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5:██の話[3]

「そういえば気になっていたんだが、あの子の好物を教えてくれないか?」  食事の最中、謙一さんは努めて柔らかい口調でそう尋ねてきた。箸運びが重い僕を気遣ったかのような声音だった。  この後話さなければならない話題に向けて、場を柔らかくしようとしているかのような。もしくは、僕の隣で鼻を啜りながら秋刀魚をつつく月下部さんを若干労るかのような。そんな声だった。 「えっと、コーヒーゼリーと、あとお麩とか。ラスクを牛乳に浸すのも好きで、っていうか多分、牛乳自体が好きなのかなとも思うんですけど……」  他にも、これまで作った中で特に美味しいと言われたものを挙げていくと、謙一さんは興味深そうに頷いた。私はコーヒーは苦手だな、と小さな苦笑が混じる。 「僕も気になってたんですけど、前条さんの苦手なものってなんなんですか?」  作った料理の中で特にこれが嫌いだと言われたことは無かったように思う。今後の参考に聞いておくと、謙一さんは苦笑を少し呆れたものへと変えた。 「牛蒡が嫌いなんだ、あの子は。出してみるといい、『木の根だ』と文句を言うから」 「ごぼう、ですか」  確かに嫌いな人は嫌いかもしれない。それにしたって、木の根って。確かに見た目はそうかもしれないけど。れっきとした食べ物ですよ。  文句を言う前条さんの反応を想像して何とも言えない顔になった僕を見て、謙一さんは困ったように笑った。事実、困ったことがあるのだろう。好き嫌いを諌める母親の顔に似ていた。  表情を見るに、謙一さんはとても前条さんのことを気にかけているように思える。確かに、最初は平坦で冷たい印象を受けたけれど、別に嫌うような相手には見えなかった。  前条さんは、どうして謙一さんをあんなにも嫌うのだろう。悪い人ではないと思うんだけど……というかそれを言ったら前条さんの方がよほど悪い人なような、悪い人っていうか、人が悪いっていうか。 「ご馳走さまでした。美味しかったです」 「そうか。口に合ったようで何よりだ」  疑問に思いつつも口にだすことは出来ず食事を終えた僕に、謙一さんはふと表情を冷えたものに変えた。空気が張り詰めた気がする。  思わず背を正していた。月下部さんはまだしょぼしょぼと秋刀魚の小骨を取っていた。小骨くらい食べればいいじゃないですか。  慣れているのか、謙一さんは月下部さんを無視して話を進める。 「さて、此処からが本題だ。君が昂と共に居ることの、リスクの話だよ」 「……はい」 「此れにもサーカスが関わってくるんだが……先程言った通り、私は一度だけ、サーカスの中の存在が外へと干渉するのを見たことがある」  私がまだ、本当に十歳だった頃の話だよ。  謙一さんは感情を押し殺したかのような声で呟いた。 「私には幼い頃から妙なものを見る力があってね。糸――縁、と言い換えても良い。人のそういう物を見て取ることが出来た。この有様では信憑性に欠けるかもしれないが、前条家は何もそういう特別な力のある家系ではなかったから、私は母に口止めされて、誰にもそれを言うことなくひっそりと暮らしていた。  男手が欲して何度か子を成そうとしたんだが、私の後には長く子供が出来なくてね。私が女であるばかりに、母には随分と肩身の狭い思いをさせてしまった。  そうして過ごすこと十年、ついに母が子供を身ごもったんだ。恐らく男児だろうということで、親族は喜んだ。母もようやく務めを果たせるとほっとしていたよ。  私の弟は母の胎内で順調に育ち、母は臨月を迎えた。その時だ、ピエロがやってきたのは」  深夜、皆が寝静まった頃。それは音もなくやってきたのだという。 「隣で眠る母の横に、肉で出来た風船を持ったピエロが立っていた。ピエロは、母から胎内の弟へと伸びる糸を断ち切ると、手にしていた風船の糸をそこに結んだ。糸は絡み合って、繋がって、腹の中の弟は、その肉塊にすげ替えられた。  私は恐ろしくて震えていることしか出来なかったよ。その肉塊は、確かに私を見つめていたから。弟に成り代わったそれが産まれてくることが恐ろしくてならなかった。母に訴えても、待望の子だからと何を言っても上の子の我儘で済まされてしまった。  やがて陣痛が始まり、無事に出産を終えた母の腹からは、あの男が産まれた」  統二、と名付けられた男児は、赤子の頃から既に異常だったそうだ。  謙一さんが銀蚕蠱に嫁入りする羽目になったのも、彼が関係しているらしい。あまり話したいことではないのか言葉を濁した謙一さんは、白い糸を撫でながら話を続ける。 「統二は随分と利発な子でね。私の嫁入りで家が栄えるのと共に、周囲の人間を取り込んで実質屋敷の主人のような立場に収まっていた。親族は神童が産まれたと喜んでいたし、少なくとも私の処遇以外は全てが上手く回っていたよ。あの子が、『昴さんに会いに行く』と言って家を出るまではね」  本当に、突然の話だったという。穏やかな笑顔で周囲に利をもたらしていた優秀な跡取り息子は、ある日突然県外の高校に進学し、そして卒業と共に一人の女を連れて帰ってきた。  眼を見張るような美しい女性だったそうだ。つまり、前条さんの母親――日暮昴さんを連れて帰ってきた。 「『彼女と結婚する』と昴を紹介した統二に、周囲は強く反対した。既に政略じみた婚姻関係を結んでいた女がいたし、都会から来た女などふしだらで品がないと言う者が多数だったんだ。統二は笑顔のままそれを聞くと、翌日には再び家を出ていった。そして、私以外の親族が皆殺しにされた」  この家は、私の記憶を元に夫が建て直してくれたんだ。元の屋敷はどこもかしこも血の匂いが染み付いてしまったから。疲れたように零した謙一さんは、そこで卓上に一枚の手紙を置いた。 「あの男が自分の妻にどれほど執心しているかは先程話した通りだ。どうやらそれは、死んで尚変わらなかったらしい」  宛先のない封筒の差出人は、『前条統二』だった。  白く小さな手が便箋を摘み出し、忌々しげに開く。 『もうすぐ二十歳の誕生日だね。迎えに行くから待っててね』  几帳面な字で書かれていたのは、それだけだった。もっとおどろおどろしい文面が出てくるのかと身構えていた僕は拍子抜けして、そして、ふと『迎えに行く』が誰を指しているのかに思い至って肩を強張らせた。 「あの、これって……」 「一週間ほど前に送られてきた物だ。昂の誕生日は六月九日だし、とっくに二十歳を越えているから、この『誕生日』というのはあいつが昂の中に注ぎ込み産まれた『昴』を指しているのだろう。昴の誕生日は十月一日だった」  思わず、今日の日付を確認していた。九月二十八日。スマートフォンを見下ろす僕の前で、謙一さんは僅かに眉間に皺を寄せた。 「まず間違いなく、あいつは昴を――昴だと思っているものを迎えに来るだろう。昂の中から引きずり出し、あの子を殺して昴を奪うつもりだ。恐らく君も、傍にいれば確実に巻き込まれる」 「…………それが、前条さんと共にいるリスク……ですか?」  事故とは言え妻を殺した男二人を残忍な方法で殺害し、更には親族すら皆殺しにした男が前条さんを狙っている。それは確かに恐ろしい事実だった。  三日後を思って強張った声で問いかけた僕に、謙一さんは一度視線を落としたのち、真っ直ぐに僕の目を見た。 「それもあるが、そもそもあの子自体が酷く危うい状態なんだ。人の形を保っているのは奇跡のようなものだよ。いつ何時不定形の化物に変わるとも知れない男を、君は愛することが出来るのか?」  即答は出来なかった。  出来ないというより、してはいけない気がした。僕がそれを言うべき相手は謙一さんではない。 「多分、それは、前条さんの顔を見て、あの人に言わなきゃいけない気がします」  色んな事を問い質して、沢山話し合って、その上で決めることのような気がした。決めるってのは、つまり、覚悟をだ。  一刻も早く帰りたかった。僕が帰った所で出来ることなんて一つもないけれど、もしかしたら事務所の段ボールに突っ込まれた物を全て使えば、何とかなるかも知れない。 「三日後、どうにかしてその人を追い帰さなきゃいけないんですよね? 何か方法ってあるんですか?」  スマートフォンをカバンに突っ込み帰り支度を始めた僕を見て、謙一さんは一瞬呆気に取られたように口を開き、卓上の手紙を雑にしまいこんだ。入れ替えるように、白い御守が幾つか並ぶ。砂上に追われた時に月下部さんの車に下がっていた物と同じ代物だ。 「どの程度役に立つかは分からないが、一応渡しておく。退けるのは不可能でも少しの間凌ぐくらいは出来るだろう。最善の方法は、あの子を起こすことだ。残りの砂上も取り込んだのなら、今の昂は十分統二に対抗できる筈だ」 「ありがとうございます。……でも、起こすってどうやって? 一応、地蔵……あの、同僚?みたいな怪異に聞いたら、少し時間はかかるけど目は覚ますって言ってて……待つ以外に何か出来ることがあるんでしょうか?」  白い御守を有り難く頂戴し、懐にしまいこんだ僕が戸惑いがちに聞くと、謙一さんは顎に手を当て数秒押し黙り、やがて諦めたように目を上げた。 「精気を注ぐのが最も効果的だろうな」 「えーと、それってどういう、あいてっ!」 「突っ込んで中出ししろっつってんだよ。謙一さんにんなこと言わすなアホ」  ごく真面目な顔つきで言われてしまったせいで上手く飲み込めず困惑した僕の後頭を、月下部さんが勢いよく叩いた。結構な勢いだった。じんじんと痛む頭を摩りつつ涙目で月下部さんを睨みつけ、そこで、ようやく言葉の意味を理解して僕は完全に硬直した。  半開きになった口が震える。え? 何? 僕いま、何を言われたんだ? あれ、おかしいな。今って、めっちゃ真剣な話をしてましたよね? 「え? ……え!? 突っ込む!? 何を!?」 「は? ちんこ以外に何があんだよ。それともオメーあれか、手とか突っ込みたい人間か。うへぇマジか引くわ」 「フィストファックは流石に守備範囲外ですよ!! って、何言わせてんですか!!」 「勝手に言ってキレんな変態」 「変態じゃありません!!」 「前条に欲情する時点で変態だろ」 「じゃあ月下部さんは一度も前条さんをいかがわしい目で見たことないっていうんですか!?」  僕の言葉に、月下部さんはこの世の地獄を見たかのように顔を歪めた。数秒の沈黙。顔を両手で覆った月下部さんは蹲り、か細い声で「おれはみぽりんひとすじだし……」と呟いた。  あるんじゃないですか!! あるんじゃないですか!! ほら!! 僕を変態と罵る権利はアンタにはないですよ!!  大体僕が前条さんをそういういかがわしい目で見てしまうのはあの人が僕に性的なちょっかいをかけてくるからであってもしもあの人がごく真面目に、いや真面目とかはないけど、兎に角、つまり、最初に会った時のような態度であり続けたのだとしたらそこまでえっちな目で見たりとかはしていない筈なんですよ。筈だ。  前条さんの素顔を知る前――どこか薄っぺらく胡散臭い印象の受ける言動を思い返し、そこにあの素顔を当て嵌め、思案した僕は、いや……? アリだな……?と思い始めて慌てて首を振った。違う。今はそういう話ではない。  前条さんの目を覚まさせるために必要な行為についての話だった。性的な快楽を求めての話ではなく、人命救助的な意味合いでの行為についての話だ。真面目な話だった。  心を抉られたのか俯いたまま唸り続ける月下部さんを無視し、謙一さんに向き直る。彼女は正座したまま僕らを見上げ、呆れたように瞼を下ろした。 「恋人と性交渉をする程度の話でそこまで狼狽えるとは思わなかった。配慮が足りなかったようだ、すまない」 「い、いえ……配慮はかなりされていたかと思います……すみません……」 「まあ、無理にとは言わない。恐らくだが、統二と接触するようなことがあればそれこそその刺激で目を覚ますだろうからな。力のあるもの同士が触れ合えば、必然作用し合う。……出来れば意思がある状態でそうなるのが望ましい、という程度の話だ」 「……わ、分かりました。一度、考えてみます……」  情けないほどに狼狽えてしまった。謙一さんが呆れるのも分かる。何だか居た堪れない気持ちになりつつ、帰り支度を終えた僕は啜り泣く月下部さんを引きずって謙一さんの家を後にした。  月下部さんは僕を家に送り届けるまで、言い訳じみた声音で「俺はみぽリン一筋なんだよ……」と壊れたレコーダーのように繰り返していた。   3  前条さんの目を覚まさせるために、目を覚まさない彼を抱く。頭の中で整えてみた文言を三度繰り返してみたが、どうにも僕にはハードルの高い作業のように思えた。  だって、寝てる前条さんを抱くんだぞ。意識のない相手を抱くってのも何だかいかがわしさが倍増するし、つまりそれって僕が一から全部準備をして抱くってことで、それが初めての行為って、なんだ、その、……いいのか? 本当に、やってしまっていいのか? 【あんずる より うむが やすし?】 「お前……簡単に言ってくれるよな……」 【はずかし なら びひんこ いく かくれる がんば】 「それは是非ともそうしてくれ。っていうかお前、僕が恥ずかしくないって言ったら居るつもりだったのか!?」 【きちく ぷれい しないか みはる】 「しねーよ!!」  思わず十円玉を投げつけてしまっていた。テーブルに当たって跳ね返った銅貨が床を転がっていく。地蔵が不満そうにぽすぽすと鳴いた。  謙一さんの家を訪ねた翌日。僕は事務所内で昨日あったことを地蔵に話していた。つまり、謙一さんから聞いた前条さんの過去だとか、彼に執着する父親のことだとか、そいつと対峙するために前条さんの目を覚まさせた方が良いとか、そのために睡眠姦しろって言われたとか。そういうことを。  唸りながら十円玉を拾い直し、鳥居の上に置く。ちゃんとお帰りくださいをしなければいけなかった。頭が痛い。指を乗せた十円玉がするすると動く。 【はんのう が ないと つまんな とか そうこと?】 「……お前は僕を何だと思ってるんだ」 【すけべ】 「うるさい。否定はしないけど別に今はそういうことで悩んでるんじゃない」 【じゃ なに?】 「……いや、なんていうか……せめて初めては、もっとこう、大事に抱きたいなって思ってるんだよ……」  作業として抱きたくない。あんなにも切羽詰まったような顔で僕を求めてくれた人相手に、寝てる間に中出しするって。いや、絶対にやらなきゃいけないんだったらやるけど、無理にとは言わないと言われてしまったし。逃げ場があるし。あってしまうし。  すーん……と謎の吐息を零す地蔵を小突き回しながら、僕はひとまず結論を出すのを後回しにすることに決めた。  せめて、キスで目覚めるとかだったらやってたかもしれないけど。目覚めのキス。王子様かよ。似合わないな。  唸りながら頭を掻き、眠り続ける前条さんを見下ろす。精巧な人形のようにしか見えない彼の唇に視線が引き寄せられる。知らず、身体は屈み込もうとしていたが、直前で地蔵の存在を思い出して動きが止まった。  振り返ると、地蔵は見てませんよ、とでも言いたげにクッションの下に潜り込んでいた。いっちょ前に気遣ってんじゃない。馬鹿。  結局、その日の僕は何もすることなく、これまで通りに業務を終えた。階段を降り、ビルの脇の駐輪場に置いてある自転車に鍵を刺して回す。こんにちは。スタンドを蹴るのと同時に声がかかり、挨拶を返しながら頭を下げる。前条異能相談事務所というのは此方ですか? サドルに跨る。ええ、ここの――――ここの?  ふと横を見ると、背広姿の男が立っていた。彼はにこやかな笑みを浮かべていた。沈み始める夕日が、僕らを赤く染める。  今日は何日だっけ、と反射的に考え、九月二十九日、と自答した。ああ、でも、そうか。誕生日に迎えに行く、などとは、一言だって書かれていなかった筈だ。  男は、ごく普通の顔でそこに立っていた。柔和な笑み。皺ひとつないスーツ。眉にかかる程度に切り揃えられた髪は清潔感溢れる好青年といった様子。今日は快晴で、空は澄み渡っていた。  なのに、どうしてだろう。僕には、この男が、土砂降りの中赤ん坊の死体を抱えて立っていた瀬口さんよりも、余程恐ろしいもののように思えた。  男は引きつった顔の僕を見下ろし、再度、柔らかい声で言った。 「すみません、前条異能相談事務所はどこですか? この辺りだと聞いたんですが、どうも辿り着けなくて」  困ったように頭を掻く男は、本当にただ道に困って尋ねている人にしか見えなかった。だというのに、僕の背には冷や汗が滲んでいる。  重苦しい緊張感の中、唾を飲み込む。  顔を合わすなり硬直し、立ち尽くした僕を見て、彼は不思議そうに首を傾げた。 「代わりに行って貰った人は入れたって言うんですけどねえ……ご存知ありませんか?」 「……ええと、はい。すみません、知らないです」  これは案内してはいけないものだ。絶対に、事務所に入れる訳にはいかない。僕は精一杯の愛想笑いを浮かべ、逃げるようにその場を後にし――ようとした瞬間、視界が反転した。  空が高い。抜けるような秋空だった。次いで衝撃。背中一面に走る激痛に身悶える僕を、柔和な笑みが見下ろしていた。 「ご存知ですよね?」  にっこりと微笑む男は、僕の腹を踏みつけながら言った。革靴の足を両手で掴む。鳥肌が立つような不快感が皮膚を伝って襲ってきたが、全力を籠めてその足を引き剥がした。  男はたたらを踏み、おっと、と呑気な声を零す。咳き込む僕をしばらく見下ろした男は、僕のズボンのベルトに白い御守が二つ下がっているのを見ると、ぱちりと一度瞬いた。 「ああ、姉さんったら。余計なことを」  参ったな、などと全然参ってはいない様子で吐き出した男――前条統二は、背広の足を軽く払うと、困ったように首を傾げた。 「もう一度だけ聞きますよ。前条異能相談事務所はどこにありますか? どういう訳か、さっぱり辿り着けないんですよ。誕生日には迎えに行かないといけないのに。もう一度、結婚式を挙げないといけないんです。どうせなら前と同じ歳に挙げたいでしょう?」 「…………知りません」 「分からない人ですね。どうして庇い立てするんです? 一体貴方、昴さんの何なんです?」 「僕は、昂さんの、恋人です」  一度も呼んだことのない名前を、はっきりと口にした。そうでなきゃ、この苛立ちは収まりそうになかった。  蹴り飛ばされ、くぐもった声になりながらも言い切った僕に、彼の顔からそれまで浮かべていた柔らかい笑みが削げ落ちた。 「お前、人の妻に手を出したのか」  肺を握りつぶされているかのような圧迫感が僕を襲った。呼吸が浅くなる。踏みつけられた腹を押さえながら立ち上がった僕を、統二は凍るような目で睨みつけた。  負けじと睨み返す。例え反抗して殺されたとしても、言ってやりたいことが出来てしまった。 「昂さんはアンタの妻じゃない。アンタの奥さんは死んだんだ、もう諦めろよ」  何が妻だ、と苛ついた。あの人はアンタの妻なんかじゃない。仮に、身体に母親が入っているのだとしても、サーカスはそれを彼自身の物として認めたんだ。だったら、もう前条さんの身体に妻と呼べるところなんて一つもないんだ。そもそも、元からない。こいつが勝手に勘違いして、付け回してるだけだ。  なんだか、無性にムカついた。苛立ちが湧き出て止まらなかった。多分、それは、この人が、此処まで来ても『前条昂』を少しも見ていないからだと思う。代替品としてしか見ていないのを、肌で感じ取ってしまった。  睨みつける僕に冷えた目を向けていた男は、ふと詰まらなそうに視線を外すと、うんざりしたように呟いた。 「成る程、君が邪魔なんだな」  聞かせる気もない声で呟いた男が、一転してにこやかな笑みを浮かべる。そのまま、一人納得するような素振りで何度か頷いた男は、ごく軽い調子で手を振った。 「分かりました。後日改めて伺います、今のままでは足りないようなので」  穏やかな微笑みを浮かべた男は慇懃無礼に頭を下げると、僕が言葉を発するより先に踵を返して去っていった。  瞬きの合間に掻き消えた背がどこにも見えないことを確かめて、そこでようやく力が抜けてへたり込む。手が震えていた。腰が抜けて立てずそのまま座り込んでいた僕は、日が沈みきった頃によろよろと立ち上がり、近くのコンビニ寄った。夜食と、換えの下着を買い込む。  逃げ帰るようにして事務所に入った僕を出迎えたのは、かつてないほどに挙動不審な地蔵だった。  どむっ、と腹に一撃食らわせてきた地蔵が、ごとごとと足の周りを走り回る。いてえ。さっき踏まれたばっかりなんだぞそこ。ふざけんなよ。  涙目になりながら地蔵を捕まえた僕に、地蔵はぽ、ぽ、ぽぽぽぽ!と何やら強い主張をかましてくる。慣れた手順でこっくりさんを始めた僕に、地蔵はガタガタと震える十円玉で文字を追った。 【やば やばば やば こわ むり】 「…………やっぱり、アレ、やばいのか」  謙一さんから貰った御守は片方が火で炙られたように焼け焦げていた。 【けちゃ しぬ しぬよ】 「………………死にたくはない、なあ」 【しにたくない?】 「そりゃ、そうだろ。別に死にたくて立ち向かった訳じゃないし……なんか凄いムカついただけで……」  やらなきゃいけない気がしたから、身体が勝手に動いただけだ。  今更恐怖がやってきて震え始めた手を押さえる僕を、地蔵がじっと見つめる。数秒の間を空け、地蔵は何かを決意したかのように震えを止めた十円玉を動かした。 【じゃ みがわり しよ】 「身代わり?」  首を傾げる僕に、地蔵はゆっくりと頷いてみせた。眠り続ける前条さんに視線をやった地蔵が、十円玉で文字を追う。 【あおぐ が やつてた にんぎょう けちゃ じぞうに ちを つける  それで たましい ちょつとだけ もらう じぞうは みがわりに なる けちゃ しなない】 「……身代わり人形、ってやつか?」  確か、アリスちゃんのお母さんを作ろうとしていた時にそんなようなことを言っていた気がする。人形を模したものに自分の魂を込めていざという時の身代わりにする。人形以外にも、御守とか鈴とか地蔵とかがある、と言っていた。地蔵。眼の前のこいつも、確かに首だけだが、地蔵だった。 「……そりゃ、そうしてもらえるなら有り難い、けど……どうしてお前、そこまで僕に親切にしてくれるんだ」 【ともだち】 「……………ああ、うん。そうだな、友達だったな」 【じぞう ひとりぼち だつた から ともだち うれしいね】  地蔵は嬉しそうにころころと転がった。なんとなく、その頭を撫でてやる。これで僕にそっくりじゃなかったらもっと素直にかわいがってやれたんだけど。いや、僕に似ているから身代わりに出来るんだけどさ。  一応、統二が接触してきた今も前条さんが目覚める気配はない。だとすると、自分の身は自分で守るしかないという訳だ。地蔵の申し出は素直に有難かった。  ころころ転がる地蔵の説明を聞き、手順を理解する。依り代となる地蔵に媒介として血をなすりつけ、名を与える。髪の毛でもいいらしいが、僕の髪の毛は短い上に硬いから、あまり括り付けるのには向いていない。 「言っとくけどな、身代わりは嬉しいけど、お前が死ぬのも結構嫌だからな」 【じぞう しなない かえるだけ】 「そうなのか? なんか、よくわかんないけど……」  裁縫道具の中から取り出した待ち針で指の先をつく。かっこよくナイフとかで儀式っぽくしたい気持ちもちょっとだけあったが、実行する勇気はなかった。だって、痛いし。  ぷくりと浮かんできた指先の血を、地蔵の頬へと擦り付ける。どこにつけるか、直前まで悩んだ。  地蔵を見つめる。僕は教えられた通り、ゆっくりと地蔵に向かって宣言した。丁度、手製の粘土人形に名付けた前条さんと同じように。 「――お前は、『櫛宮司』だ」  その瞬間、視界が歪んだ。頭の奥から響くような鈍痛。地蔵が――いや、司が、慌てたように駆け寄ってくる。  これは、こいつは、櫛宮司だ。じゃあ、――――僕は何だ?  世界が回るような感覚の後、僕の意識はふっと途絶えた。

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