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4:カノジョの話[5]

 怯える綾音を守るように僕と月下部さんで挟んで歩く。僕も綾音も黙り込んでいるので、夜道には何やら不平不満を零している月下部さんの声だけが響いていた。  毎回同じコンディションじゃねえんだよ、だとか、大体お前が無茶言うから、だとか、あんな状態でまともに伝えられるわけねーだろが、だとかぶつくさ言う声が聞こえる。  そうして何度目かの舌打ちを響かせた月下部さんは、突如響いた鳴き声にぎくりと身体を強張らせた。  駐車場近くの電柱に目をやりかけた月下部さんが慌てて目を逸らし、綾音の腕を引いて駆け出す。必然、彼女と手を繋いでいた僕も引かれるように走り出した。  甲高い鳴き声が、僕らの後方で響いている。派手な羽ばたきの音が耳を撫でるが、鳴き声が響くばかりで近づいてくる気配はなかった。  必死に駆ける僕の耳に、今にも泣き出しそうに顔を歪める綾音の呟きが届く。「神火清明、神水清明、神風清明」どこかで聞いた覚えのある言葉。神道の言霊、と物覚えの悪い頭から記憶を引きずり出すのと同時に、月下部さんが当たり散らすように怒鳴った。 「あークソッ!! あの野郎!! 後で謙一さんに言いつけてやっからな!!」  なんだか最高にダサいことを言いながら、半泣きになった月下部さんが駆け寄った車の中に綾音を放り込む。倒れるようにして乗り込んだ綾音は、身を守るように自身を抱きしめ、縮こまっていた。  震える綾音の隣に乗り込み、寄り添う。月下部さんが扉を閉めると同時に、あれほど喧しく響いていた鳴き声が遠ざかったかのように小さくなった。 「――おっしゃ、効果覿面! 流石謙一さん、マジありがてぇわ。もう二、三個くれねーかな」  月下部さんが喜色の滲む独り言を零しながら車を発進させる。窓から覗き見るに、黒い鳥は極近くにいるようだったが、依然鳴き声は遠いままだった。  怯えて震えていた綾音も気づいたのか、不思議そうに身を起こす。車内を見回した綾音は、フロントガラスの真ん中辺りにぶら下がっている白い御守に目をやると小さく息を吐いた。 「ねえ、おじさん。それ、何? どういう、ものなの」 「おじさんじゃねえっつってんだろうが、しばき倒すぞバカ女」  惚けたように呟く綾音の声に惹かれて僕も御守に目をやるが、一般的な御守と何が違うのかいまいち分からなかった。強いて言うなら、御守なら正面に書かれているだろう文字の代わりに何か、蝶のような模様が描かれている。全てが白色で出来ているので見て取るまでに少し時間がかかった。  綾音の瞳は真っ直ぐに御守に向かっている。陶酔すら感じるその視線をミラー越しに見やった月下部さんは、唇の端を持ち上げて得意げに鼻を鳴らした。 「これか? これはな、俺の恩人が俺の為に作ってくれた御守だよ。銀蚕蠱(ぎんさんこ)の嫁が奉製した、一級品の天下無敵の魔除けだ。まあ、これがあれば並みのやつなら寄り付けねーよ」 「銀蚕蠱……? 金蚕蠱(きんさんこ)とは、違うの?」 「あ? あー、ちげぇな。生まれは蠱毒らしいが、どうもちゃんと成虫になったらしいぜ。見たことねーから知らねーけど、旦那、人見知りなんだよな。あ? 虫だから、虫見知りか? いや分かんねーけど」  月下部さんは気を紛らわせるためか、綾音との会話を続けることにしたらしい。まるで水中にいるかのように濁って聞こえる甲高い鳴き声から逃げるようにして車を走らせる。  時折視界の端に移る黒い影から目を逸らしながら、僕は若干の疎外感を覚えつつ月下部さんに問いかけた。 「あの、銀蚕蠱ってなんです?」 「は? オメーあの野郎のとこで働いてるくせに何も知らねーのな。蚕だよ蚕、蚕の神様。蠱毒でバーってなってワーッて生まれたらしいぜ、富を与えてくれるんだとかなんだとか、まあ出自が一緒ってだけで金蚕蠱とは別物らしいけどな」 「えーと、その金蚕蠱ってのは」 「そりゃ、そっちのバカ女のが詳しいんじゃねえの」  話を振られた綾音が、不満げに目を細めた。 「さっきからバカ女ってうるさい。綾音には綾音って名前があるの」 「おーおーそうかよ、おじさんにも月下部って名前があんだわ」  どうやら根に持っていたらしい。冷ややかに薄笑いを浮かべる月下部さんを睨みつけていた綾音は、これ見よがしに溜息を吐くと、縋るようにして僕の手を握り直した。 「金蚕蠱っていうのは、蠱毒で生まれた虫のこと。司、蠱毒って分かる?」 「一応……なんか、虫を壺に入れて殺し合わせるやつ、だっけ?」 「そう。そうやって生き残った呪術的な虫の一種なんだけど、金蚕蠱は金色の蚕の幼虫みたいな見た目をしてるの。金蚕蠱の糞は毒を持っていて、相手に盛ることで毒殺出来るんだけど……金蚕蠱の毒で死んじゃった人の財産は、どうしてか殺した人のところに入るようになってて、だから金蚕蠱を飼っている家はそうやって殺していけばどんどん裕福になるんだよ」 「へえ、そんなのがいるのか。綾音、そういうの詳しかったんだな」 「……うん、まあ、ちょっとね」  歯切れ悪く呟いた綾音が僕の視線から逃れるように俯く。何か、不味いことを言ったかもしれない。誤魔化すように問いを重ねる。 「じゃあ、銀蚕蠱は?」 「分かんない。おじさんの説明が下手だから、後でさっきの変な人に聞いてみればいいと思う」 「だーかーら、おじさんじゃねえっての! つーかお前もいつかおばさんになんだからな、とぉっ!?」  舌打ちを響かせた月下部さんが綾音に文句を言うのと同時に、視界を塞ぐようにして前方に黒い鳥が現れた。  黒くて大きな、片翼の鳥だ。頭頂だけか鮮やかな紅色。嘴が細く長い。左の羽根が、ちぎり取られたように無くなっている。  黒い鳥、というから僕はてっきりカラスを想像していたのだが、どうも違う鳥のようだ。いや、そもそも現実の生き物ではないのだから、それに則した見た目ではないかもしれないが。  僕の手を握る綾音の手に力が籠もる。ハンドルを切った月下部さんが、対向車線にクラクションを鳴らされて悪態をついた。畜生ナンバー覚えたからな、呪ってやる、などと完全な八つ当たりを吐き捨てた月下部さんが、進行方向の信号を見てアクセルを踏んだ。 「ちょっ、ちょっと、スピード出しすぎじゃないですか!?」 「うるっせーな、アレ引っ付けたまま呑気に信号で停まってろってか? そうしたいなら、――――うーわ、マジかよ」  変わり目に無理矢理突っ込むような運転で交差点を抜けた月下部さんが、喉の奥から絞り出したかのような声を出す。  パトカーでも通りかかったか、と現実的な心配をした僕の目に、フロントガラスの真ん中にぶら下がる御守が飛び込んできた。  真っ白な御守の下辺の端が、黒く染まり始めていた。  じわじわと、何かに啄まれるかのように、染まる端から千切り取られていく。  一際高く上がった鳴き声に、知らず息を呑んだ。 「か、月下部さん? 天下無敵の御守の筈、では……?」 「あー……そういやあの野郎が言ってたな、『事務所までは保つ』だとかどうだとか……でもよぉ、まさか保たねえなんて思わねえだろ普通」  吐き捨てた月下部さんは迷うこと無く最短ルートを捨て、寂れた商店街を使って迂回するルートに入った。殆どの店がシャッターを閉じているその通りは、車どころか人通りすら滅多に無い場所だ。  御守は瞬く間に黒ずみ、ぼろぼろと端から崩れていく。「あ゛ーっ! 謙一さん!! 申し訳ねえ!!」という悲鳴のような叫びが車内に響いた。  鳴き声が徐々に近くなる。何とも形容しがたい、間延びした金属音のような鳴き声だ。頭が痛くなる。  耳鳴りに近いそれが明確な頭痛を呼び起こし始めた頃、とうとう御守の天辺までがただの黒い糸屑と化した。御守を支えていた紐が力無く落ちる。  ダッシュボードを滑り落ちるそれが視界から消えるのと同時に、頭上に衝撃音が響いた。鈍い、重量のある音。車の上に何かが乗っている。何か、なんて、今更考えるまでもない。  鉤爪が頭上を引っ掻いている。何かを探るように暫し歩き回った足音が止まった瞬間、僕は反射的に綾音の身体を僕の方へと引き寄せていた。  後部座席の右側に寄っていた二人の身体を、一気に左側に寄せる。空いた右側の上部を、凄まじい打撃音が襲った。例えるなら削岩機。道路工事の途中で響く音と比べても負けず劣らずの騒音だった。  ズガガガガ、と喧しい音を立てて捩じ込まれたのは、先程視界に収めた細長い嘴だ。此処まで来てようやく、僕はこいつが『キツツキ』に類する鳥だと思い当たった。  嘴が、車内の綾音を探して暴れ回る。最早悲鳴すら上げられないのか、綾音は僕にしがみついたまま目を見開いて硬直していた。 「はあ!? 待て待て!! もしかして穴空いてんのかそれ!?」 「もしかしなくても空いてますよ!! 穴!!」  月下部さんの口から悲鳴が上がった。察するにローンをまだ払い終えていないらしい。そんなこと言ってる場合ですか。  近場にいないと察するや否や引き抜かれた嘴に、僕は急いで頭上を確認する。鉤爪が天井を掻く音が響く。ダメだ、今度はどこに来るかさっぱり分からない。冷や汗が滲む。畜生、霊的存在の癖に物理で来るなよ。    コツ、コツ、と場所を確かめるように嘴の先が当たる。こうなったらさっきみたいに一か八かで避けるしか無い、と覚悟を決めた僕が息を詰めた瞬間――「櫛宮! どっか掴まってろ!」「はいっ!?」――車体が大きく振れた。  反射的にアシストグリップを掴めたのは、多分あいつがどこから来るか警戒して頭上を注視していたからだろう。僕にしがみついていた綾音が、突然のドリフト走行に小さく悲鳴を上げる。  頭上の鉤爪がたたらを踏む音が聞こえた。虚を突かれたらしく、甲高い鳴き声が上がる。 「クソッ、落ちとけよアホウドリが!!」 「いや多分キツツキ――」 「あ゛!?」 「なんでもないです!!」  そんなことを言っている場合ではない。カラスだろうがキツツキだろうがアホウドリだろうが、何でも良いのだ。何だろうが良くないことに変わりはない。  車体の損傷がよほど悲しかったのか月下部さんは若干涙声で怒鳴った。同時に、着信を告げるメロディが車内に響き渡る。場にそぐわないにも程がある明るいアイドルソングだった。多分メルハニのやつ。 「み、みぽリンが俺を応援してる……ッ!!」 「着信ですよ着信! 前条さんからのじゃないですか!?」 「分かってるよバーカ!! ちっとは浸らせろや!!」  ぐすっ、と鼻をすする月下部さんがなんだかアホなことを言い出したので思わず身を乗り出して突っ込んでしまった。中指を立てた月下部さんが振り返る。前見て下さい前!!  気がつけば事務所まであと少しというところだった。  電話を手に取った月下部さんが、片耳に挟んで通話を始める。が、電話に出るまでもなく、僕らの視界には事務所前に立つ前条さんの姿が見えていた。桐箱を小脇に抱えた前条さんが、呑気に手を振っている。頭上に陣取っている黒い鳥が見えているだろうにも関わらず、だ。 「前条!! テメェが言ったんだからな!! 捨てて逃げるぞ俺は!!」  電話口に向かって月下部さんが怒鳴る。前条さんとの距離は見る間に縮まっていく。三日ぶりに見る、相も変わらず不審者極まりない立ち姿に、何故か妙に胸が締め付けられた。  月下部さんが急ブレーキを踏む。見事に前条さんの手前に横付けした月下部さんが後部座席の扉を開けると同時に、前条さんが乗り込んできた。  降りるつもりだった僕と綾音はぎこちなく固まり、降ろすつもりだった月下部さんは素っ頓狂な声を上げる。 「はっ!? おい待てお前ふざけんな俺の車を戦場にするな!! 殺すぞ!!」 「こらこら、簡単に人に殺すとか言うなよ。全く、しおんちゃんは物騒なんだから。あっ、君が元カノちゃん? 可愛い顔してるねえ、流石はけーちゃんの元カノちゃんだ」 「ちょっ、ぜん、前条さんっ、さっきから僕の上に、乗っ、ちょっと、乗らないでっ、もらえます!?」 「頼むから俺の車から出ていってくれ!! 頼むから!! 後生だから出て行け!! これ以上被害を広げんな!!」 「ごめんね元カノちゃん、ちょっとこれ持っててくれる? そう、そんな感じ。穴には触れるなよ、飲み込まれるからな」 「う、うん……分かった……」  なんというか、凝縮された地獄みたいな光景だった。  後部座席に乗り込んだ前条さんは僕の上を跨ぐようにして綾音に桐の箱を渡し、月下部さんの怒鳴り声を無視して穴の空いた天井を見上げた。鉤爪が屋根を引っ掻いている。  先程よりも更に喧しく騒ぎ始めた鳥を、前条さんが冷めた様子で鼻で笑う。 「流石に万全のあいつは相手したくねえからな、餌があるなら好都合。このまま釣らせてもらおうか」 「何カッコつけてんだ前髪すだれ野郎!! いいから降り――」  月下部さんが罵声――それは罵声なのか?――を浴びせかけたその時、再び掘削染みた騒音が響き渡った。綾音の頭上が瞬く間に凹み始め、嘴の先が姿を現す。  明確な殺意を持った嘴が車内に深々と根本まで差し込まれた瞬間、前条さんはその嘴を鷲掴みにすると、綾音に持たせていた繭を覆うように被せた。 「よーいしょ」  待ってくれ、掛け声が酷い。っていうかアンタ、除霊的な動作を全部よいしょで済まそうとしてないか!?  なんかもっとこう、もう少し凝ろうって気はないのか。ないんだろうな。仮にあったとしても前条さんのセンスじゃどうなるか分かったもんじゃ……まさか、考えた結果がこれなのか?  僕がくだらないことに思考を持っていかれている内に、嘴を掴んだ黒手袋が見る間にぐすぐすと溶けていく。手を離す頃には、白い手のひらの殆どが露わになっていた。  しかし、手袋とは違い、嘴を差し込まれた繭はするするとその細い糸を伸ばして絡みついていた。車体に空いた穴の隙間から外へと這い出て、上に乗る鳥を目指して真っ直ぐに伸びていく。苦痛の滲む鳴き声が上がる。 「さて、カミサマともあろうもんがこの程度で終わりになる訳ないよな。けーちゃん、降りたら元カノちゃん連れて事務所に向かいな。情けなくてヘタレのしおんちゃんは逃げてもいいぜ、しおんちゃんの勇敢で素晴らしい奮闘ぶりは一つ残らず謙一に報告しておくからさ」 「てめっ、卑怯だぞ!! ふざけんな!!」 「『弱った女の子を見捨てて逃げる』のがあいつの基準でまともで真っ当で普通なことだと思うなら、アクセル全開で逃げればいい。俺は止めない、決めるのはしおんちゃんだ」 「おっ……俺にッ、何しろってんだよ!」 「俺がしくじったら事務所封じて謙一に連絡取ってくれ。俺から頼み込むとか絶対にやだ」  月下部さんが、呆然とした顔で振り返った。多分、僕も同じ顔をしていたと思う。視線を受けた前条さんは「もしもの話だって」などとおどけたように肩を竦めると、僕らが口を開くより先に車外へ出た。  頭上でのたうつように暴れ回っていた鳥が、同時に道路へと転がり落ちる。白い糸にまとわりつかれ、大きな繭のようになり始めている鳥を踏みつけ、押さえ込んだ前条さんが軽い調子で片手を払った。 「ほら、さっさと事務所行けよ。お前らが居ても邪魔にしかならない」  笑い混じりに告げられたそれが、声色は軽くとも本心からの言葉だと察し、慌てて綾音の手を引いて車を降りる。  月下部さんは一瞬躊躇うように視線を彷徨わせたが、僕らが迷いなく車を降りるのを見ると後に続いた。 「だ、大丈夫なの? あの人、」 「分かんない、けど、僕らが居ても邪魔なことは確かだと思う」  胸に湧く何とも嫌な感覚を振り払うように階段を駆け上る。後ろをついてくる綾音が何度も振り返るのが分かったが、僕にはその勇気は無かった。  前条さんはこれまで、依頼の場所には大抵僕を連れて行った。留守番しててもいいよ、と言われたことはあるが、それは決して置いていくつもりで言った言葉じゃない筈だ。  だから、きっと前条さんは今までの場所には僕が居ても問題がないと思っていたのだろう。襲われても、僕も含めて無事に帰る自信があった。  だが、あの鳥――砂上は違うのだ。僕を隣に置いておくどころか、『失敗した場合』を口にする程の存在。今更ながら、とんでもないことをお願いしてしまったのではないかと、恐怖で胃が痛くなり始めた。  どうしよう。前条さんにもどうにも出来なかったら。もし、そうなったら、前条さんは僕のせいで、……僕のせいで。  目眩がした。足場が無くなったような、踏み込む先から泥に変わるような錯覚に襲われる。  前条さんだからきっとどうにかなると思った、なんて言い訳にもならない。僕は自分じゃどうにも出来ないことをあの人に頼って解決しようとしたのだ。『僕自身』なんて、対価になるかも分からないものをかけて。  甲高い鳴き声は続いている。単純な息切れだけではない呼吸の乱れが、思考を追い詰めていく。  事務所の前に辿り着く頃には、僕の足は恐怖で禄に動かなくなっていた。隣に立つ綾音が、心配そうに蹲る僕の横に膝をつく。 「……司? ねえ、平気? すごい汗だけど……」 「う、うん……いや、…………分かんない、な」  平気かどうか、自分でもよく分からない。焦燥感ばかりが胸に渦巻いている。  遠慮なく事務所の扉を開けようとしている月下部さんには、きっと僕の不安が分かっているのだろう。呆れたように目を細めた月下部さんは、雑な仕草で僕の背を叩くと、腕を掴んで僕の身体を引き上げた。 「不安がっても仕方がねーだろ。あいつにどうにか出来なきゃ、俺らにだってどうにも出来ねえよ。それこそ、謙一さんに頼み込んで出てきてもらうしかねえ」 「……謙一さんなら、どうにかなるんですか? 最初から、謙一さんに頼めば良かったんでしょうか」 「さあな。あの人も、あいつも、別に万能って訳じゃねえ。ただ向き不向きはある、あいつが繭を使ったのもその辺りが理由だろ」  月下部さんは迷いなく扉を開ける。  相も変わらず狂ったように暑い空気が外へと流れ込んだ。 「あの繭な、謙一さんの旦那……銀蚕蠱の繭なんだよ。アホみてーに聞いてこねえってことはオメーもアレ使ったとこ見たことあんだろ? 飲み込んだもんを一切合切、蚕蛾――銀蚕蠱の眷属に作り変える代物なんだけどよ、まあ、あのクソ鳥はあんなもんに負けるようなタマじゃねえし、前条もそれは分かって使ったんだろうが多分半減くらいは出来る筈だ。片羽根欠けてっから、更に半減してどっこいどっこい、ってとこか? 知らねーけど、勝算があるから受けたんだろ。だったら俺らに出来るのは信じて待つことくらいだ」 「……そう、ですね。そうかもしれません」  信じて待つ。確かに、何の役にも立たない僕に出来るのはそれくらいだ。月下部さんも、何だかんだ前条さんを信じているんだな。  付き合いの長さゆえの信頼を感じ、少しだけ気持ちが楽になる。  若干軽くなった足で死ぬほど暑い室内に踏み込もうとした僕は、前を行く月下部さんが脇に逸れた瞬間、顔面に衝撃を受けて倒れ込んだ。 「い゛ッ、ってぇ――――ッ!?」  驚いた綾音の悲鳴が響いた。大丈夫!?と声が掛かるが返事が出来ない。声も出せない。眼鏡が割れていないかが本気で心配だった。  ごづん、と鈍い衝撃音を立てて顔面にぶち当たった何か。何かも分からない。痛い。ただひたすらに痛い。痛いということしか分からない。  あまりの衝撃に一瞬自分がどこにいたのかも分からなくなった。ここはどこだ。そして僕は誰だ。櫛宮司、別名けーちゃんである。よし。よし?  恐怖や不安とは全く異なる理由で足元がおぼつかなくなる。ずきずきと痛む鼻先を押さえながら身体を起こした僕は、腹の上に乗っている『それ』を見た瞬間、純粋な怒りから叫んだ。 「またお前か!! 良い加減にしろよ!?」  地蔵が乗っていた。僕にそっくりな地蔵の頭だ。いつも通り、薄く微笑んだ形で固まっているその石製の首は、微笑んでいる癖に不満げに見える表情で僕の腹の上に陣取っていた。  今はお前に構っている時間なんて無いんだよ。いや、時間はあるが余裕がない。心の余裕。正直、余裕があろうとなかろうと相手などしたくなかったが、今は殊更に相手にしたくなかった。  何それ……と若干引き気味に僕と地蔵を見やる綾音に苦笑を返す。こいつが何かなんて、僕にも説明出来ない。  言葉を濁すことしか出来ないまま、腹部に陣取る地蔵を退かそうと持ち上げた僕は、その途端に重量を増した地蔵を足の間に取り落とした。  ドズンッ、と石とは思えない音を立てて地面に落下した地蔵に、冷や汗が滲む。  なあ、おい、お前、もしも僕があと数センチ違えて股間に落としていたら、一体どう責任を取るつもりだったんだ?  もしかして中身は鉄製なのか?と勘ぐるほどに地面にめり込んでいる地蔵を睨みつける。胸に渦巻く無力感のせいで尚更苛立ちが募った。 「言っとくけど今はお前に構ってる暇なんて無いんだよ! あの鳴き声、聞こえるだろ!? 僕らが外にいると邪魔にべぶっ!?」  眼鏡を直して目を逸らした瞬間に再度頭突きをかまされた。厳密に言うなら体当たりかもしれないが、頭しか無いんだからどこが当たろうと頭突きだ。  じんじんと鼻が痛む。痛みにとうとう涙を零した僕が地蔵を睨みつけるも、再度腹に陣取った地蔵は退く気配も無かった。  ん? 待てよ、さっき地面にめり込んだ時に比べて明らかに軽くないか? この軽さならあの低さで落とした時にあんな風にはめり込まない。こいつ、さては重さを制御できるのか?  つまり、さっきは明確な害意を持って重くなったんだな!? 「ったく、なんなんだよ、何が言いたいんだよ、言いたいことがあるなら言えよ。言えるもんならな!」  地蔵からは返事がない。発声器官がないのだから当然だ。そもそもそんなものがあるのならもっと早く言葉にしていただろう。  無言で腹の上に居座る地蔵から目を逸らす。若干跳ねたのか、腹の上に衝撃が加えられた。ぐえ、と潰れた蛙みたいな声が漏れる。だから、何が、言いたいんだよ!!  地蔵との乱闘中、体を起こした僕の視界にはとっくに事務所内で好き勝手に腰を落ち着けている月下部さんが映った。あの人も大概自由人だよな。綾音は未だに戸惑いながら僕らを見下ろしている。 「……とりあえず、綾音は中に入りなよ。お前が一番危ないんだろうし、僕はこいつと話をつけたら行くから」 「え、で、でも……」 「良いから、大丈夫」  押し切るように言うと、綾音は躊躇いながらも頷いて中へと入った。扉が閉められ、廊下には僕と地蔵だけが取り残される。あれほど望まなかった二人きりだ。  こいつが何の目的で僕の腹に居座っているのか、僕にはさっぱり検討がつかない。言葉で意思疎通が出来ないのだから、それ以外の方法で試みるしか無い。意思があるのなら、質問に答えることくらいは出来るだろう。 「いいか、地蔵。今から質問するからYESなら二回、NOなら一回跳ねろ。軽くだぞ、軽く。あと重さも出来るだけ無くせ」  どういう訳か、見られていると動けないらしい地蔵を慮って目を閉じて言えば、地蔵は腹の上で軽く、ぽすんぽすんと二回跳ねた。了承だ。どうやらこの方法でなら意思疎通は可能らしい。  息を吸った僕は、地蔵を腹に抱えたまましばし何を問うか練り、大して浮かばなかったものの内の一つを口にした。 「お前が今こうしてるのは、外に用事があるからなのか?」  ぽすんぽすん。 「……えーと、もしかして僕に連れて行ってほしいと思ってる?」  ぽすんぽすん。 「自分で行けないのか?」  ぽすんぽすん。 「何をしに行こうと……いや、これは無理か。あー、今じゃなきゃ駄目なのか?」  ぽすんぽすん。 「……………………もしかしてお前、前条さんのところに行こうとしてる?」  ぽっすんぽっすん。 「やめろ、高く跳ねるな。いや、行ってどうするんだよ、お前に出来ることなんて無いだろ」  ぼすん。 「グッ、重くなるのやめろ! なんだよ、実は秘められた力が在るとかそういうことか!?」  …………ぽすん。 「だったら僕らに出来ることなんて無――――」  僕が二度目の否定を口にしかけ、地蔵が二度目の重量アタックを決めようとしたその時、一際高い鳴き声が上がった。  けたたましい、どこか喜色の滲む鳴き声。確かな感情が滲むその声は、纏わりつくような粘ついた狂喜を含んでいた。  まさか、と思わず身を起こしていた僕は踊り場に駆け寄り、ビルの前の道路を見下ろす。月下部さんの車の穴がよく見える。その隣、黒く染まった糸屑が散らばる道路の真ん中で、黒い巨体に押さえつけられているのは――――、 「前条さん!」  気づいた時には地蔵を持って走り出していた。いや、意味分かんないだろ僕。訳解んないだろ僕。何やってんだ僕。どう考えたってバカみたいな行動だったが、腕の中の地蔵は羽根のように軽くなっていた。  恐怖と不安に駆られて上った階段を、同じように駆け下りる。怖くて頭がどうにかなりそうだった。僕は怖いのは駄目なんだよ。どうしようもなく怖い。喧しい鳴き声で騒ぎ立てる鳥が、じゃない。その下に横たわった彼が少しも動かないことが怖い。  僕が行ってどうなるっていうんだ。手持ちは地蔵の頭一つ。どう考えたって現状を打開する方法なんて見つからない。 「クソッ、どうしろって言うんだよ!! 言っとくけど僕、今お前を投げつけるくらいしか思い浮かんでないからな!?」 『ぽすんぽすん』  苦し紛れに叫んだ僕に、腕の中から肯定が返ってきた。ああそうかよ、投げろってか! 投げろっていうのかお前は!! っていうか今お前口で答えただろ!?  ぐちゃぐちゃになった思考と衝動を抱えて駆け下りる。一段抜かしに飛び降り道路に出れば、横たわる前条さんは数メートルも離れていなかった。  巨鳥が、コツ、コツ、と狙いを定めるかのように前条さんの頭を嘴の先で突付いている。意識はまだ此方には向いていない。  その横側を陣取った僕は、恐らく全ての生き物が気を抜くのであろう食事を始める瞬間に、巨鳥の頭に向けて思い切り地蔵を投げつけた。  貧弱文化部野郎の手から放たれたとは思えない軌道を描いた地蔵が、完璧なタイミングで勢い良く鳥の横っ面を叩く。  ギャギョェ、と聞き苦しい鳴き声を上げた鳥は面食らったようによろめき、前条さんの上から退いた。鉤爪がアスファルトの地面を苛立たしげに掻く。片翼が煩わしそうに振るわれ、ぶるぶると首を振るった巨鳥はその無機質な目を僕へと向けた。  白い虹彩と、ぞっとするほど無感情な黒い瞳孔。不気味な色合いの瞳が真っ直ぐに僕を射抜く。狙いを、僕に定めている。  恐怖で身動き一つ取れなかった。  多分、僕は死ぬんだろう。あの鉤爪に押さえつけられて、さっき前条さんにしていたように狙いを定めた嘴に頭を貫かれて、全部吸われて死ぬ。  弄ぶように戯れに放されて、逃げ惑って、錯乱して――――考えるだけで身が竦んだ。  僕がやったことに意味なんてないのかもしれない。無駄死にしに来ただけで、前条さんも僕も助からないのかもしれない。でも、息が詰まるほどの恐怖はあれど、後悔はなかった。良かったと思った。僕があそこで踏み出せずに蹲っているような人間じゃなくて良かった。  劈くような鳴き声が上がる。その声には怒りが滲んでいた。食事の邪魔をした僕への、明確な怒りだ。  大きく羽根を広げた巨鳥は、感情の一切が浮かばない瞳で僕を見据えると、勢いよく地を蹴り、  その場に思い切り突っ伏した。 「…………え?」  怖くて仕方がないなりに覚悟を決めていた僕の口から、間の抜けた声が溢れる。  何かの予備動作だろうかと後退るも、どう考えたってバタバタと藻掻き苦しんでいるようにしか見えない。妙な挙動を見せている部分がある、と片羽根を暴れさせる鳥の足元を注視すると、そこには先程僕が投げつけた地蔵が誇らしげな笑みと共に居座っていた。  どうやら、尋常ではない重みになった地蔵が片足を潰しているらしい。ギャアギャアと喚き立てる鳥はいつまでも飛び立てない理由にようやく気づいたらしく身体を起こしかけるが、既にその首の横には黒い人影が立っていた。  振り下ろされた足が、思い切り巨鳥の頭を踏み抜く。見て取れるほどに頭蓋骨が凹み、濁った叫び声が嘴から吐き出された。  断続的に響く叫び声に、確かな笑い声が混じり始める。  堪えきれない、愉快で仕方ないと言わんばかりの笑みだ。にんまりと笑みの形に歪んだ薄い唇の奥から吐き出されるそれは、紛れもなく前条さんの物だった。 「ぜ、前条さん……!」 「けー、けーちゃん、ねえ、さっきの、何、すっげぇダサい、ふ、っ、ふふ、ひっ、ダッセ、すげえ、超かっこいい助け方、じゃん」 「だっ、ダサくて悪かったですね! そいつが僕に頭突きかまして急かすから、そうする他無かったんです! すみませんね、要らん手助けしたみたいで!」  僕だってもしも選べるのならもっと格好良い助け方をしたかったですよ。でも他に無かったんですよ。仕方ないじゃないですか。  込み上げる笑いを逃がすかのように幾度も巨鳥の頭を踏みつける前条さんは、額から溢れる黒い液体を拭うと、とうとう背を丸めて笑い出した。余程ツボにハマってしまったらしい。  上から見た時は瀕死の重症に見えたのだが、杞憂に過ぎなかったのだろうか。安堵とも、疲労ともつかない吐息を零す僕の前で、前条さんは笑いながら続けた。 「いいや、充分助かったよ。俺を餌にして飲み込むつもりだったけど、何を持っていかれるか分からないし、やらずに済むならそれが一番良かった。結果が同じなら、失うものは少ない方がいいからな」 「……役に立ったなら、良かったです」 「地蔵も頑張ったな~、なんだ? 俺のこと大好きか?」  ぽすんぽすん。  は? お前、は? 『ぽすんぽすん』じゃないぞお前。何言ってんだ。  瞬きの合間に前条さんの腕の中に移った地蔵が満足げな顔をして撫でられている。謎の悔しさがあった。言っておくけどお前を抱えて此処までやってきて放り投げたのは僕だからな。確かにお前に背を押されて、いや腹を押されて此処まで来たけど、それだって結局僕の意思で、僕が決めた訳で――いや……それは、どうか、分からないけど。  地蔵が後押ししてくれなかったら、僕はあのまま事務所の中で震えていたかもしれない。分からない。もしも、の話なんて無意味だ。  けれど、僕は確かに地蔵に礼を言わなければならないんだろう。僕が情けない男のままで終わらずに済んだのは、地蔵のおかげなんだから。  前条さんの腕の中の地蔵をじっと見つめる。なんだよ、羨ましいのか?なんて言われたので軽く頷いておいた。僕を撫でようか否か迷って宙を彷徨う手を無視して、地蔵へ感謝の言葉を口にする。 「……ありがとう、お前のおかげだよ」 『ぽすん』 「いや、あれは確かにお前のおかげで踏み出せたんだ。僕がしたことは特に意味も無かったのかもしれないけど、でも、後悔せずに済んだ――――ってお前やっぱり喋ってるだろ!? 抱えられて跳ねられないからって喋ってるだろ!?」 『ぽすん』 「喋ってるわ!! 完全に!!」  どこだ、一体何処が口なんだ。訝しんで地蔵を撫でくり回す僕の頭を前条さんが撫でくり回している。  わしわしと僕の髪を掻き混ぜた前条さんは、少し拗ねた様子で首を傾げた。 「お前ら、いつの間にそんな仲良くなったんだ?」 「今さっきですけど、というか別に仲良くはなってないですけど」 『ぽすん』 「地蔵は仲良くなりたいらしいよ」 「僕は嫌です」  だってこいつ無意味に僕をビビらせようとしてくるじゃないですか。ぶすくれる僕の無言の不満を感じ取ったのか、前条さんは喉を鳴らして笑った。腕の中の地蔵は不思議そうに首を傾けている。  こうして見ると案外表情豊かなんだな、石のくせに。なんて思いながら地蔵を見下ろしていると、一呼吸置いた前条さんの手から地蔵が手渡された。  慌てて受け取り、羽根のように軽いそれに妙な動きに成った腕で抱え直す。 「さて、役に立ってくれたけーちゃんに、ついでに一つ頼み事してもいいかな」 「え? え、ええ……僕に出来ることなら……」  頷いてから、内容を聞かない内に頷いてしまった、と若干の後悔が僕を襲った。見事に顔に出てしまったらしい僕を見て、前条さんが濡れて額に張り付いた髪を掻き上げながら小さく笑う。  指先に残った黒色の液体を誤魔化すように擦った彼は、頭部を潰されているにも関わらず時折びくりと痙攣する鳥を見下ろして言った。 「今からこいつのこと飲み込んで潰すから、けーちゃん俺のこと事務所まで運んでくれる?」 「…………はい?」  靴の底が、踏み潰した頭部の残骸を引き伸ばすように地面に擦り付けた。潰れずに残っていた片目が外れて転がる。反射的に後ずさった僕に、前条さんは何とも嘘くさい穏やかな笑みを浮かべてみせた。  そんな顔されても全然安心できませんからね。あと、さっきから気になってたんですけど頭から垂れてる黒い液体、もしかして血ですか? 頭怪我してるんじゃないですか、早く手当した方がいいと思うんですけど。 「橋の時に見せたろ? あれは一部だったけど、今度は全部。歩けないことはないが肩でも貸してもらえると、大分有り難いな」 「……大丈夫なんですか、それ」 「うん? 『この後僕の家に遊びに来れるんですか』って? どうかな、」 「元から遊びに来るつもりなんて無かったでしょうが。そもそもこんな状況でそんなこと心配するやつってどうかと……そうじゃなくて、そんなことして前条さんは大丈夫なんですかって聞いてんですよ」  恐らく、月下部さんに僕らを事務所まで送らせた時点で、前条さんの頭の中には自分がしくじった時への懸念が在った筈だ。  更に、僕が助けに来ても来なくても結果は同じだったと言うなら、多分あそこでこの鳥に組み敷かれるのも前条さんの予定にあったことで、そして、その予定には神様を飲み込んで磨り潰して、吐き出すまでが含まれている。以前、神様だという腕の一部を飲み込んだだけであそこまで憔悴し、死んだように眠り続けたのだ、全部を飲み込むつもりならそれよりも時間がかかることだろう。  つまり、あそこで僕に送られた『遊びに行ってもいい?』などというふざけた文面は、正真正銘、一分の隙もなく悪ふざけだったのだ。危機に瀕するかもしれないと分かった上での悪ふざけ。  ……妙な苛立ちがあった。謎の苛立ちが。この苛立ちがどこから、どういう理由で生じているものなのか、僕には上手く言葉に出来ない。前条さんに対しての物であるような気もするし、僕自身に対する物でもあるような気がした。  生来、隠し事には向いてない人間だ。それが負の感情ならば尚更で、僕は寄っていく眉間の皺を誤魔化すことが出来ずに手で覆った。もはや物理的に隠すしかなかった。 「何それ、なんかのまじない?」 「ええ、そうです。前条さんが本当のことだけ言ってくれるまじないです」 「…………ふうん? 良いよ、効果は一度切りな」 「え?」  やけくそ気味に言い放った僕に、笑い混じりの柔らかい声が返ってきた。思わず呆けた顔で前条さんを見つめる。視線の先の彼はどこか困ったように口元を笑みの形に歪めると、横たわる巨鳥の傍らにしゃがみ込んだ。白い手のひらが、黒く煤けて汚れた指先が、弱々しく震える鳥の胸を裂いて押し入り、ゆっくりと中を探る。  潰れた筈の頭部が不格好な鳴き声を上げる。思わず足が引くほど悍ましい光景だったが、目を逸らすことは出来なかった。 「『前条さんは大丈夫なんですか?』だっけ? そうだなあ、全然、ちっとも、微塵も大丈夫じゃないよ。不純物なら吐き出すんだろうが、こいつを取り込んで俺がどうなるのかなんて俺にも分からない。けどこのまま放っておく訳にもいかない。放っておけば同じ事を繰り返すだろうし、永遠に苦しいままだ。いつまでもあんな男に囚われてるなんて馬鹿らしいだろ。俺も、こいつも、どっちも惨めで馬鹿らしいから、大丈夫じゃなくてもこいつを食らうよ」  平坦な声だった。感情の震えを一切感じさせない、努めて表さないようにしている声だった。  紡がれた言葉の意味は、僕にはよく分からない。分かるのは、これが嘘偽りのない本心だということだけだ。  地蔵を胸に抱え、見守ることしか出来ない僕の目の前で、白い手のひらが黒い塊を引きずり出す。手のひらに収まる程度の、黒い肉塊。粘性の液体に包まれたそれは、遠目には心臓のように見えた。  黒く長い糸を引きながら、巨鳥の胸から引きずり出された心臓。黒く汚れた手のひらの中で脈打つそれは、空気に触れる端から溶け落ちていく。ぽたり、ぽたりと落ちる液体が、虫のように這って逃げていくのを、視界の端に捉えた。  固まっていた肉が、解れるようにして散り散りに逃げていく。瞬く間に形を失っていく肉塊を、暗い瞳が見下ろしている。飲み込もうと開いた口を力無く閉じた前条さんは、ぽつりと、小さな声で呟いた。 「統二なら死んだよ。いくら待っても、会える日なんて来ない」  地を張っていた虫が、動きを止めた。  伝い落ちる液体も、横たわる巨鳥も、脈打つ肉塊も、その全てが動きを止めた。  微塵も動くこと無く、その意識の全てを前条さんに向けていた。  鳥肌が立つ。僕が向けられたわけでもないのに。その少し外側に立って、触れているだけで、胃の中身を全て吐き出してしまいそうな程の緊張が襲ってくる。  宥めるように身を寄せてくる地蔵だけが頼りだった。寄り添い合うように地蔵を抱きしめ、逃げ出そうとする足を引き止める。動きたくなかった。動いて、アレの意識を引くのが怖かった。なのに逃げ出したくて堪らない。  気が狂ってしまいそうな重圧の中、込み上げる吐き気を必死に堪える僕の耳に、錆びついた声が届いた。  ――――とう じ  トウジ  どこ  ト ウジ  前条さんの手のひらに収まった肉塊。その中心に、歪な裂け目のような口が出来ていた。錆びた金属を擦り合わせるような声が、不格好な肉の襞から吐き出されている。  ――――とうじ  スキ  とう じ わたし すき あいたい あいた い   とうじ どこ 「だから、死んだんだって。もういないよ、二度と会えない。アンタがそうやって無様に存在する理由もない」  ――――うそ  ウソ     うそだ 「嘘なんか吐くかよ。だって、俺が殺したんだぜ」  一瞬の間。  言葉の意味を理解するより早く、僕の思考は悲鳴のような甲高い鳴き声に塗り潰された。  耳を押さえて蹲る。腕から滑り落ちた地蔵が不満げな音を上げたが、構っている余裕など無かった。  半狂乱になった鳴き声が響き渡る。そこに前条さんの笑い声が混じるようになるまで、然程時間はかからなかった。逃すまいと手の中の肉塊を握りしめた前条さんが、笑い混じりに続ける。 「あいつの死に様、聞きたい? 俺もよく覚えてないんだけど――覚えていたくもないんだけど、片羽根のよしみだ、アンタになら教えてやってもいいよ」  返事はない。ただ、劈くような鳴き声が上がるばかりだ。  狂ったように鳴き叫び、暴れまわる肉塊を見下ろした前条さんが、機嫌よく目を細める。返答など微塵も求めてはいない顔だった。  歪んだ笑みを浮かべた唇が、割れんばかりの絶叫を響かせる肉の襞に、まるで口づけるかのように寄せられる。喉を鳴らして笑う前条さんは、震える肉塊に迷うことなく歯を立てた。  歯を立て、食い破り、泥のような液体を啜り、噛み砕いて飲み込んだ。黒く汚れた喉が嚥下の度に動く様が、どうしたって目に焼き付く。  半分も飲み込まれる頃には、狂ったような叫び声は啜り泣きに変わっていた。  そして、全てが飲み込まれた今、夜道は痛いほどに静まり返っている。  沈黙の中、前条さんは満足気に唇を舐めると、ゆっくりと僕に向き直った。綺麗な笑みだった。綺麗すぎて、歪で、異質だった。背筋が凍る。黒い靴の先が僕に向かう。気づいた時には巨鳥の亡骸は跡形もなく消えていて、前条さんの口元に薄く残った黒色だけがあの化物の痕跡だった。  重い足音が響く。踏み出した足が僕に近づいたのを視認した瞬間、知らず僕の喉からは小さな悲鳴が上がった。  さっき、死んでもいいから助けたいと思った人相手に、本気で怯えていた。  何とも矛盾した感情だと――いや、言うほど矛盾していない気もする。だって、怖いだろ。怖い。怖いけど、でも、それ以上に心配だ。心配だけど怖い。ああもう、訳が分からない。  へたり込み、此方に近づいてくる前条さんに明確な恐怖を覚えていた僕は、しかし彼が三歩と歩かない内にその場に崩れ落ちた瞬間、弾かれたように駆け寄っていた。  もう、本当に、訳が分からない。自分のことなのにさっぱり分からなかった。  傾いだ身体を抱きとめ、何とか支える。膝をついた前条さんは幾度か咳き込み、その場に蹲ると、いつぞやのようにえずき始めた。  こうなれば、僕に出来るのは背を擦ることくらいだ。いつの間にか傍に寄ってきていた地蔵と共に見守りつつ、せめて辛さを軽減できますようにと背を撫でる。  噎せて咳き込む音と、喉の奥から何かを吐き出そうとする呼吸音が暫く続く。 「ぅ、ぇっ、げ、ッ、……ぐ、ぅっ、ぇほ、ッ」  嘔吐の瞬間、僕は明らかな異常に気づいた。前回の通りなら、彼はまた黒い液体を吐き出す筈だった。だが、僕と前条さんの間に広がったこれは、間違いなく、黒い羽根だった。  唾液に濡れた羽根が、折り重なって吐き出される。ただの液体を吐くよりも辛いのか、前条さんは覚束ない手付きで自身の口に指を突っ込み、喉の奥から羽根を引き抜いていた。抜き出された羽根は少なくとも十センチ以上はあるように見える。 「あ゛ー……、なに、いやがらせ……?」  乾いた笑いを零す前条さんが、再び背を丸めてえずく。咳き込む身体はぎこちなく強張っていて、どうも意識も朦朧としているようだった。地を掻く指にも、もう力が無い。  幾度か咳き込むも、自力で吐き出せる力が残っていないのか、開かれた口元から覗く羽根が出てくる気配はない。苛立ちを含んだ唸り声が響く。  ぐずった子供のような声だった。意識の混濁が激しい。このままだと、残った羽根を詰まらせるかもしれない。 「……あの、前条さん?」 「ッ、う、ぁ……っ、ぇ、……っ、ん……? けー、ちゃん……?」 「えーと、……その、すみません、ちょっと、失礼します」  場所は事務所の階段脇、万が一人が通ったとしても早々目につくような場所じゃない。見られたとしても救命処置で言い訳が立つ。そう、救命処置である。  対面に座していた僕は前条さんの身体の脇へと移動すると、先程まで彼が自分でそうしていたように、顎の下から手を伸ばすようにして、指先を咥内へと差し入れた。んぐ、と僅かに困惑したような声が漏れるが、構わず、喉の奥から吐き出される羽根のひとつを指で摘んだ。 「ぁ、ぅ、…っ、う、ぇっ、ぁ、ぉ……ッ、げ、ぇっ」  粘膜を傷つけたりしないように慎重に引き抜く。一枚一枚は然程大きくないが、体液で濡れて張り付いているせいで異物感が増しているのだろう。引き抜く度に、蹲った身体がびくりと嫌悪感に跳ねた。 「っ、……ん、ぇーちゃん、っ、けー、ちゃ……っ、」 「……大丈夫です、もうちょっとだけ我慢して下さい」  異物を吐き出す苦痛に潤んだ瞳が、不安を滲ませて僕を見つめている。一瞬、ほんの一瞬、零コンマ数秒ほど、なんだかいかがわしい気持ちになりかけたが、気合と根性で打ち消した。不謹慎だろ、やめろ。  宥めるように背を撫でつつ、全ての羽根を取り除く。吐き出す傍から溢れてくるので、随分と時間がかかってしまったが、何とか無事に全て取り除くことが出来た。  最終的には縋るように僕の服の裾を握りしめていた前条さんが、羽根を抜き終わると同時に倒れ込む。慌てて覗き込むも、以前のように意識を失っているだけのようで、一先ずほっと胸を撫で下ろした。  あとは前条さんを運んで、解決したことを月下部さんと綾音に伝えるだけだ。  安堵の息を吐き、倒れ込む前条さんの身体を支えて階段を登ろうとした僕は、結局二階へ辿り着くことすら出来ずに月下部さんに助けを求めた。  ……貧弱もやし野郎に出来ることなど、精々が地蔵の頭を投げるくらいである。  その後、ソファで眠る前条さんを前に二人に事態が解決したことを伝えた僕は、そのまま事務所に泊まり込んだ。  有り難いことに綾音のことは月下部さんが送ってくれると言うので、申し出に甘えた形だ。最後の最後までおっさん論争を繰り広げていたが、あれはあれで仲が良くなったというやつなのかもしれない。  綾音からは、珍しいことにちゃんとした謝罪の言葉があった。付き合っている時にも、あんな素直な謝り方はされたことがなかったかもしれない。ともあれ、無事で済んで良かったと思う。  依頼料は必ず払うから、と言う綾音と、前条さんが目が覚めたら連絡する約束をした。  ――――その約束がしばらく果たされない、と僕が知るのは、他の全てを知ってからのことだった。   続

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