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後日談:初めての話【R18】

 前条さんと付き合い始めて――いや、付き合いをすっ飛ばして新婚夫婦になってから、気づいた時には二週間が経っていた。  二週間。結構な日数だ。なんたって、僕が前条さんと『再会』してから新婚夫婦になるまで、ひと月程度しかかかっていない。あの怒涛の一ヶ月の半分に当たる時間を、僕と前条さんは何もすることなく過ごしていた。  いや、別に、僕だってしたくて何もしなかった訳じゃない。したくても出来なかったのだ。主に僕の下半身の問題で。  『チンピラから助けてくれた不審者かと思ったら強引に契約を結ばせてきたオカルト事務所の所長で実は想い続けて十年経つ初恋のお姉さんで存在ごと消えそうだった僕を繋ぎ止めることだけを考えて十年過ごしていて「幸せにするからお嫁さんになってください」なんて約束が果たされることを待ち望んでいた美人なお兄さん』――は、僕の矮小な股間で受け止めるにはちょっと重すぎたのだ。  重いってのは別に全然悪い意味ではないし、ついでに言うと僕の股間の矮小ってのはサイズの話ではないんだけど。そこはどうでもいいんだけど。  兎に角、色んな情報がいっぺんに襲ってきて混乱し尽くした僕の頭と股間は、今や前条さんを見るだけで緊張して機能停止してしまう状況にまで陥っていた。  これは不味い。非常に不味い。嬉々として僕の上に跨る前条さんが、ぴくりとも反応しない僕を見下ろして、真顔になっている時のあの気まずさ。そして申し訳無さ。かなり不味い。果てしなく不味いのだ。  僕は早急にちんこをおっ勃てなければならない。これは重要な任務だ。最重要任務であり、至急の要件だ。  まさか前条さんの前でちんこが勃ってしまう心配ではなくちんこが勃たない心配をしなければならないなんて。考えたこともなかった。 「――――と、いう訳でですね、僕は至急この役立たずの股間をどうにかしなければならないんですよ!」 「へーーーーそりゃ大変だなーー大変すぎて俺の手には余るから帰るぜ」 「待って下さい帰らないで下さい!!」  重要な話があります、と言って呼び出した居酒屋の一室で景気よく「とりあえず生」と頼んだ月下部さんは、なんと一杯目が届くより先に席を立とうとした。  慌ててその腕を掴んで全体重をかけて引き止める。振り返った月下部さんの顔には、『なんで俺がホモの下半身事情聞かなきゃなんねえんだよぉ~』とはっきりと書かれていた。前条さんから見た僕もこんな顔をしているのかもしれない。しれない、っていうか、してる。してるからこそ、あの人は僕を急かすことも責めることもなく頑張ろうな~と軽い調子で慰めてくれるのだ。  恐らく僕の顔には『どうしよう勃たない何故だ僕の心はこんなにも燃えているのにどうしてお前には血が通わないんだふざけんなクソ』と書かれている。鏡を見なくても分かる。 「お願いします月下部さん! 人生の先輩としてアドバイスを下さい!!」 「あ゛ー……自分で言うのも何だけどよ、俺みたいなのに頼んのは大分終わってんぜ? 他に頼るやついねーのかよ」 「それがさっぱりいなくてですね……致し方なく月下部さんになった次第で……」 「おーし帰るわ。じゃあなED童貞!」 「今のは嘘です!! 尊敬すべき人生の先輩である月下部さんに是非!! 是非打開策をと思いまして!!」  縋り付く僕を面倒臭そうにあしらった月下部さんは、それでも店員が生ビールを届けに来たのを見ると座敷に座り直した。  エイヒレ、と投げやりに注文した月下部さんが、乾杯もなくジョッキの半分ほどを飲み干す。口元についた泡を舐め、どう見ても乗り気ではない顔で僕を見た月下部さんは、頬杖を付きながらうんざりしたように口を開いた。 「つーか、テメーらの問題なんだからそれこそ前条に聞きゃあいいんじゃねえの? あいつなら乗り気じゃねえやつの勃たせ方なんて五万と知ってんだろ」 「いや……乗り気なのに勃たないのが問題なんですよねえ……っていうか、前条さん、その……男性器の扱いには長けてるんでしょうけど、男性器そのものへの理解は低いといいますか……」  男性器の扱いに長けている雇い主兼嫁。とんでもない字面が脳内を駆け巡ったので慌てて頭を振って打ち消した。  月下部さんが片眉を上げる。訝しげな視線から察するに、僕が言いたいことは上手く伝わっていないようだった。 「……えーとですね、あの人、ちんこ使わないじゃないですか」 「使わないじゃないですか、っつわれても知らねえよ。聞いたことねえし聞いてねえし聞きたくもねえよ」 「ま、まあまあ、そこをなんとか。聞いて下さい。ぶっちゃけ、僕、この話誰かにしたくて」  明らかに気乗りしない生返事が聞こえてきたが、僕は無視して話を続けることにした。  そう、聞いてほしいのだ。勃たないことを思い悩む僕が最初に謝罪と共に前条さんを頼った時、あの人の口から出た話を。 「……あの人、しゃ…………、…………」 「オイ言いかけて止めんな、殴るぞ」 「射精したことないんですって…………」 「………………………………へー」  で? それが?と続きそうな感じの声だった。無言でジョッキに口をつけた月下部さんが半目で僕を見つめている。完全に変態を見る目だったので、慌てて付け足した。 「い、いや、勃ちはするし擦ると気持ちいいらしいんですよ!? でも出したことがないし出すつくりになってないっぽいからそもそも正常に働いてない、みたいなこと言ってて、だから僕の相談にもいまいち役に立てないって話をしていてですね!! そういう、ごく真面目な相談の中で聞いた話なんですよ!! 僕は真剣な相談をしていて、一つの参考としてこの話を聞いた訳で、聞いてしまった訳で、真剣な相談をしていたらこの話をされた僕の気持ち……分かりますか……」 「全然分からん。分かりたくもねえ」 「な、なんでですか!! 分かってくださいよ!! 真面目な相談のつもりで話していたら突然、後ろでしかイったことない、とか聞かされた僕の気持ち!! 分かってくださいよ!!」 「全然分からん。分かりたくもねえ」 「畜生!!」  二杯目の生ビールに口をつけ始めた月下部さんの前でテーブルを叩く。お通しの皿が嘲笑うように震えた。ヤケクソ気味に筑前煮を掻き込む。 「っていうか、それを聞いて一瞬で色々と考えたのにも関わらず結局反応しなかったのもショックだったんですよね……」 「その話長くなる?」 「まだ話し始めたばっかりですけど!?」 「俺がこれ飲み終わる前に終わる?」 「終わりません! 店員さん、この人に生ビールもう一杯!」  死んだマンボウみたいな顔で僕を眺める月下部さんを引き止めるべく、生ビールを追加する。ついでに、ここの代金は僕が持ちますよ、と囁くと、死んでいた目に幾ばくかの光が宿った。光っても分からない黒目であるが、一応光ってはいた。  明太子マヨネーズにつけたポテトを食べながら烏龍茶(今度こそ烏龍茶だ)を飲み干し、合間に泣き言を零す。  どうしちゃったんでしょう僕の股間は。おかしいんです、絶対に勃たないはずがないんです。でも勃たないんです。緊張しちゃって。だって、もう、なんか、覚悟が違うじゃないですか。前条さんと僕の覚悟が違うじゃないですか。愛と言い換えてもいいですけど。愛が。違うじゃないですか。重みが。十年ですよ、十年。僕はあの人の十年に見合った行為ができるんでしょうかさっぱり分かりませんだってそんな僕にはすごいテクとかあるわけじゃないしていうかあの人これまでたくさんの人とそういうことしてきた訳だし絶対に僕なんか、 「それじゃねーの」 「はい?」 「それだよそれ」  世界一苦いビールに当たったような顔をしてジョッキに口をつけていた月下部さんが、ふいに焼き鳥の串で僕を指した。  それ、とは一体どれでしょうか。きょとんとする僕に、月下部さんは何杯目になるかも分からないビールを飲み干して言う。 「要するに比べられんのがこえーんだろ。あいつが長年追い求めてきた『素敵なけーちゃん』が、実は今までヤってきたそこらのおっさんに劣る程度のセックスしか出来なかったらどうしよ~~僕すてられちゃいますぅ~~ぜんじょぉさぁ~~ん!ってことだろタコが」 「どっ、そ、そん、そんなことは、いや、ありますけど、そんな、そんな……」  言いたいことは沢山あった。でも殆ど図星だったので何も言い返せなかった。強いて言うならそのへなちょこの声真似は僕のつもりですか、とか言えたかもしれないが、虚しかったので言うのはやめた。  お新香を齧りながら俯いた僕に、月下部さんは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「何アホな心配してんだよオメーは。あんな、あんにゃろーがちょっとオメーが失敗したくらいで愛想つかす訳ねーだろ。オメーが何やったってカワイイネェ~で済ますに決まってんだよ」 「そう、ですかね」 「そーだよ。分かったらさっさとド派手な失敗してこい。入れる前に暴発とか入れた瞬間に気絶とかしてこい。笑ってやっから」 「酷い予想立てないで下さい。流石にそこまでじゃ……………………」  ないです、と掠れた声で呟いた僕に、月下部さんは自信ねーのかよ馬鹿じゃねえの、と五分間笑い倒した。ビールの泡を飛ばし、僕を指さして笑い、テーブルを叩いた。あんまりにも笑われるものだからムカついたが、同時に笑い飛ばされたせいでどこかすっきりともした。  ついでに、その後なんやかんやと二時間盛り上がったせいで僕の財布もすっきりした。正直笑い飛ばされたときより泣きたい気持ちだった。  と、いう訳で。 「前条さん! デ、デートをしましょう! 僕の家で!」  笑い飛ばされ、諭吉も飛ばされ、何ひとつ実は結ばなかったが吹っ切ることは出来た僕は、月下部さんと呑んだ翌々日に前条さんをデートに誘った。  『蟻の霊に祟られて――というか集られているんです……』と血色の悪い顔でやってきた依頼人の除霊を終えて、終業時間を迎えた頃のことだ。帰り支度を終え、見送るつもりで玄関までやってきた前条さんの手を引いて、僕はデートの誘いをかけた。  そう、僕は考えたのである。此処が前条さんのテリトリーだからやたらと緊張するのではないかと。  今からえっちなことをしようね、という空気で向かい合うから駄目なんだと。僕のペースで持ち込むことが出来れば、この、見つめ合うだけでやたらと煩い心臓も何とかなるかもしれない。  定位置の本棚でまどろんでいた司が、「わあ! けちゃ! とうとうか!」と言わんばかりの動きで跳ね上がる。頼むから口に出すんじゃないぞ、こっちは心臓が口から出そうなんだからな。  平常時の二倍の速度は出ているんじゃないかという勢いで高鳴る胸をきつく押さえる。  見上げた僕の視線の先で、前条さんはきょとりと瞳を瞬いた。完全に虚を突かれた顔をしている。そういう顔をするといつもより若干幼く見えて可愛い。ぱちり、ぱちり、と長い睫毛が触れ合う。 「デート? けーちゃんちで?」 「そ、そそそっ、そ、そうです。ついでに言うと、お泊りです」 「…………へえ?」  力が抜けたように半開きだった唇が、にい、と笑みを浮かべた。耳まで赤い自覚はあったが、その笑みを了承と取って、前条さんの手を引いた。  事務所の外へと一歩出た前条さんがくつくつ笑いながら僕の頬に唇を寄せる。軽い感触。完全に硬直した僕の手を柔らかく振りほどいた前条さんが、支度してくるから下で待ってて、と囁く。  出来の悪い二足歩行型ロボットよろしく、ぎこちない動きで階段を降り始めた僕の後ろで笑い声が響いた。  本当に大丈夫なんだろうか。いつもと同じ結果になりそうな予感がする。いや、弱気になってどうする。僕はやり遂げるんだ。  好きな人と性行為をするだけで何故こんなに緊張しなければならないんだろう。違うか。好きな人とするからこんなにも緊張しているのか。  10月も半ばを迎え、夕方は肌寒くもなる時期だというのに、僕の頬は湯気でも発しそうなほどに熱い。これだけ熱かったら湯たんぽ代わりに使えるんじゃないだろうか。  失敗する度に「おやすみ湯たんぽ〜」などと言って僕を抱えて眠る前条さんを思い出し、更に熱が上がった。月下部さんの不穏な予想が現実の物になってしまうかもしれない。駄目だ、気を確かに持て。 「今日こそ成功させるんだからな……!」 「何を?」 「そりゃもちろんセッ、ン条さん!! 来てたなら声かけてくださいよ!」 「けーちゃんがなんか変な運動してたから、邪魔しちゃ悪いと思ってな」  握り拳を掲げて気合を溜めていた僕は、後ろからかかった声に数センチほど跳び上がる羽目になった。あわあわと誤魔化しめいた物言いで言葉を重ねた僕に前条さんは寄り添うように立つ。  左側の髪を耳にかけた前条さんは、わざわざ視線が合うようにと僕の右側に位置取った。機嫌よく細められた目が僕を見下ろしている。弾かれたように目を逸らすと、耳元に柔らかい囁き声が響いた。 「家でデートなんだろ? そんなに気張るなよ、気楽にな」  息が詰まる。はっとして口を開く。深呼吸。そう、そうだ。気楽に行こう。何故か手とか繋がれちゃっているのでガチガチだが、兎に角リラックスが重要だ。  この為に、今日は自転車で来るのをやめたのだ。歩いて家まで向かい、適度にいちゃついて、そして、そして………………。 「けーちゃん、手と足が一緒に出てんだけど」  堪えきれていない笑い混じりの声が降ってきた。煩いですよ。自覚はしているんですよ。さっきからちょっと両手両足が言うことを聞かないだけです。気にしないでください。  道中、「そういえば俺、自転車乗ったことないなあ」だとか零す前条さんに「だったら今度練習しましょうよ」などと脳を通すこともなく反射で答えを返しつつ、僕はやっとの思いで自宅についた。  二階建ての安アパート。一階の一番端の部屋が埋まっているだけで、他に住人はいない。下の部屋も隣の部屋も空き部屋だ。なんて都合がいいんだろうか。ぼろアパート万歳。  手を繋いだまま階段を登る。此処に二人で来るのは、夢路先輩を送った時以来だった。あの時はどうにかして追い返そうとしていたのに、今や招き入れている。人生ってどうなるかわからないな。 「お邪魔しまーす」  何の緊張もない声が玄関に響く。そこでようやく手を解いて、僕は家主としてもてなしの準備をしようと奥へと進んだ。後ろで前条さんが靴を脱ぎ捨てる音がする。狭いんだから揃えてくださいね。そう言おうとして、そこで、声がかかった。 「ね、けーちゃん」 「はい?」  振り返れば、靴を揃える前条さんの背中が目に入った。おお、靴を揃えている。偉い。前条さんがちゃんと靴を揃えているだけで妙に感動してしまうのは何故なんだろう。  謎の感動の出処について考えていた僕の耳に、常と変わらぬ軽い調子の声が届いた。 「言ってなかったけど、俺、別に統二に抱かれたことはないよ」  一瞬、何を言われているのか分からなかった。  え?と間抜けな一音が僕の口から出ていき、靴を揃えた前条さんが振り返る。 「ほら、あいつ、別に俺の身体には興味なかったし。だからそういうことしたのは見知らぬおっさんとだけなんだけど」 「…………すいません、言ってる意味がよく分かりません」 「え? だから、俺は別に統二には抱かれたこと無いよって話」  きょとん、と僕がデートに誘った時と同じ顔で首を傾げた前条さんは、僕がゆっくりと真顔になっていくのを見ると「おっと、違ったか」みたいな顔で目を逸らした。  黒い靴下がフローリングを歩んで僕へと近づいてくる。ブーツの高さが無い分、いつもより少し距離の近い顔を、僅かに困ったように指先が掻いた。 「あー、いや、俺もちょっと考えてみたんだよね。けーちゃんが勃たない理由。まあ、違うならそれでいいんだけどさ」 「…………理由」 「あれ、もしかしてけーちゃん、晩ご飯用意してくれてた? 良い匂いするね。わー、なんだろう、楽しみ」  にっこり微笑んだ前条さんが僕の横を抜けて、前と同じようにベッドに勝手に腰掛け始める。露骨な話題逸らしだった。僕が今の言葉の意味を正しく理解する前に有耶無耶にしてしまおうという意思を感じる。  予約機能でつけておいたエアコンの稼働音だけが響く。前条さんはカラーボックスの中の漫画を手に取ると、ぱらぱらとめくり始めた。興味もないくせに。  玄関扉に向かい、鍵を閉めた。緩慢な動きでもってチェーンをかけながら、先程放たれた言葉の意味を考える。  ――――俺、別に統二に抱かれたことはないよ。  さて、この言葉。前条さんが『僕が勃たない理由』を探した結果出てきたものである。どうして僕が勃たないのかを探した結果、父親――あんなのを彼の父親などと呼びたくもない――あの男に抱かれていないという自己申告が出てきた。  それが意味するものは?  カシャン、とドアチェーンが一番下まで落ちる。しばらく、揺れるチェーンを見つめたまま無言で佇んだ。  さて、さて、さて。  一体どうしてくれようか。  あの男に抱かれたことが無いからなんだっていうんですか。抱かれてようが抱かれてまいが、構いませんよ。別にそんなことで何一つアンタが瑕を負うことなんてありませんよ。僕はそう思っていますよ。でもアンタはそうは思わなかったと。そういうことですね?  僕が、アンタがあの男に抱かれてるかも知れないと思っているせいで勃たない――と考えたアンタが! どうにも! 腹立たしい!  振り返った僕の視界の先には前条さんが居た。少年漫画のコミックスで顔の下半分を隠した前条さんが居た。  別に怯えても居ないのに怯えたふりだけするところも腹立たしい。アンタの目は今、「ああ、けーちゃん怒っちゃったよ~やっちゃったな~」くらいの気持ちでいるのがバレバレで、しかもアンタはそれを隠す気もない!!  完全に頭に来てしまった。さっきまでの脳内お花畑状態の僕を返して欲しい。畜生。これだから、アンタってやつは!  怒りに任せてフローリングの床を踏み鳴らす勢いで詰め寄る。単行本を手にしたまま仰け反った前条さんは、そのまま僕が無言で睨み下ろしていると、芝居がかった調子で両手を上げた。 「分かった分かった、けーちゃんは謝ってほしいんだよな? 悪かったよ、そんなつもりじゃなかった。ほら、デートするんだろう? 機嫌直せよ、そうだ、キスでもして――――ぅんっ?」  いくら僕が小さいだの非力だのと言われてたって、上から覆いかぶされば自分よりでかい男を押し倒すことだって出来る。今の状況がそうだった。  元より仰け反るようにして体勢を保っていた前条さんは、勢い良く唇を合わせつつ体重を乗せた僕の重みに従ってベッドに背をつけた。勢いをつけすぎたのか、派手な音を立ててベッドが軋む。  伸し掛かるようにして身体を押さえつけ、何だか楽しげにゆがみ始めた唇を黙らせようと深く口付ける。何笑ってんだ。クソ。ムカつく。  折れ曲がった単行本が気になるのか直そうと動く手を取って、手首を握りしめてベッドに縫い付ける。絶対に、余裕で振り解けるくせに素直に従ってくるところにも無性に腹が立った。 「ん、っ、ふ…っ、んん……ッ、けぇ、ちゃ…ぁ、っ」  深く耳に馴染む声。鼻にかかって更に甘く響いたそれに、身体が熱を帯びるのを感じた。からかうような、媚びた色が、苛立ちと情欲を同時に高めていく。なんでこんな、腹もちんこも立つような声してんだこの人は。畜生。  顔も好きだが声も好きだ。身体だってきっと好きになるに決まっているし、好きになりたくもないのに性格だって好きになってしまった。だがしかし、腹が立つことに変わりはない。  前条さんの腕が煽るようにして、時折戯れ染みた抵抗を見せる。その手首を掴む手に力を込めて黙らせると、顔を逸らすようにして笑い混じりの声が響いた。 「ん、んん……、ふ、はっ、けーちゃん、痛いんだけど」 「すみません。でもアンタのせいです」 「謝ったじゃん。それとも、けーちゃんはこういうのが好きなの?」  笑みの形に歪んだ唇から、赤い舌が覗く。 「こういう風に、酷いことするみたいなのが、好き?」  濡れた唇が紡いだ言葉はとろけるように甘く、それでいて僅かに刺すような苦味が混じっていた。  乱れた髪の隙間から、誘うように熱を帯びた視線が向けられる。  この人は、多分、少しも、これっぽっちも反省なんてしていない。僕に向かって『統二のお手つきかもしれないから勃たない』なんてレッテルを貼ろうとしたくせに、それで結果的に性行為に持ち込めるのなら、レッテルの正誤なんて構わないと思っている。寧ろ、都合がいいとさえ思っているに違いない。 「全っ然! 好きじゃ! ありません!」  怒り任せに額をぶつけて宣言する。ごつん、と雰囲気を台無しにする音が響く。じんじんと痛む額に涙目になる僕を見上げた前条さんは、面食らったように目を瞬かせ、数秒の間を空けてから笑いだした。 「いや、でも、勃ってるじゃん」  事実だった。  そう、僕は完全に勃っていた。腹と一緒にちんこも勃っていたのである。どういう原理かはさっぱり分からないが、理由は分かる。  この人は、『十年間僕を思い続けた一途な初恋のお姉さん』でもあり、同時に『底意地の悪い厄介な雇い主』でもある――というのをたった今思い出したのだ。見つめるだけでフィルターがかかってふわふわに見えてしまう魔法が解けた。  解けても可愛く見えるので魔法ではなく何らかの呪いにかかっている可能性はあるが、ともかく、いっぱいいっぱいだった僕の胸は、それを思い出したことにより少しだけ容量に余裕が出来た。 「ええ、そうです、その通りです、勃ってます! でもこれはアンタが好きだから勃ってるだけです! 可愛い初恋のお姉さんも、性格悪い雇い主も、どっちも好きだから勃ちました! なんか文句ありますか!?」  吹っ切れた僕の頭の悪い宣言に、前条さんは何だか呆れたようにぽかんと口を開いた。鼻息荒く宣言した僕としばし見つめ合った黒い瞳が、ゆるりと機嫌良く細められる。それまで大人しく床に放られていた足が僕の腰を抱え、引き寄せる。更に距離が縮まった。 「いいや、文句なんか無いよ」  手首を押さえつけていた僕の手が、いともたやすく押し返され、振りほどかれて、自由になった手が両頬を包んでくる。愛しげに頬を撫で、髪を掻き混ぜ、首筋をなぞるように指が降りていく。  左手が鎖骨のあたりを弄り、右手が、火が出るんじゃないかって勢いで赤くなった僕の顔を撫で、親指で優しく唇を押した。  ふふ、と喜びを抑えきれない笑い声が、形の良い唇から漏れ聞こえる。 「文句なんかあるもんか。すごく、すごく嬉しいよ、けーちゃん」  笑みを深めた唇を、期待に満ちた舌先が舐め上げる。それで、けーちゃんは俺のことをどう抱いてくれるつもりなの? 囁いてくる甘い声に、僕の喉からは奇声じみた唸り声が零れた。  正直言って、最初の勢いはもう既に削がれていた。  ベッドに両手をついて前条さんを見下ろしているだけで頭が爆発しそうだったし、僕の腰を抱える足が時折リズムをつけて腰を寄せてくるのなんて正直気絶してもおかしくなかったし、呼吸は荒いし、鼻血が出ていないのがおかしなくらいだった。  う、ぐ、ぅ……ゥンギュ……などと妙な声を発し始めた僕の頬をしばらく楽しげに撫でていた前条さんは、不意に喉の奥から抑えきれない笑い声を漏らした。 「け、けーちゃん……ッ、石像じゃないんだから……っ、ふ、ふ、くっ、ひひっ、」 「わ、わっ、分かってますよ!! 僕だって、わかっ、分かってはいるんですよ!?」  なんだか泣きそうになって、というか半分涙声で怒鳴った僕に、前条さんはとうとう堪えきれずに声を上げて笑い出した。げたげたと響く台無しな笑い声。やっぱり今日も失敗するのかも知れない。  先程までとは違う理由で頬に熱が上る。うう、と情けなく唸った僕は、しかし、そこで突然反転した視界に素っ頓狂な声を上げる羽目になった。 「おわぁっ!?」  気づけば背中がベッドに押し付けられていた。距離を見誤ったのか後頭部が壁に当たる。いてえ。呻く僕に、ごめんごめん、と全く謝る気のない謝罪が降り注ぐ。  ごめんじゃないですよ、もっと距離感考えて下さい、なんて悪態をつこうとした僕の口は、そこでぴたりと動きを止めた。 「あのまま一生見つめ合ってんのも面白そうだとは思ったんだけどさぁ、やっぱり、折角だからしたいじゃん? けーちゃんだってそうだろ?」  僕の腰の上に乗った前条さんが、捲り上げたシャツの隙間から手を滑り込ませて僕の腹を撫でていた。  指先がくすぐるように臍のあたりを撫でてきて、なんだか情けない声が漏れる。もう片方の手はズボンのチャックを既に下ろし終えていて、半勃ちになっている僕の股間が下着を押し上げているのが見えた。おわ、あわ、アワワワ、オワァ! 「ぜんっ、ぜ、ぜんっ、ぜぜぜぜっ!」 「何、セミの物真似?」  黒手袋の指先が、下着の上から輪郭をなぞってくる。しばらく形を確かめるように撫でてきた指のせいで更に硬さを増し、先走りがじわりと布地を濡らした辺りで、指の先に引っ掛けるようにして下着をずり下ろされた。 「ひぇっ、ぁ、ぜ、前条さん……っ」 「けーちゃん、最初は口と中、どっちがいい?」 「えっ、へっ? え、え、えーとっ」  さ、最初!? 最初ってなんだ、最初とは、最初とは最初である。一番初めのことである。初めってことは、次があるのである。次!?  もはや怒りなど完全に混乱に塗りつぶされ、まともな返答が出来ずにいる内に、時間切れー、という楽しげな声と共に笑みを含んだ前条さんの唇が僕のちん、ぼく、うわ、ぼく、ぼっ、ひぇあっ。  何故か、思わず顔を両手で覆っていた。何かが耐えきれなかった。たっぷり唾液を含んだ咥内が僕の股間を包み込んでいる。  思ったよりもあったかい。手はあんなに冷たいくせに。生ぬるい感触。舐めて、吸い上げて、突いて、時折くぐもった笑い声が響いて、あっと言う間に訳が分からなくなる。うぁ、と掠れた情けない声を零す僕に、前条さんは満足そうに鼻を鳴らした。  視界を塞いでいるせいか、やけに音が響く。前条さんの唾液と、僕の、体液が混じった音がする。ぐちゃぐちゃだ。わざとらしく立てられる音に、呼吸が浅くなる。  訳も分からず恨めしくなって指の隙間から覗くと、丁度、口を離した前条さんの舌先からたらりと体液の筋が垂れるところが見えた。  目が合う。喜色を滲ませた瞳が、弧を描いて僕を見上げている。ひぇ。顔から火が出て両手が燃えるんじゃないかと思った。もしくは頭が爆発する、と本気で心配した瞬間、目の前に火花が散った。 「う、あ、まっ、まって、ぜん、ぜんじょうさっ、待っ、それっ」 「んん?」  それやばい。再度口に含むや否や、吸いつくように纏わりついてくる粘膜に意識を持っていかれる。律動が激しくなって、頭が、だんだん、訳が分からなくなって、腰が浮いて、それで、笑い声、ああ、もう、クソッ、だめだ、気持ちいい。泣きそうなくらい。  一際情けない声を上げてイった僕に、前条さんは満足そうに喉を鳴らして、出したものを全て飲み込んだ。迫る快感に耐えようと無意識に顔を覆っていた指の隙間から、白い喉仏が動くのが見える。  唇の端から垂れた白濁の雫を舌で掬い取った前条さんが、甘く掠れた吐息を零す。その頬に僅かながら生気が宿っているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。  訳もわからないまま、振り回されるようにしてイった僕がなんとか意識を立て直す頃、ぼんやりと座り込んでいた前条さんは呆けたように開いた唇を指でなぞった。 「……ん、……けーちゃん、なんか……すごいね」 「は、はい……?」  いや、それはこっちの台詞なんですけど、という僕の言葉が口から出ることはなかった。蕩けた視線が僕の股間に向けられ、黒手袋の指先が伸びてくる。えっ、いや、ちょっと待った、あっ、そっか、『最初』――、 「前条さんっ、ちょっ、うぁっ、待ッ」 「けーちゃんってそればっかだよなあ。待って待って、ってさあ。おれ、十年も待ったんだよ」  もう待ちたくない、とぐずった子供のような声が響く。硬度を取り戻させようと扱き上げてくる指に翻弄されて、また訳が分からなくなる。ちょっと待ってください、本当に、ちょっとでいいので!  わたわたしながら身体を起こすも、胸元を押さえつけられただけでベッドに身体が沈んだ。真面目に、びくともしなかった。嘘だろ。やはり筋トレをせねば。  熱に浮かされたような瞳が僕を見下ろしている。けーちゃん、とどこか舌足らずに響く声を聞きながら、僕は抵抗の意思が無いことを示すように、両手を顔の横に上げるようにベッドに置いた。  うう、分かりましたよ、すいません。僕は確かにアンタをこれ以上無いほどに待たせたんでしょう。覚えてなかったとしても責任は、あっ、ちょっ、その手はまずい、またイっ――せ、責任は、取ります!  見る見る内に復活した僕の息子に、前条さんはご満悦な様子で唇の端を吊り上げた。抵抗をやめた僕の身体を押さえつける手が離れ、乱暴な動きでコートの前を開ける。そういや、この人まだコート着たままだったな。もはや見慣れていて違和感が無くなっていた。  一番上の斜めに止まった釦を外し、性急さの滲む手付きでファスナーを下ろして両腕を抜く。寒い、と文句を言う割には薄手のコートなんだよな、などと思いながら作りを眺めて気を逸らしていると、苛立ちの混じる仕草でベルトが引き抜かれた。上は黒いニット、下は同色のデニム。微かに舌打ちを響かせながら下着ごとズボンを脱ぎ捨てた前条さんは、そこでようやく食い入るように見つめていた僕に気づいたのか、小さな笑い声を零した。 「何見てんだよ、えっち」 「どっ、ばっ、み、見ますよ、そりゃ、だって、え、えっち、してんですから……」 「はは、そりゃそうだ」  最後は消え入るような声になった僕に、前条さんは機嫌よく笑いながら黒手袋の指先を食んだ。咥えた手袋から引き抜いた手が、僕の口に突っ込まれる。 「ん、んぐっ!?」  突然のことに面食らう僕を見下ろして、前条さんは熱を帯びた声で囁いた。 「舐めて。それで、もういっかい後ろ慣らすから」  咥内に突っ込まれた指が上顎をなぞって来る。背筋に妙な痺れが走るのを感じながら、囁かれた言葉を脳内で反芻する。反芻した結果、僕の舌は言葉の意味を理解するより早く前条さんの指を舐めあげていた。溜まった唾液を絡みつけて、動く指を捕まえようともがく。  気づけば夢中になって指をしゃぶっていた僕に、前条さんはくつくつと笑いながら顔を寄せ、目尻に口づけてきた。かわいいね、なんて甘ったるい声のおまけまでついている。はっと我に返った頃には、冷え切っている筈の前条さんの指は僕の唾液でびちゃびちゃで、しかも嘘みたいに熱が移っていた。いや、多分、元から、いつもほどは冷たくなかったのだ。  僕を見下ろす前条さんの血色が常よりも余程マシになっていると、今になってようやく確信した。  普段は死人のように白い前条さんの肌に、ほんのりと色が乗っている。寒気を誤魔化すために精液を搾取している、という言葉の意味を目の当たりにして、今更ながら彼の異常性を実感した。  そして、多分、その異常性に気づくことはないにしろ、彼の中に出してきた他の男たちも、これを見たんだろうな、と思った。この、微かに頬を上気させた彼を。  混乱に撹拌されていた苛立ちが首を擡げ始める。そりゃ、分かってますけど。必要経費でしょ。分かってますけど。 「見ててもつまんないから、さっきみたいに顔覆ってなよ」  揶揄うように呟いた前条さんの指が、するりと自身の後方へ伸ばされる。尻の肉を割って、奥へと伸ばされた指が、微かに粘着質な音を立て始める。上に着たままの緩いニットのせいで見えない。なんだよ、ガン見かよ、と笑う声が響いたので、なんか恥ずかしくなって唇を噛んだ。  見つめる僕の目の前で、前条さんは手を動かし続ける。自分の良いところは心得ているのか、先程までとは比べものにならないほど、声に艶が乗り始めた。  楽しげに僕を見つめ返していた瞳が徐々に潤んでいき、やがて、何か楽しいことでも思いついたかのように唇が歪むのと同時に、ゆっくりと瞼が閉じる。  明らかに動きが変わった。膝立ちで身体を起こしていた前条さんが、僕の顔のすぐ横に腕をつき、緩く腰を揺らしながら中を探る指を動かす。僕のものより一回りは大きいくせに、使われることはない男性器が、緩く垂れ下がって腹に当たる。 「ぁ、ん……っ、は、ァ、……」  快楽に歪んでも尚、綺麗な顔だった。室内灯の光を受けて影がかかっているのが勿体ない。もっとはっきりみたい、と切望した僕の喉が、ごくりと唾を呑んだ。 「ん…っ、あっ、けーちゃん、んん、けーちゃ、っ、あ、んんっ」  なんですか、と返事を仕掛けて、噛んでいた唇を更に強く噛んだ。けーちゃん、と繰り返す声の甘ったるい、内に沈み込むような響きに、これは僕に何かを求めた結果の呼びかけでは無い、と気づいてしまった。    目を閉じ、甘い吐息を零して腰を揺らす前条さんは、もはや性行為の準備として後ろを解している訳では無かった。完全に快楽を追い、上り詰める為に指を動かしている。  目の前にいる『僕』を使って、己の快楽を高めようとしている。所謂オカズとして僕の存在を確かめているだけで、僕からのアクションを望んでいるわけではない。  つまり、そう、今、僕は、目の前で自慰を見せられている。  白く長い、綺麗な指が、快楽を追って動く。徐々に上がっていく息と、甘く溶けるような声で呼ばれる愛称。見せつけるようにして行われる全ての行為が熱を煽った。  閉じられていた瞳がゆっくりと開き、揺れる前髪の合間から悪戯めいた視線が僕を射抜いた時が、我慢の限界だった。  こんなに近いのに触れる気はない距離を保つ前条さんのニットの胸倉を掴んで、引き寄せる。半ばぶつかるようなキスだったけれど、血の味はしなかった。  体勢が崩れたのか、足の上に前条さんの体重がかかる。わざとらしく逃げようとする身体を追って上半身を起こし、胸倉を掴んだまま舌を絡ませた。 「ん、んんっ、ぁ、けーちゃ、っ、ん……っ、ぅ、ふ、」  見上げる形で無理に起き上がったので腹筋が辛い。畜生。  もっと続けていたかったのに、結局三秒も持たずに落ちるようにベッドに背を預けた僕を見下ろして、唾液まみれの唇を手の甲で拭った前条さんは、ひく、と肩を鳴らした。  うるさい、貧弱なのは分かってますよ。恥ずかしさから熱くなった頬を誤魔化すように摩る。 「前条さん、入れたいです、駄目ですか」  再び笑い転げるよりも早く言葉を紡げば、いつの間にか後ろから引き抜かれていたらしい手がひらりと了承の意を持って振られた。  いいよ、沢山ちょうだい、と期待に掠れた声が空気に溶ける。熱のこもった吐息を零した前条さんが僕の股間に手を添え、そして、ゆっくりと腰を落とした。 「っ、ぅ、あ、……ぁはっ……ひっ、ひひっ。ね、けーちゃ、腹筋、くふっ、何回、出来んの?」 「ちょっと、笑い引きずるの止めてくださっ、ッ、ああ、クソッ」  体力測定でやったのが最後だからそんなん分かりません。多分二十回くらいは出来るんじゃないですか? 知りませんけど!  笑う度に締め付けられて、怒りたいのに変な声が出そうになる。僅かに体温らしきものがあるがそれでも冷えた感触の肌と、性器を包む熱にはギャップがありすぎた。  なんかもう、このまま下からめちゃくちゃに突き上げてやりたい。絶対動けないけど。僕の腰が真っ先に死ぬ。よって待つことしか出来ない。  重みに押し負け、身動きが取れないながらも僅かに腰を揺すってしまう僕に、前条さんはにんまりと意地の悪い笑みを浮かべてみせた。 「動いてほしい?」 「…………それは僕の腰が勝手に答えてくれています」  勝手に答えてくれやがっています。ぶすくれた僕に、更に笑い声が重なる。しばらく、口元を押さえて笑い続けた前条さんは、不満そうに唇を尖らせる僕を細めた目で愛おしそうに見つめ、少しだけ照れくさそうに言った。 「けーちゃん、俺のこと好き?」  その声は、確かな期待に満ちていた。  無邪気な子供が、クリスマスにプレゼントを待つ時みたいな、抑えきれない輝きが黒い瞳にきらきらと瞬いている。無邪気さとは対極にいるくせに。  なんだか、妙に、息が詰まった。喉の奥から込み上げるものを抑え込んで、僕はそっと、前条さんの手を握った。 「愛してますよ」  ゆっくりと、言い聞かせるように言った僕に、前条さんはぱちりと一度瞬いた。きゅう、と喉の奥が鳴いたみたいな声がする。僕の喉から出たのかな、と思ったけど、どうにも違うようだった。じゃあどこか、なんて、言うまでもない。  一瞬、顔を伏せ、拭うようにして手の甲を頬に寄せた前条さんの頬を、何か一筋伝った気がした。胸が締め付けられるような思いで手を伸ばしかけたが、その指先が届くよりも早く、俯いていた顔が上がる。そこには、なんとも意地の悪い笑みを浮かんでいた。  にたあ、と、先程までの純情さが嘘みたいな悪い顔で笑った前条さんに、ぶわりと背に汗が滲む。あっ、これは不味い。非常に不味い。 「ふふ、いい子のけーちゃんにはご褒美をあげよう」 「えっ、いやっ、けっ、結構です! ご褒美はまたの機か――――ッ!」  本日二度目の火花が飛んだ。  肌のぶつかる音と、耐え難いほどの快楽。笑い声。熱。どんどん、頭が溶けていく。気持ちいいことしか考えられない。縋るように手を伸ばすと、手袋を嵌めたままの方の手が僕の手を取った。指を絡ませて、握りしめる。  お世辞にも立派とは言えない僕の物でも、快楽を追うのに慣れた前条さんには充分なようだった。自分のいい所を擦り上げているらしい前条さんが、時折切なげに啼く。相も変わらず、麻薬みたいな声だった。 「ん、っ、ぁ、あっ、けーちゃんっ、おれ、ァっ、ひ、っ、けーちゃん、とっ、セ、セックス、してる、っ、ひ、あはっ、あははっ、んんっ、ふ、ふふ、ッ、けーちゃん、っ」  そりゃ、しようとしたんだからしてますよ。何を当たり前のこと言ってんですかアンタは。当たり前のことがそんなに嬉しいですか。  嬉しいでしょうね。だって、当たり前に出来る予定だったのに、全然出来なかったですもんね。すいません。僕、なんか、いっぱいいっぱいで。でも、すいません。多分、きっと、沢山不安にさせたと思います。アンタが、僕が勃たないことですごい不安だったの、今になってようやく分かりました。すいません、察し悪くて。頭も悪くて。すみません。これからはちゃんと、沢山、好きですって伝えるので。だから、そんな、泣かないでくださいよ。  最高に馬鹿にした声で笑っている癖に、前条さんの顔はめちゃくちゃだった。ぐずぐずに泣いて、でも笑っているのも本当で、自分でも訳が分かっていないみたいだった。  頭おかしくなりそう、というので、元からおかしいでしょ、と言うと泣きながら吹き出した。お前に言われたくねえよ、とからかう声。吹き出したはずみで中が締まったので、今度は僕がめちゃくちゃ情けない声を上げた。もう、訳が分からなかった。  ぐちゃぐちゃで、どろどろで、めちゃくちゃのまま僕は前条さんの中に出した。前条さんがちゃんとイっていたのかも分からないままだったけれど、少なくとも下手くそとは言われなかった。  中から抜いてもしばらく、具体的には十分ほど真っ赤な顔で惚けていた前条さんは、蕩けたような声で僕の名前を呼び、狭いだろうに僕の隣に寝転んだ。  そうして、しばらく僕の頬を突っついて遊び、変わんないアホ面だなあ、などと零し、やっぱりアホ面だとは思ってたのかよ、と思いながらそのまま気が済むまでじゃれ合って、クソ狭いのにお風呂にも入って、作り置いてたビーフシチューを温め直して二人で食べた。  あとはもう、普通に寝るだけだ。頑張ってもう一組布団を用意したのに、やっぱり前条さんは僕のベッドに入り込んできた。僕的には横が狭いし、前条さん的には縦が狭そうだった。ベッド、買い替えた方が良いだろうか。 「幸せって怖いな」  でも部屋が狭いんだよなあ、などと間取りについて悩み始めていた僕は、不意に聞こえてきた微かな呟きに、反射的に目の前の身体を抱きしめていた。抱きしめるっていうか、抱きついていた。  よしよし、と頭を撫でられるので、振り払う。ええい、違う。そこはアンタがやるところじゃない。コアラみたいに抱きついていた腕を離し、少し上にある頭を探る。両手を使ってぐしゃぐしゃに撫でてやると、僕と同じシャンプーがふわりと香った。 「それは、あれですね、まんじゅうこわい的なやつですね」 「……えーと、」 「まんじゅうこわい的なやつですね。分かっていますが、僕は馬鹿なので引っかかりますよ」  力強く断言すると、前条さんは何がツボったのか喉を鳴らして笑い、うん、そう、しあわせこわいね、と呟いた。   了

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