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4:カノジョの話[3]

 扉の閉まる音を聞きながら、僕も自宅の方向へと足を向ける。向けたものの、そこで僕の足は止まってしまった。帰りたいのは山々なのだが、帰りたくない理由が隣に立っている。 「……前条さん、まさか家までついてくるつもりじゃないでしょうね?」 「もちろん、そのつもりだけど?」 「よ、用件なら今ここで聞きますよ。だからここで解散しましょう」 「ここで?」  なんだか凄く嫌な予感がする。晒された相貌から必死に目を逸らし話を切り出した僕に、前条さんはわざとらしく驚いた様子であたりを見回した。 「確かに人はいないけど、こんなところで?」 「……僕は、話を聞くと言っただけです」 「聞くまでもなく分かってんじゃん、けーちゃん案外察しがいいね」  けらけらと笑った前条さんは、上機嫌な足取りで僕の家の方向へと歩き出した。いや、だから用件なら今ここで聞くって言ってるじゃないですか。  胸に浮かぶ嫌な予感が凄まじい勢いで膨らんでいく。これならいっそ、急に仕事の依頼が入っちゃってけーちゃんが必要になったんだよね、とでも言われたほうが百倍マシだった。  だが、この人は最初に僕らと顔見合わせたとき、はっきりと口にしたのだ。  今からけーちゃんちに遊びに行こうと思ってたところ、ちょうどいいね。と。  遊びに来る。それが僕と前条さんの間でどういう意味を持つのか理解できないほど、僕も馬鹿のつもりではなかった。遊びに来る。業務時間外。プライベートである以上、格安なデリヘルとは呼べないだろう。  いや、いや、しかし前条さんは確か「いつでも遊びにおいで」と言ったのであって、あれは僕が遊びに行かなければ成り立たないはずの約束じゃなかったのか? 前条さんが来た場合でも成り立つのか? もうそうなったら逃げ場がゼロじゃないか。勘弁してくれ。  静まり返った夜道にご機嫌な足音を響かせる前条さんの後を、慌てて追いかける。 「待ってください前条さん! 僕はアンタと違って24時間いつでも大歓迎ってわけじゃないんですよ!」 「なら、歓迎してくれる時間は一応あるんだな?」 「な、ない……こともない、こともなくはない、かもしれません……けど」 「どっちだよ」  前条さんの楽しげな笑い声が響く。いかん、このまま僕の家に辿り着かれてしまったらその時点で僕の負けだ。  一体どうすれば僕の勝ちになるのかさっぱり見当もつかなかったが、そもそも勝利を収める必要はなく、僕に求められているのはどう考えても結末の分かるだろう勝負を出来る限り穏便に回避する事だった。  というか、せっかく自転車を引いているのだからここでさっさと自転車に乗って逃げて帰って鍵を閉めてしまえばいいんじゃないだろうか?  ひょっとすると名案のように思えた策だったが、僕がここで全てを放棄し帰ったところで前条さんの目的地は僕の家だ。わざわざ袋小路に自分から飛び込む羽目になる。  しかもこの人、鍵をかけた僕の家に入る手段を持っているのだ。合鍵か、それ以外かは知らないが。  目的地が僕の家ではなく、前条さんの事務所になるように仕向けなければ。  無論、僕は僕の家に、前条さんは前条さんの事務所に戻るように、だ。僕が事務所に連れ込まれる訳にはいかない。 「あの、前条さん」 「実は兎束さんと連絡取ってんだけどさ、どうも妙なことになってるみたいなんだよな」 「みょ、妙なこと?」 「そう。この間、アリスちゃんを抜き終えた人形に綿詰め直して返しただろ? 三日くらい前かな、『人形』だけが消えたって連絡が来てね。詰め直した綿を残して綺麗さっぱり無くなってたらしい。完全に依り代に成った人形だけ消えた形になった訳だ。見に行ったんだが特に異常は無かったから、本当に『消えた』んだろうな。返金を申し出たんだが、どうも夢に娘が出てきたとかで結構ですって言われちゃったよ」  バームクーヘンがどうとか言ってたんだけど、あのケーキ高かったんだぜ?とぼやく前条さんの隣を歩く。 「『母親を殺す為の存在』としてのアリスちゃんはこっちで消してやったんだし、あとの人形は抜け殻みたいなもんの筈なんだがなあ……一体誰がわざわざ『消した』んだか」 「ええと、前条さんは、あのぬいぐるみを誰かが消したと思ってるんですか?」 「どうだろうな、もしかしたら本当に勝手に消えたのかもしれないけどね。『夢にアリスちゃんが出た』ってのも気になるんだよ。本人が死んで、存在も消してやったのに出てくるってのはまず無い。ってことはあの子、まだ何処かに存在してんだよ。全く、折角消してやったっていうのにどこに行ったんだろうな」  考えが纏まらないのか、半ば独り言のように呟いていた前条さんは、迷いなく歩みながら続けた。 「まあ、とにかくそういう訳で色々気になるところがあってさ。兎束さんに相談したら弟さんと会う約束を取り付けてくれたから、ちょっくら訪ねに行こうと思ってんだよ」 「えっと、兎束さんの弟さんて、例のアリスちゃんの……」 「そう、本当のお父さん。挨拶がてら世間話のつもりで俺もサーカスに行ったんですよ、って伝えたらぜひ会いましょうって泣いて喜んでくれてね」 「それほんとに喜んでたんですか?」 「もちろん、何でも話すからこれっきりにしてくれって頼まれたよ」 「嫌がられてるじゃないですか」  一体どんな頼み事をしたのだろうか。この人のことだからどうせろくでもない言い方をしたに違いない。きっとアリスちゃんの顛末もろくに包み隠さず話したのだろう。  アリスちゃんの叔父さん——では無いのだが、ややこしいから叔父さんと呼ぶ——は僕や前条さんと同じく、サーカスに行ったことがある人だ。僕にとっては前条さん以外に初めて知る『サーカスに行った人』なのだが、彼は入場料として足を持っていかれたのだという。 「アリスちゃんの件についても聞けたら嬉しいなあと思ってんだけど、どうかな。ピエロを見たのは彼女だけだって言うし……なんにしろ、一度直接話を聞きに行くから三日くらい事務所閉めるね」 「三日も?」 「兵庫に居るって言うから、俺のペースだとそんくらいかかる。正直来てもらった方が有難いんだが、無理だってさ」 「そりゃまあ、足が無い人相手に遠出しろってのは無理があるでしょう、けど…………」  しまった、と思ったときにはもうすでに遅かった。  夢路先輩の家にも負けず劣らずの古ぼけた二階建てのアパート。すっかり見慣れた我が家はいつの間にやら直前にまで迫っていた。  心臓が嫌な音を立てている。どうにかしてこの状況を避けなければ、と思うのに僕の思考は錆び付いたかのように動かない。  振り返った前条さんが、縋るようにブレーキを握りしめる僕を楽しげに見下ろす。 「バイトもあるだろうし、けーちゃんはお留守番してていい。だからさ、ちょっと出発前に手伝ってくれない?」 「て、手伝うとは、」  悪あがきだった。一から十まで理解しているくせに分からないふりで逃げようと、逃してはくれないかと祈った。震え声で尋ねた僕に、前条さんはゆるりと目を細めた。 「俺のこと抱いてよ」  息を呑む。あまりにも美しい笑みだった。自分を一番効果的に見せる方法を知っている男の笑みだ。これまでに何度も浮かべてきたのだろう、人を誘う為の小馴れた笑み。  慌てて片手で顎を固定する。知らない内に頷いてしまっていないか、本気で心配になった。「何それ、なんかのまじない?」などと笑う前条さんを無視して、この、抗いがたいほどの頷きたい衝動を堪える。  心臓と共に体温を失くした前条さんは、どういう理屈かさっぱり分からないが――分かりたくもないが、性交渉をして、体内に精液を取り込んだ時に寒さが和らぐとかいう体質の持ち主らしい。 考えただけでも目眩がしてくるような体質だが、冗談でも嘘でもないそうだ。こればっかりは嘘であって欲しいのに、これに限っては嘘ではないと言う。  あまりにも寒いと耐えきれずに動けなくなるらしい前条さんは、必要に応じて不特定の人間と性交渉を行い、寒さを紛らわしてから行動する。必要に応じて――つまりは、遠出をする際。今のことである。  ここで頷いてしまったら、僕は前条さんとそういう行為をして、彼の中に出すことになる。体温が二度ほど上がったような錯覚。震える喉を、顎を抑えていた手で掴み、数秒唸った僕は、それでも、絞り出すように拒絶を口にした。 「だ、駄目です」  死にかけの蛙みたいな声で言った僕に、前条さんの瞳が酷く詰まらなそうな冷めた色を浮かべる。不満げに歪んだ唇が、拗ねた様子で開かれた。 「一体何が駄目なんだよ。元カノちゃんにやってたことを俺にすればいいだけだろ?」 「はっ!? そん、そんなこと出来ませんよ!」 「えっ、何、そんなに凄まじいプレイしてたの? 頑張れっかな俺……」 「頑張んなくていいです! 必要ないんで! 性交渉の内容ではなくて性交渉を行うこと自体が出来ないって言ってんです!」 「えっちって言うのやめたんだ?」 「ええやめました、馬鹿にされるんで!! 違う! 今はそういう話じゃない!」  そもそも別に言いたくていった訳じゃない。口から滑って出ただけだ。気が動転している時に冷静ぶった物言いが出来るような人間ではない。  今も動転はしているが、少なくともあの時よりは冷静である。距離と逃げ場があるというのが大きい。物理的にも、精神的にも、僕はまだ極限までは追い詰められてはいない。大きく深呼吸し、何とか場を切り抜ける言葉を探す。 「……ぼ、僕は、付き合ってもいない相手とそういうことは出来ません」 「俺は出来るよ。心の在処さえ変わらないなら何の問題もない。もしくは今ここで付き合ったって構わないし」 「…………どこに在るんですか? 『けーちゃん』ですか?」 「うん? うん、そう。分かってんじゃん」 「じゃあ、尚更駄目です」  にんまりと笑んだ唇が、妙な冷静さを持った僕の声にきょとん、と緩く開いた。  何度か瞬いた瞳に映る色があまりにも澄んでいて、一瞬、何が駄目だったのかよく分からなくなりかけたが、それでも此処で言わなければ言う機会を見つけられそうに無い、と纏まりのない感情をそのまま口にする。 「……月下部さんから聞きました。前条さんは5年以上前から『けーちゃん』って人を探してたって。でも僕にはアンタと会った記憶がない。覚えもない。そりゃ……覚えがなくたって会ってるのかもしれませんけど、前条さんが求めている人が本当に僕だったとして、僕が覚えてもいない僕と今の僕は本当に同じ人間なんですか? アンタの言ってる『けーちゃん』って、本当に僕なんですか」  アンタは本当に僕を見てそう言っているんですか。僕は誰かの代わりではないんですか。  口に出すのも辛くなって、形になっているかも怪しい掠れた声で呟いた僕の言葉を正しく聞き取った前条さんは、微かな吐息を零した。どこか、痛みを堪えるような沈黙が落ちる。  一度、ゆっくりと瞬いた前条さんは、常よりも覇気に欠ける声で、それでも淀みなく言い切った。 「けーちゃんはけーちゃんだよ、間違いない。俺が間違えるはずがない。なんだっけ? 俺が求めているけーちゃんとお前は同じ人間か? くだらないこと聞くんだな。俺は今、目の前に立ってるお前に話してんだろうが。俺にとってのけーちゃんはお前だ。お前が良いんだよ」 「だったら、一度くらい名前で呼んでくれたって良いじゃないですか」 「…………成る程、分からないくせにそこには拘るのか」  低く掠れた声で呟いた前条さんは、一瞬探るような視線を僕へと向けると、疲れとも諦めともつかない吐息を零した。 「逆に聞きたいんだが、けーちゃんはもしも『けーちゃん』なんて俺が勝手につけた渾名だよ、って言えば満足するのか?」 「…………いえ」  数秒、考えて出た答えが否だったことに、自分でも驚いてしまった。  仮にそれが事実だったとして、そう言われても絶対に納得できない。僕の中の何かがそう言っている。でも、それが何かは分からない。  困惑する僕をじっと観察するように見つめた前条さんは、考え込むように黒手袋の指先で唇を叩くと、再び小さく息を吐いた。 「お前は自分が『けーちゃん』と呼ばれることに強い違和感を覚えていて、その理由を記憶に求めている。けどな、けーちゃん。思い当たる時点でそれは理由じゃないんだ。けーちゃんが思い至らないことこそが理由だよ。けーちゃんがいくら考えたって辿り着けない。だから俺はお前をけーちゃんとしか呼ばないし、俺が呼ぶ限りお前はけーちゃんなんだよ」  さっぱり意味が分からなかった。困惑が丸ごと顔に出た僕に、前条さんは珍しく苦笑を浮かべる。 「いいぜ、試してみようか。けーちゃん、今から俺の話すことをよく聞きな」 「え? あ、はい」  訳が分からないながらも、前条さんが僕の話を真剣に受け止めてくれていることだけは分かったので素直に頷く。耳を傾ける僕の前で前条さんはゆっくりと口を開き――――、  ぱちり、と僕は一度瞬いた。 「あの、すみません。前条さん、今なにか言いました?」  何かがおかしかった。確かに今、僕は前条さんの口から紡がれた言葉を聞き取った筈だった。だが、その記憶がどこにもない。『なにか言葉を交わした』という記憶だけが残っている。奇妙な違和感。  困惑する僕に、前条さんは少し悲しそうな顔で笑った。 「……ほらね」  消え入りそうな呟きが耳を撫でる。未だ目を白黒させながら狼狽えるしか無い僕に、前条さんはわざとらしく伸びをしながらぶっきらぼうに言い放った。 「はーあ、分かった分かった。ごちゃごちゃうるせえけど、つまりけーちゃんは俺としたくないんだな。だったらしょうがない、別のやつのところに行くよ」 「え? いや、ちょ、ちょっと待ってください。どうしてそうなるんですか」 「だってそうだろ? 俺は何もけーちゃんとただヤりたいから言ってるわけじゃないんだぜ? 今回は必要経費として求めている訳で、けーちゃんが嫌だって言うなら他の奴のところに行かなきゃいけなくなる。しけた話ばっかりだと良い加減寒さも耐え難いしな」  じゃあ、そういうことで。あっさりと言い放った前条さんは、踵を返すと今し方歩いてきたばかりの道をゆっくりと戻り始めた。  その腕を思わず掴んでしまったのは、僕にとっては完全に想定外で、前条さんにとっては確実に想定内だっただろう。何せ、振り返った前条さんの顔にはなんともご満悦な笑みが浮かんでいたのだから。 「――――言っておきますけど、まだするって決めたわけじゃないですからね」 「はいはい、靴脱ぐまでに三回は聞いてるよそのセリフ。まだってことは最終的にはするんだろ? いつ決めんの? 風呂に入ったら?」 「まだと言ったらまだです。まだじゃなくなるタイミングは僕が決めますし、まだじゃなくなるかどうかも僕が決めます」 「それでも構わないけど、準備してきたのが無駄になるから俺としてはさっさと決めてほしいね」  カバンを放り投げ、とりあえず飲み物でも飲んで落ち着こうと冷蔵庫を開けている僕の手が止まった。  一瞬、手と同じく止まりかけた思考が凄まじい勢いでフル回転を始める。準備、と言うのは何を指すのだろうか。  前条さんは無論、僕とそういうことをするためにここに来た。つまりは男同士でするための準備と言うやつだ。僕の脳内を興味本位で調べたありとあらゆる方法が駆け巡る。そう、受け入れる側と言うのはとにかく準備が大変なのである。なるほど、そういうのは事前に済ませてくるものなのか。なるほど。……なるほど。  ゆっくりと、ぎこちない動きで、リビングでくつろぐ前条さんを見やる。僕のベッドに横になり、勝手にエアコンを付け始め、布団に潜って楽しげに笑う前条さんを。 「はは、けーちゃんの匂いがする」  あそこに横たわっている身体は、僕に抱かれる為の準備が済まされている。  目眩を通り越していっそ頭痛すら覚えた。  横たわられてしまったベッドは、きっと彼が帰った後もあの、妙に甘く柔らかい香りを含んだままになるのだろう。今ここで彼に触れることなく帰してしまえば、僕はそれに包まれたまま寝る羽目になるのだ。触れられなかった後悔に苛まれながら。  獣じみた唸り声が喉の奥から溢れた。しかし同時に、泣き言めいた台詞も漏れる。 「やっぱり、だめですよ、こんなの」  僕の枕を弄んでいた前条さんが、力が抜けたように突っ伏した。深い溜息の後に、恨めしげな目が向けられる。 「駄目な理由は俺が潰してやっただろ? 他に一体何が『駄目』なんだよ。俺はけーちゃんとセックス出来て嬉しい、けーちゃんも好みの面のやつに気持ち良くしてもらえて嬉しい。都合良いだろ? 嫌がる理由がどこにあるよ。何か、付き合えばいいのか? それとも、やっぱり今の俺じゃ——、」  珍しく、苛立ちを含んだ声だった。最後、微かに揺れた声を誤魔化すかのように舌打ちが響く。  確かに苛立ちもするだろう。誘われるたびに拒否しておいて、かといって他の人のところに行かれるのは嫌で、でもやっぱり出来ないなんて言い出す。相手が女の子なら、いや女の子じゃなくても軽く引っ叩かれてるような態度だ。  でも、やっぱり、考えれば考えるほど、僕には前条さんとそういうことは出来そうになかった。  暗く淀み始める黒い瞳に気圧されつつ、なんとか誠実に僕の気持ちを伝えようと試みる。 「だって、……だって、」 「だって?」 「こ、このまましたら、僕、なし崩しにアンタのこと好きになっちゃうじゃないですか」  好きになるのを止められないじゃないですか。アンタのこと、好きになりたいわけじゃないのに好きになっちゃうじゃないですか。  別に前条さんが嫌いってわけじゃない。初対面から散々振り回され、訳も分からず側にいる羽目になっているが、特段嫌いではない。けれども、喜んで好きになりたい人種かと問われれば、答えは否だ。  だってそうだろう。こんな人を好きになったりした日には、どうあがいたって平穏無事には程遠い人生を送る羽目になる。今だって到底、平穏無事とは言い難いけれど、恐らく更に悪化するだろう。  今ならまだ逃げられる。逃げようと思えば離れられる。だが、好きになってしまったら話は別だ。  離れたいのに離れられない、なんてことになってみろ。目も当てられない。  惚けたように固まる前条さんの前で、僕は形になる前の思考を舌に乗せた。 「それに僕、まだ忘れられない人がいて」 「……元カノちゃん?」 「違いますよ、ええと、なんて言ったらいいか分からないんですけど……初恋のお姉さんがいて」 「初恋なんて実らないもんだろ、さっさと忘れちまえよ」 「ぼ、僕だって忘れたいですよ。でも頭から離れてくれないんです。名前すら知らないのに、いつまでも引きずってて馬鹿みたいですけど……その人、前条さんに似てて。僕、あの、あんなこと言ったけど僕の方こそ代わりとして見てないかと——いやそれはないな、失礼すぎるな。ちょっと待ってください、話をまとめますから」 「…………そいつ、どんなやつなの」 「え?」 「初恋だよ、初恋のやつ。あんだろ、見た目とか、声とか、…………服装とか」 「さっき言ったじゃないですか、前条さんに似てて、声は……ちょっと覚えてないですけど……、ええと、……そうだ! セーラー服着てました、黒地に赤の、調べたら神楽坂高校ってところの制服で、でも聞いてもそんな人居なくて、しかも僕の実家からも凄い離れてて、だから尚更訳わかんないんですけどとにかく——、前条さん? なんか笑ってます?」  気付いた時には、ひっ、と前条さんの喉が震えていた。  しゃっくりに似たそれは、ひ、ひっひ、と、引きつった笑い声に変わっていく。  今までに見たことのない笑い方だった。  うひ、ひぇ、ひっひ、ひぃ、まっ、待、ひぇっひぇっ、っ、ぉえ、げほ、ぇほ、ごほ。  噎せたぞこの人。なんなんだ。  困惑する僕の前で堪えるように体を丸め、笑いすぎて溢れた涙を拭った前条さんは、息を整えつつ未だ笑いの残る声で言った。 「くっ、ふ、お、思い出せないのに、覚えてんのか? 面食いッ、どころじゃねえよ、うそだろ、ひっ、ひひ、マジかよこいつ、」  イカれてんな、と呟く前条さんの言葉が誰を指しているのか察して、よく分からないままに眉間にシワが寄る。アンタにイカれたやつ呼ばわりされたくないんですけど。ただちょっと初恋引きずってるだけじゃないですか。 「と、とにかくそういう訳ですから、僕の気持ちの整理がつくまで、もうちょっと待ってくれませんか」 「いやだね、待てない」  即答だった。ほんの数秒前まで笑い転げていた前条さんは、滑らかな動作でベッドを降りると、迷いなく僕の腕を掴んだ。  逃げようとした足を取られ、遠慮も手加減もなく抱き上げられる。おい待て、ちょっと待て流石にいくら僕がアンタより小さいからってこれは、 「ちょっと前条さん、ふざけ——わぷっ!」  お姫様抱っこで運ばれた挙句、いとも容易くベッドに放り投げられてしまった。男の沽券に関わるぞ、と涙目になる僕に、前条さんが覆い被さってくる。息が止まった。 「俺ねえ、別にけーちゃんに好きになって欲しかった訳じゃないんだよ。だから俺の物にするだけで充分だったし、ずっとそうしておくつもりだった。でもけーちゃん、この顔でもまだ好きだろ? 身体の関係くらいならいけんじゃねえかと思ったんだ。それだって別にお前が手を出さないなら諦めたって良かった。ただ、もう無理だね。そんなの聞かされて、我慢できるわけがない」  僕の身体を跨いだ前条さんが、逃すまいと顔の両脇に手を突く。そんなことしなくたって逃げられる訳がないのに。 「けーちゃん、これは必要だから言うんじゃないぜ。俺がそうして欲しいから言うんだ」  この人の声は、震えていても美しいんだな、なんて、場違いなことを考えた。考えなければ意識が飛んでしまいそうだった。  浅く息を吐き、緊張を滲ませながら吸った前条さんは、真っ直ぐに僕を見つめて言った。 「俺のこと抱いてよ」  それで、俺のこと好きになって。  祈るように口にした前条さんの顔に浮かぶのは、驚くほど不恰好な笑みだった。今にも泣き出してしまいそうな、崩れた笑み。誘うために作られた、魅せる為の笑みではない。  彼は本心から言ってるのだ。嘘偽りなく、今ここで、僕を求めて言っているのだ。  もはや逃げ場は無かった。あったかもしれないが、逃げる気がなかった。だってこんな顔で、こんな声で求めてくれる人を突っぱねるなんて、そんな酷いこと出来るかよ。 「前条さん、その、僕————」  答えを返そうと口を開き、緊張で震え、きつく目を閉じる。  決意を固めた瞬間、僕の呼吸音に無機質な電子音が重なった。 「…………」 「…………」  沈黙を切り裂くように鳴り続ける電子音。  僕のものでは無い。未だ二つ折りの携帯を使い続ける前条さんのコートのポケットからである。  恐る恐る目を開くと、明らかに興が削がれた顔をしている前条さんと目が合った。大丈夫です、僕も大体同じ気持ちです。  本当、なんでこのタイミングなんだ。  電子音が止む気配はない。  電話、鳴ってますよ。掠れて上手く言葉にならない声で伝える。苛立ちを含んだため息を吐いた前条さんは、鳴り続ける携帯電話にうんざりと目を細めつつも、諦めたようにそれを取り出した。画面を確かめ、小さく舌打ちの音を響かせる。 「謙一のやつ、こんな時にまで邪魔しやがって」  くたばれ、と吐き捨てつつも無視はできないのか、前条さんは渋々と言った様子で電話を取った。 「何、俺いま忙しいんだけど」  無論、僕に乗ったままで、だ。丁度、完全に騎乗位の位置である。勃ちませんように、勃ちませんように、勃ちませんように。三回唱えたのでどこかの流れ星は叶えておいてほしい。  しかし、そうか、相手は例の『謙一さん』なのか。  月下部さんの恩人であり、前条さんの伯母だというその人に、僕は少なからず興味があった。  あまり褒められた行為ではないと知りつつ、耳を澄ませてしまう。それに、単純に気を紛らわせるものが欲しかった。 「小言は良いからさっさと用件を言え。お前の声聞いてると萎えるんだよ」  吐き捨てるように言った前条さんは、苛立ちを露わにきつく眉根を寄せる。こんなに分かりやすく嫌悪感を顔に表す前条さんを見るのは初めてだった。今日はこの人の初めての顔ばかり見る日だ。  それ以上言葉も交わしたくないのか、前条さんは電話を耳に当てたまま黙り込む。すると、向こうの声は微かにだが僕にも聞き取れるようになった。  電話口から聞こえてきたのは、確かに女性の声だった。内容は不明瞭で聞き取ることができないが、電話越しですら平淡な印象を受ける声だ。  相槌を打つこともせず謙一さんの語る用件に耳を傾けていた前条さんだったが、話の途中、明らかに顔に怯えが浮かんだ。 「送り主は? 本当にあいつだったのか?」  微かに息を呑んだ前条さんが、返事を聞き取って唇を噛む。下手したら食い破るんじゃないかというほど強く噛み締めた前条さんは、感情の逃げ場を求めるかのように細く息を吐いた。 「……それで? なんて書いてあったんだよ」  ようやく、と言った調子で問いかけた前条さんの引き攣った声に、電話口の声が答える。どうやら何かを読み上げているらしいが、聞き取ることは出来ない。  訝しみつつ耳を傾けていた僕は、そこで前条さんが完全に沈黙していることに気づいた。初めから相槌を打つつもりはないようだったが、この沈黙はきっと意図せぬものだ。  呆然と宙を見つめる前条さんの耳には、話し続ける謙一さんの声が届いているようには見えなかった。  動揺が視線の揺らぎにそのまま表れている。 「……前条さん? その、大丈夫ですか」  少し様子がおかしい。伸しかかられているものだからろくに身動きが取れず、空いている手で呼び起こすように前条さんの足を叩くと、彼は大げさに肩を跳ねさせた。 「え? あ、ああ、大丈夫……」  大丈夫、と全く大丈夫ではない様子で繰り返し呟いた前条さんは、ようやく意識を取り戻したのか電話口へと語りかけた。 「——とりあえず事情は分かった。都合がついたらすぐ向かう。ただ、こっちも二、三日中にサーカスに関わったやつに会いに行かなきゃならない。お前と会うのはその後だ。……分かってるよ、でもまだ何か起こった訳じゃないんだろ? ただ、手紙が……送られてきただけだ。  そうだよ、何か、そういうのなかったか? 死んだ後に届くやつ、そういうのだろ、悪趣味な、……分かってる。分かってるよ、行けば良いんだろ。言い訳じゃない、本当に見つけたんだよ。サーカスに行って、子供を作ったやつだ。その娘がピエロに会ったって言ってたよ、他者に魂を入れる方法について教えてもらったって。同じだったよ、そう、全く同じ。……なあ、お前俺に隠してることがあるよな? こっちだって聞きたいことがあんだよ、会わない訳ないだろ。  ただもう約束してる。先にした約束を優先するってのは、真っ当で、まともで、普通のことだろ。そうなって欲しいんだろ、俺に。お望み通りじゃないか。だったらもう黙ってろよ。都合ついたらこっちから連絡する」  前条さんは返事も待たずに通話を切ると、そこで股の下の僕の存在を思い出したらしく、ぱちりと一度目を瞬かせた。  取り繕うかのような笑みを浮かべた前条さんは、さっぱりついていけていない僕の頭を軽く撫でると、ごく軽い調子で言った。 「ごめんな、けーちゃん。やっぱり今日は他の奴の所行くわ」 「え? えっ? な、なんでですか」  僕の口からは何も考えないうちにそんなセリフが飛び出していた。  でも、だって、そうだろ。僕はちゃんと、応えるつもりだった。口に出来なかったのは電話が入ったからで、僕の意思じゃない。  抗議の意を込め身を起こしかけた僕の頬を優しく宥めるように撫でた前条さんは、少し苦しそうに囁いた。 「けーちゃんとする時は、けーちゃんの事だけ考えていたいんだよ。今はそれが出来ない」  だからごめんね、と告げた前条さんは、固まる僕の額に優しく口付けると、引き止める間も無く部屋を後にした。さりげなく、当然のように鍵を閉めていったが、突っ込む気力も余裕もなかった。  明るい天井を呆然と眺めながら、階段を降りていく重い足音を遠く聞く。  そうか。あの人は、本気で、僕の事だけを考えて僕に抱かれるつもりだったのか。  それでいて、そんなことを言った口で他のやつに誘いをかけるのか。そうしなきゃならない理由が出来てしまって、そして、それは僕には話せないことなのか。  今夜は眠れそうになかった。   2  翌日。寝不足の僕は欠伸を噛み殺しながら、小宮の上がる時間に合わせてバイト先へ向かった。丁度出てきた小宮が自転車に跨がりかけ、僕の存在に気づいて少しだけバツの悪そうな顔をする。  どうやら酔っていたとはいえ昨日のことは覚えているらしい。なんと声をかけたらいいものか迷い、曖昧な笑みを浮かべつつ挨拶を交わす。 「えっと、昨日のことなんですけど」 「あー、どうだった? 夢ちゃん先輩怒ってなかった?」 「いえ、特に怒っては……むしろ空気悪くしてごめんなさいって言ってました。でも、本当にそういう話が苦手みたいで……」 「そっかー。まあ、そういうの苦手っぽい顔してるしなあ。最後に悪いことしちゃったわ、謝っとく」  ノリと勢いで生きているが悪い人間ではない。付き合いの浅い僕ならともかく夢路先輩の気分をわざわざ害するつもりはないのだろう。ただ、決定的に『合わない人間』なだけだ。  案外あっさりと頷いた小宮に一先ず安堵の息を吐く。本題はこの先だ。初手から躓いていては先が思いやられる。仕事終わりでさっさと帰りたいのか自転車に跨がり始めた小宮を引き止め、僕はわざわざ彼を訪ねた理由を口にした。 「あ、あともう一つ話があって」 「うん?」 「昨日言ってた、心霊スポットのことで……夢路先輩が怖がるから僕の雇い主にも確認してみたんですよ。そしたら、結構ガチでやばいところらしくて……胡散臭いとは思うんですけど、行かない方が良いと思います」  寝ぼけた頭で考えた文言だったが、引き止めるには十分だろうと判断した。これで行ってしまうのならそこから先は小宮の責任だ。  あとは全てを小宮に丸投げする気持ちで吐き出した僕に、小宮は戯れにベルを鳴らしながらごく軽い調子で口にした。 「それなんだけどさー、俺たち、もうそこ一回行ったことあんだよね」 「はあ……はい!?」  ぢりんぢりんと響く古いベルの音に紛れて吐き出された台詞に、僕は数秒遅れて反応した。 「え、行っちゃったって……、大丈夫だったんですか?」  思いもよらない言葉が返ってきたので狼狽えてしまった。  いや、でも、そうか。確かに、小宮たちは昨晩の飲み会で『心霊スポットに行った話』をしていた。店長の相手をしていたので話半分にしか聞いていなかったが、確かにそう言っていたと思う。  え、ええ……、この場合はどうしたらいいんだ? もう既に行っちゃったって、止めるとか止めないとか以前の話だよな。  先輩にはなんて言えば良いんだろう。予想していなかった言葉に混乱する僕に、小宮はどこか心ここにあらずといった様子で続けた。 「それがさあ、俺たちは大丈夫だったんだけど、ちょっとさ……専門家?みたいな人に見てもらいたいな~って思うようなことがあってさあ」 「ええと、それってどういう?」  小宮が言うには、小宮たちが廃病院に肝試しに行った時、そこには既に別のグループが来ていたそうだ。  数人の男女が病院の中に入っていくのが見えたのだという。男女混合、という時点で目的は自分たちと同じだと思ったらしい小宮はそのグループに声をかけた。  軽く冗談交じりに相手が幽霊でないかを確かめ合った小宮たちは、彼らが医学生のグループであることを聞き出した。メンバーの中に一人『そういうの』が好きなやつが居るとかで、彼らも小宮たちと同じく肝試しに来ていた。  持ち前のノリの良さで一気に打ち解けた小宮と医学生グループは、人数が多いほうが面白いからと一緒に回ることにしたらしい。 「そん時だよ、アレが起こったのは」  脳天気な小宮にしては珍しく、ごく真面目な顔をした彼は声を潜めながら続けた。ベルが煩いので正直もう少し声量を上げてほしかった。  医学生グループの薀蓄や軽妙なトークに小宮たちが連れてきた女の子の方まで惹かれ始め、「これまずったんじゃね?」などと作戦ミスが頭を過り始めた頃。  それとなく帰る方向へ持っていこうとしていた小宮が会話のシミュレーションに精を出していたところで、突如医学生グループの一人が叫び声を上げて倒れ込んだ。  半狂乱で何かを振り払うように腕を振り回し、訳の分からない言葉と共に嘔吐したのだという。最初は悪ふざけだろうと笑っていた他のメンバーも、吐き出した辺りで顔色を変えて倒れ込んだ男へと駆け寄った。  一応、医師を目指すものだ。対応しようという気概はあった。だが、場所が悪かった。時刻は深夜。しかも、肝試しに来ていた廃墟である。  大抵の人間は冷静ではいられない。小宮たちのメンバーは真っ先に恐慌状態に陥り、我先にと逃げ出した。悲鳴と足音が反響し、恐怖は瞬く間に伝染した。  小宮が我に返ったのは、戻った先の車の周りで泣きじゃくるメンバーと合流してからだったという。  車の持ち主である男が来ないと帰ることも出来ない。暗闇の中、メンバーの中で狙っていた女と懐中電灯の明かりを頼りに身を寄せ合い、途中なんかちょっといい雰囲気になり、二人一緒に小宮の家に送り届けてもらったらしい。いや、そこは聞いてねえよ。話すな。 「そんでさあ、一応ニュースとか調べてみたワケ。怖いじゃん? あれで死んじゃってたら、俺ら死体遺棄?なの?みたいな。でもなんも出てこねーし、もう一回行く気にはなれねーし? だから櫛宮がオカルト事務所で働いてんならついでに調べてもらおうかなーって、そういうの知ってたらちょっとかっこいいじゃんね」 「……いや、別にかっこよくはないと思いますけど」 「なんで? かっこいいじゃん、祓いたまえー」  笑いながら言う小宮は、どうやら本気でそう思っていて馬鹿にしているつもりはなさそうだった。だというのに馬鹿にしているように聞こえるのは、多分喋り方の問題なんだろう。  手持ち無沙汰にベルを鳴らし続けた小宮は「行かねえ方が良いっていうならもういいや。彼女待たせてるしもう行くな」とへらへらしながら告げて去っていった。  自分も呪われているかもしれない、などとは微塵も思っていない辺りが小宮だった。  謎の脱力感に襲われながら、僕も帰路につく。一先ず先輩の頼み事を達成した気の緩みで眠気が襲ってきたので、帰宅した僕は昨日の寝不足を取り戻すかのように昼過ぎまで眠り、夕方からのバイトに備えた。  予想通り若干遠巻きにされ、送別会を台無しにしたと店長に小言を言われながら仕事を終えた僕が自宅で就寝の準備をしていた頃、前条さんから電話が入った。  正直言って出たくなかったが、職務上の連絡だったら困るしな、と言い訳しながら渋々といった体で電話を取った。 『もしもし、けーちゃん? 聞き忘れたんだけどさあ、何か欲しいお土産とかある?』 「アンタまさかそんなくだらない用件で電話かけてきたんですか?」 『だってけーちゃん寂しいだろ?』 「寂しがってんのはアンタでしょ」 『ああ、そうだよ。寂しいから電話しちゃった』  ちょっとした意趣返しのつもりだったのだが、返ってきたのは楽しげな笑い声だった。  何故だか僕の方が恥ずかしくなって口をつぐむ。数秒の沈黙。明らかにこちらの様子を伺い、楽しんでいる前条さんにいたたまれなくなった僕は、苦し紛れに昼間小宮に聞いた話を口にした。 「そ、そういえば今日、小宮に話を聞いたんですよ。あ、小宮ってのは僕のバイト先のちょっとムカつく同僚なんですけど、それでその小宮がですね、どうも例の砂上病院に行ったらしくて」 『呪われて帰ってきちゃった?』 「いや、小宮は無事みたいです。僕にはわかんないですけど。ただ、小宮がそこで突然呻いて倒れる人を見たらしくて……」  昼間小宮から聞いた話を簡単に説明すると、前条さんはさほど興味が惹かれた様子もなく相槌を打った。 『ああ、目をつけた餌が居たから見逃された訳か。良かったね』 「……結局どういうところなんです? その、砂上病院ってのは」  青ざめた先輩の顔を思い出す。『死んでも構わない人じゃないでしょう?』 少し震えた声は、確かに件の病院の恐ろしさを知っている人間のものだった。  だが僕は実際例の病院がどういうものか知らない。けーちゃん、ちょっとは自分で調べるとかしたら?と笑いながら言う前条さんに、それが出来ていたら勉強だってもっと出来てましたよと返しつつ、一応は説明してくれるつもりらしい前条さんの言葉を待った。 『一言で言えば「堕とされた神が居座ってる場所」だな』 「ええと……神様というと、例の橋みたいなもんですか?」  確かに、あれはかなりヤバかったように思う。橋の下から這いずり出てくる腕の群れを思い出して少し気分が悪くなった。  あんなのが他にも居るのか。八百万、などというのだからもっと居るのかもしれない。八百万って。居すぎだろ神様。 『アレもアレで神の類だけど、砂上とは違う。信仰を必要としない、ただ在るだけのもんだからな』 「違うんですか?」 『砂上のは、使って使って使い倒して、どうにもならなくなったところで捨てられたカミサマだ。残り滓と怨嗟と未練で出来た化物。人間に対して明確な悪意と恨みを持ってるから、ちょっとやそっとじゃ引き下がらない』 「神様を使う……?」  今ひとつピンと来ない僕に、前条さんは少し悩んでから説明を始めた。 『神に祈る時ってのは幾つかルールがあるよな。参拝時の礼だとか、約束事をしてはならないとか、見返りを用意しなければならないだとか。まあ神によって違うんだが、たまに居るんだよ、そういうルールを全部すっ飛ばして神に「要求を通せる」奴が。そういう本物は、神でも欲しがるような代物を平気な面で差し出して、依存させて、使い捨てる。叶えられる力を上回る要求を通して、使えなくなったらそこら辺に捨てて終わりだ。  砂上様も昔は綺麗な女神様だったらしいが、今じゃ酷いもんだよ。砂上の怪談、けーちゃんは知らないんだったな。あそこ、目をつけられると記憶を食われるんだ。でかい鳥の化け物に押さえつけられて襲われて、嘴で頭を突かれる。付きまとわれて、少しずつ頭をほじくり返されて、最後には自分の名前も分かんなくなっちまって死ぬ。  見た目の異常は無いもんだから、大抵はただの精神病扱いで弔ってお終い。知ってるやつもいるかもしれないが、言った所で異常者扱いされるのが落ちだからな。口には出さないだろ』  小宮から聞いた話が脳裏に浮かぶ。  廃病院で突如倒れた男。叫び声を上げながら暴れ、嘔吐する彼の上に鳥の化物が伸し掛かる様が勝手に付け足され、僕は慌てて頭を振った。  深夜に一人の部屋で想像するようなことじゃない。 「…………それは、前条さんにはどうにも出来ないんですか?」 『――出来ない、とは言わない。ただ、言ったろ? 俺はあそこの仕事は受けない』 「えっと、それは、どうして?」 『思い出すから』  恐らくその答えは僕に聞かせるつもりは無かったのだろう。耳元で響いたざらついた声はあまりにも冷たく、息苦しくなるほどだった。頭の奥まで凍りつくような声に、僕はその後前条さんとどんな言葉を交わしたのかすら覚えていないまま電話を切った。  いや、嘘だ。ひとつだけ覚えている。 『そういや昨日のおかずはちゃんと俺だった?』  うるせーばか。  うるせーばか。  アンタだったよ。死んでも言わないけどな。

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