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閑話⑦、⑧

【閑話⑦】時系列無視/2019年気温ネタ  まだ夏も遠いと言うのに、事務所内と外が同じ気温になり始めた。なんともうんざりする事実だ。外に出ても暑く、戻ったところで冷房は効いていない。むしろ暖房がついている始末。真面目に、職務放棄して帰宅してしまおうかと考えながら事務所に戻った僕に、前条さんは何とも呑気な声で言った。 「おかえり、けーちゃん。冷蔵庫で司冷えてるよ」 「ただい、は?」  ああ、相も変わらず暑い。溶けるかもしれない、と袋のアイスと自身を心配した僕の耳に、なんだか聞き慣れない文言が届いた。  この人いまなんて言った? 冷蔵庫で司が冷えてる? クリアアサヒではなく?  暑さにやられた頭で、のろのろと冷蔵庫に向かう。食材をしまわなければならない。前条さんの言葉は半分も理解してない。アイスが食べたい。一個開けよう。  アイスバーの箱を開け、一本取り出し残りをしまう。卵をしまおう、と上の扉を開いた瞬間、 『じゃじゃん!』  冷蔵庫の中でドヤ顔をキメる司と目が合った。  いや、地蔵の表情は変わらないし、目も閉じているが、兎に角、そこにいたのはドヤ顔の司だった。僕の頭はそう認識した。そう認識しなければ、冷蔵庫に地蔵の頭が入っているという事実をちょっと受け止めきれそうになかった。 「……何やってんの、お前」 『れいぞうこのなかにいる』 「いや、だから、なんでそんなことを」 『ふふん! けちゃ つかさのこと さわってみるといいよ!』 「はぁ?」  なんだよ、何がしたいんだよお前は……。暑さで妙にイラつきつつ司に手のひらを押し当てる。冷たい。そりゃそうだ、冷蔵庫に居たんだから。冷たい。冷たい……つめたい……。  気づいた時には、僕は取り出した司を抱き締めていた。開いた場所には食材が詰め込まれた。アイスが美味しい。 「はあ……つめたい……」 『けちゃ! つかさも あいす!』 「ああ、うん……アイスな……」  アイスをもう一本取り出し、司を抱えてソファへ向かう。冷えた感触が心地よくて頰を寄せていると、司はくすぐったかったのか小さく震えた。 「司が冷蔵庫でけーちゃん待つって言うから入れてやったんだけど、どう?」 「つめたくてきもちよくて、かなりうれしいです……」 「そう、なら良かった」 「ついでにへやのおんどさげてくれたらさらにうれしいです……」 「朝ご飯けーちゃんなら良いけど」 「……? べつに朝ご飯くらい、いつも作って…………」  朝ご飯一つで室温が下がるならお安い御用だ、と二つ返事で了承しかけた僕は、そこで前条さんの言葉の意図に気づいて慌てて頭を振った。僕『が』朝ご飯だ。 「い、いや、だ、だめです、朝っぱらからそんな、は、破廉恥な!」 「どうせ脳内八割破廉恥のくせに気にすんなよ」 「ろッ、六割くらいです!」  否定はできなかったので訂正だけしておいた。けらけら笑った前条さんが、機嫌よく焙じ茶を啜る。司を抱えたまま距離を取った僕を面白そうに眺めていた前条さんは、ふと何やら思案するように首を傾けると、僕に向かって両手を広げた。 「そういやけーちゃん、前条さんも冷えてんだぜ?」 「は? はあ、知ってますけど」 「かなり冷え冷え」 「いやだから知ってますって、分かりましたよ、室温の件はもう————、あ」  あ。  え。  いや、だって、そんな。いやいやまさか、と窺うような視線を向けた僕に、前条さんは緩く手招いた。  い、いや、その方法は確かにちょっと考えたことはありますけど、でもそんな、いつお客さんが来るかも分からないのに、抱き合ってたら普通に変でしょうが、うわ、手が冷たい。気持ちいい。冷たいから引き寄せられてしまう。冷たいから。冷たいから仕方ない。40度越えだし、暑いし。とにかく仕方がないんだ。  何に言い訳しているのかも分からず脳内でまくし立てた僕は、その後訪ねてきた月下部さんにドン引きされるまでずっと、司を抱えた状態で前条さんに抱えられていた。 【閑話⑧】  帰り道の街灯が点滅している。  一昨日くらいからずっとそうだった。  この辺りは明かりが少ないから、早く直して欲しいんだけど、一体いつになったら直るんだろうか。  自転車じゃなかったら絶対通りたくないな、なんて思いながら夜道を走っていた僕の前に、赤いワンピースの女の人が現れた。  時刻は午後十時半、明かりも少ない夜道で見るには心臓に悪すぎる色だ。ピンヒールまで真っ赤で、なんだか下手な怪談みたいで緊張してしまう。  いや、でも、携帯で電話中だし、幽霊が電話するってのも変だし、そもそも人を幽霊呼ばわりするのは失礼だし、あんなんでビビってるのは流石にヘタレすぎるし。などと、脳内で明るい歌でも流しながらつらつら思考を並べ立てる。  女の人は、柔らかい響きの優しい声で、何やら晩御飯について電話をしていた。どうやらお子さんと電話してるらしい。 「おかあさんすぐにかえるからね、いいこでまってるのよ。かぎあけちゃだめよ」  あー、なんだ、普通の人だ、普通の人。ほっとしながら横を通り過ぎる。いや、もう、最近怖い目に遭い過ぎてるから、変に勘ぐってしまった。主に前条さんのせいだ。  全く、そんなにほいほい幽霊なんかと出会う訳ないのに。自嘲の笑みを浮かべながらしばらく走り、照れ臭い気持ちでペダルを漕ぐ足を緩めた僕は、次の瞬間固まった。  前方に、赤いワンピースの人がいる。  心臓が、先ほどの比ではない速度で脈打ち始めた。  赤いワンピースの女性。そりゃ、女の人ってのは流行りに敏感だし、赤いワンピースが流行ってんのかもしれないけど。いや、でも、流行りだからってあれは。  変な汗をかき始めた手のひらでハンドルを握り直した僕は、出来る限り視界に入れないようにして、電話を続ける赤いワンピースの人を追い越した。  追い越して、必死になってペダルを漕いだ。漕いで、漕いで、そして、俯いたままの視界の端にもう一度赤いワンピースが映ったところで、涙目になりながらスマートフォンを取り出した。  走り続けるのも恐ろしいが、止まるのはもっと恐ろしい。僕は自転車を漕いだままスマートフォンを弄った。もはや、取り締まられても構わないからお巡りさんにでも来て欲しい気分だった。でもきっとお巡りさんは来ない。だから僕は頼みの綱の前条さんに連絡を取る他なかった。そうして、祈るような気持ちでコール音を聞いていた、のだけれど。 『もし!!』 「あ? な、なんでお前が出るんだ?」  電話に出たのは司だった。いや、お前じゃなくて前条さんに用があるんだよ。ていうかお前電話出れたんだな。  一瞬、自分の状況も忘れて素っ頓狂な声をあげた僕に、司は極めて明るい声で言う。 『あおぐは おねんねちゅうだよ! けんいちの おしごと あったからね! けちゃ どした?』 「あっ、そっか今日そっちの仕事……い、いや、今、なんかおかしなことになってて、」  自転車を漕ぎながら続ける。3回目の赤いワンピース。彼女もまだ電話を続けていた。おかあさんすぐにかえるからね、いいこにしてまってるのよ。かぎはあけちゃだめよ。一言一句変わらない声音に、背中に嫌な汗が滲んだ。  彼女は何も変わらない。ただ歩いているだけだ。だが、いつ急変するかも分からない。知らず小声で話し始めた僕に、司はふんふん、と何やら考え込むような声を上げた。 『わお ゆれいだ! まちがいないよ!』 「いやそれは分かってる。僕が知りたいのはどうすればいいかなんだよ!」  そんなん言われなくてもわかってる。潜めてたつもりがしっかり怒鳴ってしまった僕に、司はうーん、と首を傾げるような声を出した。首だけだけど。 『たぶん けちゃ まきこまれたね ころしてやろ!てかんじ ないから』 「そ、そうなのか?」 『けちゃのこと ぜんぜん きょみないよ それ』 「……少しだけ気が楽になったよ。でも、どうすればここから出れるんだ?」 『…………わかんない』 「分かんないのかよ!」  じゃあ僕は一生ここでぐるぐる回り続けるのか? 赤いワンピースと一緒に? 「おかあさんすぐにかえるからね、いいこにしてまってるのよ。かぎあけちゃだめよ」  本気で?  ぐるぐる、何度目か分からない声を聞きながら夜道を走り続ける。頭がおかしくなりそうだった。  司がぽすんぽすん跳ねる音がする。どうやら前条さんを起こそうとしているらしい。よし、いいぞ。良い子だ。それが正しい。よくやった。最初からやれ。 『んー……けーちゃん?』 「あっ、前条さんですか!? 助けて下さい、なんか変なんです、ずっと同じ道通ってて、」 『逆走しな』 「……はい?」 『逆走』  そしたら帰れるよ、と言った前条さんはそのまま寝落ちたのか、携帯が床にぶつかる音が聞こえてきた。 『けちゃ? きこえた?』 「きこえた」 『わかった?』 「わかった」 『できそ?』 「むり…………」  無理だった。  僕にはこの道で立ち止まって、方向転換して、今来た道を逆走するなんて無理だった。いや、俯いていれば出来るかもしれない。どうだろう。出来ない気がしてきた。 「おかあさんすぐにかえるからね、いいこにしてまってるのよ。かぎあけちゃだめよ」  すぐ後ろから声がする。ペダルを漕ぐ。もしも立ち止まって、振り返って、逆走するとしたらどのタイミングだろう。追い越してすぐは嫌だ。追い越すちょっと手前だろうか。そしたら何にも出会わず帰れるだろうか。  ペダルを漕ぐ。赤いワンピースが見えてきた。多分、もう、ここでやらなかったら僕はきっと二度と自転車を停められないと思った。ブレーキを握る。  幸い、あまり大きな音を立てずに止めることができた。ハイヒールの音が響いている。乗ったまま方向転換するには狭すぎる道だ。自転車に寄り添うように降りて、汗で滑る手でサドルを掴み、方向転換し、再度跨って、 「おかあさんすぐにかえるからね、いいこにしてまってるのよ。かぎあけちゃだめよ」  赤いワンピースが居た。すぐ目の前に。  見なければよかった。見たくなかった。視界に入った。  彼女の前面はまるで削ぎ落とされたみたいに肉が剥き出しになっていた。  ごぽごぽと、赤い泡を吐き出す口が、優しい声で電話をかけ続ける。 「おかあさんすぐにかえるからね、おかあさんすぐかえるからね、かえるからね、かえるからね」  それまでまともに歩いていた彼女が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。骨が剥き出しの膝が折れ、地面に転がる。地を這うようにもがきながら、彼女はなおも続けた。 「かえるからね、かえるからね、かえるからね、いいこでまってるのよ、いいこで、かえるからね、かえるからね、かえるかかかえかえかかかかかかかか」  気づいたら僕は自宅にいた。朝だった。目元が乾いた涙で固まっていて、目を開けるのも辛かった。  嫌な夢を見たときの気分にとてもよく似ている。汗で張り付いた服が気持ち悪い。シャワーを浴びることにしたけれど、最早何もかもが怖かったのでカーテンと扉は開けたままにした。シャンプーでも目は閉じなかった。音楽も流した。月下部さんのオススメだ。みぽリンはすごい。気分が明るくなる。  僕は恐怖を誤魔化すためにスマホと一緒に歌いながらシャワーを浴び、食事も早々に事務所へと駆け込んだ。 「なんだったんですか!! アレ!!」 「……けーちゃん、朝から元気だなあ」  俺まだ眠い、とソファで司と一緒にごろごろしている前条さんが欠伸をする。そりゃ元気にもなりますよ。元気でも出さなきゃやってらんないですよ。  不貞腐れながら対面に腰掛けた僕に、前条さんは卓上に置きっ放しの携帯を手に取ってみせた。 「多分これじゃない?」 「? 何がですか」 「昨日の」  差し出された携帯の画面に書かれた記事を読む。そこには数年前の轢き逃げについてと、その犯人らしき男を刺し殺した少年の記事が載っていた。昨晩僕が恐ろしい目に遭った例の路地で、バイクに引ったくられた鞄が腕に絡まった女性が数十メートル引きずられ、死亡した……らしい。そしてその息子が、轢き逃げ犯と思しき男性を刺し殺した、と。 「………………」  なんというか、やるせない話だった。あの赤いワンピースの女性は、我が子が良い子で自分を待っていることを信じているのだ。今も。 「あの人、ずっとあそこにいるんですかね」 「さあなあ」 「なんで昨日に限って出てきたんですかね……」 「さあなあ」  多分、前条さんには色んなことが分かっているだろうに、その日、彼は何も語ることなくただただ微睡むばかりだった。

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