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4:カノジョの話[2]

 キムチ鍋を作り終えた僕は、前条さんの事務所を後にした足でとある居酒屋へと向かった。  今日は僕が勤めているコンビニの夢路先輩の送別会があるのだ。ただの飲み会なら断ったのだが、お世話になった先輩の送別会となれば出ないわけにはいかない。  なるべく店長と顔を合わせたくないんだけどなあ、と憂鬱な気持ちになりつつ支度をした僕は、「けーちゃんの送別会はいつ開かれるの?」と笑いながら見送ってきた前条さんに無言で背を向けた。  当分開かれることはない。もしかしたら店長は開きたいかもしれないが、僕にはそのつもりはない。  第一印象が良くなかったのか、相性の問題なのか、僕は店長にあまり良く思われていないのだ。チャラチャラしやがって、などと言っているのも聞いたことがある。どう見ても同僚の小宮の方が典型的なパリピのチャラチャラ野郎なのだが、なぜか店長の矛先は僕に向かっているのだった。  今日も絶対なにか言われるんだろうな、と思いながら居酒屋の暖簾をくぐった僕の予感は、送別会開始一時間で見事に的中した。 「櫛宮ぁ、お前変な宗教にハマってるんだってな?」 「宗教、ですか? いや、特にこれといった宗教は信仰してないですけどね……」  いつの間にか隣に座っていた店長が、酒臭い息を吹きかけながら僕の肩を抱いてきた。  ほら来た。覚悟を決めていた僕は当たり障りない返事で誤魔化そうと試みる。が、曖昧な笑みを浮かべかけた瞬間、とんでもない爆弾が落とされた。 「ウソつけ! なんつったかな、アレだ、なんちゃらオカルト事務所みたいなもんに所属してんだろ?」  いつもの嫌味か、毎度毎度飽きないよなあ、なんて諦めモードで流す気満々だった僕は、店長の口から出てきた『なんちゃらオカルト事務所』の文言に、思わずグラスを取り落としかけた。  オカルト事務所? 今、オカルト事務所って言ったかこの人。  嫌な汗が背に滲む。幸いにも座敷の半分は別の話題で盛り上がっていて、絡み酒で鬱陶しい店長などほとんど誰も気にしていなかった。  バイト仲間の女子大生を口説く男と、この間心霊スポットに遊びに行ったことを面白おかしく披露している大学生グループの耳には一切届いていない。  『送別会』の体で始まった飲み会は、三十分と経たずに主役の夢路先輩を置いて盛り上がり始めていた。  元々、騒がしいのが好きな人ではないからそうなるだろうとは予想していたけれど、それにしたって早すぎやしないかとも思う。まあ、今の僕には有り難い状況だが。 「オカルト事務所、ですか? 櫛宮くんが?」  店長の戯言が聞こえてしまっていたのは、僕の隣に座っている本日の主役、夢路先輩だけだ。先輩は僅かに眉を顰めたものの、さして興味もなさそうに視線をグラスに落とした。  ひとまず助かった。このまま有耶無耶に誤魔化してなんとか話を流さなければ。  ただでさえ店長からの当たりが強く、バイト仲間から若干距離を置かれている僕である。  そこに『妙なオカルトに傾倒している』などという根も葉もない――根はちょっとあるかもしれない――噂を流されたりなんかしてみろ、確実に一瞬で遠巻きにされ、腫れ物にふれるような扱いをされるに決まっている。  いや、それならまだいい。オカルトオタクだ何だのと笑いものにされたりしたら堪ったもんじゃない。 「言っとくが、うちではそういう宗教勧誘みたいな真似は厳禁だからな。雪穂ちゃんも気をつけろよ、こういう大人しそうなやつに限って宗教にのめり込んでたり、とんでもない額の借金持ちだったり、やばい性癖を抱えてたりするもんなんだからなぁ」  暗鬱とした未来を想像しかけてすっかり思考が鈍った僕が黙り込んでいる間に、反論がないことで気を良くしたのか店長はいやらしい笑みを浮かべていつものように僕を詰った。 「はあ、そうかもしれませんねえー」  雪穂ちゃんこと夢路先輩は生返事をしながら曖昧な笑みを浮かべる。こういう時に僕を庇ったりすると尚更ひどくなることを知っているのだ。憂さ晴らしは受け流すに限る。  送別会に限らず、飲み会を開きたがる酒好きの店長だが、大体は話の輪に入れずに食み出ることになる。小宮たちのような若者グループには強く言えないので、括りとしては同じ若者であるが比較的言い返さない僕に八つ当たりをしているようなものだ。真面目に取り合うとこっちが疲れる。  『お酒さえ飲まなきゃ良い人なんだけどねえ~』とは奥さんの言だが、そもそも酒を飲んだら悪い人になるような人は元々悪いのだ。そこんところをよく分かって欲しい。  こういう、とりあえず犠牲になってるのは自分じゃないし良いか、みたいな空気の中にいるときは、流石に僕の送別会も開いてほしい気分になる。  今すぐに新しいバイト先を見つけて、前条さんの事務所と掛け持ちできるのなら辞めても構わないんだけど。  前条さんのことだ、僕がコンビニバイトを辞めたと聞きつければここぞとばかりに事務所一本に絞らせようとしてくるだろう。  あの人の事務所から得た収入だけで暮らすのは何かが嫌だ。なんか嫌だ。  『なんちゃらオカルト事務所』、もとい異能相談事務所から得た収入だけで生きていくというのは、なんというか、尻の座りが悪い。あ、そうだ。そうだよ、なんちゃらオカルト事務所の話だった。 「店長、さっきの話って一体誰から聞いたんです?」 「ああ? さっきの話ぃ?」 「ほら、さっきの、アレですよアレ。事務所の話」  僕を詰って満足したのか再び若者の輪に入ろうと横槍を仕掛けていた店長の隣で声を潜めて問いかけると、大分酔いが回ってきたらしい店長は不明瞭な声を上げながら首を傾げた。  舌の動いていない声が溢れた後に、ああ、と半分閉じていた瞼が開かれる。 「俺の息子の友達が言ってたんだよ。誰だったかな、あー、そう、そうだ、笛戸くんだ、笛戸くん。オカルト事務所にいる櫛宮先輩が助けてくれた~ってな」 「笛戸!? しまった、あいつか……!」  聞き覚えのある名前に、つい声量が上がってしまっていた。  そういえば、僕は結局笛戸に『僕がこの事務所で働いていることは言わないでくれ』と口止めしておくのをすっかり忘れていた。  過去に囲碁部として繋がりがあった人間である。どこからどう繋がって話が広まるかなんて分からない。事実、どこからどう繋がったのか店長は僕が異能相談事務所で働いていると知ってしまった。  この分だとどこまで話が広がっているのか分かったもんじゃない。早急に手を打たなければ、と恐怖から背を正した僕に、それまで全く此方など眼中にも入れずに盛り上がっていた大学生連中が視線を向けてきた。 「櫛宮、オカルト事務所なんか入ってんの? マジかよ、超やべーじゃん」 「やっぱり何か除霊とかすんのか? はらいたまえ~!的な? ウケるわー、今度写真撮ってきてくれよ!」  ああ、こういうことになるから嫌だったんだ。  聞くなら後日こっそり聞けばよかった。完璧に僕の判断ミスである。  からかいの目を向けてきた大学生連中は、小馬鹿にした笑い声をあげ盛り上がりつつさらに続けた。 「じゃあ俺たちが取り憑かれちゃった時は櫛宮に頼めば安心だな~! 祓ってくれんだろ!」 「い、いや、別に僕はそういうのは出来ないんですけど……」 「なんだ櫛宮、やっぱりお前オカルト事務所に所属してたんじゃないか! 大人しそうな顔してとんでもないやつだな~、みんな壺とか売られないように気をつけろよ!」  場がどんどん盛り上がっていく。良くない方向へと転がっていっているのは明確だったが、止めようもなかった。多勢に無勢というやつだ。  これは本格的に辞職も辞さない姿勢でいかなければならないか、と諦めを通り越して虚無を覚えている僕を、グラスの酒を一気に飲み干した男――小宮が指さした。 「そーだ、霊能者ならついてきて欲しい場所があんだよ! 知ってんだろ? 神奈川の方にさ、砂上(サジョウ)病院』っつーやべー廃病院があんの、」 「やめてください」  場を切り裂いた声は、僕のものではなかった。  派手な音を立ててグラスをテーブルに叩きつけた夢路先輩が、驚くほど冷たい目を小宮に向けていた。  苛立ちを含んだ声に全員が静まり返り、夢路先輩を見つめる。  普段、どんな理不尽に見舞われても穏やかな笑みを浮かべてみせる夢路先輩が、忌々し気に眉根を寄せていた。憎悪すら孕んでいるように見える先輩の視線に、能天気な顔を強張らせた小宮が喉を震わせる。  静まり返ったテーブルを睨みつけていた先輩は、怒りを鎮めるように息を吐くと、冷ややかな態度で言い放った。 「私、心霊スポットとか怪談とか、そういうの大嫌いなんです。話も聞きたくない、気分が悪いので帰ります。送別会、開いていただいてどうもありがとうございました。それでは」  凍りついたかのように動けないメンバーの前で宣言通りさっさと帰り支度を終えた先輩は、僕らには一瞥もくれずに座敷を後にした。遠ざかる足音を聞きながら、僕らは無言のまましばらく顔を見合わせる。  いつも穏やかな人が怒ったときというのは、恐ろしい上に謎の罪悪感が湧く。あの人を怒らせてしまった、という罪悪感が。少し不満げに口を尖らせるバイト仲間の視線は、罪悪感の逃げ場を探して一様に僕に向かい始めていた。 「す、すいません、僕謝ってきます!」  実際、この空気を作ったしまった原因は僕に在るようにも思えたし、何よりこの空気の中で耐えきる自信もなかったので、断りを入れた僕はすぐにカバンを引っ掴んで先輩の後を追った。 「おお、しっかり謝ってこいよ」  座敷を出る時、状況に追いつけていないらしい店長の間の抜けた声が背に当たった。 「――――先輩! 先輩、すみません! 待ってください!」  すぐに追いかけたおかげか、店から出て数分と経たない内に夢路先輩を見つけることが出来た。人混みに紛れるようにして歩いていく先輩の後を置い、隣に並び立って引き止める。  まるで何かから逃げるような足取りで歩みを進めていた先輩が、僕の姿を横目で確かめると同時に速度を落とした。 「すみません、先輩。僕、先輩がああいうの嫌いだって知らなくて。嫌な思いさせちゃいましたよね」 「……ううん。別に、櫛宮くんには怒ってないし……あの人たちにも、怒ったわけじゃないから」  先程までの冷ややかな視線を浴びせられたらどうしようかと思っていたのだが、夢路先輩はいつも通りの少し困ったような笑みを浮かべるだけだった。 「むしろ私の方こそ送別会だって言うのに出てきちゃってごめん、みんな怒ってたかな?」 「いや、全然。やらかしたなーって感じで……先輩、普段全然怒らないし、なんか僕らが悪いことしちゃったんだろうなって……」 「……ごめんね。変だったよね、急に」  段々と歩みの速度を落とし、とうとう立ち止まった先輩は、同じく立ち止まった僕に目を向けた。少し下がった眉の下、黒目がちな瞳が僕を見上げている。何か言いたげに揺れた黒い瞳は、数秒の後にゆっくりと伏せられた。 「……櫛宮くん、自転車置いてきちゃったでしょ。取りに戻りなよ、私は一人でも帰れるから」  多分、先輩が言いたかったのはこれじゃないんだろうな、とは感じ取れた。何が言いたかったのかまでは分からないけれど、先輩はたしかに今、僕に何か大事なことを話そうとした。 「送りますよ。自転車なんて後で取りに来ればいいし」  その大事な何かをこのまま流してしまう気にはなれなかった。来月には先輩は日本にはいないのだ。もしも僕に出来ることがあるのなら、助けになりたい。  そんな思いから申し出た僕に、先輩はやっぱり困ったように笑いつつも、小さく頷いた。そして、わずかにためらうような口ぶりで言った。 「ありがとう。でも、多分櫛宮くんと私、家の方向一緒だから自転車は取ってきたほうが面倒がなくていいと思う」 「……あ、はい」  そうでしたね、となんだか恥ずかしい気持ちになりながら、僕と先輩は一緒に自転車置場に向かった。  徒歩の先輩に合わせて自転車を引き、隣を歩く。十分ほど取り留めもない話をしながら歩いたところで、世間話のついでのような口調で、先程の一件への言及があった。 「――櫛宮くんさ、オカルト事務所で働いてるって本当?」 「…………誰にも言わないって約束してくれます?」 「ふふ、みんなはもう知っちゃってると思うけど」 「バイト先以外の誰にもです。あっ、そうだ、後でみんなにも口止めしとかないと……完全に怪しい宗教団体に入ってると思われている気がする……」  さして親しくもないやつらに知られて面白半分にからかわれるのは御免だが、別に夢路先輩になら話しても良い。そう思いながらも一応口止めの確認だけはすると、先輩はくすくすと笑いながら頷いてくれた。  本当なんだね、という呟きに、僕も頷きを返す。残念ながら本当である。僕はオカルト事務所で働いているし、雇い主はオカルトの塊みたいな人間である。 「異能相談事務所って言うんですけど……まあ、要するにオカルト事務所です。なんか、幽霊をなんとかしたり、呪いをなんとかしたり、アレしたりしてて、でも、僕にはそういう力?みたいなのは全然ないんですけどね。ただの助手みたいなもんです。あくまでも雇い主がちょっとこう、特殊な人で」  ちょっと特殊すぎる人で、と遠い目になった僕の隣で、先輩はどこか力なく、ぽつりと呟くように口を開いた。 「…………櫛宮くんは、その人のことを本物だと思ってるの?」 「本物、ですか?」 「そう。本当に、……本当の、本物だって思ってる?」  問いの意図が汲み取れずに鸚鵡返しにしてしまった僕に、先輩は再度確認するかのような問いを向けてきた。  前条さんを本物だと思っているか。なんというか、微妙に難しい問いだった。  本物、というのはこの場合、あれだろうか。霊能力者だと思っているか、ということだろうか?  あの男が霊能力者なのかどうかと問われれば、僕は散々迷った後に否と答えるだろう。僕は前条さんが何か祈りごとをしたり、それこそさっき小宮たちが言ったみたいに祓いたまえ~みたいなことをするところも見たことがない。  僕が見る限り、あの人のは力技だ。直接叩きに行って、その結果物理的に解決している。今日みたいなのは珍しい方なんじゃないかと思う。  だからあの人が本物の霊能力者かと聞かれれば、いや、超常現象カウンセラーらしいですよ、としか答えようがないのが現状だった。カウンセラーっぽいこともしていないので、その肩書きすら疑ってかかっている部分もある。 「えーと、多分、霊能力者とかじゃあ無いんだと思うんですけど……でも、一般的に幽霊って呼ばれてるようなものとか、呪いとかをなんとかするのは本当に出来るんだと思います。実際にこの目で見ましたし。そういう意味では、本物?なのかなって」 「…………そっか。だったら、きっと、尚更離れたほうがいいと思うよ」 「え?」 「本物に近づきすぎると、碌な事が無いから。櫛宮くんはどうしてその事務所で働いているの? 怖い話、苦手だって言ってたよね。だったらそんな人の近くに居てわざわざ怖い思いをする必要なんてないでしょ?」 「ええっと、事情を説明するとなると難しいんですけど……」  外国人のチンピラに絡まれているところを助けられて、ラッキーアイテムとして雇われたと思ったら『けーちゃん』なんて見に覚えのない渾名で呼ばれ、最近は何かと性的に誘われています。などという気の狂った説明をそのまま垂れ流す気にはなれなかった。特に最後のやつがいらない。  かといって、この狂ったような説明以外でどう伝えれば良いのかも分からなかった。  櫛宮くんはどうしてその事務所で働いているの?  その問いは『僕はどうして前条さんと共にいるのか』と同義だった。  ざっくばらんに、なんとも雑に、投げやりに答えるのなら『成り行き』の四文字で済む。だが、先輩が聞きたいのはきっとそういうことではないのだろう。  歩き続ける先輩の目は前を見続けていたが、意識は強く此方に向けられているのが肌で感じ取れた。ここで『成り行き』の四文字を返したりなどしたら、恐らく居酒屋のときの比ではないほどに冷ややかな目を向けられるに違いない。  どうして僕は前条さんと共にいるのだろうか。前条さんと一緒にいたところで、良いことなんて殆ど無い。大体は怖い目に遭うし、部屋はクソほど暑いし、地蔵は鬱陶しいし。怖いし。  ただ、きっと、前条さんは僕が知らないことを知っているのだ。僕の人生の空白を、多分あの人は知っている。  それが何なのか、直接的な言葉で教えてはくれないけれど、もしかしたらあの人の隣にいればそれがいつか分かるのかもしれない、と思っている自分は居た。 「知りたいことがあるんです。僕は、僕が何を知りたいのかすら知らないんですけど、兎に角、あの人の側にいればそれが分かるかもしれなくて。それに、怖い思いはしますけど結局なんだかんだ守ってはくれますし――そもそもがあの人のせいでもたらされた害なんですけど、でもまあそこは置いといて、ええと、あと、ちょっと可愛いところもあって、たまに気の抜けた顔で笑うところなんか中々、いやこれは関係ないか、えーと…………」 「……櫛宮くん、その人のことが好きなの?」 「はい!? ど、どうですかねえ!? た、たた、確かに顔は凄い美人なんですけど、あと声も綺麗で、でも、それ以上になんか色々看過できないとこが沢山あって!」  言葉にするとなると難しい。自分の考えを上手く伝えなければならない、と気負いすぎて妙なことまで口走り始めた僕に、夢路先輩は小さく吹き出した。  人通りの少ない路地に、先輩の楽しげな笑い声が響く。失態に顔を赤くする僕の横でしばらく笑った先輩は、力を抜くように深く息を吐いてからゆっくりと頷いた。 「好きで一緒にいるなら、私がとやかく言うことじゃないね。櫛宮くんが変な人に騙されたり、辛い目に遭ってるならやめた方がいいと思ったけど、そうじゃないみたいだし」 「まあ、本当に嫌になったら死に物狂いで離れますから。今のところはまだ……いいかなって」 「そんなに綺麗な人なの? もしかして、櫛宮くんって面食い?」 「……どちらも、否定はしないですけど」  端的な事実として前条さんは綺麗な人だし、僕は重度の面食いである。  美しい人を見ると凄まじい多幸感に襲われる。きっと世界中の美人を集めた部屋に僕を入れたら脳内物質の異常分泌とかで死ぬだろう。  僕の初恋のお姉さんも、それはそれは綺麗な人だったし。  ただ、彼女のことを『綺麗だから好きになったのか』といえば、確かにそうではあるのだけれど、少し違うように思う。  僕の美人に対する多幸感というのは多分、鑑賞の対象とした時に生まれるものだ。一人の人間として向き合った際に生まれるものではない。きっと、僕は美人を見た時に、ある意味では相手を人間だと認識していないのだ。  だから、僕が初恋のお姉さんを思い出した時に彼女の微笑みに滲む悲しさに胸が苦しくなるのは、美貌以外の部分でも惹かれているせいだ。でなければ僕の胸にあんな苦しい思いは湧き上がらない。  僕が彼女を幸せにしたい、と思う。他の誰でもない、僕が。もうとっくに他の誰かが幸せにしているかもしれないのに。  抱え続けた片想いは常に胸の奥でくすぶっていて、少しの刺激ですぐに燃え上がる。それでいて、よく似た顔の前条さんを見て、彼女への想いを思い出すことなく単にいかがわしい気持ちになってしまうのは、つまりは少なからず前条さんを――この話はやめよう。 「櫛宮くん? どうしたの、いきなり頭振って」 「い、いえ……ちょっと思い当たりたくない事柄に当たってしまって」  これ以上考えたら、次に迫られた時に抵抗しきれる気がしなくなったので早々に考えるのをやめた。なにか別のことを考えよう、前条さん以外の何かを考えよう。前条さん以外の何か。気を紛らわすものを探して視線を彷徨わせる。  人気のない路地、剥がれかけの張り紙がくっついた電柱、隣を歩く夢路先輩、そして前方からやってくる前条さん。  ――おっと? 「あれ、けーちゃんってば彼女連れ? 相変わらず可愛い子選ぶんだねえ、筋金入りの面食いだな」  ――おおっと?  こんなにも必死に前条さん以外の何かを求めていたのに、僕の視界には前条さん以外の何物でもないものが飛び込んできた。  見慣れた黒いロングコートに同色のストール、シンプルなデザインの黒い耳当てに、ざっくりと真ん中で分けられた前髪。……前髪が、真ん中で分けられている。  癖は強いが細く柔らかい髪が、美しい顔の輪郭を縁取るようにして揺れていた。  色のなさ故に作り物めいた美貌を放つ白磁の肌に、滑らかな黒色はあまりにも強く映える。揶揄を放つ唇の奥の鮮烈な赤に目眩がした。  いかん。油断していたところに、ど真ん中ストレートの美人を食らってしまった。  心拍数の上昇が尋常ではない。月明かりの下で見る美人はまた違った趣きがあるなあ、とか考えている場合じゃないぞ僕。しっかりしろ。なんでこの人がこんなところにいるんだ。 「ちが、彼女じゃありませんよ! 先輩です先輩、バイト先の先輩!」  思わずつんのめってたたらを踏みつつ、僕は慌てて訂正を口にする。どうして前条さんがこんなところをうろついていたのかはさっぱり分からないが、とりあえず誤解だけは解いておかなければならない。 「でもこれから彼女になるんだろ?」 「なりませんって! そもそも僕は、当分彼女はいらないなって気分なんですよ!」 「じゃあ彼女以外は欲しいかなって気分?」  僕が喚いている間に距離を詰めてきた前条さんが、黒手袋の指先で僕の顎を持ち上げた。からかうように細められた瞳に射抜かれて、一瞬呼吸が止まる。  彼女以外? 彼女以外って何だ。彼女以外とは一体。彼女以外が欲しいかなって言ったら、何が起こるんだろう。  すごく気になるが、絶対に気にしてはいけないと思ったので顎を持ち上げてくる指を振り払った。危ない。今夜の前条さんはいつにも増して威力がある。  自身を落ち着かせるために三度ほど深呼吸をした僕は、そこでようやく、突如現れた美貌の不審者に硬直していた夢路先輩に思い至った。 「あ、ああ、すみません先輩。これが、さっき言ってた僕の雇い主です」 「えっ、あ……そうなんだ、えっと、どうも……」 「どうも、雇い主です」  にっこりと余所行きの笑みを浮かべた前条さんがおざなりな挨拶を向ける。まったくもって先輩に興味を持っていないのがありありと分かる笑みだった。興味を持たれても困るのでそのまま流す。 「前条さん、こんなところで何してるんです?」 「うん? けーちゃんの家に遊びに行こうかなって思ってたところ。丁度良かったね。けーちゃんこそ、こんなところで女の子と二人きりで何してたんだよ。通りが二つ違うだろ、これから上手いこと誘導するのか?」 「別にホテルは探してないんですよ! 馬鹿なこと言わないでください」 「なんだ、場所知ってんのか。使ったことあんの? そうそう、お姉さん、うちの助手は美人なら人面犬でも食う男ですから、心配でしたら私が送りましょうか?」 「口から出まかせ言うのやめてもらえます!? 大体アンタに送らせる方が百倍心配ですよ!!」  そもそも先輩を送り届けている最中だって分かってんじゃないですか。本当に腹が立つなアンタ。  にこやかな笑みを浮かべながら夢路先輩に差し伸べられた手を弾き飛ばし、自転車を盾にして遮る。威嚇する僕に前条さんはなんとも楽しそうに喉を鳴らして笑った。  なんだか悔しくなったので顔を逸らし、先輩に先に進もうと促す。この人に付き合っていたら時間がいくらあっても足りない。僕には先輩を家まで送り届けるという任務があるのだ。  曖昧に頷いた先輩と共に歩み始める。自転車を挟んだ隣に立ってついてくる前条さんのことは無視しておいた。不安になるような音色の鼻歌も一緒についてきたが、やはり無視しておいた。 「……あの人が、本物なの?」 「ええ、まあ。不審者にしか見えないでしょうが、一応は本物のはずです」 「…………美人なのは確かだけどね」  右隣で不安定な鼻歌を響かせる前条さんに聞こえぬよう、左隣の先輩から耳打ちされる。小声で返した僕の言葉は先輩の中では大分信憑性が薄いようで、訝しむような視線が前条さんへと注がれていた。  数秒黙った先輩が、そっと僕の上着の裾を握った。 「先輩?」 「ごめん、ちょっとだけこうしてていい?」 「別に構いませんけど……」  先輩が何をしたいのかが分からず困惑した声を上げた僕の隣で、彼女は裾を掴んだままゆっくりと目を閉じた。歩みはそのまま止まらない。なるほど、僕は先輩を誘導して歩けということか。  どうしてその必要があるのかは分からないが一先ず何も言わずに歩き続ける僕の耳に、小さく呟く先輩の声が聞こえた。 「神火清明、伸水清明、神心清明、神風清明、善悪応報、清濁相見」  微かな声で呟かれたそれはどれも聞き馴染みのない音で、脳内でどう変換したらいいものかも分からず聞き流すことになった。シンカセイメイ、と片仮名が脳内をぐるりと一周する。  善悪応報くらいは分かるな、なんて呑気に思っていた僕は、次の瞬間響いた悲鳴に思わずブレーキを握りしめていた。 「きゃあ!」 「先輩!? 大丈夫ですか!?」  突如両手で顔を覆って蹲った先輩に、慌てて僕も足を止める。スタンドを立てて自転車を停め、先輩の側に寄ると同時に、背後から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。 「やだっ、何、何なの……!?」  蹲った先輩は、何かを振り払うかのように膝に埋めた頭を振っている。その肩は小刻みに震えていた。怯えを含んだ声が涙混じりに吐き出される。  夢路先輩の怯えの原因はまず間違いなく、たった今後ろで大笑いしている男だろう。当たりをつけた僕が振り返ると、サドルに手をかけ身を乗り出した前条さんと目が合った。晒された顔にはなんとも楽しげな笑みが滲んでいる。 「……何やったんですか、前条さん」 「俺が? なんもしてないよ、したのはその子。善悪探知法なんて、試すほうが悪い」  最初から最後まで笑い混じりの声だった。善悪探知法。また聞き慣れない単語が出てきて目を瞬かせる僕の前で、前条さんは唇の端を吊り上げ笑みを深くする。  その笑みは、先程までの興味の欠片もない相手に向けるものとは明らかに違った。なんだか嫌な予感がして、先輩を庇うように間に入る。警戒を滲ませる僕に、前条さんは身の潔白を示すかのように説明した。 「今その子が口にしたやつ、相手が自分にとって良い人間か悪い人間か知るための神道の言霊でね。初対面の人間に使うと、直感的に善悪を判断することが出来る」 「……それでどうして悲鳴を上げる羽目になるんですか」 「さあ? どうしてだろうな」  俺にもさっぱり、などと肩を竦めて見せる前条さんを、知らぬ間に睨んでしまう。この人はきっと分かっているし、それでいて勝手に自分に対してそんなものを試して痛い目を見た夢路先輩のことを、面白いとも思っているし、少しいい気味だとも思っている。  だが、前条さんならそもそもそんなことをされる前に止められたはずなのだ。どうせ、僕らの会話だって聞こえていて無視していたのだから。  別に前条さんが悪いなどとは言わないが、日頃の行いのせいでつい非難の目を向けてしまう。前条さんは、少し拗ねたように首を傾げてからやれやれと息を吐いた。  はいはい分かったよ、宥めればいいんだろ、宥めれば、と言わんばかりの足取りで回り込んできた前条さんは、蹲る先輩の脇に立つと、努めて明るい声で問いかけた。 「お姉さん、神道好きなの?」  好きとか嫌いとかなんですか、神道って。信心の深さと宗教への知識に関しては子供用プールより浅い自信がある僕にはさっぱり分からなかったが、ともかく前条さんは酷く楽しそうに膝を折り、夢路先輩の顔を覗き込んだ。ひ、と息を呑む声が聞こえる。 「ちょっと、先輩を怯えさせないでくださいよ」 「勝手に怯えてんだよ、俺のせいじゃない。で? 好きなの?」  返答は無い。こうなったら前条さんとは引き離してどこかで落ち着くまで休んだ方がいいかもしれない。 「それとも、祓いの宗教に頼ってまで身を守りたい相手でもいるのか?」  先輩が、先ほどとは異なる熱を持って息を呑んだ。微かに喉が鳴き、弾かれたように顔を上げた先輩が前条さんを真っ直ぐに見つめる。  震える黒い瞳が縋るような視線を前条さんへと向けている。その視線を真正面から受け止めた前条さんは、殊更に笑みを深めると、懐から名刺を取り出した。 「もし君が金を払ってまで解決したいことがあるなら、俺のところにおいで。そうじゃないなら自力でなんとかしな。そうだなあ、国外に逃げるだけでも結構違うらしいよ? 俺は試したこと無いけど。シンガポールとかいいんじゃないか、治安いいらしいぜ」  妙に甘ったるい、優しさを演出したような声だった。聞き馴染みの良い声が染み込んでくる。  優しげな声で紡がれた冗談めかした物言いに、夢路先輩は微かにだが唇に笑みを乗せた。 「実はもう、決めてるんです。留学して、いずれは向こうに住むつもりで……」 「へえそうか、そりゃいいな。じゃ、これはいらない?」  前条さんが緩く振って見せた名刺を眺めた夢路先輩は、一瞬ためらった後にその手から名刺を受け取った。大事そうに手のひらに乗せ、恐る恐るといった様子で見下ろす。  前条さんの名刺は僕も初めて見るので、つい興味を惹かれて覗き込む。前条異能相談事務所、超常現象カウンセラー、前条昂。うわ、天井知らずの胡散臭さだ。  ひと目見ただけでもツッコミどころが満載な名刺を眺める僕の隣で、夢路先輩の丸く整えられた爪先が前条さんの名前をなぞる。 「ええと……前条、すばるさん?」  すばる? この人、確か『あおぐ』って名前じゃなかったか?  浮かんだ疑問は、同時に出てきた「すばるってどういう字を書くんだっけ」の疑問に塗り潰される。  三秒考えてもさっぱり漢字が出てこない。あまりの情けなさに若干悲しくなり始めた僕の視界に、一切の表情を失くした前条さんが映った。  思い浮かべてみるもののさっぱり掠っている気がしない無数の漢字が吹き飛ぶ。背に怖気が走るが、きっとこれは僕だけが察知したものだろう。先輩が気づいた様子はない。  不味い。理由はさっぱり分からないが兎に角不味い。こういう空気になった時、碌なことになった試しがない。しかし先輩を見捨てることも出来ない。僕一人だったら秒速で逃げるのに。  どうしたもんか。どうにもしようがないが、どうにかしなければならない予感だけはある。切羽詰まった僕は、思い浮かんだそれを、脳内会議にかけることなくそのまま実行に移した。  蹲る先輩に駆け寄った僕と、彼女に形だけは寄り添った前条さんの距離は近い。とっさに近場に合った黒手袋の右手を掴んで握りしめると、表情のないままの顔がゆるりと此方を向いた。  暗く深い瞳が僕を覗き込んでいる。ぎゅう、と握った手に力を込めると、黒い瞳がゆっくりと一度瞬いた。握られた手を確かめるように視線が動き、ついで夢路先輩へと視線が移る。  何度か口を開きかけては閉じた前条さんは、たっぷり五秒の間を開けてから、どこかうんざりした様子で言った。 「…………(あおぐ)です」 「えっ、あ、ああ、すみません、振り仮名も振ってあるのに……失礼しました」 「いえ、お構いなく。よく似ていますからね。でもほら、ここ」  にっこりと、お客さんを相手にした時の笑みを浮かべる前条さんが、夢路先輩の手の中の名刺を指でなぞる。昂、と印字された一点を指した前条さんは、歪な笑みを浮かべながら言った。 「ひとつ欠けてるでしょう?」  吐き捨てるような声だった。丁度、初めて出会った日に聞いた自嘲的な物言いに少し似ていた。  皮肉気に歪んだ唇は瞬きの間にいつも通りの笑みを浮かべる。よく分からないが、一先ず謎の脅威は去ったようだった。  一つ欠けている。前条さんの言葉のおかげで、指し示された箇所を眺めていた僕の脳裏にさっきまではさっぱり出てこなかった字が浮かんだ。  ああそうだ、『昴』だ。確かに、昂とよく似ている。似すぎている。見間違えるのも無理がないほどに。 「あんまり見ない漢字ですけどこれ、『あおぐ』って読むんですか」  黒い指先が指し示す漢字を見下ろしながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。 「読まないよ。読まないけど、読んだ方が良いからそうなった。それだけはまあ、感謝してるかな」  ぽつりと呟くように言った前条さんは、そのまま僕の手を引いて立ち上がった。  僕の手を引いて。そう、完全に繋がったままである。がっちり握られている上に、気づいた時には僕の指の間に彼の指が入り込んでいた。やめろ!! 恋人つなぎすんな!! 離せ!!  僕はあくまでもアンタの機嫌を取るためにこうしただけであってですね、別に繋ぎたいから繋いだわけじゃないんですよ。その辺分かってもらわないとこっちとしても困るんですよ、おい、いいから離せ、クソッ、力じゃ全然勝てない! 力以外でも勝てた試しはない! 「お姉さん、立てる? もし必要なら手を貸そうか、ちょうど片方空いてるから」 「もう片方も今すぐ空きますよ! 今すぐ! こら! 空けろ!」 「え~、どうしようかなあ~、せっかくけーちゃんが手ぇ繋いでくれたしなあ~」 「片手じゃ自転車が引けないでしょうが!」  抗議の声と共に振り払うと、それは確かに、とすんなり離された。あまりにもあっさりと開放されたので呆気にとられてしまったが、別に、本当は握っていたかった訳でもないので素直にハンドルを握る。  まあ、もしも、僕がここで自転車を引いていなかったら――いや、やめよう。今の僕は自転車を引いているし、それはどうしたって覆らない。そして夢路先輩もいる。先輩の前で、『綺麗で可愛いところがあるなどと話してしまった雇い主』と喜んで手を繋いでいる様を見せる訳にはいかない。  無駄な攻防のせいで荒げてしまった息を整えつつ、僕らはまた三人並んで夢路先輩の家へと歩き出した。  更に二十分ほど歩いた辺りで、僕らは小さなアパートの前に辿り着いた。  僕が住んでいる物件と同じくらいには古びたアパートである。女性が一人で住むには少々不安のある佇まいだったが、倹約しなければならないのならやむを得ない物件だろうとも思った。先輩は本気でお金を貯めて、海外に行くつもりなのだ。多分、留学ではなくて、何かから逃げる為に。 「送ってくれてありがとう、櫛宮くん。……前条さんも、何かあったら相談しに行きます。ありがとうございました」 「ちょっとでも先輩の役に立てたなら嬉しいです。むしろ、こっちが迷惑かけちゃったみたいで、すいません」  安全のために送ると申し出たのに、とんだ不審者と鉢合わせてしまった上に原因は分からないが酷く怯えさせてしまった。礼を言われるどころか謝罪をしなければならない失態だ。  少しも謝る気がない前条さんの代わりに僕が頭を下げておく。夢路先輩はあれは私が悪かったから、と苦笑して踵を返しかけ、そこで足を止めた。 「先輩?」 「……ねえ、櫛宮くん。もう一つ頼まれてほしいことがあるんだけど、いい?」 「もう一つ? 良いですよ、先輩にはお世話になってますし、何でも言ってください」  隣の不審者が何か呟いた気がしたが、無視しておいた。『何でも? 俺だってお世話してるんだから何でもしてもらう権利があるよな』。これっぽっちも無いですよ、ふざけないでください。  何してもらおうかな、なんて呟く前条さんの足を三回ほど蹴りつけていると、口元に手を当てていた先輩が躊躇いつつも口を開いた。 「小宮くん達のことなんだけど……あの病院に行くつもりなら、止めてほしいの。櫛宮くんが専門家の事務所で働いていることは知ったんだし、きっと櫛宮くんが言えば行かないと思うから」  それはどうだろう、と反射的に思った。  小宮勝という男はノリと勢いで生きているようなやつである。思慮深さなどとは程遠く、面白いことがあればすぐに飛びつき、後のことは考えない。人の話を聞かずに痛い目を見て、それでも態度を改めないようなやつだ。年下で、しかも地味で押しの弱い僕の言うことなど、とてもじゃないが聞くとは思えなかった。  何でも言ってください、とは言ったものの何でも出来るとは言っていない。自信のなさがそのまま顔に現れてしまったらしい僕の表情を見た先輩は、それでも強い口調で言葉を重ねた。 「お願い、絶対に行かせないで欲しいの。確かに小宮くん達は手放しで良い人なんて言える人じゃないけど、でも、それでも死んでも構わない人じゃないでしょう?」 「死んでも、って……そんなにやばいんですか、その砂上病院ってところは」 「ああ、『やばい』ね」  僕の問いに答えたのは夢路先輩ではなかった。あっさりと肯定を吐き出した前条さんが興味があるのか無いのか分からない声で呟いている。ふーん、砂上か、などと一人で納得している前条さんに視線で問う。  やばいってのは、あれですか? 前に言っていた三丁目の家みたいなことですか? 結局は人間がやばいぞ、的な? 実は危ないグループの溜まり場になっていてガチの犯罪行為が行われている、とか、そういう?  その方がまだマシだと希望的観測を込めて問いかけた僕に、前条さんは軽く肩を竦めてみせた。 「もしあそこの仕事が来ても俺は受けないよ」  あっさりと告げられた台詞に、一瞬思考が止まった。 「…………受けない? 前条さんが?」 「そう、断る」 「ええと、それは、遠出が嫌だからとか、そういう理由で?」 「いや? 仮に歩いて五分の場所に在ったとしても受けないし、そもそも歩いて五分の場所に在ったら俺はそんな場所には住まないね。もしも御神体が祀られてる霊験あらたかな土地だったとしても、御神木が百本立ってても住みたくない」 「まあ、御神木が百本立ってる場所は僕も住みたくはないですね……」  邪魔だし。百本も生えてたら有り難みもゼロだしな。などと、現実逃避じみた思考に浸っていた僕は、逃避してみたところで目を逸らしようも事実に諦めて溜息を落とした。吐いた息は微かに震えていた。  どうやら、砂上病院とやらは前条さんにも手に負えない案件らしい。橋の神様とやらですらあっさり引き受けた前条さんが、はっきりと受けないと口にした。  そんな場所に、たとえ仲は良くないとはいえ顔を知った同僚を行かせるわけにはいかないだろう。 「……分かりました、なんとか説得してみます。ただ、もしも僕が説得した上でも行ってしまったとしたら、流石にそこまでは責任は持てません」  妥協案としてはこの辺りが限界だった。確かにこんな話を聞いてしまえば出来る限り止めたい気持ちはあるが、小宮が僕の話を聞かなかった場合の面倒までは見切れない。小宮のことは特別嫌いでも無いが、しかし必死になって守りたいと思える相手でもないのだ。 「ありがとう、無理言ってごめんね」  力無く微笑んだ先輩は僕と前条さんに向かって頭を下げると、今度こそ踵を返して自室へと向かった。

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