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5:██の話[2]
謙一さんの家には九時前には着いた。
住宅街を抜け、途端に閑散とし始めた薄暗い山道の奥の奥に、その屋敷は在った。
寂しげな雑木林の奥に、古風な屋敷がひっそりと隠れるようにして建っている。物珍しさについきょろきょろと見回してしまう僕を置いて、月下部さんが木製の門扉をやや乱暴に叩いた。
「月下部ですけどー」
間延びした声で告げる。扉を叩いていない方の手には、埼玉銘菓のいちご大福があった。好きなのか、いちご大福。
いちご大福に気を取られている間に、扉が開いた。慌てて目を戻すも、誰も居ない。
いつものことなのか、月下部さんはためらうこと無く石畳を歩いていってしまうので、僕も後に続いた。背後で扉が閉まる。全自動門扉。仕組みは現代科学だろうか、それとも。
「あいてっ」
他に気をやりながら歩いていたら、月下部さんの背にぶつかってしまった。びくともしなかった。謎のショックを受けた。いや僕だって全力で当たればそんな別に。何の言い訳だろう。
初めての場所な上に、雰囲気に飲まれているせいで思考が浮ついていた。酷く場違いな気がする。古めかしい屋敷に気の抜けた普段着で来ていることもそうだが、なんというか、空気が違う。此処は僕みたいなのが来るところではない。
出来るだけ月下部さんから離れないようにしよう。玄関先で出迎えてくれた使用人らしき人に頭を下げつつ、目的の部屋に足を進める月下部さんの背を追う。足音がやけに響いた。
外から見た屋敷の規模に比べて、廊下が長過ぎる。妙な不安にかられながら足を進める。月下部さん、こういう時腕とか掴ませてくれる人じゃないよなあ。
「……月下部さん、あの、もしかして前条さんちって、すごいお金持ちなんですか」
「クソダセェ聞き方やめろ。前に言ったろ、銀蚕蠱の旦那がいんだよ」
「はあ、なるほど」
全然分からなかったが、なんとなく理解した気にはなった。なんだったか、富をどうたらするのがアレみたいな。
それにしても、人の気配が無い。この大きさの屋敷ならもっと人気があってもよさそうなものだけれど。そんなことを思って、ふと、前条さんの言葉を思い出した。存命の親族は伯母だけ。前条さんは確かにそういった。いや、伯母である謙一さんの旦那さんはいるんだけど、前条さんは恐らく親族に数えていないというか、そもそも怪異は親族に含まれるのだろうか。
「月下部です、櫛宮連れてきました」
とある部屋の前で立ち止まった月下部さんの声に、意識が引き戻された。恐らく、此処が屋敷の一番奥だ。
「入りなさい」
白い襖の奥から、電話で聞いた声がする。やっぱり、何度聞いても少女のようにしか聞こえなかった。訝しむ僕の隣で、月下部さんが襖を開く。すぱーん、と結構な勢いで開かれた。
入室ってなんかマナーとかあんじゃなかったっけ。僕の曖昧なツッコミは口から出ることなく、視界に入ってきた少女の姿に掻き消された。
白かった。
一言で言えば、白い少女がそこに居た。
白い髪を結い上げ、同色の着物に身を包んだ、およそ十歳程度の少女が、声と同じく平坦な瞳で此方を見上げていた。
姿勢良く正座した足元には、折り重なった絹糸が纏わりついている。部屋の奥半分を覆い尽くす糸は、まるで少女をそこに縛り付けているようにも見えた。
「君が櫛宮くんか。わざわざ来てもらってすまない、何分、屋敷から出られない身でな」
「い、いえ。僕は送って貰っただけなので……大した苦労は……」
震える声でたどたどしく返答する。みっともないほど狼狽えた僕の姿に、謙一さんはついと月下部さんに目を向けた。
「しおん、お前何も言わなかったのか」
「聞かれなかったんで」
「……お前も昂もどうしてそう、必要な説明を省くんだ」
「あいつと一緒にしないでくださいよ。俺は聞かれたら答えますって」
少し眉を寄せた謙一さんは、軽い溜息を落とすと、僕らに腰を落ち着けるように言った。胡座をかく月下部さんの隣に正座する。正直、何分持つか不安だった。
使用人らしき女性が、お茶を運んでくる。玄関先で月下部さんが渡していたいちご大福が並んだ。謙一さんの眉が少しだけ動く。
いちご大福から目をそらせないらしく、数秒見つめたままだった。そうしていると、本当に小さな女の子にしか見えない。だが、前条さんの伯母ということは少なくとも四十は越えているはずだ。
訳の分からないことには大分慣れたつもりだったが、どうやらつもりだけだったようだ。困惑する僕に、謙一さんは頭痛を堪えるように額に手を当てた。
「混乱させてすまない。この姿は、そうだな、持病のようなものだと考えておいてくれればいい。昂のアレと同じようなものだ」
「えっと、サーカスのやつってことですか?」
「…………」
溜息。
溜息に次ぐ溜息だった。なんだか居た堪れなくなって縮こまる。
瞳をきつく閉じた謙一さんは、それはそれは深い溜め息を吐いた。月下部さんは茶を啜りながらいちご大福を貪っていた。おい、アンタちょっとくつろぎ過ぎだろ。
怒られなかったからって気抜いてやがる。横目で睨むも、どこ吹く風といった調子だった。
米神を指先で叩いた謙一さんが、溜息の連鎖を断つように頭を振る。
「櫛宮くん。君はサーカスについてはどこまで聞いているんだ」
「ええと……一応、簡単には」
クビナシトンネルから帰る道すがら、前条さんが語ってくれた話を思い出しつつ言葉にする。招待状が届き、サーカスを見に行き、そしてそこで入場料として心臓を取られた。僕が聞いたのはそのくらいだ。
そういえば最初の電話でもそれを言えば良かったのかもしれない。気が動転して何も言えなかった。馬鹿だと思われているかもしれないが、馬鹿なので異論はない。
「そうか。ではもう一つ聞くが、君は心臓を失くした人間が普通に動けると思うか?」
「え? ……実際、動いてます、よね」
「ああ、そうだ。昂は心臓を失くして尚、生きている。だが、君が聞いた話では無事では済まなかった人間も居たんだろう? そういう人間はどこを取られたんだと思う?」
「…………えっと……」
「あの子はね、意味のある嘘も、意味のない嘘も吐くんだ。悪い癖だよ、いくら言っても直らなかった」
そういえば、と思った。兎束さんの弟さんは足を取られて歩けなくなった。代わりに何かが機能している訳ではないはずだ。僕は、直接見ていないから分からないが。
失われたものは失われたままなんだとしたら、心臓が無くなったらそこで終わりなんじゃないか? 足が無くても生きてはいられるかもしれないが、心臓を失くしたら。
僕が何がしかに思い当たったと察したのか、謙一さんは小さく頷いた。
「心臓を取られた人間は死ぬ。当然の話だ。だが、あの子はその当然の範疇外にいる。君が傍に立とうとしているのはそういうものだよ」
「…………だったら、前条さんはどうして生きてるんですか? あの人、人間……なんですよね」
「無論、先天性のものではない。寧ろ、そうであった方がまだ救いがあるかもしれないが」
謙一さんはどこかやけくそじみた様子でいちご大福にかじりつく。小さな口が見る見る内に大福を飲み込んでいった。茶を啜る。
部屋に垂れ下がった糸の内のひとつを手繰り寄せると、使用人さんが追加のいちご大福を持ってきた。ま、まだ食べるんですか。そうですか。
結局、いちご大福を三つ平らげた謙一さんは、口元の粉を拭ってから、一際長い溜息を吐いた。どうも、あまり口にしたい話題ではないようだった。
渋い顔をする謙一さんに、それまで蚊帳の外を決め込んでいた月下部さんが控えめに声をかける。
「あのー、謙一さん、それって、俺聞いても大丈夫なやつっすか?」
「問題無いが、これを聞いてお前が更にあいつを甘やかすことにならないかは不安だな。助けになってやれとは言ったが、ねだられたからといって先見の力などみだりに使うものではない。情報を集め、精査した上で必要な時に――」
「うっす、はい、おっしゃる通りで、分かってオリマス。私利私欲のためになど、いやいやまさか。俺はいつだって世のため人のために使ってますよ、ハイ。どうぞ、本題を続けて下さい。本題を」
説教の気配を感じ光の速さで退却した月下部さんに、謙一さんは何か言いたげな顔こそしたが、今は置いておくことにしたらしい。僕の方へと向き直った。
「昨晩、しおんから昂が砂上を飲み込んだと聞いた。君は現場に居合わせたのだろう? あの子は何か言ってなかったか?」
謙一さんの言葉に、記憶を浚う。確か、巨鳥の心臓を口にする前、前条さんは一度だけ『本当のこと』を言ってくれた。
全然、ちっとも、微塵も大丈夫じゃない。けれど、このまま放っておくわけにもいかない。放っておけば永遠に苦しいままだ。いつまでもあんな男に囚われているなんて馬鹿らしいだろ。
俺も、こいつも、どっちも惨めで馬鹿らしいから、大丈夫じゃなくてもこいつを食らうよ。
常にからかうような声音の前条さんの、珍しく平坦な声だったから、記憶に強く刻まれている。
細部こそ違うが、僕にしては驚くほどはっきりと覚えていたそれを告げると謙一さんは白い睫毛を力無く伏せた。
「……そうか。そうだな、それだ。そいつだよ」
「…………そいつ、とは」
「昂の身体を動かしているのは、砂上とあの子の母親――前条昴を磨り潰し混ぜ合わせた代物だ」
震えこそしなかったものの、謙一さんの声は酷く重たい響きだった。憎しみすら感じさせる声が、低く這うようにして吐き出される。
前条、昴。すばる。前条さんの母親。あまりにも似ている、似すぎている昴の文字が脳裏に浮かび、次いで、あの夜の前条さんの顔がよぎった。
一切の感情を失くした顔。どこか、遠くへ行ってしまいそうな。何故僕があの時、手を握るという対処法を取ったのか、今になってようやく思い至った。あの空間は、底のない沼に沈んでいくような、そんな恐ろしい感覚に満ちていた。誰か、あの人を繋ぎ留めておく人間が必要だった。
「悍ましい呪術だよ、とても正気とは思えない。殺すよりも酷い目的で作られた代物だ。それを、昂に施した人間がいる」
「…………誰なんです? そんなことをしたのは」
握りしめられた謙一さんの拳から、赤い筋が伝った。血だ。鮮やかな赤色はあまりにも痛々しく、白を染めた。凪いでいた瞳に、確かな憎悪が滲んでいる。
「私の弟であり、あの子の父親だ。名を、前条統二と言う」
名前を聞いた瞬間、僕の口からは情けないほどに掠れた声が溢れていた。え、とも、あ、ともつかない声。いや、まさかな。否定する。まだ新しい記憶が、黒い巨鳥に紐づけされた前条さんの言葉を思い出す。
泣きじゃくるように喚き立てる巨鳥に向かって、彼は確かに言ったはずだ。
「え? 統二って、あの、えっと、」
目に見えて狼狽え始めた僕に、謙一さんは静かに目を細めた。
「……なんだ、知っていたのか」
その言葉で確信した。自分の意識とは別の所で、唇は勝手に笑みの形に歪んでいた。冗談ですよね。そう笑い飛ばそうとして。
引きつった笑みを浮かべる僕の前で、謙一さんはゆるりと首を振った。
「あの子は父親を殺している。殺されて当然の男だ。だが、君にとってどうかは知らない。聞かなければ良かったと思うか? 私も、もしかしたら聞かせなければ良かったと思うかもしれない。これで君が昂の傍を離れるようなことになれば、あの子は今度こそ、決定的に私を憎むだろう。もしくは、私のことも殺すかもしれない」
小さな唇に笑みが浮かぶ。
「そんなことはさせられないから、君が離れると言うなら、私は自死を選ぶよ。夫には悪いがな」
絹糸が、一斉にざわつくのを感じた。でも、そんなことはどうでもよかった。
温くなったお茶を飲み干す。やけくそ気味にいちご大福にかじりつき、飲み込む。さっきの謙一さんも、こんな気分だったのかもしれない。
「…………何があったんですか。子供が親を殺すなんて、余程のことがなきゃ起こらないでしょう」
頭の片隅に、うさぎの人形がちらついた。五歳の女の子の胸に渦巻く憎悪を、あの人は誰よりも理解していたのかもしれない。
謙一さんは微かに否定じみた言葉を吐いたような気もした。案外、よくあることさ。微かな呟きは、月下部さんの茶を啜る音に紛れてしまう程度の声量だった。
「正直、僕は、まさか、人を殺してるとか、思ってませんでしたけど、でも、理由が……理由があるなら……」
「仕方ない、と思えるのか」
「…………分からないです、そんなの」
記憶に『殺した』という言葉が残っていたのにも関わらず、僕はどこかそれを遠くのことのように考えていた。だって、あまりに現実味が無い。オカルトの塊みたいな人に現実味って。なに言ってんだろう僕。
そりゃ、確かに、殺してたっておかしくないとは思った。もしも、事務所に行った時に血まみれの前条さんと死体が居て、「あー、ちょっと殺しちゃったんだよな」とか言い出したら、死ぬほど驚いて死ぬほど泣いて、警察に行きましょうと言って、でも、多分、そうだろうな、ってのが浮かぶと思う。そうだろうな。人ぐらい殺すだろうな。だって、鉄板入りの靴で一般人をためらいなく蹴りつける人だぞ。チンピラは元気でやってるだろうか。最近全然見ないけど。元気でやっていますか。やっていてください。どうか死んでたりはしないでください。
両手で頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。理由が必要だった。前条さんがお父さんを殺していてもおかしくない理由が。
僕が、前条さんから離れないで済むだけの理由が。仕方ないよね、って言える理由が。万人が納得しなくていい。僕が納得する為の理由が必要だった。僕だけが納得すればそれでいい。それでいいんだよ。他の奴らなんか知らない。
「説明して下さい。さっき言ってた呪術っていうのはどれくらい酷いことなんですか。あの人はどれくらい、酷いことをされていたんですか」
それって人を殺しちゃっても仕方ないくらい酷い理由ですか。僕にも分かるように説明して下さい。なら、仕方ないね、って言える理由を下さい。
前条さんを好きになりたい。好きになれないような理由は全部排除したい。ひどい話だ。自分勝手にも程があった。あの人、なんでこんなやつを好きなんだろう。駄目ですよこんなやつ好きになったら。どこが好きなんですかこんなやつの。
「…………昂から聞いた話だから、あの子の主観でしか言えないよ」
震える喉で、ゆっくりと深呼吸した僕に、謙一さんは努めて平静な声でゆっくりと話し始めた。
前条統二と、前条昴と、前条昂の、三人家族の話を。
◇
両親は、誰の目から見ても仲睦まじい夫婦だった。息子である自分から見ても、間違いなくそうだと言えた。
美しい母に、優しい父。理想的な夫婦。そう、夫婦だった。『理想的な家庭』ではない。前条という名で囲われた三人は、あくまでも『理想的な夫婦』と『その付属品』にしか過ぎなかった。
父が自分のことを一欠片も愛していないと悟るのには、四年もあれば充分だった。『前条昂』という存在は、産まれてから四年間、ただの一度も父の関心を引かなかった。
この世で最も愛している女が産んだ、世界一愛おしい女を飾る付属品でしかなかったのだ。よってそれに相応しい名をつけた。前条昴の胎内にいる付属品に、昂という字を当てた。コウでもアキラでもいい、と告げた父に、母は曖昧に笑った。早く出ていけばいいのに、と言わんばかりに腹を見つめる父に、やはり母は曖昧に笑った。曖昧に笑い、立ち入らせることなく息子を産み、そして明確に名を呼んだ。母は自分をあおぐと呼んだ。
ごめんね、あおぐ。おとうさんはまだ、おとうさんになるのにじかんがかかるの。
二人きりの時、母は時折困ったように呟きながら自分の頭を撫でた。物憂げな表情すら、一枚の絵のように美しい人だった。
母が言うのならそうなんだろう、と思った。おとうさんというのは時間がかかるものなのだと思った。別に、時間がかかってもいいとも思った。注がれる愛情は母のものだけで足りていたし、何より、父は歪だった。子供の頃は上手く言えなかったが、あれは言葉にするなら、どうして人の形を保っているのか分からない生き物だった。何かが人の真似事をしている。
そんな生き物にあれだけの関心と愛を寄せられて、ただ優しく笑うことの出来る母も恐ろしくはあった。それでも、二人は真摯に愛し合っていて、その結果自分が産まれたというのは確かなようだった。その事実だけで充分だった。
「困った時は謙一おばさんを頼るのよ」
「けんいち?」
「遊んだことあるでしょう? 可愛い女の子」
五歳になる頃には、母は月に一度、父の目を盗んで出かけ、伯母の家への道のりを自分に教えるようになった。
忘れないでね、と繰り返し言うので、その道だけはしっかり覚えるようにした。父には内緒だった。
恐らく、この時点で母は父に親としての情を抱かせるのを諦めたのだ。『前条昂』という異物がこの家から排除されないのは、偏に母が大事にしているからに過ぎないと実感した。妻が大事にしているものを捨てる愛妻家などいない。愛妻家。あくまで、愛しているのは妻だけだった。
だから、母は我が子を守る手段を用意することにした。
その内の一つが、避難所の確保だった。何か困ったことがあれば伯母さんの家に行くのよ。繰り返される文言を頭に叩き込み、今日も仲睦まじい夫婦の間に居座る異物となる。今日も、明日も、明後日も。
六歳の時、母が死んだ。
事故だった。バイクに二人乗りした若者が調子に乗って運転を誤り、歩道に突っ込んできた。母は、自分を庇って死んだ。打ち付けた頭がやけに熱かったことだけを覚えている。
母の心臓が止まり、頭を打った自分が受けた検査の結果が出た頃、息を切らした父はようやく病院に辿り着いた。
父は息子のことは何一つ聞かなかった。ただ、妻の身だけを案じていた。
母が死んだと聞いた瞬間、父は一言、笑顔で「そうですか」とだけ言った。そのまま妻の遺体を移送する手続きだけして、息子を置いて帰ろうとするものだから、周りの人間は父が精神的ショックでおかしくなったのだと、痛ましげに顔を歪めた。
そうですか、大丈夫です、すみません。そんな言葉を笑顔で繰り返し、スーツ姿で帰ろうとする父の後を慌てて追った。途中、母に教えられた道に出た。叔母の家への道と、遠ざかっていく父の背中が、涙で歪んでいく。
迷って、立ち尽くして、頬を涙が伝う頃、足は父の背を追った。不安と焦燥が、縋る相手に父を選んだ。誤った判断だったが、それを誤ちだと認めたくなかった。
鍵をかけられていたらどうしよう。家に着いた時に考えたが、丘の上の可愛らしい一軒家の扉は半開きのままだった。この扉が、自分の存在に配慮したものでは無いことくらいは理解できていたが、入る以外に道は無かった。
父は、書斎の本という本をひっくり返していた。鬼気迫る表情に足が引け、自分の部屋に逃げ込んだ。時折、唸り声とも啜り泣きとも取れる奇声が漏れ聞こえるのが恐ろしくて仕方なかった。
これからどうしよう。それだけを考えていた。多分、きっと、確実に、よくないことになる。それだけは分かっていたが、恐怖に身が竦んで動けなかった。このままでは不味いのだとしても、状況を打開する手など一つも見つからなかった。
父は一晩中喚いていた。眠れなかった。翌朝、父はふらふらと外へ出て行き、夜になって少しばかり満足そうな顔で帰ってきた。
その次の、更に次の日、警察が来た。父がリビングで応対する声が聞こえてきた。バイクを運転していた若者二人が病室で死んだそうだ。事故の怪我が理由とは思えない状況なのだという。部屋は二人の物と思われる血液で一面真っ赤で、病室の真ん中に頭蓋骨が二つ並んでいる以外は人と判別できるような物は一つもなかったらしい。
明らかに緊張した面持ちの警察を前に、父は言った。
「もしかして、僕を疑ってるんでしょうか? 疑うのは自由ですけど、どうやって病室に忍び込んで、二人を殺して部屋中に血をぶちまけて、誰にも見つからずに病院を出たって言うんですか?」
黙り込んだ刑事二人に、父はにこやかに告げた。
「なんなら、家中調べて頂いても構いませんよ」
何もありませんから。広げた手に示された先に立つ自分の息子を、父は無感情な目で見た。いや、見てはいなかった。柔らかな印象を受けるアーモンド型の瞳は、前条昂を素通りしていた。父は何一つ認識していなかった。そこには壁があるだけだった。
刑事二人は、所在なさげに立ち尽くす未就学児が視界に入った途端、いささか気まずそうに目を伏せた。幼い子供がいるような場所で話すことでは無かったと思ったのかもしれない。
そもそも、子供がいてもいなくても、話すような内容ではなかった。何故、この二人は疑いをかけた相手にあんなにも詳細な状況の説明をしたのか。それの原因は異常な状況を生み出した元凶と同じ部分にあったのだろう。だが、その時、その場では誰一人察することはなかった。
自分の選択が誤りだと気づいた頃には、外界へ出る道は閉ざされていた。
理屈は分からないが、丘の上に建つ一軒家は、母が死んだ日から外との繋がりを絶った。父以外は出入りできない。誰も、この家を損ねることは出来なかった。
止むを得ず始まった父との生活は、およそ生活などと呼べるものではなかった。
寄生、と言い換えてもいい。一人暮らしを始めた父に寄生して生き延びた。食べ残しを漁り、一枚だけの服を擦り切れるまで着て、物置になった自室の隅で寝た。この家には母と父の物しか無くなった。この家は、『仲睦まじかった夫婦』の家だった。
危害を加えられなかったのは、単純に息を潜めていたからに過ぎない。元より視界に入っていないのだから、目に付かなければ駆除されることもない。害虫と同じだった。暖かな家に寄生する、害虫だった。
もし、誰かがその存在を気に留めるほど『前条昂』と関わっていたのなら異変に気付いたかもしれない。だが、当時六歳の自分の世界は、丘の上に一つしかない、隣近所と隔離された可愛らしい一軒家だけで構成されていた。
前条昂の中に自宅以外の世界は存在しなかったし、その断絶は小学校入学前の時点で主観だけでは済まなくなった。
ある日、父は家中の扉を開けて回り、部屋の端で丸くなって寝ていた自分を見つけるや否や叩き起こした。起きてるとお腹が空くから、なんとかして眠るのが常だった。何が起きたのか分からず目を白黒させていると、父は満面の笑みで、しっかりと、息子の顔を見て言った。
「待たせてごめんね、昴さん。これからまた一緒に暮らそう」
優しい声だった。柔らかい焦茶色の瞳が、此方の顔を見つめていた。顔を。顔だけを。
薄汚れ、痩せこけて尚、息子の顔は恐ろしいほど母によく似ていた。並べずともあの腹から産まれたのだと分かるほどに。
父に浴室に引きずり込まれ、身体中を丹念に洗われ、ようやく我に帰った時には、目の前には黒い液体が広がっていた。
浴槽一杯に、真っ黒な液体が溜められている。光すら吸い込みそうな程の黒に身を引くと、背後に立つ父の足に当たった。見上げる。優しい笑みだった。父は言った。
「昴さん、少し苦しいけど我慢してね」
言い聞かせるように、父は母の名を紡いだ。次の瞬間、栄養失調ですっかり軽くなった身体は浴槽に放り込まれていた。黒。黒い。黒くて、黒い、息が出来ない。
どろりと粘性のある液体がまとわりつく。本能的に暴れ回る身体を、男の手が上から押さえつけていた。浴槽の縁を掴む手が滑る。
苦しい。死にたくない。死にたくない。怖い。死にたくない。苦しい。こわいこわいこわいこ、わ
————向日葵が一面に広がっていた。日差しが暖かった。視界が揺れる。
振り返った瞬間、足がもつれて転んだ。笑い声をあげる私を、追いかけてきた統二さんが見下ろす。笑いながら手を伸ばされる。掴んで、立ち上がって、バランスを崩して二人して転がった。ふわりと舞うプリーツスカートと、長い黒髪が視界に入る。
だから走ったら危ないって言ったのに。統二さんは笑った。
子供が欲しい。そう言った時、統二さんは少し困った顔をした。出産は命がけって言うよ、と拗ねたように言った。僕には君がいればいいんだから。
でもね、私、統二さんとの子供が欲しいの。きっと可愛い子が生まれるわ。女の子だったら、義姉さんとお揃いの服を着せたりして。すごく可愛いと思うの。
好きな人の子供が産みたい。あなたを愛しているから。
統二さんは少しの間渋っていたけれど、最終的には頷いてくれた。女の子だといいね。そう言って笑った。
君の身体を貰いたいんだ。
久々に顔を合わせたかと思えば、統二は挨拶もそこそこに本題を切り出した。
全部とは言わないよ。片腕くらいでいい。そう言って、困ったように微笑む。
あの女に心を奪われてからと言うもの、統二はわたしを訪ねてはくれなかった。久々の逢瀬。頼み事。統二がわたしに頼み事。理由なんて聞く必要はなかった。
切り落とした片腕を手にした統二は、嬉しそうに礼を口にした。ありがとう、これ、いつものお礼。裂かれた掌から溢れる血を、一滴残らず飲み干す。どんな酒より旨かった。何故、皆はこんなにも旨いものを忌避するのだろう。
初めまして、えーと、日暮、昴さん? 隣の席の男は遠慮がちに声をかけてきた。私は前を向く。ホームルームはまだ終わっていない。
初対面の男と親しくしたところで良かったことなんて一つも無い。あらゆる厄介事に巻き込まれて振り回されて、こっちが疲れるだけだ。これまでの人生で学んだ教訓を元に無視を決め込んだ私に、男は続けた。
僕、前条統二。前を向くの前に条文の条に、統ばる星の統に数字のニ。よろしくね。
つい、目をやった私に、彼はおそろいだね、と笑った。柔らかい、人の良さそうな笑みだった。
男の子だった。宿った命の性別を告げた時、統二さんの目に浮かんだのは紛れもなく嫉妬だった。そっか。力ない声が響く。
しばらく無言の間が出来た。俯いてしまった私の前に、統二さんがしゃがみ込む。彼は私の両手を包み込むと、優しい声で言った。
名前は僕が決めてもいいかな。
優しいのに、どこまでも冷たい声だった。
私に拒否権はなかった。
ごめんね昂。多分、私、死んじゃうと思うの。ごめんね。でも守れてよかった。大好きよ。本当に、大好き。お父さん、困った人だから、昂はもしかしたら嫌いかもしれないね。でもお母さんはお父さんのこと好きだったの。好きだからこんなことになっちゃった。ごめんね。でも、産まれてきてくれてありがとう。
愛してるわ、昂。
目が覚めた時には、浴槽は空になっていた。先程まで確かに黒い液体で満杯だったことを示すかのように、薄い汚れが残っている。だが、栓は抜けていなかった。
あれがどこに行ったのか、私には分からなかった。分からなかったけれど、目覚めた私を覗き込む統二さんに何を言わなければならないのかは理解していた。私は昴であり昂だった。両者を繋ぐ『わたし』が何者か、その時の私には見当もつかなかった。
横たわる身体を、統二さんが見下ろしている。バレる訳にはいかない。私は、昴でなければならない。彼はそのためにこんなことをしたのだから。
「おはよう、統二さん。ちょっと寒いわ」
「うん、ごめんね昴さん。もう一度お風呂に入ろうか」
微笑んだ統二さんは、何の疑いもなく私を昴として受け入れた。相も変わらず、身体の方には目もくれなかったが。
私の記憶を得た私の身体はしかし、変わることなく昂のままだった。上手くやらなければならない。統二さんの機嫌を損ねず、身体の違いなど些事だと思わせなければならない。完璧な前条昴を演じなければならない。生き延びるために。
役目は無かったと言わんばかりに浴室に放られた鋸を視界の端に収めながら、私は自身の首をひっそりと指でなぞった。
生活は一変した。寄生は同棲になった。温かい食事と清潔な衣類、安眠できる寝具。天国のようだった。私は天国に監禁されている。
それを幸せだと思えるほどに自我が消えていればよかったのに、私の中にははっきりと昂が居た。昂がいる、というより、昴がいない、という方が正しい。私は昴を演じているのだ。その時点で、私は昴でない。昴にはならなかった。
この生活は長くは続かないだろう。漠然とした不安は、五年が経ち、十二歳になって声変わりという形で姿を表し始めた。成長は致命的だった。生来の癖毛はまだ何とか誤魔化せた。でも、男性として成長していく身体はどうしようもない。いずれは違和感が勝る。そうなった時、私がどうなるかなんて、少し考えればすぐに分かった。
鏡の前に、青ざめた少女が立っている。少女にしか見えない十二歳。では十四歳は? 十六は? その先は?
身体はしばらく保つだろう。だが、声だけはどうにも出来ない。筆談はもっとダメだ。母はその身にそぐう美しい字を書くが、私の悪筆ぶりと来たら酷いものだった。どれだけ矯正しても治らない。母の字に似せるなんて、百年かかってもできそうにない。
気づいたら泣いていた。字が下手で泣くなんて馬鹿みたいだった。でもそれだけ絶望的な事実だった。
歯を食いしばる。幸いにも、顔だけは依然恐ろしいほど母に似ていた。記憶には母の笑顔がある。模倣は完璧だった。
毎日を恐怖の中で過ごした。薄氷を踏むように日々を重ね、『理想的な夫婦』を続けた。
十三歳、十四歳、十五歳。美貌は損なわれるどころか、凄絶さを増した。
十五を迎えた頃、統二さんは照れくさそうに紙袋を差し出してきた。中には、黒いセーラー服が入っていた。黒字に赤。記憶があるので分かる。神楽坂高校。二人の出身校の制服だった。
「ごめん、捨ててって言われたのに取っておいたんだ」
曖昧に笑う。受け取り、袖を通すと、統二さんは満足そうな息を零した。
スカーフの位置を調節し、振り返って微笑む。声は確実に低くなっていたが、その違和すら相貌の前に掻き消された。
「また、向日葵畑に行きたいわ」
「うん、必ず」
頬を染めた統二さんの口づけを受け入れる。彼はもう、ここにいるのが前条昴だと信じて疑いもしなかった。もう少し。もう少しで、外に出られる。
身体の変化は止めようもなかったが、私には『前条昴』として積み上げてきたこれまでの生活は、その変化を踏まえても尚、信頼に足る年数だった。
そして、十六歳。私に運命の日がやってくる。
◇
前条さんから聞かされたと言う話を、淡々と淀みなく語っていた謙一さんの口が、ゆっくりと閉じた。茶に口をつけた謙一さんが、気遣うような視線を僕に向けてくる。
「……顔色が悪いな。一旦、此処までにしようか」
もう昼時だ、と壁にかかった時計に目をやった謙一さんに、僕はゆるゆると首を振った。
「少し休んだ方がいい。食事の用意をさせるよ」
「…………すみません。多分、休んだ後でも、その話の続きを聞くことは出来ないと思います」
謙一さんの瞳に冷めた色が浮かぶのを見て、僕は慌てて言葉を付け足した。
客観的な立場から語り直されたものだったが、それでも充分、前条さんが何をされて、どれだけ恐怖して、苦しんだかは伝わった。これ以上聞きたくない、という気持ちすら浮かんだが、僕が聞けないのはそれが理由ではない。
「あの、僕、入場料に何を持っていかれたのかわからないんですけど、サーカスに行った時のことを人から聞くと忘れちゃうんです。多分……その話の続き、前条さんはサーカスに行くんですよね? だったら、もしかしたら、今の話も忘れてしまうかもしれません、どこまで忘れるのかも分からなくて、だから……その、忘れたくないので、聞けません」
僕の言葉に、謙一さんはゆっくりと一度瞬いた。
「……成る程。君は思い出さなければならないんだな」
「多分、そうです。そもそも、思い出せるのか、分かんないんですけど」
頬を掻く僕に、謙一さんは白い糸の束を一つ引きながら、力が抜けたように吐息を零した。
「恐らく可能だろう。それは昂の身体が証明している。サーカスによる欠損を外部の物で補うことは不可能――大抵、故障や拒絶反応が起こるが、あの子の体は心臓を失くして尚生きている。それは、サーカスが昂の身体に巡る異形を昂自身だと判別しているからだ。サーカスは、入場料を自力で補完する分には文句は言わないつもりのようだな」
僕に聞かせる、というより一人納得するために紡がれたような言葉だった。何度か頷いた謙一さんは、一旦話を切り上げるつもりなのか現れた使用人さんに食事の用意を頼んだ。
「……謙一さんは、あのサーカスが何なのか、知ってるんですか?」
「いや? 私が知っているのはアレがどういう働きをしてきたか、ということだけだ。アレそのものが何かなど、私程度には理解できない。だが、強いて言うのなら、『隠しきれないもの』だろうな」
「隠しきれないもの?」
聞き慣れない言い回しに首を傾げる僕を見て、謙一さんは説明に悩むのか暫しの間を置いた。
「君は、オカルトの語源を知っているか? 『隠された』という意味のラテン語のoccultusが由来とされている。人目に触れぬように隠された禁忌、目には見えない超常の物を指してオカルトなどと呼ぶが、何も隠しているのは人の手ばかりではない」
滔々と述べられた言葉を飲み込もうと、脳内で謙一さんの声を反芻する。
「世界が、超常を隠そうとする。人目につき、力を蓄えようと動く物を抑えつけるんだ。免疫反応に近いとも言える。『超常』という異常を、世界は出来る限り治そうと試みる。衆人監視の前では働かない超能力、痕跡だけを残すUFO、万人には見えない霊現象、目撃証言だけのUMA……その全てが、この世に顕れようと藻掻き、世界に抑圧されてきた物だ。無論、私達のような存在も、それらと何ら変わらない。人目につきすぎた超常の存在は、世界に目をつけられて消えるんだ。十年ほど前にも、居ただろう。一世を風靡し、急死した超能力者が」
「謙一さん、こいつ十ニ年前の話とか分かんないっすよ。七歳とかなんで」
ひらりと片手を振った月下部さんが口を挟む。指摘どおり、その頃テレビで何が流行っていたかなんて覚えていなかったので控えめに頷いておいた。好きだった仮面ライダーしか覚えていない。
「…………ふむ、そうか。神楽坂神之介という超能力者が居てな。あれは正真正銘本物だったんだが、頑なにメディアの前では自身を超能力者とは自称しなかった。だが、手元を完全に映し出す状態で能力を使い、成功したひと月後に急死した。要するに、世界は目立ちすぎた異能は全て排除にかかる訳だ。
サーカスの話に戻ろうか。あの、街中に堂々と居座り続ける超常の話だ。あれだけ人目につき、数多くの人間の意識に存在するにも関わらず世界から隠されることもない――隠しきれない、現象。アレは完全に世界と拮抗している。埒外の存在だよ」
対岸町の人々を思い出した。街中にサーカスのテントが在ることを認識していながら、疑問には思わない人々。ああ、あるねえ、と世間話で終わらせ、ふっと意識の外に置いてしまう。
それは恐らく、サーカスを隠そうとする世界の働きなのだろう。存在し続けるテントを消すのが叶わないのなら、認識を歪めるしかない。そして、サーカスに深く関わった者はその歪みの外に出る。
「五十年間見てきたが、結局アレの目的も存在意義も分からなかった。客を招いてサーカスを開き、入場料を徴収して閉じる。その繰り返しだ。もしかすると、それそのものが目的なのかもしれない。だから、アレが何かと聞かれれば、私には『隠しきれないもの』としか答えられない」
謙一さんはそこで一度口を噤み、そっと、微かに震える唇を開いた。
「……だが、私は一度だけ、彼奴がアレの中から出てきたのを見たことがある」
「アイツ?」
怒りとも怯えともつかない声で呟かれたそれに首を傾げると、謙一さんは小さく苦笑した。
「この話は、食事の後にしようか」
食事の用意まで時間があるそうなので、僕はとある一室に足を踏み入れていた。君なら入れても怒らないだろう、という言葉と共に案内されたのは、前条さんが使っていたという部屋だった。
謙一さんの居る奥座敷から大分離れた位置にある和室だ。ちゃんと道を覚えていられるか不安だったが、時間になった迎えに来ると言われたので素直に甘えて順路の記憶は諦めた。
ついでに、月下部さんは食事までの間に説教を食らうことになっていた。寿命と精度について、正座で滾々と説教を食らっていた。どうやら、僕が思っているよりも数倍は危ない力のようだ。怒られている所を見ているのも人が悪いので、そそくさと座敷を後にした。
少し震える手で、襖を開く。四畳半の部屋には、驚くほど何も無かった。
日の当たりにくい位置なのか、薄暗い室内に備え付けらしき書き物机だけが置いてある。味のある古傷に塗れたそれを撫でながら、僕はゆっくりと、深い溜め息を吐いた。
脳裏に、僕に抱かれに来た夜の前条さんが浮かぶ。自責の念に胸が重くなり、そっと机に頬を乗せていた。
『僕は誰かの代わりなんじゃないですか』なんて、知らなかったとしても言うべきじゃなかった。そんな不安飲み込んで、僕のこと本当に好きなんですか、と確かめていればよかった。
十年間、母親の代わりをさせられ続けた前条さんに、あの言葉はどれだけの傷を残したんだろう。好きな相手にそんなことを言われて、何も傷つかない筈がない。あの人には感情も、心もある。人間なのだ。
きつく目を閉じる。好きになって、と掠れる声で呟いた前条さんの泣きそうな顔が、焼き付いて離れない。
「……いいですよ」
好きになりますよ、アンタのこと。どうせ、この先も僕には厄介事の連続で、その度に最悪だと悪態をつくだろうけど、でも、それでもいいです。
そもそも、『好きになりたくない』だなんて思った時点で、もう半分くらい好きになってるのだ。だったらもう、諦めよう。諦めて受け入れるしかない。
冷え切った書き物机は、徐々に僕の熱が移って温くなっていく。ぼんやりと、前条さんの手のひらを思い出した。
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