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4:カノジョの話[4]

   3  一晩開けてなお募る苛立ちの中で目覚めた僕は、目覚めたもののそのまま一時間ほど天井を眺めて過ごした。  事務所に行かなくていい分バイトを入れても良かったのだが、正直しばらくバイト仲間から距離を起きたかった。若干引き気味のあの空気、小心者には耐え難いものがある。  大体のことは時間が解決してくれる。僕が妙なオカルト事務所に所属していることなんて、一週間もすればみんな忘れる。忘れるはずだ。忘れておいてくれ。  カップラーメンを啜りながら溜息を吐く。何もしないまま昼の一時を回ってしまった。  やることがなさすぎて暇だ。フリーターの日常なんてこんなものだ。これで、僕に趣味の一つや二つでもあれば別だったのかもしれないがそれらしい趣味は無いし、生憎と暇つぶしに使えそうなものは前条さんの事務所に持ち込んでしまっている。地蔵の待つあの部屋に一人で行くのは御免だった。  しょうがないから久々に一人カラオケでもするか、と立ち上がり、ふとスマートフォンの日付を見る。  母の誕生日だった。  財布を手に家を出る。  そうだ、実家に帰ろう。  約一ヶ月ぶりの実家だった。  なんだか懐かしい気持ちで帰宅の挨拶をすると、台所の辺りから母の声が聞こえてきた。 「――――あらぁ、やっぱり上手く行かなくなったのね。それで荷物はいつ送ってくるの? 理沙の服片付けてあげるから早く言ってよね」  顔も合わせない内に、まるで僕が一人暮らしに失敗して逃げ帰ってきたかのように言われてしまった。呆れを含んで響く声に、抱えてきたプレゼントが重みを増した気がする。  相も変わらず僕に対する信頼が今ひとつ感じられない。そもそも信頼を勝ち得るようなことをしてこなかったので当然だけれども、流石にひと月は無いだろ。いくら僕だってせめてもう少し頑張るよ。 「久々に帰ってきた息子に対してなんて言い草だよ。もっと懐かしむとかさ……無いの?」 「懐かしむも何も、まだひと月でしょ? これが一年帰ってこなかった子だったらもう少し違ったのかもしれないけど……」  笑いながら台所から顔を出した母は、ため息混じりに靴を脱ぎ捨て上がり込んだ僕と目が合うと、なんとも不思議そうな顔で動きを止めた。  見開かれた瞳がやがて訝しげに細められ、鍋の火を消した母が僕の元までやってくる。 「……アンタ、司よね?」 「は? え、司だけど。待ってよ、まさかたったひと月で息子の顔忘れたとか言わないよね?」  そんなバカなことがあるか。いくら僕に興味がないとは言えたかだかひと月を空けた程度で顔まで忘れてもらっては困る。  というか悲しい。さすがに悲し過ぎるだろ、それは。  悲しみと不信感に顔をしかめた僕に、母は心底不思議そうに首を傾げながら言った。 「忘れるわけないでしょ。ただ、そうね……そんなにお父さん似だったかしら? 違うわね、なんていうか……そう、顔立ちがはっきりしてきたっていうか」 「はあ? 顔立ちって……今更顔立ちも何もないだろ」 「そりゃそうだけど……変ねえ……。まあいいわ、別に何が悪いって訳じゃないし」  しばらく頰に手を当て首を傾げた母は、それでも僕のことより夕飯の支度が気になるのか、視線を台所へと戻した。 「あ、そうそう。おかえり、司」  途中、投げやりな出迎えのセリフを向けられる。  脱力しながら返事を返す。居心地が良いんだか悪いんだか、分からない家だった。 「あれっ、お兄ちゃんじゃん! 何しにきたの? 一人暮らし、失敗したの?」 「してねーよ。大体概ね順調だよ」 「ちゃんとご飯食べてる? お風呂入ってる?」 「食べてるし入ってる、お前こそ母さんに迷惑かけてないだろうな」  すっかり衣装部屋と化した元自室を眺め呆然としていると、喧しい足音を立てながら妹が現れた。ランドセルを投げ捨て、僕の姿を見とめるとからかうような笑みを浮かべる。 「お兄ちゃんほどじゃないよ、傷心旅行ならぬ傷心一人暮らし。そんなバカみたいな理由で一人暮らしなんかするから、この部屋だって私の洋服で埋まっちゃうんだよ?」  痛いところを突かれて黙り込んでしまった僕に、理沙は大人ぶったように澄ました顔で鼻を鳴らした。  返す言葉がない。きっと僕は綾音と別れなければ今もこの部屋でぬくぬくと実家暮らしを満喫していただろう。いや、そもそも綾音に振られずに済む進路を選んでいたのなら、それはそれで一人暮らしを始めることにはなっていたのかもしれない。  立派な進路を選んで、みんなに祝福されながら一人暮らしを始め、自立した男ですよみたいな顔で自室に彼女を連れ込んでいたりしたのかもしれない。そう、高橋満晴のように。  気分と共に舌も重くなり、軽く黄昏れていた僕に、宿題を広げ始めた理沙がふと口にした。 「そういえば、お兄ちゃんってそんな顔だったっけ?」 「はあ? お前まで母さんみたいなこと言うのかよ。僕、そんなに変わったか?」  毎朝顔を洗う時に自分の顔は見ている。特に一人暮らしを始めたからと言って顔つきが精悍になったとも言えない。みんな何をそんなに不思議がってるんだ?  自分でも首を傾げる僕の前で同じように首を傾げた理沙が、まじまじと見つめてくる。 「うーん、身長が伸びたわけでもないよね。なんだろうなぁ、よくわかんないんだけど、前よりもここにいるなあって感じ」 「前よりも、って……前はいるかいないのかわかんなかったのかよ」  少しばかりの不満とともに吐き出した特に、理沙はあっさりと頷いた。 「うん、前はどこにいるのか本当にわかんない時、たまにあったよ。お兄ちゃんて、喋ってないと存在感薄いよね」 「お前……久々にあった兄によくそんな暴言吐けるな。さすがにちょっと傷つくぞ」  確かに前条さんにも語ったとおり、僕自身家庭内での存在感のなさには気づいていた。だが自覚していようと真正面から直球で言われるのは堪える。 「しょうがないじゃん、本当のことなんだから」 「お前、そんなんじゃ今に友達いなくなるからな」 「大丈夫、お兄ちゃんの五倍はいるし」 「残念だけどゼロにはいくつかけてもゼロなんだよ」 「えっ……お兄ちゃん、友達ゼロなの……? ちょっと引くかも」  ちょっとと言いつつドン引きした顔で言い放った理沙の頭を小突く。うるさい、僕だって好きで友達ゼロ人やってるわけじゃない。  その後なんやかんやと理沙の宿題を見てやり、ほどほどに計算間違いをし、僕は小学生の妹よりも頭が悪いのかと悲しい気持ちになり、不貞腐れ、呆れられながらも久々に家族で食卓を囲んだ。 「ん? 司、お前ちょっと顔つきが変わったか?」 「父さん、それ三度目だからもう良いよ。分かったよ、悪かったね影が薄くてさ」  うんざりしながらすき焼きを頬張り、ぶつくさと文句を言い始めた僕に、父は困ったように笑いながらも、しっかりやってるようでよかったよ、と呟いた。  その後、母にハンドクリームとマフラーをプレゼントした僕は寝る場所が無いのでリビングに布団を広げることになった。  流石に布団は残っていた。捨てられていたら泣いていたかもしれないので本当に良かった。  理沙が早めに就寝し、母さんたちが二階に上がった所で、前日に続き着信が入った。画面を見る。前条さんだった。鳴り続ける着信音を聞きながら切ることも出来ずに数秒スマホを眺める。  うるさいんだけどー、と二階から苦情が入ったので止むを得ず、致し方なく、渋々ながら出ることにした。 「……もしもし? 今実家なんで、くだらない理由だったら切りますからね」 『実家? なんだ、今日こそオカズになってやろうと思ってたのに、また今度だな』 「切ります」 『それとも人に聞かれてた方が興奮するタイプ? けーちゃんそういうの好きそうだよな』 「すっ、好きじゃないですけど!?」  うるさいんだけどー、と二度目の苦情が入ったので、電気を消して布団を被った。  耳元でくつくつと押し殺したような笑い声が響いていて、羞恥に顔が赤くなった。良かった、電話で。いや、電話自体は良くないんだけど。とにかく。  黙って切ってやろうかと思ったが此処で切ったらなんだか負けたみたいで悔しい。  気を取り直すように咳払いをした僕はなんとか前条さんを言いくるめて会話を終わらせられる文言を探してしばし悩み、結局見つからなかったので再度咳払いをした。  いかん。このままでは無限に咳払いをする人になってしまう。どうにかしなければ。何度目か分からなくなり始めた咳払いを響かせた僕は、苦し紛れに手持ちのカード、『今日一日あったこと』を切った。 「じ、実は今日、母さんの誕生日なんですよ」 『へえ、そうなの。おめでとう、歌でも歌おうか?』 「結構です。それで実家に帰ろうと思って帰ってきたんですけどね、みんな酷いんですよ。僕の顔が前と変わっただとかどうだとか、『前よりも居る感じがするね』とか、――ひと月ですよ? たったひと月で家族の顔が曖昧になるって相当じゃないですか? 僕どんだけ影が薄いと思われてたんですか」  歌おうか?の後に歌い出しそうな呼吸音を聞いてしまったので、畳み掛けるように語りかけた。意地でも歌わせたくない。あれは一人きりの部屋で聞いていいような歌声ではない。そう、怪談と同じ類の何かである。  母親に語りかける幼稚園児のような必死さで朝起きてからの虚無と実家についてからの切なさ、美味しかったすき焼きの話をしていた僕は、そこで前条さんから全く相槌が返ってこないことに気づいた。 「……前条さん? 寝ちゃいました?」  かけてきておいて寝落ちするってどういうことだよ。一生懸命話していた僕が馬鹿みたいじゃないか。  なんだか拗ねたような気持ちになりつつ耳を澄ませていた僕は、電波を通した空気の雑音に、確かに小さな笑い声が混じるのを聞いた。 『ふふ、そう、けーちゃん、前より「居る」のか、へえ、そりゃあ、良かったな』 「良かった、んですかね……前から居たかったですよ、僕は」 『あー、はは、けーちゃん』 「はい?」 『けーちゃん』 「……なんです?」 『ふふ、けーちゃん』 「だから、」 『好きだよ』  それだけ言って、通話は切れた。  砂糖菓子みたいな声が耳から打ち込まれて舌まで味を伝え、甘味と欲望を一緒くたに感じ取った舌が動き、震えた喉が唾液を飲み込む。  息が詰まった。  時間にして丸々十秒。呼吸すら忘れて黙り込んだ僕は、被った布団を跳ね除けて爆発した。 「なんっなんだよ!?」  本日三度目の、うるさいんだけどー、が響いた。  翌朝。  あんた、落ち着きってものが全然身についてないのねえ、と呆れがちに言いながら朝食を用意してくれた母は、僕に皿洗いを命じるとパートに向かう準備を始めた。  ちゃんと鍵閉めておいてねと言い置いて玄関で靴を履いていた母が、ふと何かを思い出したかのように振り返る。 「そうだ、司。アンタの宝物ボックス、クローゼットの中にあるから持っていきたいものあったら持ってっちゃいなさいよ」 「宝物ボックス? あー……そんなようなの、あったっけ。でもいいよ、邪魔になるし置いといて」 「あらそう、こっちでも邪魔なんだけどね。もうラッキーアイテムは持って無くていいのかしら? 綾音ちゃんにもフラれたんだし、持っておけば?」 「は? ラッキーアイテム?」  近頃かなり馴染みのある言葉が耳を撫でていったので、慌てて台所から顔を出した。靴箱の上に置いた小さな鏡で最後のチェックをしている母に声を掛ける。 「ラッキーアイテムって何? 僕、そんなの持ってた覚えがないんだけど」 「何言ってるのよ、ほら、持ってたでしょ。なんだったかしら、恐竜のフィギュアみたいなやつ――あら? ええと、恐竜だったかしら、鳥だったかも、まあ、別に良いわよね。そういえば、片付けた時は見かけなかったわねえ……アンタ、すぐに物失くすんだから……ちゃんと管理しときなさいよ」 「恐竜? 鳥? フィギュアって、ちょっと、」  何のことだかさっぱり分からない。全く覚えのないことをつらつらと並べ立てられ、追いつかずに碌な疑問を口にすることも出来ずにいる内に、身支度を整えた母はさっさと出ていってしまった。  追いかけようと足を踏み出すも、手に持ったままの平皿から泡が落ちていることに気づいて慌てて流しに戻る。積み重なった皿を洗いながら、僕は意識だけをリビングのクローゼットに向けた。  母が『恐竜のフィギュア』と呼んだ物自体には心当たりがあった。  幼い頃に出先で色々なカプセルトイを回して集めまくった代物だ。恐竜だけでなく、仏像や盆栽、深海魚からサメのフライまで、目についたものは何でもかんでも回してきた。玩具ではなく、回すこと自体が好きだったのだ。結果溢れかえった玩具は僕の部屋に飾られることになった。  たくさん並んだ玩具の中に、多分恐竜のゾーンもあったと思う。けど、『ラッキーアイテム』ってなんだ?  ラッキーアイテム。前条さんと出会う前の僕だったら軽く聞き流していた単語が、妙に頭に引っかかる。  前条さんが口にした『ラッキーアイテム』に、特別な意図は無いのかもしれない。僕を雇うための言葉の網の一つでしかない可能性もある。  だが、僕がそれを思い出せない、というのが気にかかる。「思い出せないことこそが理由」だと、前条さんも言っていた。だったら僕が思い出せないことが重要なんじゃないか?  しばらく考え込む。 「そういえば一昨日何食べたか思い出せないな……」  考えている内によく分からなくなった僕は、自分の馬鹿さにげんなりしつつ思考を後回しにすることに決めた。 「――――分かった、カップラーメン塩バター味だ!」  実家から電車で一時間。見慣れた我が家に戻ってきた僕は、母から貰った手土産の唐揚げを頬張りながらようやく思い出せた一昨日の晩飯に思わず手を打っていた。  いやー、すっきりした。思い出せないままだったらゴミ箱を覗くしかなかった。その思い出し方は最後の手段にしたかったので本当に助かった。  恐らく何の意識もなく食事をしていたから思い出せなかったのだ。自転車の鍵を無意識に抜くと分からなくなるのと一緒だ。僕が馬鹿だからではない。まだセーフだ。  でかいタッパーにぎゅうぎゅうに詰められた唐揚げを三分の一ほど消費し、冷蔵庫にしまってからほっと息を吐く。  存在感がどうだとか、顔がどうだとか言いこそするけれど、こうして僕の好物を覚えておいてくれてもいるのだ。  父が良いお肉を貰ってきたから急遽すき焼きに変えたせいで消費しきれなかった誕生日会用の余りの唐揚げを詰めただけ、とかいう現実はこの際無視する。  どうせインスタントばっかり食べてるんでしょう、たまにはちゃんと肉食べなさい、肉、と渡された唐揚げは確かに母の味だった。  今度実家に帰るときにはちゃんと連絡入れて、好物でも作っておいて貰おう。母さんのオムライスは美味しい。自分で作ってもいまいちあの味にならない。何が入っているのか今度聞いてみようかな。  ひと月空けてまた顔を忘れられかけたら悲しいからな、二週間後くらいに行くことにする。  悲壮な決意を固めて自転車に跨がりバイト先のコンビニに向かっていた僕は、信号待ちの間にかかってきた電話に、やれやれと溜息を零しながらスマホを取り出した。  慣れた仕草でろくに画面も見ずに電話に出る。連日かかってきていたものだから、僕は当然のようにそれを前条さんからの着信だと思っていた。 「はいはい、なんですか。昨日散々話したでしょうが。あと、ああいう言い逃げみたいなのはもうやめてください、心臓に悪いんで」 『……司?』 「…………綾音?」  だから、あまりにも不意打ちすぎて、その着信が元カノの綾音からの連絡だと気づいたときには、僕はもう既に用件を聞いてしまっていたのだ。  バイト先に向かっていた自転車を方向転換させ、綾音との通話を終えたスマホでコンビニに連絡する。 「すいません、急なんですけど今日休みます、はい? えっと、その、知り合いが事故?かなんかに遭ったみたいで、いや、いや、嘘じゃないですよ! えっ、ちょ、ま、待って下さい本当に危ないみたいで、放って置けるような感じじゃ、ちょっ――店長!」  流石に僕もこれは非常識だな、と思ったりもした。確かに思った。当日の出勤間際に欠勤連絡って、ふざけんなよ、となるのも分かる。  だが此方だってただサボりたいから連絡した訳じゃない。それなりの事情があるから言っているのであって、断じて店長の顔が見たくないなとかそういう理由ではない。というかそれが理由ならいつだって休んでるし今すぐにでも辞めている。辞めるっていうか、たった今クビを宣言されたけど。 「……今日日ドラマでも聞かないぞ、あんな台詞」  そういうのって法律的にはオッケーなのか? どこかふわふわした頭で考えつつも、ペダルを漕ぐ足は止まらない。どうせ本気で言っている訳じゃないし、本気で言っていたとしても、別に構わない。  今の僕にとって重要なのは、別れた彼女が半狂乱で助けを求める電話をかけてくるほど追い詰められているということだけだった。  凄く恐ろしい何かに付け狙われていて、このままだと死んでしまうかもしれない。  それだけの事情を聞き出すのに十分もかかってしまった。何故か、雑音が酷かった。何かの鳴き声のような、甲高いノイズが入ってよく聞き取れない。  十分かけて聞き出し、要領を得ない内容に頭痛を覚えながらも、僕は待ち合わせに近場のファミレスを指定した。  正直、さんざん僕を詰って貶めて着信拒否まで済ましておいて、都合が良すぎやしないかという気持ちはあった。  泣きじゃくり、支離滅裂な説明の合間に助けてと繰り返す綾音の声を聞いて、僕の胸に浮かんだのは心配と苛立ちが半々くらいだった。  結局自分が困った時だけは頼ってくるんだよな、とか、まず最初に高橋に頼れよ、僕より数倍出来た男なんだろ、とか色々な気持ちがあったのだけれど、まず何よりも彼女の様子の異様さに、流石にこれは見過ごせないと思った。  そうしてやってきたのは、僕の地元と対岸町のちょうど間にある右岸駅の近くのファミレスだった。どうやら僕の方が先に着いてしまったようで、メッセージアプリで連絡すると『もうすぐつくから さきにはいってて』と返信が来た。  変換すら追いついていない。不安を覚えつつ、二人であることを伝えて案内に着いていく。 「――ごめん、待った?」  ドリンクバーを注文して待つこと十五分。僕の背後から乱れた呼吸音混じりの声がかかった。綾音の声だ。どうやら走ってきたらしい。 「大丈夫、そんなに待ってないから」  付き合っている頃に何度もしたやり取りにどこか胸が痛みつつ振り返った僕は、そこに立つ彩音の姿に思わず息を飲んでいた。  綾音は、すっかりやつれてしまっていた。  いつも外に出る時はかかさずメイクをしているのに、すっぴんのまま、綺麗に編み込んでいた髪も下ろしているだけで、遠目に見ても軋んでいた。  服だけは変わらずに可愛らしいのが、尚更異様だった。  お洒落に疎い僕ですら、綾音が『自分が可愛くあること』に心血を注いでいることは理解していた。  デートの時はいつだって『一番可愛い綾音』を見てほしいと完璧な姿しか見せなかったし、すっぴんなんて死んでも見せたくないと言っていた。  そんな綾音が、取り繕うことも出来ないほどに憔悴した顔で、こんな人目につく場所に来ている。  あまりの姿に言葉を失っていた僕だったが、どういう訳か、驚愕に目を見開き、言葉を発したのは綾音の方が先だった。 「誰が、司のこと、そんな風にしたの?」 「……え?」  唇を戦慄かせ、怒りに眉を吊り上げた綾音が、掴みかからんばかりの勢いで僕に詰め寄る。 「なんで、綾音には出来なかったのに、どうしてそんな風になってるの!? どうしてみんな綾音に出来ないことが出来るの!?」 「あ、綾音? とりあえず、落ち着けって、何の話かさっぱり分からない」  両肩を掴んで、一先ず僕の隣の席に引きずり込むようにして腰を落ち着けさせる。半ば悲鳴のように怒鳴りつけた綾音のせいで、店内の視線が僕らに集まり始めていた。  楽しげに談笑していた主婦の方々のテーブルから、好奇の視線と共にひそひそと囁きあう声が漏れ聞こえてくる。  完全に痴話喧嘩だと思われている。そういうのはもうとっくに終わってる関係なんです。勘弁してください。  愛想笑いを浮かべて誤魔化しつつ、ぶつぶつと呟き続ける綾音を落ち着かせようと背を撫でる。 「なんで? どうして、綾音がやるはずだったのに、綾音だけの彼氏になるはずだったのに、綾音にはできなかったのにそんなことしないでよ、一番にさせてよ、なんなの、なんなの、なんで、」 「……綾音。とりあえず、一度暖かいものでも飲んでさ、落ち着いてから、その、話そう」  刺激しないように、努めて柔らかい声で語りかける。浅い呼吸を繰り返した綾音は、ぐしゃぐしゃに頭を掻き毟り、歯軋りの音を響かせると、弱々しい仕草だが確かに頷いた。  綾音が通路側に座っているので一旦支えつつ対面の席に移し、ドリンクバーへと向かう。  確か綾音はローズなんちゃらみたいな紅茶が好きだった。ローズしか覚えられなかったのだが、ローズだけ覚えていれば大丈夫な種類だったと思う。  あった、ローズヒップなんちゃら。どうせすぐに忘れてしまうので最後まで覚える必要はない。なんで紅茶ってのはごちゃごちゃした名前がついているんだろう。  紅茶を淹れて、急いで席に戻る。  あの状態の綾音を一人にしていくのは不安しか無かったので足早に席へと向かった僕は、『一人』ではなくなっている席にあっけに取られて固まった。  何故か、そこには月下部さんが居た。  呆然とする僕の前で、月下部さんは店員さん相手に注文なんぞをしている。  『海鮮丼とチョコレートパフェ、パフェはあとで』じゃないんですよ。何やってんですか、アンタ。紅茶のカップを片手に慌てて席へと向かい、メニューを差し戻している月下部さんに声を掛ける。 「ちょ、ちょっと、なんで月下部さんがこんなところにいるんですか? というか何勝手に座ってんですか」 「あ? 細かい事気にしてんなよ、ハゲるぞ。俺だって来たくて来たんじゃねえよ。前条の野郎に頼まれたから仕方無くお前の面倒見てやってんだ」  謙一さんの頼み事と天秤かけたんだぞ、感謝しろよ、などと呟く月下部さんの顔にははっきりと疲弊の色が滲んでいた。 「前条さんに?」 「そーだよ、望みもしねえ一蓮托生なんざ勘弁してえからな。いやぁ~、よかったわ間に合って。丸二日寝てたもんだから、一瞬今日が何日かわかんなくて焦ったぜ」  僕が自分用に入れてきたメロンソーダを掻っ攫って勝手に飲み始めた月下部さんは、一先ず安心したかのように息を吐いた。  文句を言うために開いた口が、月下部さんの言葉に違和感を覚えて別の言葉を紡ぐ。 「寝てたって……もしかして月下部さん、何か占ったんですか?」 「そん通りだよ。今日はきちんと脳味噌詰まってるみてーだな。ったく、何も無けりゃわざわざこんなところ来る必要なかったのによ。つーかアレだ、番号交換しろ、その方が面倒がねえ」 「……来る必要があるようなことが?」 「この女、オメーに神様押し付ける気で来てやがる。さっさと逃げた方が身のためだぞ」  メロンソーダを飲み干し、おかわりの要求なのか空のグラスを押し付けられる。無視して押し返し、グラスを置いた僕は月下部さんの言葉に眉を寄せた。 「神様を、押し付ける?」  よく分からない。僕は『助けてほしい』と言われただけでまだ事情の一つも聞いていないのだ。  無言で綾音へと視線を向けると、先程まで小さく啜り泣き、肩を震わせていた綾音は何かに怯えるような目で月下部さんを見つめていた。  それは、『突如現れた不審人物』に向けるものとは少し違うように思える。だが、どういう意味合いの視線なのか、僕にはうかがい知ることが出来なかった。  状況が掴めず困惑する僕に、月下部さんは頬杖をついて深い溜め息を落とした。帰って寝たい、と思っているのがありありと分かる溜息だった。 「しかもど直球にヤバいやつだ。『九月二十三日十八時五十分、右岸駅前のファミレスで砂上(スナガミ)を押し付けられる』、二日前にお前の身の安全を占った結果がこれな」 「…………砂上?」  口にした瞬間、どこか遠くの方から、甲高い鳴き声が聞こえた。  綾音の肩が、びくりと大きく跳ねる。青ざめた彼女は怯えたように両手で顔を覆い、啜り泣きを零した。  電話口で聞こえたものと同じ声だ。甲高い、間延びした鳴き声。戸惑いつつ辺りを見回した僕の足を、月下部さんが蹴り飛ばした。 「キョロキョロすんな、目ぇつけられたらどうすんだよ」 「どうする、って……どうなるんですか」 「あ? テメェ前条から聞いてんじゃねえのかよ、目ぇつけられたら死んで終わりだよ。分かれよそんくらい」  吐き捨てるように言った月下部さんの対面で、綾音が一際大きく引き攣った嗚咽を零す。  歯軋りと共に喉の奥から絞り出したような悲鳴が響き、僕は慌てて彼女の側に屈み込み、その手前に紅茶のカップを差し出した。 「綾音、とりあえず、落ち着け。この人は別に悪い人じゃ……無い、筈だから。落ち着いて、ゆっくり話してくれればいいから」 「オメー、俺がわざわざ必死こいて伝えにきた有り難い忠告を無視するつもりかよ。罰当たりも良いとこだぞ」 「いや、だって、……急にそんなこと言われても……それに、月下部さんの占いが正しいなら、綾音は死んじゃうかもしれないから僕にその、神様?を押し付けるんでしょう? それって、僕……死んじゃうってことじゃないですか」  綾音がそんなことする筈ないじゃないですか。いくらこっぴどく振った彼氏だからといって、一応は三年間付き合った人間なんですよ。  綾音は確かに自分本位なところはあるけれど人を思いやれないわけじゃない。ましてや、間接的とは言え殺すような真似をする訳がないし、――ん? 待ってくれ。押し付ける? 砂上を? 「え、あれ? 砂上って、例の病院のやつですか? あの、前条さんが『受けない』って言った?」 「理解そっからかよ、周回遅れやめろや。そーだよ、そこのバカ女は完全に憑かれてやがる。マジで関わんねーのが最善っつーか、俺もこの場から逃げてぇくらいだわ。オメーもさっさと見捨てて逃げろよ、ほっときゃ死んで終わるんだからよ」  届けられた海鮮丼を頬張りながら言う月下部さんを呆然と眺め、そのまま視線を綾音へと移す。僕が視線を向けたのが俯いていても分かったのか、綾音はびくりと身体を強張らせた。 「…………綾音、月下部さんが言ってること、本当なのか?」 「………………違う、違うよ、司。やめて、あんな変なおじさんの言うこと信じないで、」 「は? おっさんじゃねえよ俺ァまだ二十八だ」  月下部さんちょっと黙ってて下さい。口を開くのも面倒で視線を送ると、ハン、と軽く鼻を鳴らされた。  一先ず海鮮丼を食べるのに集中することにしたらしい月下部さんが黙ったのに合わせて、再度問いかける。 「ええと、まず聞きたいんだけど……例の病院には行ったの?」  ここに来て、小宮が話していた『医学生グループ』に心当たりが出てきた。僕の予想が正しければ、砂上病院で小宮達と鉢合わせたのは高橋達のグループだ。  高橋が大学でどんな交友関係を築いているかなど知らないが、とにかく友人の中に『そういうの』が好きな人間がいたんだろう。もしかしたら高橋自身かもしれない。  とにかく、綾音があんなところに行く理由は『彼氏についていった』くらいしか考えられない。  だって、綾音も怖いものが嫌いなんだから、自分から心霊スポットになんて行くはずがないのだ。  僕の予想を肯定するように、綾音は微かな頷きと共にことの発端を話し始めた。  やはり、高橋の知り合いにオカルトマニアのような人間がいたそうだ。グループ内でも発言権の強い男が先導してメンバーを集め、砂上病院へと肝試しに向かった。  綾音は最後まで嫌だと言ったそうだが、ノリが悪いだの何だのと押し切られ、怖いなら途中で戻ればいいと言い含められて連れて行かれたらしい。  そこで、小宮が見た出来事が起こった。メンバーの一人――高橋が突如叫び声を上げながら倒れ、暴れ始めた。『砂上』に襲われたのだ。半狂乱になるメンバーはそれでもなんとか助けを呼び、高橋は意識こそ失ったものの死ぬことはなく病院に運び込まれた。  予想と違ったのはここからだ。  高橋が病院に運び込まれた後、病院にやってきた高橋の両親は、綾音に向かって言ったそうだ。  『満晴の代わりに貴方があの化物を惹きつけてほしい』、と。 「惹きつける、ってどういうことだよ」 「わ、分かんない……でも、そういう方法がある、って教えてくれた人が居たんだって」  『もちろんずっとじゃない。ちゃんとあれを鎮める方法はあるが、時間が掛かるから息子の代わりに少しの間惹きつけておいてくれれば良い。息子のためにそこまでしてくれるようなお嬢さんだ、事態が解決すれば必ず高橋家に迎え入れるから』と、病室で高橋の親族に囲まれて説得された綾音は、結局断りきれずにそれを飲んだ。  しかし、綾音自身も感じ取っていた。この約束は履行されない、と。予感は外れること無く、綾音に砂上を押し付けた高橋はそのまま綾音を捨てた。  残されたのは誰一人連絡の取れない友人達と、常に付き纏ってくる黒い鳥だけ。戯れに襲いかかってきては脳を啄み、弄ぶように逃しては距離を空けずについてくる異形。  今の綾音には中学入学時からの記憶しかないのだという。古い記憶から徐々に消えているそうだ。『消えた』ということを明確に認識させるように、空白がはっきりと分かる形で残される。  綾音の精神が限界を迎えるのに、さほど時間はかからなかった。  誰にも頼ることが出来ず、追い詰められた綾音は着信拒否までした元彼に連絡を取った。最早頼る相手が僕しか居なかったのだ。 「ごめんね、司。綾音、怖くて……怖くてどうにかなっちゃいそうだから、誰かにそばにいて欲しくて……それだけなの……」  謝罪を口にし、泣きじゃくる綾音の肩を擦ろうと手を伸ばした僕は、次の瞬間背中側から掴まれて後ろに引かれた。  情けない叫び声を上げて尻もちをつく僕を、月下部さんが馬鹿を見る目で見下ろす。 「言っただろうが、こいつは元彼にやられたようにお前に神様を押し付ける気なんだよ。方法も分かんねえのに迂闊に触ろうとしてんな、自殺志願者かよ」 「で、でも、綾音はそんなつもりはないって言ってますし……」 「バァーカじゃねーの? 人殺すつもりのやつが『これから人を殺します』なんて言うかアホ。フツーの人間が人殺す時は黙ってやんに決まってんだよ、命かかってんだぞ」  月下部さんは僕を二、三回蹴りつけると、泣きじゃくる綾音になんとも面倒臭そうな視線を向けた。 「わりーな、オメーに死んでほしい訳じゃねえがこいつが死ぬと俺が死ぬんだよ。俺は顔合わせたばっかりのバカ女よりも自分の命のが大事だかんな。櫛宮は引きずってでも持って帰るぜ」  視線と同じく、心底面倒だと思っている声音で言い切った月下部さんに、それまで啜り泣いていた綾音の顔が確かな怒りに歪んだ。  涙で濡れた瞳が忌々しげに細められ、呪詛のような呟きが吐き出される。 「…………綾音のこと、見殺しにするんだ」  恨みの籠もった声を真正面から受け止めた月下部さんは、片眉を上げると嘲笑の形に唇を釣り上げた。 「オメーが櫛宮にやろうとしたことと同じだろ」 「違う」 「ああ゛?」 「綾音は、綾音だって、司が前みたいだったら、別に消えたって同じだと思ってたけど、でも、今は違うから、だから出来ない! だって、司、…………ちゃんと『居る』んだもん」  何か悍ましいものに向けるかのような、怯えた視線が僕に刺さった。  化物を見るような目。付き合っていた三年間で一度も見たことのない顔だった。背に冷や汗が滲む。それは綾音の表情に対しての恐怖でもあったし、言葉に対する怖気でもあった。  綾音は今、確かに言った。僕が消えたって、同じだと。言葉の羅列が意味するものを全て読み取ることは出来ない。だが、月下部さんが言ったように、彼女が僕に神様を押し付ける気だったことは察した。  綾音は、本気で僕にその『砂上』とやらを押し付けるつもりだったのだ。僕が死んだって構わないと、本気で思っていた。  吐き気と頭痛が同時に襲ってきた。込み上げる涙を溜息で誤魔化す。  流石に、「死んでも構わない人間」だと思われているのは堪えるものがあった。僕はてっきり、綾音も笛戸が言いふらした噂を耳に入れたんじゃないかと思っていたのだ。  オカルト事務所で働いている櫛宮先輩が助けてくれた。巡り巡って店長の息子さんにまで届いている噂だ、母校の誰かに届いていてもおかしくはないし、そこから綾音の耳に入ることもあるのかもしれない、くらいには思っていた。  というか、そうだといいな、と途中から思っていた。高橋に神様を押し付けられた、と聞いた当たりから、そうだったらいいなと思った。『助けてほしい』ってのはそういうことなんだろうと、思うようにしていた。  代わりに死んでくれ、なんて言われた訳じゃないと思いたかった。高橋に、死んでもいい相手だと扱われた綾音が、まさか僕に対して同じ扱いをする訳がないと、思いたかった。  しかし、けれど、思いたかったということは、そうは思えないというのと同義だ。僕は話を半分聞いた時点で綾音の目的について察していたし、察していてそれを排除した。  だって、分かっていて断るってのは、つまりは僕も綾音に「そのまま死んでくれ」と言うようなものだからだ。そんなこと言えない。言えないけど、死にたくはない。  二つを同時に解決する方法が必要だった。 「あ、綾音、あのさ、」 「いいよ、わかった、もういい。綾音が死ねばいいんでしょ、司だってそう思ってるんでしょ、フラれたから、でも、司だって悪いじゃん! 綾音がどれだけ励ましても、結局勝手に諦めたじゃん! 司が周りから見えない扱いされるのは、司がそういう風になってるからだよ、だから無視できないくらいの人間になればきっとそのままでも、居るか居ないか分かんなくなったりしないんだよ!? 司みたいに、曖昧で、ぐちゃぐちゃな人間でも、みんなに自慢できる彼氏になったはずなのに!」 「待てよ、綾音、ちょっと落ち着け、大丈夫だから、」 「司なんて、半分も居ないんだから、少しくらい綾音の思い通りになってくれてもよかったじゃん!」  金切り声をあげる綾音は完全に錯乱していた。訳の分からないことを喚く綾音に声をかけるも、最早泣きじゃくるばかりで話にならない。  遠慮がちに「あの、お客様……」と明言はしないが退店を促してくる店員に頭を下げつつ、僕は必死に綾音をなだめた。  海鮮丼を食べ終えた月下部さんが、ついでとばかりに店員に食後のパフェを頼んでいる。この空気、アンタのせいでもあるんだぞ、ちょっとは協力してくれよ。  助けと謝罪を求める視線を向けると、うんざりしたような顔で溜息をつかれた。 「マジでやべーんだから捨てていけって。自分の命より大事なモンなんざねーだろ? そいつ、お前のなんなんだよ」 「何って……元カノですけど……」 「…………あー……お前、そういうのに好かれやすいんだな」  そういうの、ってどういうのだ。明らかに小馬鹿にした口調で言われて顔をしかめた僕に、月下部さんは半笑いでひらひらと手を振った。  食い終わったら出るからな、と告げてくる月下部さんを無視して嗚咽を零す綾音を宥める。  月下部さんが僕の背中を掴んでいるので近づけないが、それでも出来る限り真摯に呼びかけた。そりゃ、フラれた時は脳内で罵詈雑言浴びせたけど、僕は綾音に死んでほしい訳じゃない、それだけは分かって欲しい。 「綾音、もしかしたら助かる方法があるかもしれないんだ、だから、落ち着け、頼むから」 「ハァ? 方法なんざねえよ、こいつを差し出して俺らは逃げる。一択だろ」 「……前条さんなら、どうにか出来るかもしれません」  あの人は『受けない』とは言ったけれど、『出来ない』とは言わなかった。一縷の望みをかけて着信履歴から前条さんを呼び出す僕に、月下部さんは呆れたような視線を向けた。  絶対に無理だと思っている顔だった。スプーンで掬い上げたチョコレートパフェを口に運んで味わいながら、ふぇっふぁいむひらろ、とも零した。いいから、黙ってパフェ食べてて下さい。  無機質なコール音が響く。唐突に途切れた電子音に続いて、機嫌の良さそうな声が聞こえてきた。 『けーちゃんから掛けてくれるなんて嬉しいね、寂しくなっちゃった? 心配しなくてももうすぐ帰るんだけど、』 「……前条さん、頼みがあるんです。聞いてもらえませんか」 『頼み? けーちゃんが俺に? 頼み事? へえ……言ってみろよ。けーちゃんの頼みなら、大抵のことは聞いてやるからさ』  これが『大抵のこと』に入るのか、僕には分からない。だが、この頼みを聞いてもらえるのなら、僕はどんな見返りを差し出してもいい。  人を殺してでも生きたい、と思ってしまう程に追い詰められた綾音を救うには、前条さんに頼る他ないのだ。 「……僕の知り合いが、例の砂上様に取り憑かれてるみたいなんです。助けてもらえませんか」  沈黙が落ちた。  返ってこない答えに、途端に心拍数が上がる。嫌な沈黙だった。  青ざめる僕に、月下部さんの「だから言っただろ」と言わんばかりの視線が突き刺さる。いや、まだだ。まだ諦めるには早い。  手汗で滑るスマートフォンを握り直し、僕は一縷の望みをかけて言葉を紡いだ。 「お願いします。もし、もし助けてもらえるなら、僕、何でもします」  沈黙を、溜息が裂いた。  身体が強ばる。要求に見合った対価ではなかっただろうか。思い上がりが過ぎていただろうか。  でも、本気で言ってるのだ。僕が前条さんに差し出せるものなんて、きっと僕自身しか無い。  居た堪れなさに胃が痛くなり始めた頃、耳元に呆れが滲む声が響いた。少しだけ、笑みの混じる声。 『……そうまでして助けたい相手って誰? ただの知り合いじゃないよな』 「…………元カノです」 『へえ、元カノちゃん。へえー、そう。ふうん、なるほど』  声がワントーン上がった。なんだか面白がっている響きだ。詳しく聞かせて、と促す声に従い、僕は綾音がどういう経緯で神様に取り憑かれたのかを話した。  高橋が取り憑かれ、それを綾音が惹きつける羽目になり、僕に神様を押し付けようとしたところまで話すと同時に、耳元で笑い声が響いた。 『おいおい、けーちゃん。自分のこと殺そうって女を助けるつもりなのか?』 「……そこまで追い詰められたのは高橋と、例の神様のせいですから」 『成る程、心神喪失だから無罪放免って? ったく、許可なく死のうとすんなよ。けーちゃんの命は頭の天辺から足の爪先まで俺のもんなんだぜ』 「別に死のうとした訳じゃ……むしろ死にたくないからお願いしてる訳で、……っていうかアンタのものじゃないし」 『俺の物だよ、サインしたろ?』 「しましたけど、ただの雇用契約書であって、…………えっ、もしかして、ただの雇用契約書、じゃないんですか?」 『にしても元カノちゃんかあ、それならまあ、ちょっとくらいは手を貸してもいいかな。けーちゃん、ちょっとスピーカーにしてテーブルに置いてよ』  さらりと告げられた言葉に冷や汗どころか悪寒が走るが、今はそんなことに構っている場合ではない。  後で絶対に問い質そう、と思いつつも通話をスピーカーに切り替えてスマートフォンをテーブルに置いた。僕と前条さんが話している内に、店内の客は興味を無くしたようで、各々会話に花を咲かせている。話をするなら今の内だろう。  テーブルに置いたスマートフォンに、月下部さんと綾音の視線が注がれる。  最後の一口を飲み込んだ月下部さんが、マジかよ、と呟いた。何処か引いたような視線が僕に向けられる。なんですか。良いじゃないですか、どんな方法だろうと助かるんだから、問題ないじゃないですか。 『はぁーい、元カノちゃん。今カノです、どうぞよろしく』  マジかよ、と今度は僕が呟く羽目になった。どうやら僕と前条さんは付き合うことになってしまったらしい。何でもする、と言ったのだから異論は無いが、意見はしたい。それは今ここで主張することなのか。  場違いなほどに明るい声に、綾音の眉間に皺が寄った。訝しげに画面を睨みつける綾音の返事を待つことなく、前条さんは続ける。 『まず最初にお礼を言わせてもらおうか。俺とけーちゃんを引き合わせてくれて、どうもありがとう。お役御免の君に、細やかながら感謝の気持ちを込めて手を差し伸べてあげよう』 「……“けーちゃん”?」 『君の元カレ。そして俺の素敵な恋人だ、今さっきそうなった』  だから、その主張は要るのか。いらないだろ。  げんなりしながら見守る僕に、綾音は震える唇から細く息を零した。恐怖と、苛立ちを逃がすような、細い呼吸が繰り返される。 「……貴方が、司のことこんな風にしたの? その、『けーちゃん』とかいうので」 『さあ、どうかな。俺だって分かっていてそうした訳じゃない、ただ、繋ぎ止めるならそれしか方法は無いと思っていただけだ。結果上手く行ってるようで良かったよ、きちんと認識の変異があったみたいだからな』 「…………なんなの、貴方」 『ん? ああ、そうだな、申し遅れました。超常現象カウンセラー、前条昂です。どうぞよろしく、国重綾音さん』  からかいの滲む台詞を聞き取った綾音の眉間に皺が寄った。ぎり、と歯軋りの音が響く。  黙り込む綾音に、前条さんは一転して甘く柔らかい声で語りかける。口調こそ砕けているものの、客に向けるものとさして変わらない調子だった。 『まあ、そう怯えるなよ。俺は君を助けてやるつもりなんだぜ。あいつとは極力触れ合いたくないってだけで、対処法が無いわけじゃない。無論、君にもそれ相応の依頼料は払って貰うけれど、』 「やめてよ」 『ん?』 「勝手に綾音の潜在意識に働きかけないで。気持ちが悪いから」  爪が食い込むほどに強く拳を握りしめた綾音が、吐き捨てるように言った。  言葉の意味がよく分からず目を瞬かせる僕の前で、通話口から感心したような吐息が聞こえてくる。煙草に火をつけていた月下部さんの手が止まるのが見えた。  数秒空け、吸い込んだ煙を吐き出す月下部さんが僕に視線を向けるが、その意図はさっぱり分からない。どうやら、この場で理解していないのは僕だけのようだった。なんだか居心地が悪い。 『驚いた、感度良いね。しおんちゃんと同じくらいだ。まあ、そうでもなかったらけーちゃんに働きかけようなんて思わないか。君、サーカスに行ったことはないんだろ?』 「……あのボロボロのテントのこと? あんな気持ち悪いの、近づいたことも無いけど」 『そう。だったら今後も近づかないほうが良い。近くで見ても変わらないけどさ、触らぬ何に何とやらだろ。とりあえず、あと三十分もすれば着くから、事務所に来なよ。助けてあげる』 「…………貴方なら、あの鳥を、なんとか出来るの?」 『出来るよ、やりたくないだけで』  軽やかな声で返ってきた答えに綾音は苛立たしげに目を細めた。猜疑心の滲む視線が画面に向けられている。  顔を合わせなくても伝わるのか、前条さんが小さく笑った。 『君は助けを求めにけーちゃんのところに来たんだろ? そして、まさにけーちゃんが君を助ける手段を持っていた。だったら素直に厚意を受け取れよ。それとも君の目的はあいつを使ってけーちゃんを殺すことだった、とか?』 「……そんな訳ないでしょ、そんな……つもりなかった」 『だろうな。だが、意図せず殺す羽目にはなっていたかもしれない。君はそこまで追い詰められていた訳だ。それを理解していて尚、俺の申し出を断る理由は?』 「…………綾音には、あの鳥も、貴方も、同じ気持ち悪いものに思える。だから、きっとなんとか出来るってのは嘘じゃないんだと思う、でも、……気持ち悪いのは一緒。だから信じ切れない。……それだけ」 『同じ? 同じくらい気持ち悪い、じゃなくて?』  ぞっとするほど冷たい笑い声に、綾音は沈黙で答えた。血の気の失せた顔は痛々しいほどに張り詰めていて、緊張で倒れてしまいそうだった。  静まり返ったテーブルに前条さんの笑い声が響く。途中、何度か『なあ、おい、聞いたかしおんちゃん、同じだってよ』と語りかける声が入ったが、月下部さんはわざとらしく目を逸らして答えなかった。  そうしてしばらくの間僕たちを置き去りにして笑い倒していた前条さんは、大きく息を吐いてから何とも楽しそうに言った。 『いやぁ、けーちゃんと三年も付き合ったんだからまともな奴じゃないとは思ってたけど、相当だな。いいね、最高。俄然助けたくなった』  堪えきれなかったのか再度笑い声が挟まる。 『俺を信じ切れない君に、三つ理由を教えてやるよ。俺が君を助ける理由だ。一つ、けーちゃんが頼み込んだから。一つ、君自身に興味が湧いたから。一つ、此処で君に死なれると、けーちゃんが君を忘れられなくなって俺が困るから。どう? これなら俺が君を本気で助けるつもりだと理解してもらえるんじゃないか』 「…………」 『知らない所で勝手に死んでくれれば一番良かったんだが、既に知ってしまった以上そうもいかない。関わった以上、けーちゃんは君が死ねば少なからず自分の責任だと思う。君が勝手に自滅して勝手に死に際に迷惑をかけてきただけにも関わらず、自責の念に駆られるわけだ。それじゃあ困るんだよ、俺はけーちゃんのことだけ考えていたいし、けーちゃんも俺のことだけ考えているべきだ。初夜に入る雑念が元カノの死に様なんて、御免被りたいね』 「……そういう、こと」 『そういうこと』  納得したように頷いた綾音は、そこでようやく存在に気づいたかのように紅茶のカップに手を伸ばした。すっかり温くなってしまっただろう紅茶に口をつけ、小さく、気が抜けたように吐息を零す。  どうやら、前条さんの言葉を信じる気になったようだった。理由がどうにも物騒というか、不穏な物だったが、まあ納得が行ったのならそれでいい。  お前らまだヤってなかったのかよ、などと呆れたように言ってくる月下部さんは無視しておいた。 『それじゃあ、話も纏まった訳だしさっさと事務所に来てもらえる? しおんちゃんが送り届けてくれるから、道中の心配はいらないよ』 「は? なんで俺が」 『俺に連絡するの忘れたんだからそのくらいしろよ。どうせ謙一の守り札があんだから事務所に来るまでは保つだろ』 「保つ保たねえじゃなくてやりたくねえって言ってんだよ、この場に割って入っただけで十分働いたろうが」 『そう? 別にしおんちゃんが充分だと思うなら構わないけどね。道中で元カノちゃんが自力で自分を守りきれなくなってけーちゃん諸共襲われても問題ないって思うならそうしなよ。大丈夫、俺はそれでけーちゃんが死んでもしおんちゃんの過失だなんて微塵も思わないよ』 「…………」 『あいつを相手にするなら事務所に近い方が良い。着いたら連絡するよ。合流さえ出来ればその場に放って帰っても構わないけど、どうする?』  たっぷり十秒間、歯軋りの音を響かせた月下部さんは、渋々と言った様子で了承の意を示した。  白々しい響きの感謝の言葉を残して、通話が切れる。どこか呆然と画面を眺めていると、大した間も空けずにメールが届いた。『終わった後時間ある? 遊びに行っても良い?』ふざけた文面を無視して、事務所に向かう準備を始める。どうせ、返事が来ないことなんて分かって送っているのだ。

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