11 / 45
4:カノジョの話[1]
前条さんに雇われて、丁度一ヶ月が経った。
長いんだか短いんだか分からない期間だけど、少なくともひと月前の僕に「前条さんの事務所で働いて一ヶ月経ったよ」と言ったら頭でも打ったのか?みたいな顔はすると思う。
そりゃそうだ。心臓も体温もなく生きている人間などという怪しさ極まりない存在な上に、超常現象カウンセラーなんて肩書きを持つ男の元でひと月も働くなんてどう考えてもまともな神経じゃないだろう。例えそれが初恋のお姉さんに似た美貌の男だとしても。
……でも、けどさ、仕方無くないか?
僕はどうしようもなく美人に弱いし、それでいて大抵美人は僕なんか相手にもしないから耐性をつけるのも難しいし、そんな中で至近距離でからかわれちゃったりした日には、もう、正気どころか狂気すら吹き飛ぶ。残るのは無だ。無が残る。残った所で無は無なので、僕に残る術は無い。
為す術もない程に好みだ。土砂降りの雨の日に「今日キムチ鍋食べたいなあ、キムチ買ってきてよ」とお願いされて、断りきれないくらいには顔が好みだ。
小石でも当たってるんじゃないかって勢いで降り注ぐ雨の中、レインポンチョをまとって自転車で買い出しに言っちゃうくらいには好みなんだよ。前髪半分だけ耳にかけてるのもなんかエロくていいな、とか思っちゃうくらいには。馬鹿なのか僕は。馬鹿だ。土砂降りの雨でも頭が冷えないレベルには馬鹿だった。
いや、違うんだ。そりゃ確かに僕は馬鹿だけど、でもしょうがなかったんだよ。「帰ってきたら風呂入っていいぜ、沸かしておくから。そんでまた髪乾かしてやるよ」などとご機嫌な笑みと共に言われ、「そうだ、いってらっしゃいのキスとかする?」とまで言われてしまったら、僕には「結構です!」と叫んで雨に打たれながらスーパーに向かうことしかできなかった。
おかえりのキスとかされちゃったらどうしよう、と思いつつキムチを片手に事務所に戻ることしかできなかった。
事務所に戻り、二度ほどシュミレーションをし、自転車から降り、そして、片側スタンドを立てた瞬間――――背後から声がかかった。
「あの、すみません、道をお聞きしたいのですが……」
なんともか細い、降りしきる雨に掻き消されてしまいそうな声だった。
今にも泣き出してしまいそうな声音に、現実と裏腹に真夏日の晴天みたいだった心象風景が落ち着きを取り戻す。
真夏日の晴天でサンバしていたような心情が、声に引かれて振り返った途端、土砂降りの雨に掻き消された。
そこには、両腕で布の包みを抱えた女性が立っていた。
輪ゴムで雑にまとめられた髪に、着古してほつれたカーディガンと草臥れたスカート。左右の違うサンダル。荒れた手に支えられた布の包み。
ひと目見て『訳あり』の人だと分かった。人。多分、幽霊とかの類ではないはずだ。
この天気の中、両腕で守るようにして包みを抱える女性は確かに足があったし、ずぶ濡れだった。やつれた顔に濡れた髪が張り付いている。
「あ、あの、だ、大丈夫ですか……」
どう見たって大丈夫ではないに決まっているのに、口から出たのはそんな言葉だった。
僕の言葉が届いているのかいないのか、女性は申し訳無さそうな笑みを浮かべながら力のない声で言った。
「確かに此処だと聞いてきたのですが、どうやっても辿り着けず……前条異能相談事務所というのはこの辺りにあるのでしょうか?」
「えっと、いや、この辺りというか……ここの四階です、けど」
まさに目の前ですが、と十階建てのビルを見上げた僕に女性は不思議そうに一度瞬き、困惑した様子で腕に抱えた包みを抱きしめた。
ビルを見上げた女性の、ひび割れた唇が僅かな怯えを持って震える。
戸惑いを滲ませ開閉した色の薄い唇に、決意を表すかのように歯先が食い込んだ。
「……ありがとうございます」
頭を下げた女性はサイズの合わないサンダルを引きずりながら階段を登り始める。晒された足首の細さはいっそ病的と言ってもいいほどで、自転車の鍵を抜いた僕は慌てて彼女の後を追った。
事情は分からないが、彼女は『お客さん』だ。それも、土砂降りの雨の中で傘を差す余裕もないほどの事情を抱えている。
「あの! 僕、その事務所で働いているので、よければ、えーと、荷物お持ちしますよ!」
「……いえ、大丈夫です」
「大丈夫そうには見えないんですが……遠慮しないでください」
青白く、やつれた顔に笑みを浮かべる女性の目はどこか虚ろで、大事そうに抱えられた何かの包みも意思とは関係なく取り落としてしまいそうだった。
脱いだポンチョを雑に丸めて袋に突っ込む。僕の持ち物と言えば半額のキムチと半玉の白菜くらいのものだ。貧弱文化部野郎と言っても、これに女性が抱える荷物を加えるくらいは出来る。
隣に立ち、共に階段を上がりながら何度か荷物を受け取ると申し出る。二階の半ばまでは固辞していた女性も、三階に上がる頃には息切れと共に涙を浮かべながら、僕の言葉に小さく頷いた。
「すみません、此処エレベーターとか無くて……どうせ他の階に何も入っていないんだから一階に事務所を構えてくれればいいんですけどね」
苦笑交じりに世間話を口にし荷物を受け取った僕は、『それ』を覆う布の隙間から覗いた目と視線が合った瞬間、即座に硬直した。
赤ん坊だ。
赤黒い赤ん坊だった。
白く濁った瞳が僕を見上げている。
死んだ赤ん坊だ——どう見ても、どう考えても、これが生きているなどとは思えない。
悲鳴こそ出なかったが恐怖に呼吸が止まった。
「……落とさないで下さい、その子が、怪我をしてしまいますから、おねがいします、おねがいします……」
それでも、隣で蹲る女性が泣きながら頼んでくるので、僕は滲んだ汗を振り払うように強く頷いた。
前条さんの事務所を訪ねてくるような人だ。相応の事情があって当然だ。理解は出来る。だが、……だが、受け止めきれるかはまた別の話だ。足が震える。
「大丈夫よ……もう大丈夫……きっと良くなるからね……」
泣き声混じりの声が僕の腕の中の包みにかけられる。今にも崩れ落ちてしまいそうな様子で必死に階段を上がる女性に付き添い、事務所の前までたどり着いた僕は、ぎこちない動作で包みを抱えたまま扉を足でノックした。
扉が開かれれるのと同時に、僕の頭はふわふわのバスタオルで包まれた。防ぎきれなかった雨に濡れた髪を柔らかいタオルが拭う。雨とは異なる理由で冷えていた身体からほっと力が抜けるのを感じた。
「あ、あの前条さん、僕よりもこの人に、」
「おかえり、けーちゃん。卓上コンロ出したから土鍋で――ん? そっちのは何、帰りがけに引っ掛けてきたの? 全く美人と見れば人妻でもおかまいなしか」
「何って、お、お客さんです! 事務所の前で辿り着けなくて困ってたみたいで……一階にも分かりやすく看板とか出したほうがいいんじゃないですか」
水滴まみれの眼鏡まで綺麗に拭いたのち、目ざとく女性に視線を向けて失礼なことを言い放った前条さんにスーパーの袋を押し付ける。
本音を言うなら包みの方を押し付けたかったのだが、怪我をさせたくないと泣きながら頼まれた存在を許可もなく前条さんに渡すのはどうかしているとしか思ったので黙って抱え続けておいた。冷や汗が凄い。
胸を抑えて息を整える女性は、不安そうに僕と前条さんへと目を向けていた。前条さんを見て、僕を見て、再び前条さんを見た女性の眉が更に下がる。
とりあえずこのままじゃ風邪を引くだろうし、と中に案内しようとした僕に、前条さんは女性を見つめたまま軽く首を傾げた。
「辿り着けなかった? 失礼ですが、誰の紹介で此方に?」
片側だけ晒された瞳が、訝しむような視線を女性へと注ぐ。真正面から視線を受け止めた女性は狼狽えたように睫毛を震わせ、口元に手を当てて俯いた。
「紹介、という訳では……なんだったか……何かで、見たのかしら……? 覚えてないんですが、あの、此処は紹介制なんでしょうか……?」
「いえ、そういう訳では。ただ、『知人の紹介』なく私の事務所に来る方は珍しいので少し気になりまして……問題もなさそうですし、構いませんがね。紹介が無いとたどり着くのも大変だったでしょう。どうぞ、お入り下さい」
薄く微笑んだ前条さんが、柔らかい声で女性を招き入れる。遠慮がちに頭を下げた女性はふらつく足取りでソファまで向かい、半ば倒れ込むように腰を下ろした。
「あっ、今、タオルでも用意しま――ぐぇっ」
「けーちゃん、アレ案内した?」
後に続いて入ろうとした僕の襟首を掴んだ前条さんが、声量を落として問いかけてくる。
抱えていた包みを落としそうになったので急いで抱え直し、確かな存在感に息を呑んだ。あ、ああ、ああ……居る……腕の中に……ああ……泣きそう。
「え? え、ええ、まあ、お客さんだって言うんで……なんか不味かったですか?」
「いや? けーちゃんが持ち込んでくるなら大抵はどうにかしてやるけど、まあ、ああいうのはあんまり金になんないからな」
あっさりと言い切った前条さんはそれ以上聞くことはせず、僕の腕から包みを受け取ると代わりにスーパーの袋を押し付けながらソファへと向かった。
あまりにも自然な動作で気づくまでに数秒かかる。気づいた時にはお茶の用意を言いつけられたので、タオルを渡されたお客さんが戸惑いがちに礼を言う声を聞きながら黙ってキッチンに足を向けた。
「お名前を伺っても?」
「それは……あの、瀬口……です……」
「瀬口さんですね。それで、本日はどのようなご用件で?」
漏れ聞こえてくるやり取りを耳にしつつ、氷を入れた麦茶をお盆に乗せて二人の元まで向かう。ローテーブルの上にグラスを置くが、瀬口さんの視界には入っていないようだった。
焦げ茶色の瞳が、じっと、自身の腕に抱え直した包みを見つめている。少しだけ眉根を寄せた彼女の目には薄っすらと涙の膜が張っていた。
震える唇が言葉を発そうと幾度か開き、結局何の音も形にならずに閉じられる。そんなことを幾度か繰り返した瀬口さんは、タオルで丁寧に拭っていた包みの中身を、そっとローテーブルの上へと置いた。
「…………この子を助けてほしいんです」
この子、と呼ばれ示されたのは、白く濁った瞳で天井を見つめる、赤黒い赤ん坊だった。握りしめられた指は最早どす黒く、石か何かのように硬直している。
どう考えても生きていない。助けてほしいとはどういうことだろうか。瞬き一つしない赤ん坊に居た堪れなくなり目をそらした僕の耳に、ごく軽い調子の声が届く。
「助ける、というのは具体的にはどのような状態を指すのか教えていただいても? 内容次第ではご希望に添えないかもしれません」
「……あの、だから、つまり……この子を、そう、普通の、普通の子みたいに戻すってことを……」
「ああ、残念です。うち、反魂法は取り扱ってないんですよ」
「反、ええと……?」
「死者を現世に呼び戻す方法は取り扱っておりません。ついでに言えば弔いも専門外でして、やれないことはないですがどう考えても私より向いた方がいますからね。紹介状を書きますからそちらに――――」
「…………んでません」
「はい?」
耳馴染みだけは良い声であっさりと突っぱねた前条さんに、俯いていた瀬口さんは何事かを呟いた。
聞き取れなかったらしい前条さんが首を傾げる。いや、この場合、聞き取っていながら否定のために動作を示したという方が正しいのかもしれない。だって、僕にも聞き取れたのだから。
でも、まさか、そんな筈ないだろ?
思わず確認の為に見つめてしまった僕は、次の瞬間、感情を爆発させた瀬口さんの叫び声にびくりと肩を跳ねさせた。
「この子は死んでません! だって動くんですよ!! 動くってことは、死んでないってことじゃないですか!! 生きてるってことじゃないですか!! どうしてみんなそんな、この子がちょっと普通じゃない見た目だからってそんなこと言うんですか!! あの人も!! 自分の息子よ!? どうして、どうしてそんな――、ふざけないで、生きてるのよ!! 生きてなきゃダメなの! 見た!? あの女の顔!! 嬉しそうにほくそ笑んで、私が跡取りを産めなかったのがそんなに嬉しかったのか!! まともじゃない子を産んだのがそんなに、そんなに……!!」
「まあまあ、瀬口さん、お茶でも飲んで落ち着いて下さいよ」
軽薄な声で勧められた茶は、今しがた叩きつけられた瀬口さんの手で横倒しになっていた。
零れたお茶がカーペットを汚していく。
「お願いします、この子を治して下さい!! 生きてなきゃダメなんです、この子が死んでたら私、いる意味がないんです、ダメなんです、どうしよう、どうして、どうしてこんな、どうしてまともに産んであげられなかったの、ごめんね、ごめんなさい、ダメなママで……ごめんなさい……」
叫んだせいで息が乱れたのか、咳き込んだ瀬口さんは力なく項垂れ、啜り泣いた。テーブルの上の赤ん坊を抱きしめ、膝の擦り切れかけたスカートに顔を埋め、傷んだ髪を掻き毟り、子供のように声を上げて泣いた。
その叫びと、痛ましい様子から、瀬口さんが嫁ぎ先でどのような仕打ちを受けているのかは容易に想像がついた。どうしよう、どうすればいいのか即座に判断できない。なんと声をかけるのが最適なのかも、そもそも声をかけるべきか否かも分からない。
狼狽え、その場に立ち尽くすしか出来ずにいる情けない僕を置いて、前条さんは冷めた目を瀬口さんへと向けた。
「瀬口さん、貴方、その子が『まともでないと困る』から依頼に来たんですか?」
ざらついた何かが肌を撫でていく、そんな声だった。
同様の薄気味悪さを感じ取ったのか、瀬口さんが小さく息を飲む。
「…………どういう、意味、でしょうか」
「その子が『まともでない困る』から、夫や義母にとやかく言われるのが嫌で『まとも』にしようと此処に来たのかって聞いてるんですよ」
赤ん坊を抱き抱えた瀬口さんが、前条さんの言葉に顔を上げる。
口を開きかけ、呆然と黙り込み、能面のような顔へと表情を変えた瀬口さんは、再び強く赤ん坊を抱き、口にした。
「……いいえ」
掠れた声で、それでもはっきりと口にした瀬口さんが、腕の中の赤ん坊を優しく撫でる。
「違う、……違います。私が、この子が辛そうで、少しでも苦痛を和らげる方法があるなら、それを知りたいと思ったんです。あの人も……あんな人も、お義母さんも関係ありません。だって、この子、苦しんでるです。私には分かるんです。私にはどうにも出来ない理由で苦しんでて、だから、辛くて、……死んでたって愛してるんです。大事な息子だから、ただ、それだけで……」
視線はどこか虚ろだったが、声には細いながらも芯が通っていた。
ふうん、と興味があるのかないのか、分からない声を零した前条さんがソファから立ち上がる。靴音を響かせて段ボールの山に向かった前条さんは、ごちゃごちゃと詰められたガラクタの山から何かを取り出して戻ってきた。
30センチほどの桐の箱だ。紫色の組紐がかかっている。
一体何の箱なのだろうか。疑問を持って注がれる僕と瀬口さんの視線を無視して、前条さんは適当にその箱をテーブルの上に放った。
「瀬口さん、幾ら払えます?」
「え?」
「依頼料。うちは基本20万から受け付けているんですが、払えないですよねえ。依頼達成できないのに正規料金貰うのもフェアじゃないですし、兎に角幾らなら出せます?」
「ええと、……これだけ、なんですが……あの、でも、後でお支払いします、必ず」
ポケットから出てきた銅色だらけのビニール製の小銭袋に鼻を鳴らした前条さんは、今は結構、と告げて受け取りを拒否すると桐の箱を開いた。
白い繭が仕舞われていた。
手のひらくらいの大きさのものだ。どう考えても自然界に存在するようなサイズではないのだが、桐箱に糸を張るそれは蚕の繭のように見えた。
いつになく慎重な手付きで桐の箱から糸を引き剥がした前条さんが、繭から目を逸らさないまま口を開く。
「……残念ですが、息子さんは死んでます。さっき『動いてる』とか言っていましたが、生きてるからではなく、中で対流を起こしているからです。息子さんは外側だけ残して、中は呪いと本人が渦巻いてる状態――って言って分かります?」
分かるような分からないような説明をした前条さんに、瀬口さんは半信半疑ながらも頷いた。そして、前条さんの話の中で引っかかった点に眉を顰めた。
「呪い、ってそんな、誰が……?」
「いるでしょう、瀬口さんに『まともじゃない息子を産んで欲しい人間』が」
「…………お義母さん」
数秒、思考を巡らせるように視線を彷徨わせた瀬口さんが口にした結論に、前条さんの唇が笑みの形に釣り上がる。
「そうです。全く、どこからこんな方法を聞いたのか。是非一度お会いして聞いてみたいものですね。兎に角、治すのは不可能です、人間として死んでますから。死んだ人間を蘇らせるなんて、…………カミサマにだって出来やしない」
半笑いで告げた言葉に瀬口さんが沈痛な面持ちで俯くが、前条さんは構うこと無く続けた。
「だが、今その子が感じている苦痛を取り除くことは出来ます。存在として不自然だから苦痛が伴う訳で、それに合わせた形に作り直してやれば苦痛は無くなるんですよ。ただ、作り直そうと長くは存在できません。それでもいいならやりましょう。死ねずに永遠に苦しみ続けるか、楽にして死ぬかの二択ですね。どうします?」
問いには沈黙が返ってきた。
赤ん坊を抱きかかえる瀬口さんの腕に力が籠もる。腕の中の赤ん坊の足が、確かに、彼女が言ったようにびくりと動くのが見えた。
前条さんの言葉の意味を掴みあぐねているのだろう。困惑した顔で腕の中と桐の箱を交互に見やる瀬口さんは、それでも方法がそれしか無いのだと飲み込むと、やがて白く濁った瞳を視線を合わせ、涙を零しながら頷いた。
「……楽にしてあげて下さい、お願いします」
思いの外しっかりした声音だったのは、きっと彼女も薄々分かっていたからだ。我が子は死んでいて、死んでなお苦しんでいて、助かる方法なんて殆どないのだと。
前条さんは赤ん坊を受け取るとローテーブルの上に置き、白い繭の端に空いた穴に赤黒い腕を差し入れると距離を取るように手を離した。
「あんまり側にいると一緒に飲み込まれますからね」
不安が残るのか我が子の手を握ろうと手を伸ばしかけた瀬口さんが、その言葉に戸惑いつつも膝の上へと手を戻した。
見つめる僕らの目の前で、するすると伸びた白い糸が徐々に赤ん坊を飲み込んでいく。
解けたそれが赤ん坊を包むサイズに膨らみ再び繭の形を取るのに、十秒もかからなかった。
「……あの、これって一体?」
「ん? 繭だけど」
緊張の面持ちで見守る瀬口さんには言葉を発する余裕もないようなので、代わりに浮かんだ疑問を口にすれば、前条さんは見りゃ分かんだろと言わんばかりの態度で言った。
そりゃ、見れば分かりますよ。僕が聞いているのはこれによって何が起こるのかってことで――――産声だ。
産声が、聞こえる。
「…………」
極めて健康的で、一般的だろう産声だった。多分。よくドラマとかで聞く、元気な赤ちゃんですよ!と共に流れている声だった。それが、繭の内側から聞こえる。
瀬口さんと同じく、言葉を発する余裕もなくなった僕が無言で見つめていると、やがて声が止み、穴の空いていた繭の端から何かが顔を出し始めた。
薄茶色の何かが、もぞもぞと顔を出す。
虫だ。
僕には虫だと言うことしか分からなかったが、兎に角虫だった。
一生懸命這い出てきた、ずんぐりしてふわふわの虫。可愛い――と言えなくもなくもない、こともないような見た目だったが、虫であることに変わりはなかった。
え、嘘だろ? 本当に? えっ、え? もしかしてこれ、さっき飲み込んだ赤ちゃんか?
ぞわ、と背筋に謎の悪寒が走った。
い、いやいや、これはダメだろ。依頼人の赤ん坊を作り変えて虫にしました、って、待って、待ってくれ。
どうしてこの人はこの方法で大丈夫だと思ったんだ? 何考えているんだ?
よちよちと若干可愛い挙動で歩き回る虫をじっと見つめる瀬口さんの顔からは先程までの表情の一切が消え失せていた。この事象を受け入れることを拒否したような顔だった。
次の瞬間、戸惑ったように辺りを歩いていた虫が、瀬口さんの方へと顔を向けて動きを止めた。
開ききっていない羽根が嬉しそうに揺れる。
『マ゛、マぁ……』
見開かれた瀬口さんの瞳から、涙が溢れ出した。
きつく噛み締められた唇の端から堪えきれない嗚咽が漏れる。崩れ落ちるようにソファから降りた瀬口さんは、ローテーブルの上で頼りなく触覚を揺らす虫――息子を優しく抱きしめた。
「ごめんね、ごめん、ちゃんと産めなくて、ごめんね、名前さえママが決められなくて、ごめんなさい、」
『ママ゛、す……き……』
息を呑んだ瀬口さんが、嗚咽でまともに言葉を成せない舌をなんとか動かし、囁いた。
「ママも、大好きよ」
そうして、二人は何度も確かめるように言葉を交わした。
瀬口さんの顔には心からの笑みが浮かんでいた。虫になった息子に対して微塵も抵抗が無いようだった。やっぱり母親だからなんだろうか。
微笑ましさと不気味さが奇妙に同居する光景に僕の母は僕が虫になっても抱きしめてくれるのかな、などと逃避気味に考え始めてしまった僕の視界に、ご機嫌な笑みを浮かべた前条さんが映った。
頬杖を付き、言葉を交わし合う二人を満足そうに見つめる前条さんは、不意に立ち上がると軽やかな足取りで備品庫へと消えた。不安定な音程の鼻歌が響いている。
やがて分厚い茶封筒を手にした前条さんが扉を開けて戻ってきた。
その頃には幾分落ち着いた瀬口さんは、息子を膝に乗せて優しく撫でていた。ママ、ママ、とどう見ても発声器官があるようには見えない身体の息子が嬉しそうに瀬口さんを呼んでいる。
ソファに腰を下ろした前条さんは茶封筒をテーブルの上に置くと、ごく明るい調子で問いかけた。
「息子さん、名前はなんて言うんです?」
「……大きいに和と書いて、ヤマトです。……義母が決めた名で、あまり……呼びたくはありませんが」
苦い思い出しか無いのだろう。眉根を寄せて歯切れ悪く答えた瀬口さんに、前条さんは乾いた笑い声を零した。
誰に向けられたものか、嘲りと苛立ちの滲む息を吐き出した前条さんが、何かを振り払うように頭を振る。
「でしたら、読み仮名を変えてあげてください、当て字で結構です。それだけでも大分違いますよ。名前ってのはどうも、存在を縛りますからね。そうだ、作り変わったんですし新しくつけたらどうです? 折角ですから」
あくまでも明るく告げられる言葉に、幾分顔色の良くなった瀬口さんは少し迷ったように首を傾げ、頷いた。考えてみます、との答えに満足そうに頷き返した前条さんが、彼女の前に茶封筒を差し出す。
「それで、息子さんの寿命についてなんですが、恐らく保って一週間かと思います。使った呪具の特性上仕方ありませんが、蚕蛾ってのは寿命が短い上に延命も不可能でして。此方、不履行のお詫びに受け取っていただければ」
瀬口さんの前に置いてある茶封筒の口からは、かなりの厚みの札束が覗いていた。
ぼんやりとそれを眺めていた瀬口さんが、前条さんの言葉と、自身の目の前にある封筒の中身を理解したのか慌てたように目を瞬かせる。
「え、……え? い、いえ、そんな、こんなお金頂けません、此方がお支払いしなければならないのに、」
「『息子さんを治して欲しい』というのが依頼だったでしょう? 到底、治したとは言えませんからね。まあ、失敗の口止め料とでも思って下さい」
詭弁じみた言葉を並べ立てながら、前条さんは戸惑う瀬口さんの手に封筒を握らせた。
息子さんが不思議そうに瀬口さんを見上げている。『ママ?』呼びかける声に不安げなものを感じ取った瀬口さんは宥めるようにその体を撫で、躊躇いつつも茶封筒を受け取った。残された少ない時間を押し問答に費やしている暇はないと思ったのだろう。
来たときと同じように息子さんを丁寧に布に包んだ瀬口さんは、何度も礼を口にしながら事務所を後にした。
いつか必ずお礼に来ます、と告げた彼女の顔は、僕に事務所の場所を訪ねたときと同じ人とは思えない程に晴れやかだった。
対して、僕の顔は自分でも分かるほどに曇っている。
抜け出た後の繭をまた丁寧に桐箱にしまい、組紐をかけて段ボールに放り込んだ前条さんが、なんとも微妙な顔で立ち尽くす僕に目をやった。
「どしたよけーちゃん、腹でも痛いの?」
「……いえ。腹というか、胃が……あの、前条さん」
「うん?」
「……あそこで瀬口さんが息子さんを受け入れなかったらどうするつもりだったんですか」
瀬口さんがやってきた当初、前条さんは興味もなさそうに『金にならない』などと零した。だが、結果的には逆に金を渡して帰しまでした。不自然なまでに親切だ。
だからきっと、どこかで前条さんが瀬口さんに親切にしてやってもいい、と思わせるような点があった筈なのだ。
それはどこかと考えた時に真っ先に浮かぶのが、初めの依頼の動機の確認と、事前の説明なしに使われた繭だった。
前条さんは「息子ではなく自分のために依頼に来たのか」と問い、瀬口さんは否と答えた。そうして出てきたのがあの繭で、わざわざ見せつけるかのようにして目の前で使った。
あんな、生まれたての赤ん坊を虫に作り変えてしまうような代物を。
正直、僕にはあれが悍ましくてならなかった。だって、そうだろ。人だったものが虫になるなんて、不気味で、気味が悪くて、気持ち悪い。多分、こんなことを思っちゃいけないんだろうと分かっていても本能が拒絶する。
流石に前条さんだってそれは分かっているだろう。分かっていて、あの場で何の説明もなく使った。試したのだ。あれを見ても、瀬口さんが息子を息子として受け入れるのか。そして瀬口さんは及第点を得た。
ということは、及第点を得られなかった場合の結末もあったはずだ。嫌な予感を抱えつつ問いかけた僕に、前条さんは笑いながら言った。
「瀬口さんが受け入れなかったら? そうだなあ、そしたら、俺が育てるよ。どうせ一週間も保たない命だし、そんくらいは苦でもない」
「え、あ、そ、そうですか……」
「なんだよけーちゃん、もしかして潰して殺すとでも思ってた?」
ぎくりと肩を強張らせた僕に、前条さんは喉を鳴らして笑った。随分酷い想像するんだな、なんて囁いてくる甘い声に罪悪感が湧く。
そりゃそうだ。いくら前条さんでも、何の罪もない子供を意味もなく殺したりはしない筈だ。
気を悪くしていないだろうかと、申し訳ない気持ちで見上げる。謝るつもりで口を開いたのに、黒手袋が優しく頭を撫でてきた挙げ句両頬を包んで捏ね回して来たので何も言えなくなってしまった。物理的に言葉が発せないでいる内に、謝罪の言葉を吐き出す空気ではなくなっている。
「アリスちゃんも、人形さえ残さないでいいんなら俺が育て直してやったのになあ」
「いや、多分それは死んでも拒否すると思いますよ……」
アンタとアリスちゃんの相性、かなり最悪だと思いますし。取り替えたばかりの蛍光灯を眺めながら呟くと、前条さんは何が面白いのか肩を揺らして笑った。
肩を揺らし、口元を押さえ、ソファに座って身体を横たえながら堪えきれないように声を上げて笑った。黒手袋がソファの肘掛けを叩いている。
ひとしきり笑った前条さんは、満足そうに息を吐くと、明確な喜びの混じる声で呟いた。
「いいねえ、家族愛」
「はい?」
「けーちゃん、お母さんのこと好き?」
「え、ま、まあ、好きですけど……」
言ってから、なんだか恥ずかしくなって誤魔化すように唇を噛んだ。十九にもなって「お母さんが好き」とか改めて口にするのはちょっと恥ずかしい。
居心地の悪い思いでテーブルの上を片付け始めた僕に、前条さんは横になったまま嬉しそうに笑った。
「お父さんのことは?」
「……好きですよ。尊敬もしてます」
「妹ちゃんのことも?」
「えー……一応? 生意気ですけど可愛いところもありますしね」
仲が良いかと言われると微妙なところはあるが。あいつは僕のことを馬鹿にしている節がある。そりゃ、出来の良い妹から見たら僕みたいな碌でもない兄は馬鹿にしか見えないだろうけどな。
平々凡々な親だと思っていた父も、立派に家族四人を養っていた訳だし、コツコツ真面目に働いている父親の息子が『高校卒業して何の目的もなくフリーターやって、挙げ句彼女にフラれて一人暮らしを始めた』なんてことになったらそりゃあ、馬鹿にもしたくなるだろ。改めてまとめ直すとあまりも情けないな。畜生。情けないな。
「けーちゃん? どうしたの、梅干し食べたみたいな顔して」
気分が落ち込み、片付けの手が止まっていた僕を、前条さんが不思議そうに眺めていた。
「いえちょっと酸っぱい思い出が……、…………あの、前条さん? 僕、アンタに『妹が居る』って話、しましたっけ?」
しかも変な男に捕まって変な事務所で働いているしな……と遠い目をしかけていた僕は、思い当たった違和感に眉を寄せた。
楽しげに笑う前条さんを見つめる。真っ直ぐに見つめ返す前条さんの瞳が、機嫌よく細められた。
「してたよ」
「……本当ですね? まさか僕の家族構成を勝手に把握しているなんてことは無いですよね?」
「まさか。ちゃんと、けーちゃんが自分で話してくれたよ。風呂場でカブトムシ捕まえたと思ったらゴキブリでお母さんが泣き叫んだ話とか」
「そんな話をした覚えはありませんけど!?」
ついでに言えばそんな記憶もない。甘い声ではぐらかすように答えた前条さんに、勝手に捏造するんじゃないとツッコミを入れる。きちんと否定したのにも関わらず「今はちゃんと区別つくの?」などと聞いてきやがった。
つくに決まってるだろ。カブトムシとゴキブリの見分けがつかない人間とかいるのか? いるかもしれないけれど、少なくとも僕はつくぞ。
憤慨しつつ後片付けを済ませる。夕飯のキムチ鍋の準備をしてさっさと帰ろう。そういえばさっき卓上コンロがどうとか言ってたな。この暖房器具まみれの部屋でそんな物使って大丈夫なんだろうか。なんとかかんとか中毒みたいなのになったりしないんだろうか。なんとかかんとか。せめて一文字くらいは出せ、僕の頭脳。
「でも良かった、けーちゃんはちゃんと家族のこと好きなんだな」
「……向こうはどうか知りませんけどね」
「うん? なんだよ、家出る時に喧嘩でもしたか?」
「いや、そういう訳じゃ…………妹が随分と出来が良くてですね、あいつが生まれてから僕はどうも……ないがしろにされているというか、別に嫌われてはいませんけど、なんというか、居なくても構わないんじゃないかと思うことが多々ありまして」
キムチじゃなくてキムチ鍋の素を買ってきたら手っ取り早かったんじゃないか?と白菜を切る段階になってようやく気づいた僕は、作業をしながら纏めることもなく思考をそのまま口にしていた。
つけておいた煮干しと昆布を水ごと土鍋に突っ込む。なんだかんだ「おいしい」と褒めてくれるものだから、段々と手間をかけるようになっているのだ。単純極まりない僕である。
「僕が優秀だったならちょっとは違ったのかもしれませんけど、特に賞とか取ったことも先生に褒められたこともないですからね。そりゃあ褒めるところがある方を褒めるのは当然のことっていうか、」
冷凍うどんの在庫を確認する。まだまだ沢山あった。あと葱とニラ。豚バラ。コーヒーゼリーが減っている。寒いと文句を言うくせにゼリーは大量に消費するのはなんなんだ? だったらもう少し室温も妥協を見せてくれよ。
「僕って特に取り柄らしい取り柄ないじゃないですか。運動も勉強も、特別得意なものとかないですし、強いて言うなら歌が上手いとか、でもそれだって何の役に立つんだって感じだし、平均60点よりも百点満点の方が良いに決まってますし、それに――――うわっ!?」
「俺にとっては百点満点なんだけどなあ、あんまりボロクソ言うのやめてくれる?」
野菜と豆腐を切り終え、包丁をしまうのと同時に脇に立っていた前条さんにぐしゃぐしゃに髪を掻き混ぜられた。頭ごと揺らすように撫でられ、最後に軽く叩かれる。
途中、聞こえるかどうかの声で「ごめんね」と呟かれたのは、何に対しての謝罪なんだろうか。叩いたことか? 別に、そんな痛くなかったからいいですけど。
最後に手を洗い準備を整えた僕の横で、前条さんは歌うように言った。
「けーちゃんは料理もうまいし、ちっちゃくて可愛いし、反応も面白いし、馬鹿で単純で面倒くさくて優しいから百点満点だよ」
「…………採点基準がおかしくないですか」
殆ど褒めてないじゃないか。それに僕、別にちっちゃくないし。アンタがでっかいんですよ。前条さんから見れば大抵の人間はちっちゃいでしょうが。背が高いのにわざわざ踵の高い靴まで履く必要あるのか?
僕も上げ底とか履いてやれば良いんだろうか、などと馬鹿なことを考えることで、どう頑張ってもちょっとにやけてしまう口元を誤魔化した。
ともだちにシェアしよう!