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◆地蔵、あるいは狸の話

 地蔵がまだ、ごく普通の狸だった頃の話だ。  狸はごく普通に生まれ、ごく普通に独り立ち、ごく普通に暮らして、少しだけ普通ではない方法で死んだ。  普通の狸は、普通の人の、ごくありふれた悪意によって首を落とされて死んだ。面白半分に張られたワイヤーの罠が原因だったが、狸には狸の首を落とした方法など知る由もなかった。  とにかく、狸は死んだ。呆気ない終わりだった。狸が、自分が死んだことに気づかないほど一瞬の内の出来事だった。  死んだことに気づかなかった狸がそれまでと同じようにごく普通に暮らし、山に空いたでっかい穴を見上げて、知らぬ間に変なもんができてるなあ、と思う頃には、狸は立派な動物霊になっていた。そのでっかい穴をトンネルと呼ぶと狸が知るのは、それからもう少し後のことだ。  しばらくして。狸が、死んだんだなあ、と自覚する頃、異変が起こった。ごく普通の狸の動物霊に、全く普通ではないことが起こり始めた。  発端は、誰かが作った噂だった。狸はそれがどこで生まれたのか知らない。理解も出来ない。兎に角、それは狸の知らぬ場所——電子の海で生まれ、狸のよく知る場所、つまりは彼の山を侵食し始めた。クビナシトンネル。首の無い地蔵が、首を求めて人を食うのだとまことしやかに囁かれる。トンネルに並ぶ首なし地蔵。  勿論、狸はそんなもの見たことがなかった。今やすっかり狸の遊び場となったこの大きな穴は、物が通るだけのただの穴だった。  だが、いつからかそこに、影のようなものが生まれ始めた。いないものが、あるはずのないものが生まれる。首の無い地蔵が朧気にも形を成す頃には、首の無い狸は抗いようもない共鳴によって、『それ』に食われた。  飲み込まれるのは一瞬だった。霞のような噂は狸を覆い潰し、依り代を得て更に勢いを強めた。狸は沢山の思考の渦に飲まれ、潰され、ぞっとするほど冷たい悪意の海に沈んだ。  狸の身体は、瞬く間に噂の玩具になった。藻掻いたところで逃げられる訳がない。寒い。冷たい。死んでしまいたい。人の悪意で出来た身体は、泣きそうなほどに冷たかった。狸は半狂乱になって泣き叫び、助けを求め、そして、暫くの後に諦めた。  恐怖と畏怖、戯れに恐れを撒き散らそうと遊び半分で語られる悪意の波は、狸の抵抗などものともしなかった。逆らうだけで皮膚を刺すような冷気が狸を襲った。抵抗は無意味だ。諦めて、狸はそれに従うことにした。だって、こいつらが望んでいるのだ。人を呪い、貪り、殺せと。そうあれ、と望んでいるのだ。だったら望み通りにしてやろうじゃないか。人を食らって、首を挿げ替えてやろうじゃないか。  そうして狸は地蔵になった。首の無い地蔵。人を喰らい、凍えるような寒さを慰めた。生気を得た時だけ、痛みすら伴う寒気が治まる。微かな正気を取り戻す度、悪意を介して知識を得た地蔵の憎悪は強まった。  そんなことを暫く続けたある日、突然、地蔵はサーカスに飛ばされた。  正確には、何か――得体の知れない恐ろしい『何か』が、地蔵が唾をつけた首を何者かと挿げ替えた。そいつの記憶を流す内、ある一点で突然景色が変わったのだ。  地蔵が意識を取り戻した時、既に眼前にはサーカスのテントが広がっていた。少女とぶつかる少年。会話を交わす二人。その片方が記憶の持ち主だとは理解できた。だが、此処に地蔵が居る理由が理解できない。困惑し、二人のやりとりを眺める地蔵は、そこで地に伏せる自分を覗き込む存在に気づいて身体を強張らせた。 「――――オ客様、デハ アリマセンネ?」  身体を折り曲げ、不思議そうに自分を見下ろす男。赤、黄、緑、青、黒。様々な色で塗られた奇妙な服を着込んだそいつには、顔が無かった。  ぽっかりと空いた虚が、自分を見下ろしている。どろりと粘ついた闇の奥から、何かが這い出そうと手を伸ばしている。すっかり忘れていた本能的な恐怖が地蔵を襲った。 「申シ訳アリマセン、演者ノ募集ハ締メ切ッテオリマシテ――火ノ輪潜リモ、モウ間ニ合ッテイマスシ、ソウデスネェ、受付ナドハ如何デショウ?」  地蔵には答えることが出来なかった。汗を掻かない身体に、じわりと何かが滲む。眼前に立つこの男への、明確な恐怖。じっと、此方を見つめる虚の奥に、意識を飲み込まれそうになる。  押し潰された精神が擦り切れる直前、張り詰めたその場の空気を幼い少女の声が裂いた。 「アルベルト、それは私が預かるから、放っておいて」  五歳程度の少女が、腰を折るピエロに緩くカーブを描いた面を差し出した。真っ赤な手袋が、笑みが描かれたマスクを手に取り、嵌める。白い面は瞬く間に男と同化し、表情豊かに動き出した。 「オヤ、ありすノぺっとデシタカ? ソレハ失礼シマシタ。ツイデニ、私、本日ハ“にこらうす”デ御座イマス」 「ニコラウス、狸さんが怯えてるから、向こうに行ってて」 「オット、“ぽーる”ダッタヨウナ気モシテキマシタ」 「ポール、あっち行ってて」 「アルイハ、“けいいち”ダッタヨウナ気モ致シマス。マア、些末ナコトデスネ」  少女はとうとう、ピエロを無視して地蔵を抱え上げた。それまで少女の腕に抱えられていたうさぎのぬいぐるみが、どこか不満げな顔をして少女の足元に落ちる。そのまま、何事か言っているピエロを無視してテントの中へと足を進めた少女の後ろを、ぬいぐるみがずるりずるりと這うようにして追った。  ピエロはくすくすと笑いながら、入場の受付へと戻っていった。幾つかある内の入口の一つからテントの中へと入り込む。無いはずの心臓がバクバクと煩かった。  色とりどりの輝き。美しい見世物。沸き立つ観客。そんなものは、地蔵の目にはひとつも入らなかった。  一刻も早く、此処から立ち去りたかった。こんな、得体の知れない恐ろしい場所からは抜け出したかった。泣くことも出来ずに震える地蔵に、少女は綺羅びやかなステージを見つめながら言った。 「久しぶり、それと初めまして」  地蔵に聞かせる気があるのか、無いのか、分からない声音だった。彼女の声音には感情が乏しい。喜びだとか悲しみだとか、そういったものを無理矢理削ぎ落とされてしまったような声だった。 「……さっきは、ポールがごめんね。悪いやつじゃ…………悪いやつだけど、お客さん以外から何か取ったりはしないから。狸さんは、お客さんでも、演者さんでもないから、多分大丈夫。それに、ここは記憶の中だし、ニコラウスも本気で言ってる訳じゃないよ。だから、そんなに怯えないでね」  少女の手が、ゆっくりと地蔵の頭を撫でた。そんなことをされたのは生まれて初めてだったので、地蔵は何だかこそばゆくなって震えてしまった。  その震えを怯えと取ったのか、少女が戸惑ったように言葉を重ねる。 「狸さん、まだ、事務所にはいないんだね。だから怖がるの? よく、分からないけど、でも大丈夫だよ。今、いつなんだろう。アルベルトに聞けばよかったね。けど、本当に、大丈夫だからね。だって狸さん、楽しそうだったから」  少女はよく分からないことを呟いて、それからはじっとサーカスの演目を眺めていた。  地蔵が見たこともない景色が広がっている。数々の異形が舞う。この世の理を外れた生き物たちが、観客を楽しませようと各々の魅力を存分に振るっている。  少女は時折、何かを思い出すように言葉を零した。自分を殺した母親の話。本当のお父さんの話。地蔵が居た事務所の話。そこにいた変なお兄さんの話。バームクーヘンの話。変なお兄さんと、変なお兄ちゃんの話。地蔵と、お兄さんと、お兄ちゃんと、少女で食べたケーキの話。貪った血の匂いと、訪れた暗闇と静寂の話。アリスのうさぎに導かれて、サーカスに来た話。此処は、永遠に開かれていて、永久に閉ざされているのだと。過去も未来も今であり、ピエロとはさっき会ったばかりで、百年の付き合いになるという話。  地蔵にはその全てがさっぱり、ちっとも、これっぽっちも理解できなかったが、それでも、少女が「大丈夫だよ」と呟くと、なぜだか大丈夫な気がしてくるのだった。刺すような冷気が、ほんの少し薄れた気がする。  それから、地蔵は幾度も同じ記憶を見た。ある少年が生まれてから、サーカスに誘われ、少女と出会い、別れ、青年と出会う記憶を、繰り返し見た。 「そろそろ時間だね。じゃあ、狸さん。また今度、さようなら」  少女がそう呟いて地蔵を手放すまで、延々と、馬鹿で間抜けで可愛い少年の記憶を眺め続けた。いつか、共にケーキを食べるらしい、少年の記憶を。  その後、目覚めた地蔵の前に現れたのは、ピエロに匹敵するような化物だった。人の悪意で出来た身体を携え、軽やかに重い足音を響かせたその男は、件の少年を連れて地蔵の縄張りに現れた。  記憶の混濁した地蔵は、それでも、本能的に『こいつを排除しなければ』と動いた。殺さなければ殺される。そういう生き物だった、アレは。  電子の海から拾い上げた呪いをありったけ籠め、男にぶつける。男は軽い悪態をつきながら此方を見た。その身体の中に渦巻く、泥のような何かが笑い出す。甲高い、鳴き声に似た笑い声。ぞわりと恐怖が身体を覆い潰した。寒い。冷たい。痛い。苦しい。逃れる為には、少年を殺す必要があった。殺して、奪い取る必要が。  必死で掻き集めた呪いは、しかして彼に届く前に叩き壊された。己の身体が砕けていくのを感じながら、地蔵は、激痛と共に、確かに寒さの波が引くのを感じた。  砕かれ、壊され、粉々になったのは、地蔵を飲み込み捉えていた悪意の鎧だけだった。星空を見上げながら、地蔵はすっかり寒くなくなった身体で、去っていく男の足音を聞いた。徐々に小さくなっていく足音を聞いて、そして、寂しい、と思った。  寂しい。また、ここでひとりぼっちになって、そして、誰かが勝手に作った噂に飲み込まれて、ただそう『在る』なんて、たまらなく寂しかった。  だから、地蔵は落ちた首の内の一つに乗っかり、ごとんごとんと車を追った。荷台に飛び乗り、まどろみながら、地蔵はただぼんやりと、『けーき』とやらを食べるのが楽しみだなあ、と思った。 「前条さん、今日は何が食べたいですか」 「んー、グラタン」 「グラタン? また暑苦しい物を……分かりました、ミートソースかホワイトソースか、どっちがいいですか」 「どっちでもいいよ」  じゃあ決めてから文句言わないでくださいよ、と呟く慧一の声を聞きながら、司はぱちりと目を覚ました。  石で出来た身体は表情を変えることはない。ただ、目を開けたという感覚だけがある。司はぽすんぽすんと跳ね回りながら、途中疲れてごろごろと転がり、慧一の足元にぶつかりに行った。いてえ、と不満の声が上がる。 『けちゃ! つかさも ぐだたんたべる!』 「グラタンな。で、お前はどっちが食べたいとかある?」 『みとそす! のやつ! なす!』 「茄子~? あったかな……」 『にだんめの おく こないだ とくばい かった!』 「お前よく覚えてるな……」 『けちゃより かしこいからね』  頭を張ると、軽く蹴り飛ばされた。否定しきれないのが辛い……と唸るようなぼやきが上から降ってくる。そのままごとんごとんと転がり、昂の元へと向かう。  ローテーブルの上には、料理が出来上がるまでの暇つぶしとして将棋盤が広げられていた。対面に乗せられた司は、にやにやと楽しげな笑みを浮かべる昂の前で宣言する。 『ななろくふ!』  司の代わりに、昂がコマを動かす。手番を進める内に徐々に司の駒は追い詰められ、最終的には詰むも、作り終えるまでに決着がつかない程度には善戦した。 「いやあ、マジでけーちゃんより賢い説あんな」 「待ってくださいよ、僕こいつと差せば割りと五分五分で勝ちますからね!」 「じゃあなんで俺と指すとすぐに負けちゃうんだろうな?」 「えーと、それは……」 『あおぐが かんがえてるとき えっちだとおもてるからだよ! すけべ!』 「うるせえ!! グラタン食ってろ!!」  叩きつけられた皿の衝撃で将棋盤の上の駒が微妙に飛んだ。機嫌よく笑う昂が、「ええ~? どんなところがえっちなの~? 俺えっちなことした覚えないけどな~」などと楽しげに慧一を揶揄っている。  二人の口論がじゃれ合いに変わるのを眺めながら、グラタンを頬張った司は、すっかり空になった皿の前で満足そうに、まんぷく、と笑った。

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