただろうか。と、バイクが急に路肩に止まる。跨がったまま振り返ったシゲの口から、拒絶の言葉が出ないことを祈った。
「どっち?」
感情の篭っていない平坦な声は、俺の尻軽演技に誂え向きの軽さだった。
お陰で俺は要所要所でナビのように家への道順を淡々と呟くだけで済み、気付くと一軒家の前にバイクが停まっていた。
「立派な家だな」
「まあ、両親とも仕事人間だから、お金はあるよ」
家の鍵を開けて、先に中に入り真っ直ぐに二階の自室へ向かった。
「お邪魔しまーす」と誰も居ないのにシゲが後ろから付いてくる。家に人を上げるのは久方ぶりだ。
緊張感が、家に足を踏み入れた瞬間から一気に襲いかかり、勝手に早足になって階段をかけ上がりそうになる。
「適当に、その辺に座って」
部屋の中に入ると心臓の音が一段と高まり、喉がからからに乾いて生唾を飲む。机の横に鞄を掛けると、その隣にあるベッドの端ににシゲが座った。
「早く来いよ」
「いや、俺シャワー浴びてくるから」
朝かなり丁寧にいつも洗わないところまで身体を磨きあげたとはいえ、さすがに数時間経っているし汚い。
焦ってブレザーをハンガーに掛け部屋を出ようとした。が、ノブを掴んだ瞬間にその腕を掴まれる。
「いいよ、気にしないし」
そう言って笑うと、俺をベッドの方まで引っ張っていってベッドの真ん中に座らせた。
自分と、シゲが俺の部屋で二人きりで、それもベッドの上っていうのは、メアド交換した時の夜の妄想よりも、あまりにも刺激的な内容だった。次の瞬間には、心臓が破裂するかもしれない。
「とりあえず、キスしてみるか」
と、笑みを湛えて俺の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。俺は全身が石になったかのように硬直して動かず、唇が触れる寸前で、ようやく目を瞑った。
柔い感触と僅かな温もりを感じたが、すぐに離れて目の前のシゲが笑う。頬に添えられた手が顎に、そして親指が俺の唇に触れた。口が小さく開く。
「そう、口開けてくれねえと舌の入る隙ないじゃん」
顔に火がついたかのように一気に熱くなった。そしてまた近づいてきた顔に口を閉じそうになった。が、今度は唇が重なった瞬間に生温い舌が割って入ってきた。
口の中を俺の舌を絡めながらシゲの舌が弄ぶように撫で回す。息ができず、朦朧として、頭がどうにかなりそうだった。
「っ……ふ、ぁ……」
体内の血液が沸騰したかのように全身が火照り始め、救いを求めるようにシゲの腕を掴む。
「今お前すごいえろい顔してるぜ」
自分でも阿呆面をしている自覚はある。でも、どうしようもない。今俺の世界にはシゲしかいない、目に入らない。夢中だった。
しかしシゲの手が俺のシャツのボタンに伸ばされ、つい怯んで身を引いてしまった。シゲが胸のない俺を見て嫌になる気がしたから。
胸の小さな女でも、男の胸板とは雲泥の差がある。男だということで引かれる前に尻だけ出して、全部済ましてしまうのがいい。
「シゲちゃんそういうのいいよ、本番、しよう」
「……へえ、キスくらいで震えてるくせに良く言えるな」
口でいくら誤魔化しても心が、身体がついてこない。寒くもないのに小刻みに震えていた。
と、シゲが笑って俺の額に口づけ、肩を優しく抱き寄せる。
「大丈夫、悪いようにはしねえから」
そう甘い声で耳打ちされて総毛立ち、芯まで溶かされてしまったかのようだった。飛び出しそうなほど高鳴る心臓の音は、きっと今聞かれてしまっただろう。
布越しにシゲの温もりを感じながら、あまりの幸福感と恥ずかしさに、どうか今殺してくれ、と神に祈った。
その願いも空しく、シゲが俺のシャツのボタンを片手で一つずつ器用に外していく。手先の器用な男は、こういう時も器用なのだと感心しているうちに、されるがままするりとシャツを脱がされていた。
「最初見た時も思ったけど、慧って白いよな」
伸ばされた手が喉から胸をゆっくりと撫でる。びくと身体が小さく震えたのを見て、シゲが愉快そうに笑んだ。
「あっ……」
指の腹で乳頭を撫でられて、思わず声が出る。
その反応が面白かったのか、それともシゲがストレートだからなのか、両胸の突起を捏ねたり摘まんだり、愛撫し始めた。
「シゲちゃん、っ……もうやだ……」
拒絶の言葉も、欲しがるように硬くなっている突起を愛撫される度にびくびくと身体を震わせて反応しているのでは、全く説得力が無い。
それに本当に嫌なら抵抗しているだろうが、シゲが片方の乳頭を舌先で弄り始めても、その甘い刺激に打ち震えるだけだった。
しかし、シゲが俺のベルトに手を掛けズボンのホックを外したところで正気に戻った。今自分の下半身がどうなっているのかをそのときようやく認識したから。
が、時既に遅し、腰を引こうとした瞬間チャックを下げられ下着が露になる。完全に勃ち上がったその先端から溢れた液体で、ぐっしょりと濡れていた。
「すごいな、キスと胸だけで」
あからさまな雄の主張にも、シゲは全く引かなかった。それどころか今度は自分の服を脱ぎ始める。
脱ぎ捨てられるシャツとズボンを目で追い、視線を戻した瞬間に入ってきた映像に脳の処理が追い付かない。
鍛えられた胸板も、腕も、腹筋も、太股も。そしてその脚の付け根にあるもののことを考えるだけでどうにかなりそうだった。
「ははっ、俺も結構興奮してんな」
嘘だと思った。男相手に、胸もなく、抱き締めても柔らかくもなく、自分と同じものがついている、男なんかに、と。
そう思って確かめるように目線を落とした先にあったのは、下着に収まりきれないほど張り詰めた肉棒だった。
「膝立ちして」
混乱したまま訳も分からず従ったものの、普通足を開かされたり尻を突き出したりするものでは、と同じように膝立ちで向き合うシゲに問うような視線を向ける。
「ほら、自分の出して」
「え……シゲちゃん、俺の……嫌じゃないなら、尻使って――」
「ばぁか。痛いだろ、そんなの」
と、シゲは自分のボクサーパンツから想像以上に太く立派な竿を取り出した。「早く」とシゲが俺のパンツを下げながら笑う。
糸を引きながら俺の二回りくらい小さい茎が露わになって、シゲの視線の先を確認して顔が一気に熱くなった。
「こんなん急に入るわけねえじゃん。合わせて扱いたら気持ちいいだけで終われるだろ」
「い、いいよ、痛くても! 俺、平気だからっ」
食い下がる俺に、シゲは今まで見たこともないくらい柔らかな表情で俺を見詰め、ふっと蝋燭の火を消すように息を吐く。
「そう言われても無理だって。俺がお前に痛い思いさせたくねえんだわ」
痛かった。苦しかった。嫌だった。やめて欲しかった――。もし、そんな負の感情で埋め尽くされた行為だったら、何年も思い続けずに済んだのだろう。シゲという男を嫌いになれたかもしれないのに。
いや、俺はきっとこの時嫌いになりたかった。身体だけ繋いで痛い思いをして、トラウマでもなんでも植え付けられて最低最悪の思い出にしたかった。……したかったのに。
どうしてこんな時に、最初で最後のこの瞬間に、優しくするんだろう。
シゲが自分の竿を俺の小振りな雄に寄せる。触れるだけで、びくっと身体が反応した。俺が逃げ出しそうだったのか、シゲが片手で俺の腰を掴む。
「触って」
耳元で聴こえた囁きに、恐る恐るシゲの太い竿に触れた。その硬さと熱さに、思わず息を飲む。
「あっ……!」
シゲに俺の茎の先端から下へ掌で撫でるように触られて声が漏れた。少し触られるだけで今にも達してしまいそうだ。
「慧、もう限界近いだろ。我慢しなくていいぜ」
裏筋が擦れるように腰を動かしながら、俺の竿を上下に扱き始める。
本当に限界がすぐそこまできているなか、俺はシゲに気持ち良くなってもらいたくて必死にシゲの竿を愛撫した。掌に纏わりつく先走りの透明な液体に、高揚しながら。
「シゲ、ちゃんっ……あっ、もぅ……っ」
「いいよ慧……俺も出すから」
腰を掴む指に力が篭るのが分かった。シゲの肉棒が脈打つのも。
「っあ、ぁ……っ!」
びくんと大きく腰が震え、快感が突き抜けていくと同時に自分の茎から白濁が放たれた。目の前に星がちらつくなか、ぼうっと見上げるとシゲが短く息を切る。
そして身震いと共に長く息を吐き出すのを見ていた。
恍惚としてその表情を見詰めていると、シゲが俺の肩口に頭を凭れかける。
「良かったろ」
ぼそりと呟いたその声に、思わず笑いながら、俺は片手をシゲの背に回して頷いた。もう片方の手はどちらのそれとも分からないくらい混ざり合った白濁でべとべとになっていた。
その後のことはあまり覚えていない。すごく眠くなって、ティッシュで手を拭ってそのままベッドに横になった、のだろう。気が付くと眠っていたのだから。
目が覚めると、下着姿のまま自分の部屋で、ベッドの上に寝そべっていた。風を感じてベッドの側にある窓の方を向くと、下着姿のシゲが窓を開けて外をぼんやり眺めていた。
揺れる白いレースのカーテンと、シゲの端正な横顔、その向こうに広がる茜色の空。
この絵画のような美しい光景に、胸が詰まり涙で世界が滲んで見える。
ああ、これで終わりなのだと、そう告げられているようだったから。
俺の視線に気付いたのか、シゲがゆっくりと振り返る。瞬きをすると、涙が睫毛についたのか視界が開けた。
横たわる俺にシゲは微笑み掛ける。そして、こう言った。
「天使みたいだな」
何でそう言ったのか、そう思ったのか分からないけれど。シゲの声があまりに優しかったから、訳も分からず涙が零れた。
「ははっ、泣くなよ」
「泣いてない……!」
身体を起こし涙を拭うと、シゲが「嘘じゃん」と茶化すので、むきになって足元に転がっていたシゲの服を投げつけた。
が、コントロールが悪くベッドの横の机の方へ飛んでいって、巻き込まれた何かが一緒に転げ落ちる。くまのあみぐるみだ。
「ぬいぐるみとか持ってるんだな」
「去年の学園祭の時に作ったやつ。売れ残って仕方なく持って帰ったけど、愛着湧いて結局今年も売らなかったな」
ズボンの下敷きになったくまのあみぐるみを手に取るシゲを見た瞬間、思い付いたように口に出していた。
「それ、やるよ」
欲しいわけがないのに何故そんなことを言ったのかわからない。きっと、今日という日が終わったらもう会うことはないと思っていたから、彼の中に一つでも残る何かを望んだのだろう。
「じゃあもらっとく」
そう軽く返すと、ズボンを穿きポケットに頭から無理矢理くまを突っ込んだ。尻がはみ出した状態だったが、気にせず長袖のシャツを着る。
「そろそろ行くわ」
バイクの鍵をポケットから取り出しその言葉に、ずきんと胸が痛んだ。俺は平静を装い、「うん、そうだね」と言って適当に引き出しに入っていた服を着て、下までシゲを送る。
「じゃあな」
玄関先でそう言ったシゲの最後の顔を俺は見れないまま、「じゃあ」とドアを閉めた。顔を見た瞬間に泣きそうだったから。
ドアの向こうの遠退いていくバイクのエンジン音を聞きながら、俺はドアに寄り掛かって、声を殺して泣いた。
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