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5:██の話[1]

 前条さんは、眠っているとまるで死人のようだった。  そもそも肌に生気がない上に、心臓も動いていないから脈も取れない。恐らく生きているだろうと感じられる点は「呼吸をしている」くらいのものだ。それすら細く、微かな物なので遠目からは完全に死んでいるようにしか見えない。  無事かどうかを確かめたい時に相手の体調がほとんど当てにならないというのは、精神的に堪えるものがあった。  指標になるものが何もないのだ。病院に連れて行こうにも心臓が無い人間の診察なんて出来ないだろうし、兎束さんの弟さんの件もある。医者に見せた所で異常があることすら認識されないに違いない。  つまり、僕に出来るのはこうして事務所に入り浸って、前条さんが生きているかどうか傍で確認することだけだった。  月下部さんは軽い調子で「しばらくすりゃ起きんだろ」などと言っていたが、既にあれから三日も経っている。月下部さんの『しばらく』がどのくらいを指すのか、もう一度聞いておいた方が良いかもしれない。  昼食中、隣に置いた地蔵と共に、ソファで眠り続ける前条さんを眺める。こんなことなら、掃除してベッドを置いてもらうべきだった。座り心地は良いとはいえ、ソファはソファだ。休養に向いてるとは言えない。  カップラーメンを片付け、汗の滲んだ首筋を濡れタオルで拭く。相も変わらず、馬鹿みたいに暑い事務所だった。  地蔵がごろごろと後をついてくる。視界に入らなければ動ける、らしい。理屈はよく分からない。『はい』か『いいえ』だけしか成立しない会話では聞き出すことも出来ない。  『はい』か『いいえ』しか出来ないものだから、僕らの間で気晴らしとして『ウミガメのスープ』が流行っている。  出題者は地蔵だ。問題が載っているサイトの、折り畳まれた答えを見せてから僕が質問をする形で遊んでいる。まともに正解したことは殆ど無いが、別に地蔵が問題を作っている訳ではないので僕が悔しさを感じる理由はひとつもない。無い。無いけど悔しいので不正解のたびに地蔵を転がすことにしている。 「……えーっと、その少女は既に死んでる?」 『ぽすん』 「ええーー、じゃあ、うーん……実は歌唱団に入ってる!」 『ぽすん』 「あーもう分かんないって……」  頭を抱える僕に、地蔵は笑うようにごろごろと転がった。悔しくなったのでそのまま足でごろごろと転がし、若干不満そうな顔になったので適当にタオルで拭ってやる。はいはい分かったよ手で転がしてやるよ手で。  自分の顔をした地蔵の首を、眠り続ける雇い主の横で転がして遊ぶ助手――というのは傍目から見たらかなり気が狂ってるのではないだろうか。ふと思い至ったが、既におかしくなりそうな程の不安に苛まれているので、これ以上の負担は抱えられないと放り投げておいた。  不安だ。正直に言って不安だった。このまま、前条さんが起きなかったら、僕はどうすればいいのだろうか。無論此処には通うし身の回りの世話は続けるつもりだけれど、でも、この先何年も目が覚めなかったらどうすればいいのか、僕には見当もつかなかった。僕の頼みのせいでこんなことになってしまったのだ。僕が責任を取らなければならない。  もはや浮いてるんじゃないかと思うほど軽い地蔵を抱え、前条さんが眠るソファの隣に膝をつく。静かな呼吸音を聞き、少なくとも彼がまだ生きていることを確かめる。  黒手袋を嵌めた手を取り、握り締める。反応はない。地蔵も寄り添いたいのか僕の腕の中で暴れたので、ソファの隙間に乗せておいた。 「……なあ、地蔵」 『ぽ?』 「もし、このまま前条さんが目を覚まさなかったら……、……お前もう擬音すら取り繕わなくなったな? やっぱり喋ってるだろ、っていうか『ぽすん』は言えるんだからこう、なんとか組み合わせて会話を」 『すぽん』 「…………うーん」 『すんぽ』 「……無理だな。待てよ、そういえばあいうえお表と組み合わせて会話するみたいなやつあったな」  不安から目を逸らすのと同時に会話も逸れていき、気づけば僕の手の中には手書きのあいうえお表が在った。イメージは行数と段数を指定してあいうえおを選ぶ表のつもりだったのだが、完全にこっくりさんになった。  やけになって、ついでに鳥居を書いておく。小学生の頃に流行ったなあ、なんて思いながら地蔵に見せると、何故か地蔵の身体が左右に揺れた。僕が見ている前で明確に動くのはこれが初めてだった。視界が歪むような頭痛。慌てて目を逸らす。 「う、うわ、どうした。何はしゃいでんだお前」 『ぽ、ぽ! ぽぽっ、ぽん、ぽ、』 「え、えっ、何、怖い。めっちゃ怖い、えっ? ちょっ、あだぁっ!」  突如挙動不審になった地蔵が僕の顔目掛けて跳んでくる。比較的軽いので別に痛くも無かったが、衝撃でバランスを崩して後ろのローテーブルに当たってしまった。腰が痛い。  顔面と腰を押さえて悶える僕などおかまいなしに、地蔵はぽんぽん鳴いている。ぽ、ぽぽぽ、ぽ、ぽ。待ってくれ、なんかそういう怪談があった気がする。少しは調べるようにした結果、恐怖を煽られるだけで逆効果だった勉強の成果、いや弊害が出かけていた。ぽぽぽぽ言うのやめろ。 「ったく、なんなんだよ。もしかしてこっくりさんやりたかったのか?」  ごつんごつん!  悪態をつきテーブルの上に紙を置くと、地蔵はなんとも嬉しそうな顔……顔?でその隣に頭を落ち着けた。二回跳ねたので肯定らしい。別に、やってもいいけど、テーブル割るなよ。  心なしか顔が輝いているように見える。輝く自分の顔。見たくもないので目を逸らし、こっくりさんってどうやるんだっけ、とスマホを取り出す。 「……なんか、どこのサイトでも『絶対にやらないで下さい』みたいに書いてあんだけど」 『ぽ?』 「もしやお前、僕を呪い殺そうとか考えてないよな。もしくは取り憑く的な」 『ぽんす』 「どっちだよ」  ぽすん!と返ってきた。スポンジが跳ねているような音が響く。石のはずなのにどうしてそこまで重量が変わるんだ。謎だ。まあ、怪奇現象に理屈を求めても仕方がない。  理屈はともかく、信用してもいいかどうかの判断はつけておくべきだろう。こいつは事あるごとに僕を脅かしてきた訳だし、その理由も不明だ。そこの理由を詳しく聞いて信憑性を……待てよ、今僕は詳しく会話するための手段としてこっくりさんをやろうとしている訳で、けどこっくりさんをやるためには詳しく話をする必要が、……ダメだこんがらがってきた。考えるのが面倒くさい。  初めて前条さんに会った日に、事務所で差し出された契約書を前にしていた時と同じ気分になりつつあった。  半分くらい「やっちゃってもいいか」と思考を放棄している時のあの感覚。こうなってしまうと反論のための思考が面倒になってくる。この性分のせいで、勉強がことごとく身につかなかったと言っても良い。  フル回転させても足りないというのに、半分が勝手に諦め始めるのだ。これで何かが身につく方がおかしい。  やっちゃってもいいか、は勇気ではなく無謀だ。でもその是非を考えるのも面倒というか。 「……いいか、地蔵」 『ぽ』 「僕は、お前を信じるぞ。前条さんを助けに行こうとしたお前を信じるし、そう、つまり、僕らは友達ということだ。友達に危害を加えるようなやつはいない。そうだろ」 『ぽすんぽすん』 「よし、そうだな。僕らは友達、変なことはしない。これは僕らがよりお互いを知る為の会話をする道具であって、断じてお前が僕に取り憑いたり僕を呪う為の道具じゃない。いいな?」 『ぽすんぽすん』 「よし」  そもそも友達をここまで疑う、というのが友達なのかどうか怪しい点だが、そんなことはどうでもいいのだ。たった今から僕らは友達である。あとお前、友達の彼女に手を出すのとかも無しだからな。  ある種の念を込めながら、十円玉を鳥居の上に置く。小学生でも知っている、ポピュラーな占いだ。耳にしたことはあれど、口にしたことはない文言を紡ぐ。  こっくりさん、こっくりさん。おいでください。  そういやこれ、一人でやると不味いんだったか?などと、やってから気づいたが、気づいた時には既に僕の指を乗せた十円玉はするすると鳥居の上から移動し始めていた。 「う、うひぇ」  変な声が出る。指を離しそうになるが、根性でこらえた。若干押さえつける形になってしまうが、十円玉は構うこと無く動いている。マジだ。マジのやつだこれは。  動いている十円玉を目で追う。あまり見たいものでもなかったが、一文字ずつ選択される以上、目を逸らすわけにも行かない。 「えーと、【ひ、と、つ、に、な、る、の、に、じ、か、ん、が、か、か、る】? 一つに? 何と何がだよ」  初っ端から訳のわからないことを言われ混乱する僕を置いて、十円玉は更に続けた。 【じかん かかる でも だいじょぶ】 「…………お前、そういうの分かるのか?」 【あおぐ おきる もうちょつと それまで へたくそ げむ つきあう】 「……悪かったなへたくそで」 【ご め ん】 「謝ってんじゃねーよ!!」  悲しくなるだろ! あと腹も立つ。一文字ずつ追っていくのでワンテンポずれてツッコミを入れる僕に、地蔵はバツが悪そうにごろりと転がった。かわい子ぶって誤魔化そうという意思を感じる。 『ぽ?』 「かわいくないからやめろ。そもそも僕の顔だぞ」 【あおぐ けちゃ かわいいつて いつてた から かわいい よ】 「……前条さんの基準はなんか変だから」 【けちゃ すき だからね あおぐは】 「………………もういいよ、この話やめよう」  なんかすごい恥ずかしくなってきたからやめよう。 【はなし なんで このあいだ あおぐ おめかしして けちゃ の いえ いつたのに しなかたの?】 「その話もやめよう!!」 【あおぐ かわいそ】 「うるせえ!! 色々あったんだよ、色々……!!」  十円玉を放り出したくなったが、僕の横でごとごと転がる地蔵に腹が立ったので意地でも離すまいと決めた。むしろ押さえつける勢いで行く。あークソ、これ以上喋るなお前。  何を考えているか分からず不気味だった地蔵だが、これなら何もわからないままで居たほうがいっそ幸福だったかもしれない。  空いている方の手で乱暴に頭を掻き、深い溜め息を吐く。 【けちゃ あおぐ すき じゃない の?】 「…………好きとか、そういうのは、なんていうか……」 【えつち な め で みてる のに】  言葉にならない唸り声が零れた。肯定はしたくないが否定も出来ない喉から、勝手に溢れて出てきた代物だった。  頭を抱える僕の視界で、十円玉は尚も動く。 【あおぐ けちゃ すき  あいしてる  せかい で いちばん   あおぐ は けちゃ しか いないから  でも けちゃ は ちがう? えつち したい だけ? もし そなら】  沈黙。 【ずつく】 「…………お前、前条さんの何なんだよ。何を知って、そんなこと言ってんだ」  恐らく地蔵も前条さんのことを好きなんだろう、とは思っていた。僕の知らない所で――僕が事務所に居ない時間で、こいつと前条さんはそれなりに仲を深めていたのだろうと。  だが、こいつのこれはただ好きなだけ、というには少し違うように思う。本気で前条さんの身を案じている。蹴り飛ばされて粉々になった地蔵のくせに。どうしてそんなことになったんだ。  訝しみ、目を細める僕に、地蔵は少し迷うように十円玉を動かし、文面を紡いだ。 【いつぱい しつてる よ あおぐも けちゃも あおぐが おはなし してくれた あと けちゃから もらつた】 「ちょっと待って、僕から貰った? 何を」 【あたま】 「…………そういや、そんなこともあったな」  雇われて初めての依頼で、僕はこの地蔵に首から上を持っていかれた。だからこそこいつは僕の顔をしている訳だ。  暦の上ではひと月前のことだったが、体感上は半年も前のことのように思えた。このひと月は、僕の人生でも一際濃い一ヶ月なのだ。目まぐるしく環境が変わって、感情も変わって、とてもじゃないが全てに追いつけそうにない。 【けちゃ の きおく みたよ】  思わず、紙面を凝視していた。  動きを止めた僕に構うことなく字を選ぶ十円玉を追うことが出来ない。途中、僕の異変に気づいたのか動きを止めた十円玉は、するすると【?】に向かった。  疑問符を投げてくる地蔵に、唾を飲み込む。 「……お前、もしかして、僕が覚えていないことを知ってるのか?」  十円玉は【はい】に向かった。 【でも さかす こわい から むつかしい】  地蔵はその話題自体を避けたいのか、ことさらに切れ悪く文字を追った。緩慢な動作で動く十円玉を眺めながら、僕は思案する。  前条さんの目は今後確実に覚めるらしい。地蔵の言うことだからどこまでが本当かは分からないが、信じてみてもいいかもしれないとは思う。不安は少し軽減された。  人間、最大の悩みが一旦解決すると他の心配事が気になるものだ。最近の僕の悩みといえば、『前条さんが目を覚まさないこと』と、『身に覚えのない人生の空白』だ。記憶が奪われたことを認識させる砂上とは違い、僕のこれはそもそも認識できていなかった。認識できないということを認識しているだけでも前進しているのかもしれないが、何だか後ろに進んでいる気分だ。 「……絶対に伝えられないのか? だってお前、知ってるんだろう?」  再びの沈黙。 【ためす?】  あ、これ、覚えがあるな、と思った時には遅かった。  僕の記憶に残っていたのとは違う位置に移動している硬貨を見下ろしながら、そっと溜息を吐いた。  地蔵が僕に何か教えた、という記憶だけが残っている。その中身は一切分からないが。なんというか、気持ち悪い感覚だ。勝手に頭の中を掻き混ぜられているかのような、そんな感覚すらある。  不快感に頭を掻き毟り、しばらく唸る。悩んでも答えが出ない。答えを知っているのに教えてもらえないというのはもどかしい。……ん? 「地蔵。僕が答えを知ることが出来ないのは、サーカスが関係しているんだよな?」  間。  十円玉が動く。 【はい】 「…………僕はサーカスに行ったことがある」 【はい】 「えーと、僕が入場料として持っていかれたのは記憶ではない」 【はい】 「……あー……何聞けば良いんだこれ……」 『…………ぽんぽす』 「誰がポンコツだ」  三問目にして既に詰みかけている。自分のアホさ加減に涙が出てきた。そもそも散々遊んで、僕はこの遊びが下手くそだ、ということは重々承知してしまっているのだ。  僕はサーカスに行ったことがあるし、入場料も持っていかれている。前条さんが前に語ってくれた話から察するに、相当無事な部類だ。五体満足。サーカスに行った記憶だけがない。  考える、というのは苦手だ。苦手意識を持っていると更にできなくなっていく。苦手の無限ループだ。何か別のところからアプローチしていくべきだろうか。 「僕はあの夏の日以前に前条さんと会ったことがある?」 【はい】 「…………それってもしかしてサーカスで?」 【はい】 「…………僕、そこで前条さんと何か約束した?」 【はい】 「地蔵、その約束自体は話すことは出来る?」 【はい】  これまでの会話の中で覚えの在るものを口にしていくと、地蔵は少し困ったように十円玉を動かした。約束。川の神様から藤倉を救い出した時、前条さんは確かそんなようなことを言ったと思う。  僕と前条さんはサーカスで会っていて、多分、そこで何か約束をしたんだろう。僕にはそんな記憶はないが、覚えていないことこそが答えならば覚えていないのは逆に確証になる……ような気もする。いや、ここで急に『僕は実は前条さんに百万円の借金をしていた』とか言われても困るけど。そういうのは信じられないけど。 【けちゃ あおぐ しあわせに する やくそく】  地蔵はゆらゆらと身体を揺らし、テーブルと石が擦り合う音を立ててから、頷くように前方に転がった。どむ、と僕の腕にぶつかってくる。  間。 【でも もう ほとんど かなてる いつしょに いる だけで しあわせ だつて】 「…………なんで、前条さんは……僕なんかをそこまで好きなんだろう」 【わかんない こんな ぽんこつ】 「うるさい」 『ぽんぽす』 「うるさいってば」  何やら抗議しているらしい地蔵はちょっとばかり跳ねた後、【きょうは おしまい】と十円玉を鳥居に戻した。  もう少し話していたい気もしたが、ぶつかってくる地蔵に引かれて目をやった先の腕が何だかびっくりするほど白かったので慌てて終わりにした。あれだけ掻いていた筈の汗はすっかり引いていて、正直言って寒いくらいだった。  もしや取り憑かれでもしたんじゃないだろうな、と地蔵を睨むも、ぽすん、と否定の返事が来るばかりだ。なんとなくだが、あまり長くやれるものでもないのかもしれない。  暖房器具の稼働音を聞きながら、冷えた身体を擦る。前条さんは常にこんな気分なんだろうか。知らなかったとは言え、最初の時に暖房を下げ過ぎたのは悪かったかもしれない。  目が覚めたら謝ろう。未だ眠り続ける前条さんを見つめ、さして残っているわけでもない業務を片付けてから、僕は戸締まりをする。鍵をかけ、扉を閉めると『休業中』の札が力無く揺れた。  次の日から、僕と地蔵のこっくりさんは日課になった。一日一時間程度が限度だが、肯定か否定しか使えなかった頃と比べれば格段に会話のレベルが上った。  サーカスについての話題は、初日以降あまり出ない。僕としては聞き出したいことが沢山あるものの、地蔵は本当にあのサーカスが恐ろしいようで、サーカスの話題になると露骨に硬貨が重くなる。  少ししつこくした時に、【ひとりで とんねる はいれなかた くせに】と言われたので強く聞くのはやめた。あの時の僕は死ぬほど泣いていたし、もしかしたら地蔵も泣けるなら泣きたいのかもしれない。無理強いはよくない。  なので、話題はもっぱら前条さんのことだ。なんでお前が名前呼びしてるんだよ、とか、【けちゃは なんで よばない? どうてい だから?】だとか、どどどど童貞ちゃうわ、とか、そういう下らない話。  事実本当に童貞ではないので自信を持って言ったよかった筈なのだが、いかんせんこいつは事務所にずっといるので、僕と前条さんのやり取りも知っているのだ。アレを知られているのに自信満々に童貞ちゃうわと言える度胸は僕にはなかった。  からかってくる地蔵を鳥居から追い出し、ぽすんぽすん後をついてくる地蔵を無視して、とっちらかっている段ボールに向かう。  いよいよやることがなくなってきたので、今日はこれを片付けてしまおうと考えた。  触ったら不味いものは地蔵が教えてくれるので、食み出してごちゃごちゃになっている段ボールの中身を整理する。よくわからない人形、束になった札、鏡、装飾のついた小刀、犬の頭、幾つも並んだ結び目に鳥の羽が挟まれた紐。次々出てくる得体の知れない物に若干怯えつつも片付ける。 「……本当に整理整頓出来ないんだなあ」  髪の毛の入った瓶、何かのアルバム、泥だらけの紙、骨、懐中時計、指輪、ネックレス、恐竜のキーホルダー、何かのミイラ。  ――――ん?  呆れながらも手を動かしていた僕は、ふと目についたそれに手を伸ばしていた。物騒な物ばかりが詰め込まれている段ボールの中に、どう見ても不釣り合いな物が紛れ込んでいる。  恐竜のキーホルダー。プテラノドン。羽を広げた躍動感溢れるプテラノドンが、キーチェーンの下についている。この色合と、この作りは、どう見ても僕の部屋に飾ってあった恐竜シリーズと同じシリーズのものだった。 「………………」  僕が鳥だか恐竜だか分からないフィギュアを大事にしていたことは、朧気ながら母が覚えていた。そして此処にも、鳥だか恐竜だか分からないフィギュアがある。  すっかり古びたプテラノドンを見下ろしながら、僕は地蔵に訪ねた。 「地蔵、これって僕が持ってたやつか?」 『ぽすんぽすん』 「…………やっぱりか」  覚えはない。さっぱりない。僕が大事にしていたフィギュアがこれなのか、僕にはさっぱり分からない。だが、僕の知らない僕を知っている地蔵が言うなら、きっとそうなんだろう。  フィギュアをポケットに突っ込み、ダンボールの中身を丁寧に戻す。少なくとも上が閉まるようには入れ直した。  頭を掻く。思い出そうと頑張ってみるも、霞を掴むような感覚が残るばかりで欠片すら得られそうになかった。苛立ちが募る。気持ちを落ち着けよう。そう考えて大きく息を吸った僕は、次の瞬間鳴り響いた着信音に、思い切り噎せた。 「げっほ、ぇ、ほ、っ、な、何!?」  素っ頓狂な声を上げつつ音の出処を探る。僕のスマホからではなかった。ならば答えは一つだ。  慌ててソファに駆け寄る。死人のように眠る前条さんの胸ポケットから、無機質な電子音が響いていた。そっと毛布を除け、コートのポケットから二つ折りの携帯を取り出す。  発信者を見ると、『クソ白髪野郎』とだけ書かれていた。誰だよ。せめて名前で入れておいた方が良いと思うんだけど。  悪いとは思いつつ、ある種の緊急事態だと電話に出る。もしも仕事関係の話だったら、今は受けられないと伝えなければならない。 「……はい、前条異能相談事務所、です?」  受け方はこれであっているのかという不安が語尾に出た。妙な緊張感と共に相手の答えを待つ僕の耳に、小さく息を吸う音と、沈黙が届く。  一、ニ、三……――――十秒待っても相手は黙ったままだった。 「あ、あの?」  まさか、クソ白髪野郎さんですか、などと尋ねるわけにもいかないので恐る恐る確認の呼びかけをする。  しどろもどろに助手ですと告げたところで、ようやく向こうから言葉が返ってきた。 『昂はどうした?』  女の子の声だった。女性、というにはあまりに幼い声音で問われる。それにしては随分とぶっきらぼうで不釣り合いな口調だ。混乱し、言葉に詰まる僕に、女性は更に続ける。 『代理の者が出たのだから、今電話に出られないんだろう。寝ているだけか? それとも、君が預かっているのか?』 「えーと、その……少々仕事で問題が起きまして、今は療養中と言いますか」 『…………意識が無いのか?』 「そうです。あの、すみません、失礼ですがお名前を伺ってもよろしいですか」 『前条謙一だ。君は?』  クソ白髪野郎こと謙一さんの言葉に、僕は慌てて名を名乗った。櫛宮司です、ひと月ほど前に異能相談事務所に雇われました。慌てたせいで噛み噛みになった文言を聞いた謙一さんは、興味があるのか無いのか分からない吐息をこぼした。 『…………成る程。きみが、“けーちゃん”君か』 「はい、そうです。けーちゃんくんです」  けーちゃんくん。敬称が重なっておかしなことになっているが、至って真面目な口調だったのでこちらも真面目に返事をしてしまった。  再びの沈黙。事務所内の暑さのせいか緊張感は長続きしない。じきにぼんやりと言葉を待つだけになった僕の耳に、僅かに戸惑いの滲む声が聞こえてきた。 『……櫛宮くん、君は昂からどこまで聞いているんだ?』  それまでの平坦な声音を聞いていなければ分からない程の、ごく小さな揺れだった。その揺れが何を意味するのか、僕にはよく分からない。その言葉の意味自体も。  どこまで、と言われても、そもそもどの話を指しているのかが判断できない。それってつまり、何も聞いていないってことじゃないのか。謙一さんが、前条さんの伯母だという人が『きっと話しているだろう』と思っていることを少しも聞かされていないということじゃないのか。妙な不安感があった。 「えっと、どこまで、というのは?」 『昂のことだ。昂自身の話だよ。君はあの子を知った上で傍にいるのか?』  今度は僕が黙る番だった。  正直に言って、僕が前条さんについて知っていることなんて、好きな食べ物と体質と僕のことをすごく好きってことくらいだった。何も知らないに等しい。僕は前条さんのことを何も知らない。  でも、まだ、出会ってひと月だ。なにも知らなくたって不思議じゃない。だって、これから知っていけばいいのだし。  そう思っていたのだが、いざ親族の方からこんな風に言われると、それはとても悪いことのように思えた。 「すみません、好きな食べ物くらいしか知らないです」  気づけば口からは謝罪が出ていた。少し呆れたような溜息が聞こえる。反射的に身体が縮こまった。勝手に謝罪が口をついて出る。すみません。何も知らないです。すみません。 『いや、君を責めている訳じゃない。昂に呆れただけだ。それに、私は昂の嫌いな食べ物しか知らない。君の方がある意味あいつを知っているのかもしれないよ』 「そ、そうですかね」 『私が言っているのは、君が昂の傍にいるリスクを分かった上で共に居るのか、ということだ』 「リスク?」 『…………櫛宮くん、空いている日を教えてくれないか』 「え? えーと、今の所いつでも大丈夫です」  綾音の件でクビ宣言をされて以降、僕はコンビニバイトをサボっている。どうせ、前条さんの傍に付いていようとすれば休まざるを得ないのだし、クビを宣言したのは向こうなんだから休んだって良い筈だ。  良心の呵責が無いと言えば嘘になるが、留守電に残っていた店長の嫌味を聞いたらそれも消え失せた。僕の代わりなんていくらでもいるのなら、さっさと探してくれ。  とにかく、そういう訳で僕には時間が有り余っていた。頷いた僕に謙一さんは告げる。 『なら明日だ。悪いが私の家までご足労願いたい。案内はしおんにさせる、明日の朝に迎えに行かせるよ。日帰り出来る距離だが、少し遠いから泊まっても良い。どうする?』  今の状況で前条さんの傍を離れるのは躊躇われたので、日帰りする旨を伝えた。では明日、と切られた携帯電話を見下ろす。  急な話で現実味がない。履歴には『クソ白髪野郎』が残っているので、確かに電話はしたはずなのだが、実際に会ったことがないからかどこかふわふわした感覚だった。  前条さんがあれだけ嫌っているのだから、もっと物凄い人なのかと思っていたが、やり取り自体は普通だった。まあ、本当に普通かどうかは会ってみなければわからないのだけれど。  はた、と気づいて、足元にいる地蔵を見下ろした。 「……お前もついてくるか?」 『ぽすん』 「まあ、そうだよな。一人にしておけないもんな」  じゃあ、後は頼んだ。僕はとりあえず謙一さんの言う、『前条さんと一緒にいるリスク』とやらを聞いてくる。  多分、聞いたとしても離れることはないんだろう。出会った当初の僕が聞いたら三メートルは後ずさってひっくり返りそうなことを考えながら、僕は戸締まりをして帰宅した。    2  翌日。謙一さんの言葉通り、安アパートの前には月下部さんの運転する見慣れない車がやってきた。 「あれ、車変えたんですか」 「代車に決まってんだろ、穴開いたから修理中」  思い出したのか苛立ちの籠もる声で呟いた月下部さんが、煙草に火をつけながら溜息を吐く。単純な苛立ちとは別に、何故か若干の怯えが見て取れた。怒られると分かっているのに職員室に行かなければならない時みたいな顔をしている。  訝しみつつ、カバンを抱えて助手席に乗り込む。 「そういえば、菓子折りとか持っていった方が良いんでしょうか」 「あ? なんで」 「いや、一応彼女の親族に会うんで……どうなのかなって」  朝起きた時にちょっとばかり悩んだ。そう、色々あって忘れかけていたが、この度僕は前条さんとお付き合いをしてしまったのである。彼氏彼女である。彼女の同伴なしにいきなり親戚に会うって、結構段階飛ばしてないか? 「オメー案外余裕ぶっこいてんな」 「……いや、そういうこと考えてないとなんか怖いっていうか」 「いらねんじゃね。つーか俺が詫びの品買ってるからお前が下手なモン買ってくと邪魔だわ」 「詫び、ですか?」  何か詫びるようなことでもあったのかと視線を向ければ、月下部さんは渋い顔をして煙を吐き出した。今更だが、せめて吸っても良いか聞いてほしかった。 「……砂上ん時、前条の方優先して見たかんなー、ちょっとなー、怒られるかもしんね」  ああ、だから不良学生みたいな顔をしてたのか。  恩人に怒られる、というのはなるほど、確かに想像だけでもかなり辛い。 「でも、月下部さんのおかげで助かった部分もありますし、人助けの為なら良いんじゃないですか?」  僕の言葉に、月下部さんはぱっと顔を輝かせた。 「だよな! いいよな! 人助けだし! 俺は慈愛の心でもって優先しただけだし!! よし、俺が怒られてたらそれ言えよ!」 「女の子を見殺しにしようとした人に慈愛の心があるかと聞かれると、ちょっと迷いますね」 「はあ~? あれは全部俺のせいにしていいぞっていう俺の優しさですけど~? それこそが櫛宮クンに対する慈愛なんですよ~~? わっかんねえかな~、罪を被ってやろうっていう俺の気概がよ」  被った所で死にゃあしねえしな、とハンドルを切りながらぼやく月下部さんの横顔を眺める。どう受け取ったものか迷い、しばらく眺めていると、月下部さんは顔をしかめながら舌打ちを響かせた。 「大体な、専門家頼んねえで元カレだとかいうド素人に頼りに来た時点で馬鹿なんだよ。怪我したら医者行くだろ? おんなじだよ! 呪われたら霊能者に行け! 腕折れてんのに元カレんとこ来て、『治してくれない! 薄情!!』とか言うか!? なんのギャグだ!! 張っ倒すぞ!!」 「まあ、多分錯乱してたんだと思いますし……」 「そんなんで人殺し扱いされて堪るかよ。自己責任だろうが。俺ァ前条が聞き入れなかったら本気であの女見捨てるつもりだったからな、マジだぞマジ」 「本当に、マジのマジですか」 「は? マジのマジだよ」  多分、マジのマジではないだろうな、と思った。でも、マジのマジでない、と思われるのが嫌なんだろうなとも思ったので黙っておいた。

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