19 / 45

5:██の話[4]

  ◆  目が覚めた瞬間、僕は玄関に居た。実家の玄関だ。どうしてこんなところに、と周りを見回した瞬間、前方から泣き声混じりの叫びが飛んできた。 「おかあさんはけーちゃんのこときらいなんだ! おかあさんなんかきらいだ! だいきらい!」  叫び声に引かれ目をやった僕は、呆気に取られて固まった。玄関から続く廊下を泣きながら走ってくるのは、小さな頃の『僕』だった。涙で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、僕の隣を走り抜けて外へと出る。  振り返った僕の耳に、慌てた様子の母の声が聞こえた。 「こら! 待ちなさい、××!! 待って――、戻ってきなさい!! 危ないから!!」  切羽詰まった声で幼い『僕』を追う母のお腹は大きく膨らんでいた。妹だ。あの中には妹がいる。妹が生まれる少し前の……夢?  ん? なんだ、今、途中ノイズみたいなのが。  違和感に眉を顰めた僕は、そこで自分の身体が引きずられるようにして玄関扉を抜けるのを感じた。泣き崩れる母の姿が遠くなる。慌てて周囲を見渡すと、前方を靴下で駆けていく僕が見えた。  どうやら、僕は幼い『僕』にくっついて移動しているらしい。玄関扉をすり抜けたことから察するに、身体はない。なんだこれ、夢か?  『僕』にくっつき、浮遊霊のように宙を滑りながら考える。夢――のようだが、どうしてこんな夢を見ているのか分からない。時折すっ転びながら走る『僕』を見つめる。その手に、赤い封筒が握られていることに気づいた時には、僕の眼前には綺羅びやかなサーカスのテントが広がっていた。 『……嘘だろ?』  僕の実家から対岸町までは電車で一時間かかる。子供の足で辿り着けるような距離じゃない。いや、そもそも、本当にこれはあのテントなのか?  腐り落ちた布がはりついているような、ボロボロのテント。僕が最後に見たテントの姿はそれだった。もう二度と使われることのない物。だが、今この場にあるこれは、どう見ても真新しい張りたての物にしか見えない。  賑やかな音楽と、飾り付けられた電飾が、『僕』を一瞬で虜にする。先程まで泣き喚いていたのが嘘のように顔を輝かせた『僕』は、ふらふらと引き寄せられるようにして入場の列に並び、そこに立つ少女にぶつかった。 「あたっ」  尻餅をつく。呆然とし、再び泣き始めそうになった幼い『僕』の前で、黒髪の少女が振り返った。 「……大丈夫?」  固まったのは、幼い僕だけではない。僕も、少女の顔を見て見事に固まっていた。  初恋のお姉さんがそこに居た。黒いセーラー服に、不格好な合わないサイズの靴を吐いた少女は、尻餅をついていた僕の前に屈み込むと、僕の膝についていた土を軽く払った。 「前見て歩いた方が良いよ」  少し低く、甘い声が耳を撫でる。僕はこの声に聞き覚えがあった。正確には、この時よりも更に深みを増した声に、聞き覚えがあった。でもまさか。そんな。いや、でも、それなら。まとまらない思考が火花のように弾けて散る。  心臓が煩い。どくどくと鼓動を高鳴らせる胸を押さえつけるように、胸元を握りしめた。  揃って呆然とする僕と『僕』の前で、少女は困ったように首を傾げる。長い黒髪がさらりと揺れ、邪魔になったのか片耳にかけるように指が黒髪を梳いた。  そして、そこでようやく、地べたに座り込んでいた『僕』は一言発した。 「お、おねえさん」 「…………うん?」 「けーちゃんの! およめさんになってください!」 「…………………………うん?」  少女は完全に、虚を突かれたように首を傾げ直した。  おい待て。馬鹿だ。こいつ、馬鹿だぞ! そりゃそうだ。僕だからな。  何言ってんだお前、と掴みかかろうとした僕の手は、座り込んだ『僕』の身体をすり抜けた。どうやら、僕の方から干渉は出来ないらしい。もどかしい思いで二人を見守る。  反応に困っているらしい少女に、立ち上がった『僕』はアホみたいな笑顔を向けた。 「おねえさん、お名前はなんですか!?」 「…………君は?」  アホみたいな笑顔を浮かべる『僕』の前で、少女は痛みを堪えるような顔で問いを返してきた。列が進み、歩み始めて転びかける『僕』の手を、少女が拾い上げるようにして握る。アホ面が更に溶けた。馬鹿かお前。 「けーちゃんはけーちゃんだよ!」  馬鹿だなあ、お前。我ながら悲しくなるほど馬鹿だった。  頭の後ろの方が鈍痛を訴えてくる。ああ、そうだ、なんとなく、思い出してきた。  僕はこの頃、自分のことを『けーちゃん』と呼んでいた。あだ名、だったと思う。祖母が小さい頃に『僕』をそう呼び、小学校入学と共になんとなく使うのをやめ、そして、家族が産まれてくる妹に関心を取られるようになるのと同時に復活した一人称だ。 「そう、けーちゃん…………けーちゃんは、私のこと、好きなの?」 「うん! すき! およめさんになって!」  うわあ、すごいアホ面だ。  過去の自分に恥ずかしくなって蹲り始めた僕は、それでも夢の中の二人を追って進む。  にこにこと、悩みなんて何もないんじゃないかと思わせるようなアホ面で笑う『僕』を見下ろしていた少女が、ふと縋るような目を向けた。泣き出してしまいそうな瞳を、瞬きが誤魔化す。 「…………幸せにしてくれるなら、いいよ」 「しあわせ?」 「………………そう。私のこと、幸せにしてくれるなら、いいよ」  少女の声は震えていた。今にも溶けて消えてしまいそうな声音。それを聞いた僕はと言えば。 「――うん! いいよ! けーちゃん、おねえさんのことしあわせにする!」  アホだった。ひたすらに。ひたすらにアホだった。  招待状を握りしめていた手をポケットに突っ込み、逆側のポケットを漁った『僕』は、そこから恐竜のキーホルダーを取り出した。プテラノドン。差し出されたそれを見つめた少女が、不思議そうに目を瞬かせる。 「これねえ! けーちゃんのラッキーアイテムなの! おねえさんにあげる! もってるとしあわせなんだよ!」 「…………ありがとう」 「けーちゃん、およめさんだいじにするから! けーちゃんといたら、おねえさんきっとしあわせだよ!」  何を根拠に言い切っているのか。さっぱり分からなかったが、謎の自信だけは溢れていた。電飾にも負けないくらいのアホ丸出しの笑顔が輝いていた。  プテラノドンを受け取った少女が、揺れるチェーンを眺めながら小さく呟く。 「そう、じゃあ……けーちゃんは私のラッキーアイテムだね」  嬉しそうに。微かな笑みを浮かべて言った。隣の馬鹿は機嫌よく鼻歌なんぞ歌っていた。馬鹿。あほ。お前ってやつは。いや僕だけど。  列は進んでいく。『けーちゃん』は一切黙ることがなかった。脳天気な声で、さきほど喧嘩別れしてきた母親との思い出なんぞを語っていた。好物を作ってくれた時のことだとか、ランドセルは緑が良かっただとか、風呂場でカブトムシだと思って捕まえたらゴキブリでめちゃめちゃに怒られたことだとか、妹が産まれることだとか。妹が産まれるから、『けーちゃん』は要らない子になるかもしれない、とか。  少女はその馬鹿みたいな話をごく真剣に聞いて、時折小さく笑って、たまに泣きそうな顔をして、『けーちゃん』の話に相槌を打っていた。  そして、『けーちゃん』は時折笑う少女を見上げて、やはり脳天気に言った。 「おねえさん、わらってるともっとかわいいねー」 「…………そうかな」 「けーちゃん、わらってるおねえさん、すき!」 「…………そっか」  能天気馬鹿の言葉に、少女は困ったように間を空けてから、笑ってたかな、と呟いた。不思議そうに自分の頬を撫でて、また嬉しそうに笑った。  そうして、手を繋いだ二人は列を進む。サーカスの入り口。愉快なピエロが招待状を確かめる。風船や、手品で現れた花を受け取りながらみんながテントに飲み込まれていく。  この後、何が起こるのか知っている僕の胸は、入場が近づく度に嫌な音を立てた。だが、止めることも出来ない。僕には、この先を見守ることしか出来ないのだ。 「――――オ客様、招待状ハ オ持チデスカ?」  緊張しつつ進んでいた僕は、最初、それが僕にかけられた言葉だと気づくことが出来なかった。  前を行く『僕』と少女が招待状を見せて潜り入ったあと、それに続こうとした僕は、ピエロに止められた。遮るように立ちふさがるピエロに、虚を突かれて狼狽える。 『え、え? ……えっと、招待状は……その……』 「招待状ヲ オ持チデナイ方ヲ オ通シスルコトハ出来マセン」  おかしい。これは、僕の夢の筈だ。僕は記憶の再現を見ているだけの筈だ。  なのにどうして、このピエロは僕を認識している?  困惑する内に、二人の姿はどんどん離れていってしまう。僕の身体――意識?は『僕』に引かれているのに、ピエロに阻まれてそれも叶わない。 「さーかすニ 入場出来ルノハ 招待状ヲ オ持チノ方ダケデス。タトエソレガ、貴方様ノ 夢ノ中デアッテモ」  ピエロはにたりを微笑むと、引き裂かれるような痛みに呻き始めた僕を楽しげに見下ろした。  駄目だ。僕はこの先を見ないといけない。見て、思い出さないといけないんだ。押し退けようとする僕に、ピエロは笑いながら両手を広げた。びくともしなかった。  畜生、こんなことならもっと筋トレしとくんだった。いや、夢の中でも筋肉が通じるかは分からないけど。  唸り声を上げる僕と、立ちはだかるピエロ。両者の拮抗を崩したのは、下方から聞こえてきた幼い声だった。 「……はい、招待状」  気づいた時には、眼前に赤い封筒が差し出されていた。封筒を持った小さな手の先を見る。力が抜けたように蹲った僕の前に立っているのは、兎束アリスちゃんだった。あの日見た夢と同じ顔をしていたから、間違いない。  見間違いかと目をこする僕に、アリスちゃんは依然会った時と変わらぬ無表情で再度招待状を差し出した。 「招待状、出したよ。だから、お兄ちゃんはお客さんだよ」 「…………ありす、ソウ勝手ヲサレルト 困リマス」 「これでお兄ちゃん、入れるね」 『アリスちゃん、どうして此処に……』  訳が分からず困惑する僕に、アリスちゃんは答えることなく招待状を胸元に押し付けてきた。封筒が開かれ、便箋が現れる。豪奢な招待状には、手書きで僕の名前と、入場料として『バームクーヘン』と書かれていた。  全く追いつけない。だが、これでピエロは僕にとやかく言えなくなったということだけは分かった。困ったように肩を竦めたピエロは、僕の手に在る招待状を片目で見下ろすと、恭しく頭を下げた。 「ヨウコソ、オ客様。ドウゾ心ユクマデ オ楽シミ下サイマセ」  半ば嫌味とも取れるそれを聞き流し、急いで会場内に足を踏み入れる。引力でも働いているのか、僕の足は迷うこと無く二人の元へと向かった。  舞台が一番よく見える位置に、二人は並んで座っていた。手は繋いだままだった。演目が始まる。空を泳ぐ人魚、光り輝く妖精、人語を解す大獅子、目を奪う美しいものたち。『僕』と少女は素晴らしいショーに虜になり、ひとつ見終わる度に目を輝かせて感想を言い合った。  すごいね、と繰り返しきゃあきゃあと笑うアホみたいな『僕』を、少女は愛おしいものを見る目で見つめていた。傍に立って眺めているだけの僕ですら、胸が熱くなるような視線だった。 「おねーさん! すごいねえ! 魚がお空飛んでたよ!」 「うん、すごいね」 「さっきのやつ、けーちゃんにもできるかな!?」  無理なんじゃないかな。さっきのって、綱渡りだろ。少女も無理だと思ったのか苦笑して誤魔化し、しかし、それでも惚けたように呟いた。 「すごいね、けーちゃん」  本当に、幸せになれそう。歓声に掻き消されてしまうような声量の呟きは、隣の『僕』にも届かなかった。  そして、その時はやってきた。  演目の終了を告げたピエロが、鳴り止まない拍手を前に何度も礼を返す。最後の最後、舞台に一人きりになったピエロは、ゆっくりとその口を開いた。 『皆サマ、本日ノ公演ハ 楽シンデ頂ケマシタデショウカ? 皆サマノ 心ニ残ル演技ガ 出来テイレバ何ヨリデ御座イマス。  サテ、ソレデハ皆サマ。タダイマヨリ、皆サマカラ “入場料”ヲ 頂キタク思イマス。上演中ニ 査定致シマシタノデ、招待状ノ 項目ヲ ゴ確認下サイ。  ソノママ、オ席デ オ待チ下サイマセ』  一礼したピエロが言い放った言葉に、小さなざわめきが広がる。全員が、『適宜』と書かれていた入場料を思い出し、その確認を始めた。  紙を開く音が、さざ波のように連なって聞こえてくる。僕は、静かに僕の前で招待状を開く二人を見つめていた。息が詰まる思いだった。  少女が赤い紙を開く。『適宜』と書かれていたそこはゆらりと文字が歪み、瞬く間に『心臓』へと書き換わった。少女の、いや――――前条さんの顔が強ばる。自身の招待状を投げ捨てた前条さんは、慌てた様子で、隣でぽけっとしている『僕』の招待状をひったくった。 「? お、おねえさん?」  不安そうな声で前条さんを見上げる『僕』に構うことなく、彼の目が入場料の項目を確かめた。  そこには、『名前』と書かれていた。  逆隣の席と、後ろの席にも目を走らせる。『兄』と『財力』。舌打ちした前条さんは、状況の飲み込めない僕の肩を掴むと、強い口調で問いかけた。 「けーちゃん、自分の名前言える!?」 「え、あ、う? な、なまえ……けーちゃん……えと……あれ……?」  辿々しくも答えようとした『僕』の顔が、途中で明確な恐怖に歪んだ。身体が透けていた。自分の両手が透けていることに気づいた『僕』が、半狂乱になって泣き始める。 「うぇ、わ、わかんない、わかんないよ……!」  見る見る内に透けていく僕を宥めるように頭を撫でた前条さんの顔が、徐々に青ざめていく。苦しげに息を上げ始めた彼は、それでも僕を真っ直ぐに見て言った。 「大丈夫、大丈夫だよ。けーちゃん……そう、けーちゃん、大丈夫、私が、私が覚えてるから……けーちゃんは、けーちゃんだよ」  絞り出すような声を聞いた『僕』の身体が、僅かに消滅の速度を緩めた。そう、消滅だ。僕は、多分、このままだと消えていなくなる。  泣きそうになりながら辺りを見回し、出口への誘導案内を見つけた前条さんが、僕の身体を支えながら座席の合間を走り抜ける。 「けーちゃん、妹が産まれるって言ってたね? まだ、産まれてない?」 「う? う、うん、た、たぶん」 「そう。帰り道、覚えてる?」  『僕』は泣きながらも、頷いた。それを見た前条さんも小さく頷く。 「そっか。じゃあ、けーちゃん。よく聞いて。今からお家に帰って、お母さんに名前を貰うの。妹の名前。きっと想いが籠もってるからけーちゃんを繋ぎ留めてくれると思う。大丈夫、私が絶対、忘れないから。けーちゃんは絶対にお家に帰れるよ。頑張れる?」 「お、おねえさんは……?」  入場料の徴収によって恐慌状態に陥るテント内を何とか抜けた前条さんは、出口の手前で膝をついた。咳き込み、蹲る前条さんに戸惑いながら寄り添う『僕』を、白い手がそっと振り払う。 「ごめんね、わたし、一緒に行けない」  一際大きく咳き込んだ彼の口から吐き出されたそれが、地面を赤く染めた。思わず足を引いた『僕』に、前条さんは口元を拭いながら笑う。 「行って。早くしないと、間に合わない」  そう言って『僕』の背を押す前条さんに、『僕』は躊躇いながらも走り出した。どうやって来たのかも覚えていないサーカスから、我が家に帰るために。  訳も分からず、夢中になって走った。泣きながら走って、家の門が見えて、僕は玄関扉を必死に叩いた。「おかーさん! おかーさん」と泣く僕に、母は慌てて飛び出てきて、僕を思い切り引っ叩いて、そして、僕を見下ろして、戸惑ったように一瞬動きを止めた。  僕を見下ろす母の目が、明らかな困惑に染まっていた。これは、自分の息子だったかしら? そんな狼狽。だが、泣きじゃくる僕を見下ろした母は、引っ叩かれた僕の赤い頬を撫でると、戸惑いつつも、はっきりと口にした。 「おかえり、司――よね。司……アンタ、本当……馬鹿なんだから……」  『司』は、妹の名前だった。妹に、つけられる筈だった名前だった。だったら、僕の名前は何だった? 覚えてるだろう。母が叱るように呼んだ僕の名前を。  泣きじゃくる僕の姿が遠くなり、視界は再び闇に包まれた。    ◆  瞼の向こうから蛍光灯の明かりを感じる。深く沈み込んだ意識がゆっくりと浮上し、感覚を取り戻していった僕の耳に、必死に呼びかける舌足らずな声が届いた。 『けちゃ! けちゃ! おきて おきないと やばだよ! けちゃ! しんだ? しんだ……』 「死んでねえよ! 勝手に殺すな!」  飛び起きる。僕の腹の上に乗ってぽすんぽすんと跳ねていた司は、僕が起きたのを確かめると嬉しそうに体当たりをかましてきた。 『けちゃ いきてた びくりした つかさ ぜんぶ もらちゃた こわい』 「ああ、僕も怖かった。……でも、そのおかげで思い出したよ」  ぶるぶると震えていた司が、動きを止めた。僕を見上げる表情豊かなアルカイックスマイルを、優しく撫でる。司となった地蔵は完全に喋り始めていたが、今はそんなことはどうでもよかった。  夢の中で見た光景は、確かに僕の胸に残っている。優しく、切なげに微笑む少女のことも。少女っていうか、少女ではないけど。それもどうでもいい。  ソファに横たわる前条さんに視線を向ける。触れるだけで泣いてしまいそうだった。鼻を啜りながらソファの脇に膝をつく。前条さん。アンタ、なんであんなアホ好きになったんですか。どっから見ても好きになる要素ないでしょ。なんで、あんなアホを、こんなアホを、十年も待って、好きで居続けたんですか。馬鹿なんじゃないですか。畜生。馬鹿。  何か言ってやりたい、と思ったのに、何も出てこなかった。そもそも、甦った記憶の消化すら済んでいない。嗚咽も、記憶も、上手く飲み込めない。  溢れ出る涙を拭って、眠り続ける前条さんの頬を撫でた瞬間――――視線がかち合った。  黒い瞳が、真っ直ぐに僕を見つめている。びくりと肩を強張らせた僕の耳に、冷えた声が響いた。 「来る」  昏睡状態から目覚めたばかりだとは思えないほど明確に発生した前条さんは、片手で僕を庇うようにして胸の中へと抱え込んだ。コートの胸元に鼻先がぶつかるのと同時に、ばつん、と何かが千切れたような音がする。  部屋の温度が、一気に下がった。  地獄のように暑い室温が、外気温を飛び越して凍えるような温度へと変わる。頭上で舌打ちが響いた。 『わあ やば やばば やば こわ こわひ』 「あ? お前、いつ喋れるようになったの? 新機能?」  転げるようにして足元に纏わりついてきた地蔵を見下ろして、前条さんが不思議そうに首を傾げた。リフティングの要領で蹴り上げた地蔵が、僕の腕の中に押し付けられる。慌てて抱え込んだ。 「けーちゃん、今日何日?」 「えっ、三十日――いえ、十月一日です!」  スマホの日付を見て、慌てて訂正した。僕の記憶では三十日だった筈だが、どうやら地蔵に名を与えて記憶の波に溺れている間に一日経っていたらしい。よく脱水症状にならなかったな。  喉が乾いた、などと言っている余裕もない程冷えた空気の中で必死に前条さんにしがみつく。何故かそうしていなければならない気がした。 「ふーん、とりあえずしおんちゃん状態は免れたか。けーちゃんも無事みたいだしね」  よしよし、と頭を撫でてくる黒手袋に、きつく唇を噛みしめる。堪えていないと勝手に涙が出てきそうだった。思い出したって、早く言いたい。そんな場合じゃないんだけど。  氷点下を割っているんじゃないかと思うような室温の事務所の扉を、何者かがこじ開けようとしていた。金属を掻く音。殴打音。ドアノブが喧しく騒ぎ立て、数秒もしない内にへし折られる。  丸く空いた穴から入り込んできた腕が、瞬く間に扉をひしゃげた鉄板へと変えた。  凄まじい物音を立てて外された扉に、つい目を向けてしまう。そこに立っていたのは、異形の化け物だった。  人の頭部を携えた胴体から、八本の長い腕が伸びている。人間の腕を間延びさせたような白い腕。人体を使って蜘蛛を作ったら、丁度こんな形をとるのではないだろうか。  ぺたり、ぺたりと、八つの手のひらが床を踏みしめる。八本足の付け根、ぶら下がった胴体の上で穏やかに微笑む顔が、素直に気持ち悪かった。見ているだけで吐き気を催す、そういう生き物だ。 「――――昴さん、迎えに来たよ」  一回転した首が狙いを定めるように前条さんへと視線を向けた。ひ、と息を呑んだ僕の頭を前条さんの手が再度撫でる。撫でてる場合じゃないでしょう。嬉しいけど、嬉しいですけど! 撫でてる場合じゃないから! 「昴さん、帰ろう。どこを探しても居ないから、心配してたんだよ、僕と一緒に行こう、今度こそ、二人で、永遠に」  錆びれた機械音に似た声で紡がれた言葉に、前条さんは酷薄な笑みを浮かべた。くつくつと喉が鳴る。はっきりとした嘲りを含んだ笑い声を響かせた前条さんは、べろりと舌を出して笑った。 「やなこった」  ブーツの底が床を蹴る。鉄板入りの踵を叩きつけるように蹴りをねじ込んだ前条さんに、異形の蜘蛛は事務所の外へと弾き飛ばされた。  放られた僕がソファに座り込むより早く、前条さんが二撃目を叩き込む。廊下へ飛ばされた蜘蛛が宙へと浮いた。地蔵を抱えたまま、慌てて後を追う。  唸り声に、昴さん、と泣き声じみた悲鳴が混じって響いた。白い腕が、前条さんの足を捕まえようと伸びる。コートの裾から伸びた黒い鉤爪が、それを払うのを見た。笑い声。  振り払われた蜘蛛はバランスを崩し、手すりの外へと落下する。前条さんは迷うこと無くそれを追った。無論、手すりを飛び越えて。 「ちょっ、待ッ、ここ四階ですけど!?」 『ぽんぽい!!』  司も驚いたのか素っ頓狂な声を上げる。手すりから階下を見下ろした僕の目には、血にへばりついた蜘蛛の胴体目掛けて着地する前条さんが見えた。見たところ無傷だ。ほっとするような、ぞっとするような、何とも言えない気持ちになる。  地蔵と共に階段を駆け下りる。この前もこんな感じだったな、と思いつつ幾つか段を飛ばして降り切った。 「まさか、本気で昴が残ってるだなんて思ってないよな? いい加減認めろよ、アンタは失敗したんだ。愛する妻をカミサマなんかと潰し合わせて、生き返らせた気になって、結局あの世ですら会えなくなったんだろ? だから残骸の俺にわざわざ泣きつきに来た。全く、馬鹿らしい話だよな」  足を千切られた虫が転がっていた。為す術もない。何もさせてもらえず、ただ死を待つだけの虫がそこに居た。  昴さん、と泣き声を上げるそれを、前条さんは歪んだ笑みを浮かべて見下ろしていた。黒いブーツの踵が、蜘蛛の頭を繰り返し踏みつけていた。拮抗どころの話じゃない。完全に圧倒している。  胃が締め付けられるような恐怖を覚える対象を、いともたやすく屠る存在。恐ろしくない、と言えば嘘になるが、それでも、僕は、この人を好きになってしまった。  震える足を叱咤して、歩み寄る。 「アンタ、まさか人間が死ぬってことを忘れてたんじゃないか? 馬鹿だよなあ、その点俺はちゃーんと準備したぜ。けーちゃんは死んでも一緒だ、ずっと一緒。きちんとアンタの失敗から学んだんだよ、偉いだろ?」  嘲笑い、罵声を浴びせながら、前条さんは『父親』を踏み躙り続けた。やめさせなければ、と思った。二度も父親を殺す必要なんて無い。  こんなやつ、前条さんがわざわざ手を下すような相手じゃないんだ。微塵も存在を認めてくれない人間を相手に心を砕く必要なんて無い。 「前条さん」  足は止まらない。 「今更のこのこ現れやがって、素直に死んどきゃいいものをさ。残念だけどお前は絶対に昴には会えない。昴はお前のことなんてもう愛してない、ただ俺を生かすためだけに存在してるんだよ、ああ、可哀想に、アンタがあんな真似したせいで、」  踏みつける。 「前条さん!」  踏みつける。 「何、けーちゃん。俺いま忙しいんだけど」  言葉こそ返ってきたものの、蜘蛛の頭を踏みつける足は止まらなかった。顔の上半分が消えて尚、すばるさん、と呻く存在を、黒い瞳が忌々しげに睨みつけている。 「僕、思い出しました。全部」  顎を砕こうと動いた足は、その場に力無く降りた。言葉もなく僕を見つめた前条さんが、ふらりと引き寄せられるように此方へ足を向ける。  赤黒く染まった靴の跡が地面に並び、僕の前で止まった。呆然と見開かれた瞳が、僕を見下ろしている。  十秒の沈黙。 「…………本当?」  頼りない、迷子の子供のような声音だった。  なんと返したらいいか迷い、ふと、ポケットに突っ込んだままのキーホルダーを取り出した。プテラノドン。前条さんの手を取り、その手にキーホルダーを乗せる。  初めてこれを渡した時、僕はまだ『お嫁さん』がどういうものかすらよく分かっていなかった。好きな人が出来たらお嫁さんになってもらって、家族になって、そうすれば幸せになれるのだと教えられて、そういうものなんだと思っていた。  本当に好きだったけれど、幸せにしたいと思ったけれど、それでもまだ、プロポーズはお遊びみたいなものだった。  でも今は違う。今は、本気だ。本気で、僕がこの人を幸せにしたいと思う。もしも人じゃ無くなったって、幸せにしたい。それが僕の、本心からの気持ちだった。 「……僕のお嫁さんになって下さい」  多分、いや、かなり、プロポーズの場としては最悪の状況だとは思った。崩折れた蜘蛛の屍骸、血塗れの道路、風呂に入ってない僕、ボロボロのキーホルダー、どれを取っても速攻でフラれておかしくない状況だ。  だが、僕の言葉を受けた前条さんは手のひらのプテラノドンを見下ろすと、何とも嬉しそうに微笑んで言った。 「幸せにしてくれるなら、いいよ」  その後、蜘蛛の屍骸は砂上の時と同じように溶け消えるようにして無くなった。殺した父親の前でプロポーズ。状況的にはかなり最悪の部類だが、まあ、バージンロードだって父親と歩くし、と納得した。することにした。  さて。そういう訳で、僕――櫛宮慧一と前条昂はめでたく恋人になった。恋人を通り越して夫婦になった。新婚夫婦である。  『は? 謙一と一文字違いじゃん……』とめちゃくちゃに萎えた顔をされたが、ラブラブ新婚夫婦である。となれば、やることは一つしか無い。  そう、初夜だ。初夜しかあるまい。なんとしても初夜を迎えたい。たい、ということは、迎えられていない、ということだ。 「けーちゃん、今日は頑張れそう?」 「が、がん、がんばります……が、がんばれ! がんばれ僕の息子!」  購入したベッドの上で正座で息子を励ます僕に、前条さんは一緒になってがんばれ♡をしてくれた。でも勃たなかった。なんていうか、感極まっていて勃たない。  僕と前条さんが初夜を迎えるのは、まだもう少し先の話になりそうである。      了

ともだちにシェアしよう!