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閑話⑨、⑩

 少し珍しいお客さんが来た。  外国の、多分僕の記憶が正しければインドとかそう言う感じの、肌の露出が極端に少ない衣類に身を包んだ女性だった。目元だけが見えているのだけれど、その目元だけでも分かるくらいに美人な人だった。  全身を黒い衣服で覆い隠した女性は、遠慮がちに扉をノックして、それに応えて出てきた僕を見ると、なんというか、割とあからさまに動揺した。 「……昂さんは?」  綺麗な声だ。滑らかな発音に、彼女が日本人か、あるいは日本に長く住んでいる人だと察する。目元だけでは判断がつかない。ただ、その瞳孔は細く、縦に割れていた。爬虫類を思わせる、人間味の薄い瞳が、僕を『見慣れない異物』として捉えているのが分かる。  つまりは、事務所内を見慣れる程度にはここに来たことがある、ということだった。  僕は慌てて、自分が助手であることを告げた。実際の所は夫婦なのだが、そういうことになっているのだが、わざわざ伝える必要もない。 「助手の方……、そう……」  イズミと名乗った女性は、納得したのかしていないのか分からない声で頷く。案内すれば、慣れた様子でソファに腰掛けた。 「すみません、すぐに戻ると思うんですけど」  前条さんは今朝方、携帯の画面を眺めながら片眉を上げ、やれやれと肩を竦め、面倒臭いなあ、と言いながら事務所を出て下の階へと向かった。  どこ行くんですか、と聞いた僕に返ってきたのは「ちょっと在庫整理」という言葉だけだ。そこからお昼になっても戻ってきていない。何度か呼びに行こうとしたのだが、司が『いくの?』と何やらビミョーな顔をして言うので、気が引けて声をかけにも行ってない。  しかしお客さんが来たなら話は別だろう。僕はイズミさんに断りを入れると、前条さんを呼びに下の階へと向かった。  事務所のある四階と違って、此処はどうやら扉がいくつかあるようだ。逆か。四階が、いくつかあった扉を潰しているのかもしれない。  並んでいる扉を叩いて回ると、三つ目から「はーい」と声がした。前条さんの声ではない。あれ、このビル、事務所以外に何か入ってたっけ? 「はーい」 「あの……すみません、前条さん見ませんでしたか?」 「はーい」  あ、これ不味いな。一瞬で気づいて足を引いたものの、扉は返事を繰り返した。明るい女の人の声がしている。場違いなほどの明るさが、率直に不気味だった。  はーい、と扉は返事を繰り返している。何度目かの声の後、後ずさる僕の耳に別の言葉が届いた。 「今いきまーす」  明るかった。明るい声で、何かが扉から出てこようとしていた。結構です、と返せずに固まっていた僕は、そこで横からぽんと肩を叩かれ、ちょっと表せないくらい情けない声をあげて飛び上がった。 「来なくていいでーす」  前条さんだった。にっこり笑った前条さんが僕の隣にいた。力が抜けてへたり込んだ僕に、前条さんはけらけら笑う。 「電話してくれりゃよかったのに」 「あ、ああ、そうですね、そうでしたね、そうでしたね……」  文明の利器をすっかり忘れてました。畜生、無駄にビビる羽目になった。こんな変な事務所が入ってるビルが、まともな訳がないのだ。迂闊だった。 「なんかあった?」 「ええ、まあ。お客さんです、イズミさんって方が、」 「ああ、もうそんな時期」  僕の口から名前を聞いた途端、前条さんは何やら納得した様子で踵を返した。歩き去る背を見ながら、ぽかん、と間抜けな顔を晒す僕の耳に、すぐ横の扉が言う。 「出せ」  急いで走った。 「どうもこんにちは。お久しぶりですねえ」  事務所に戻った前条さんは、縋り付く僕の頭を撫でながら、余所行きの声でイズミさんに語りかけた。イズミさんの目が、前条さんに向かい、僕に向かい、再び前条さんへと向かう。  明らかに不審なものを見る目だったので、僕は慌てて前条さんから距離を取った。 「またお手伝いすればよろしいですか?」 「ええ、お願いします。あの、それで……」  イズミさんの遠慮がちな声に、前条さんは慣れた様子で頷く。なんとも雑な仕草で髪をかきあげた前条さんは、にっこりと、これまた余所行きの笑みを浮かべると、イズミさんの手を取った。 「では、いつも通りに。少々狭くて申し訳ありませんがね」 「いえ、そんな…………」  イズミさんの瞳は、今や前条さんのみに視線を注いでいた。熱っぽい声音が辿々しく前条さんの名前を呼ぶ。前条さんもそれに応えながら、二人は備品庫の奥へと姿を消した。  この間、約一分である。……え? 僕は一体どうすりゃいいんですか?  一人ぼっちの、いや、一人と一匹、一首?の部屋で呆然と立ち尽くす僕の横に、ぽすんぽすんと司が跳ねてくる。 「え、何? 何あれ、は?」 『わかんない……』 「どういうこと?」 『わかんない……』 「……聞き耳立てたら怒られると思う?」  僕の問いに司は答えなかったが、ぽすんぽすんと備品庫の扉まで向かっていった。僕も後に続く。  え、いや、だって、なんか明らかに空気違っただろアレ。おかしいだろ。そもそも前条さんがお客さんに素顔を晒す時点でおかしい。あの人、大体常に前髪不審者なのに。  目の前でやってる時点でやましいところなんてないんだろうけど、でも気になるものは気になる。  そっと耳を寄せた僕は、扉越しに微かに聞こえる甘い声に、……甘い声に!?  本当に何やってんだ!? あの人!! 何やってんだ!?  なんと言うか、こう、アレだよ、何、その、アレだよ、有り体に言って、そう、つまり、あの、 「前戯みたいな音する……」  絶望を体現した声で呟いた僕に、司はかける言葉が無かったのかころころと所在なさげに転がった。  いや、え、何、何故。待ってくれ。僕はそりゃ前条さんが必要経費だと言うなら知らん男と寝るくらいは許容するけど、別にしたくはないけど、でも必要ならまあ、って感じなんだけど、でもこれはなんか違くない!? なんか違くないか!?  女性にいかがわしいことをする前条さん、という、なんだか今まで想像したことがなかった存在が脳内を駆け巡り、それはそれでありだな、みたいなアホが脳内議会で主導権を握り始めた頃、備品庫の扉が開いた。僕はつんのめって地面に倒れ伏した。前条さんが、僕を見下ろし、すい、と片眉を上げ、納得した様子でああ、と呟いた。 「覗きが趣味なんだっけ?」 「違います! 誤解です! 僕はただ、ただ、その、」 「その?」 「……な、何やってんのかなって」 「覗きが趣味なんだっけ?」 「違います! 信じてください!」  そんなつもりでは!と平身低頭で弁明する僕に、前条さんはやはり軽い調子で笑いながら、イズミさんのずれた衣服を直した。 「単なる手伝いだから心配すんなよ。けーちゃんが考えてるようないかがわしいことじゃないから」 「ほ、本当ですか? 信じていいやつですか?」 「俺がけーちゃんに嘘ついたことある?」 「多分たくさんあります」  僕が嘘だと気付いてないものも含めると相当数あると思われます。真顔で言い切った僕を、前条さんは下手くそな口笛を吹きながら跨いで通り越した。  おい、結局それは信じていいやつなのか!?  焦燥と共に立ち上がる僕の前で、前条さんはイズミさんから札束を受け取っている。今回の依頼料のようだった。今までになく分厚い。袋の厚みにぎょっとしている内に、前条さんはイズミさんの頰にキスまでかまして見送っていた。布越しだけど。布越しだけど、なんかやだ。 「……前条さん、結局、なんなのか教えてもらっていいですか」 「ん? だから、手伝いだって」 「何の」 「脱皮」 「……脱皮?」  予想だにしない言葉に首を傾げた僕に、前条さんは備品庫から何かを持ってきた。薄い、ゴムスーツみたいな人型の何かだった。細かい凹凸がある。 「彼女、蛇人間みたいなもんだから年一で脱皮するんだけど、どうも俺にやってもらいたいらしくて」 「へ、蛇人間?」 「金払い良いから受けてる。まあ、俺の顔が好きなんだよ。けーちゃんと一緒」 「……僕は顔だけじゃないですけどね」  なんでか謎の悔しさがあったので絞り出すように言った僕に、前条さんは珍しく、本当に珍しく、心底驚いたように目を瞬かせた。  何ですかその顔。何にそんな驚く要素が、……待ってください前条さん。アンタまさか。 「まさか僕がアンタの顔だけが好きだと思ってんじゃないでしょうね!?」  前条さんは答えなかった。答えないまま、何故か逃げるようにパーテーションで区切られたキッチンへと向かい、普段使われることのない簡易扉を閉めた。ちょっと!? 「前条さん!? 開けてください!! 僕らは話し合う必要があります!!」 「俺にはない」 「あるよ!!」 「ない。けーちゃん今日帰っていいよ」 「はあ!? 帰るわけないでしょうが、さっさと出てきてくださいよ!!」  その後、前条さんは返事がないまま一時間立てこもり、出てきたかと思えばやたら深いキスをかましてそのまま僕を食った。  何が何だか分からないまま終わったが、いつになく無邪気な上機嫌で可愛かったので、いつの間にか全てが有耶無耶になっていた。 【閑話⑩】  「そういやお前、喋る時に伸ばし棒使わないよな。なんか難しいのか?」  夕飯の仕込み中。ふと疑問に思って聞いてみた僕に、それまで楽しげに鼻歌(鼻?)を歌っていた司が揺らしていた体を止め、少し不満げに答えた。 『けちゃが かいて くれなかった からだよ』 「は? どういうことだよ」 『だから けちゃが のばしぼ かかないから!』  ぼすんぼすんと訴える司の言葉を噛み砕こうと試みるも、さっぱり理解が追いつかない。首を傾げる僕にこれ以上話しても無駄だと察したのか、台から降りた司はごろごろと床を転がって前条さんの元へと向かった。 『けちゃが つかさのこと いじめる!』 「わー、ひどーいけーちゃん、こんなキュートなじぞーを虐めるなんてー」 『あおぐも いじめる!!』  やたらめったら間延びした声で答えた前条さんに、司はびょんっと中々見せない高さまで飛び、つかれた……とソファの上に寝転がった。  ゔゔ、と唸る司を、前条さんの白い指が宥めるように撫でる。が、そう簡単に機嫌は直らないようだった。 「……結局どういうことなんです?」 「狐狗狸さんを媒介に魂の遣り取りしたもんだから、紙面に無い文字が発音出来ないんだよ。まあ、充分通じるし問題ないな」 「はあ、なるほど?」  よく分からないが何となく分かった。ような気がする。僕が作った紙に書いてない文字は使えない、となると、ある意味僕のせいでもあるのか。いや、別に責任を感じたりはしないけど。でもせめて、もう少しだけちゃんと書いてやれば良かったかな。  いかんせんその場の思いつきだったから、作りが雑になった自覚はある。こっくりさんなんてやったことないから何書けばいいかも分からなかったし。 「あ、そうだ。今から書き足すんじゃダメなのか?」 『だめぽい』 「そうか……。だったら、小さい字を使ってみるとかは?」 『しゅぎに はんする』 「何の主義だよ」  変なところこだわる奴だな。呆れる僕に、司は何故か妙に渋い顔で遠くを見つめた。主義に反するらしい。  じゃあもうどうにも出来ないな。この話は終わりにしよう。そろそろ夕飯の準備も整うし。  そう思って切った野菜を鍋に並べたところで、前条さんがぽんっと手を打った。 「なら、俺が書き直してやろうか? そしたら今よりずっと、」 『あおぐはいいや』 「なんで?」  前条さんは笑顔だった。司は答えなかった。賢い選択だと思った。  あらゆる意味で地蔵と化した司に、前条さんは一見無邪気に取れる笑みを向け続けている。 「なんで?」  アンタの字が超絶汚いからですよ、とは言えなかったので、僕はテーブルの上のコンロに、具材に半分火を通した鍋を乗せながら言った。 「なんと驚き! 今夜はすき焼きですよ!」 『すきやき! すき!』 「けーちゃん、俺溶き卵いらない」 「知ってます。そいつの分です」 『けちゃ! からざ とって! からざ!』 「自分で取れよ」  無理難題を放ると、司はまた前条さんにぶつかるようにして擦り寄りつつ、けちゃがいじめる!と泣いた。よしよし可哀想になあ、と撫でる前条さんがひょいひょいと白滝を奪っていく。好物を奪われた司が負けじと豆腐やら葱やらを奪い始め、食べられないようにか溶き卵に打ち込む。二人が仲良く争っているうちに、僕は肉を頂いておいた。  こんな暑い中ですき焼きとか、我ながらバカじゃないかと思う。が、こうして鍋を囲むと、どうにも楽しいのが本心だった。

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