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閑話⑪

 麻雀牌を貰った。父さんが昔使っていたもので、部屋の片付けをしていたら出てきたらしい。  電話で「慧一はこういうの遊んだりするか?」と聞かれ、「ああ、うん、いや、うん?」と妙な気持ちで生返事を返していたら、週末にはアパートに麻雀牌のセットが届いていた。  『櫛宮慧一様』と書かれた宛名を、やはりというか、なんとも座りの悪い思いで見下ろす。限りなくしっくりくることに、むず痒いような違和感を覚える。が、しっくり来ているのは事実なのだ。頭が痛くなってきたので考えるのをやめ、僕は麻雀セットを自転車のカゴに乗せ、事務所へと向かった。  麻雀ってのは四人いないと出来ないものらしい。いや、三人でも出来るらしいのだけど、僕らは全員が全員ルールを知らないので、流石にややこしいルールを覚えるだけのやる気が出なかった。  そういう訳で、麻雀牌は事務所の隅、ガラクタの山の一部になっている。  三日後。どうせなら遊んでみたかったなあ、なんて思いながら名残惜しい気持ちで麻雀牌を見つめていた僕の耳に、扉が開く音が届いた。  お客さんかと振り返れば、半開きになった扉の隙間から、月下部さんが此方を覗いていた。……なんで半分しか入ってこないんです?  半身の月下部さんが、びっくりするくらいの無表情で口を開く。 「お願いがあるんですけど」  なんで敬語なんです?  状況に追いつけないでいる僕を置いて、月下部さんはどこか遠くを見つめながら呟いた。 「お金借りたいんですけど」  どこでもない何かを見つめている顔だった。具体的に言うなら、ソファに腰掛けてコーヒーゼリーを嗜んでいる前条さんと目を合わせないようにしている顔だった。  最後の一さじを飲み込んだ前条さんが、感心さえ滲むような声で言う。 「へえ、俺まで回ってくんの珍しいな。誰も貸してくんなかったの?」 「稲守に借りた金を返すために尾坂から借りた金が消えた」 「消えちゃったかあ」 「借りたいんですけど」  月下部さんは無表情だった。元より酒が入った時以外は表情豊かとは言い難い人ではあるのだけれど、とにかく、びっくりするほど無表情だった。  恐らくアレは現実逃避を極めた顔だ。『前条さんに金を借りる』などという自殺行為から目を逸らした結果の表情だ。多分、僕も前条さんに金を借りようとしたらあんな顔をすると思う。だって前条さんに金借りるんだぞ。どんな利息がつくか分かったもんじゃない。  借りたらすぐに逃げるつもりなのか、月下部さんは頑なに扉に半身を隠していた。 「いくら?」 「七万」 「ふうん? なんで消えたんだよ」 「………………」 「けーちゃん、UNOしようぜ、UNO」 「朝」 「うん」 「朝、パチンコ行ったんすよ」 「うん」 「そしたら、消えた」 「消えちゃったかあ」  前条さんは完全に面白がっていた。下手したら本人が消えていなくなるんじゃないかと思うような顔をしている月下部さんに、完全に面白いものを見る目を向けていた。  UNOの箱を手に取った前条さんが、僕に対面に座るように言う。本当にするんですか? あの、この世に未練を残している幽霊みたいな月下部さんを置いて? 「別に貸してやってもいいけど、しおんちゃんは俺に何を返してくれるの?」 「……来週くらいには返す」 「いや、金はいいよ。金はいらない、しおんちゃんから金が返ってくるとは思わないし。どうせ占いもせずに行ったんだろ。素で不運なんだから馬鹿すんなよ。で、しおんちゃんは俺に何を返してくれんの?」  月下部さんが三分の一くらいになってしまった。  そのまま帰ってしまうんじゃないだろうかと思った矢先、前条さんが並べていたUNOのカードをしまい始めた。入れてもらおうとぽすんぽすん跳ねて来ていた司が、足下で前条さんを見上げている。 「そうだ、いいこと思いついた」  絶対僕らにとっては良くないことだろうな、と察するほど弾んだ声を発した前条さんは、ガラクタの海を蹴散らしながら進むと、最近積み上げたばかりの麻雀牌を手に取った。  持ち手付きのケースに入った麻雀牌を取って戻ってきた前条さんが、ローテーブルを脇に寄せ、備品庫へと消える。 「しおんちゃん、麻雀やろうぜ」  備品庫から正方形のテーブルが出てきた。よく見たことはないのだが、あの部屋、細い扉とは裏腹にかなり奥まで続いている。多分、他の階では複数に分けてあるはずの部屋が、この階だけは外扉で分かれていないのだ。倉庫の奥は、他の階で言う別部屋に繋がっている。  どうせ碌でもないものが入っているに違いので深追いする気はない。 「……麻雀?」 「そう。しおんちゃん、どうせ麻雀好きだろ? けーちゃんが貰ってきたんだけど、俺らやり方知らないからさあ。説明がてら賭け麻雀しよう」 「…………賭け麻雀」 「なんだっけ、点数を金に換算するやつ。やったことあんだろ?」  月下部さんは答えなかったが、三分の一が三分の二くらいになった。死んだような無表情だった顔に、若干の喜色が乗っている。賭け事好きなんだろうなあ……そして、それで痛い目を見てきたのに反省とかはしてないんだろうなあ……。  そわそわし始めた月下部さんに、今度は僕が遠い目になってしまった。 「暇つぶしになるし、しおんちゃんは勝てば返す必要のない金が手に入るし、どう? ちょうど四人いるしな」 「四人?」 『つかさも! やる!』 「ああ…………その、……そいつ…………そいつもな……」  その訳分かんねえのもやんのな、と零した月下部さんは、既に事務所内に足を踏み入れていた。完全にやる気である。っていうか、僕も面子に入ってるんですか。そうですか。まあ、いいですけど。  一応、日給二万で働いている身である。多少は懐に余裕はあるし、仮に前条さんに負けても彼の金が彼の元に戻るだけだ。月下部さんに行けば、別に、それはそれでいいし。あんな無表情の月下部さんは極力見たくない。  ただ、司に行くのだけはなんとなく、なんとなくだが、ちょっと癪だった。だってあいつ勝つ気でいるんだもんな。主に僕に。 「じゃあ、レートはデカピンな」  1000点1000円のことを指すらしい。そのほかにも25000点の30000返しがなんちゃらとか、ワンツーがどうとか言われたが、よく分からないままとりあえず頷いておいた。最終順位で、3位と4位が、1位と2位に点を更に渡す?とかいうルールらしい。  点数表を見ると万単位で点のやりとりをするらしいので、数万単位の金が動くことになる。しかも上位の人間は更に下から点を貰える訳だから……本気だ、この人。本気で前条さんから毟り取るつもりだ。  妙に生き生きと牌を混ぜ始めた月下部さんを横目に見ながら、この嬉しそうな笑顔はいつまで保つんだろう……とぼんやり思った。  簡単なルールの説明は受けた。麻雀は自分の持っている十三枚の手牌を入れ替えながら、十四枚の上がり役を作るゲームだ。山札みたいな扱いの牌を順番に引いていって、自分の作りたい役に合わせて手牌を弄る訳だ。  他の人が捨てた牌を貰ったりも出来るらしいのだけど、三枚揃う形でないといけないとか、数字順でないと貰えないとか、色々あってよく分からない。とにかく、三枚ずつのセットを四つと二枚一組のを一つ作れば上がれるということだけ理解した。なんか、あれだ、リーチとかするやつ。よく分からない。よく分からないまま、数万が一度に動く場が始まろうとしている。  僕、多分ギャンブル漫画とかだったら一瞬で破滅して死ぬんだろうな。じゃらじゃらと掻き混ぜた牌を積み上げ、自分の手元に貰いつつ、悲しい笑みが零れた。  親……という最初に牌を捨てる人?は僕なので、とりあえず、一枚捨てておいた。文字の書いてあるやつだ。スマホで調べたら、自分が使えるやつ以外は捨てましょうって書いてあったから。 『けちゃ! つかさの ひいて』 「ええ……自分で引けよ」 『いじわる いうと だいぶするよ』  ダイブはやめろ。せっかくここまで準備したのに。仕方がないので引いた牌を隣の司に渡してやる。触って確かめんなよ、と月下部さんに言われたが、触って分かるような代物じゃないでしょうコレ。 『みぎから みっつ! みっつめ! すてて』 「こっち?」 『つかさから みて みぎ』 「あっそう」  左に伸びかけていた手を右へと修正し、三つ目を摘まんで捨てる。えーと、なんだっけこれ。鳥みたいなのが書かれている。これって僕のやつにもあったっけ。ていうか、自分の牌考えながら司の面倒まで見るの、結構きつくないか?  僕から回って三番目、前条さんが特に考えることもなく牌を捨てる。月下部さんはその仕草を、まるで万引きGメンか何かのように見つめていた。  初めの回だからか、みんな黙々と進めていく。会話するのは僕と司くらいのものだ。 『けちゃ みぎから いつつめ』 「はいはい」 「お、それポンな」 『ぽ?』  『東』と書かれた牌を捨てた時、月下部さんから声が上がった。司の捨て牌が月下部さんの指に拾われ、卓の端に寄せられる。三つ同じのを揃えるのがポンだっけ。あれって風牌だから、三つそろったらそれだけでもう上がれるってやつ? 『つかさも ぽんしたい』 「二つあんなら出来っけど、あんのか地蔵」 『ない』 「答えんなや」  聞いた俺も悪いけどよ、と月下部さんがバツが悪そうに唇を尖らせる。同じ牌が二つあって、誰かが同じのを捨てたら『ポン』って言やあ貰える、と先ほどした説明を繰り返してくれる月下部さんに、司はふんふんと頷いた。 「けどな、鳴いても作れる役で上がれるようにしねえと集まっても上がれねえからな」 『わかった!』 「ほんとかよ」  それからまたしばらく、何の動きもないまま牌を捨てることが続いた。正直、僕にはポンとかチーとかの使いどころが分からない。とりあえず、三色同順とかいうやつをやってみてるんだけど集まる気がしない。リーチ?をかけて適当に上がってしまった方がいいんだろうか。  そんなことを思っていた矢先、月下部さんから再度声が上がった。 「ロン! 三暗刻、東、ドラ1で50符4翻だから~、8000点!」  前条さんの捨て牌で上がった月下部さんは、それはそれは嬉しそうな声で宣言した。 「ドラ牌捨てるとか馬鹿なんじゃねえの~? ゲーヘヘヘ、悪ぃな前条、もーらい!」  そんな悪役みたいな笑い方する人初めて見ましたよ。よほど嬉しかったんだろうな。点棒を毟り取っていく月下部さんに前条さんが、しおんちゃん楽しそうだねえ、と笑う。 「楽しいに決まってんだろ! 見てろよ前条、日頃の恨みだ、ボコボコにしてやるぜ!」  牌を掻き混ぜる月下部さんはもう嬉しくて仕方ないって感じの顔だった。  それから、東三局(三回戦目)までは月下部さんの独壇場だった。あと、司も結構強かった。僕も上がってない訳ではないけれど、司はどうやら引きが強いようで自分で引いた牌で上がるもんだから、僕がどんなに牌を揃えて捨て牌を待っても司の番で台無しになることが結構あった。  さて、ところで、前条さんである。珍しく、びっくりするほど黙ったまま手番を進める前条さんは、これまで一度も上がっていなかった――のだが。 「ロン」 「あ?」  月下部さんの捨てたピンズの八に、前条さんの声がかかった。黒手袋の手が、牌を倒す。 「なんだっけこれ、四暗刻? 役満だから、48000点ね」 「ポェァ」  月下部さんの口から、ちょっと聞いたことのないタイプの声が漏れ出た。ガクガクと震えながら、点棒を掴んで前条さんに渡――……渡し……渡すことを拒んでいる……。 「寄越せよ」  めちゃくちゃ小さな声でヤダ…………と呟くのが聞こえたような気がしたが、点棒は最終的には前条さんの手に乗った。  再び牌が掻き混ぜられる。役満って上がれるもんなんだなあ。ちょっと狙ってみようかな、なんて思いかけた僕の淡い期待は、次の局で前条さんの手によって砕けることとなった。 「けーちゃん、それカン」  ある順では僕の捨て牌が持って行かれ、 『けちゃ これ すてて』 「どれだよ……」 『ろくばんめ』 「はいはい」 「あ、それカン」 「はい?」  またある順では司の捨て牌も持って行かれ、 「これもカン」  更に引いた牌を揃えてのカン。月下部さんの顔が目に見えて白くなり始めたので、どうやらかなり不味い状況らしきことは分かった。  月下部さんの手が、自分の牌の上をうろうろと彷徨う。途中、何度か握りこぶしを作った月下部さんは、たっぷり一分悩んだ後に、ソーズの四を捨てた。 「カン」 「オメー! 積み込んでんだろ!! そうなんだろ!! そうだって言え!!」 「積み込む? 何を?」  首を傾げた前条さんに問われた月下部さんは、そこで前条さんが一応初心者であるということを思い出したようだった。偶然だ、偶然……と口元でもにゃもにゃと呟きながらきつく目を閉じる。悪しき何かを振り払うかのように頭を振った月下部さんは、そこでふと、前条さんの手牌に残った、カンされていない一枚を、なんとも嫌そうな顔で見やった。  正直、僕も同じ顔をしている自覚があった。  四枚の牌を集めたカンが四つ。四槓子という名前の役満らしいが、あれだけ揃おうと上がれなければ意味はない。ただ、あの一枚。あの一枚が何なのかが、一枚であるが故に特定しにくくなっていた。  一応、今の時点で捨ててある牌を捨てていけば引っかかることはない。ただ、それだと自分の手牌も崩すことになるから上がりにくくなるんだけど……どうだろう、今の状況で前条さんより早く上がれる人っているのかな。  ちら、と司を見やる。機嫌良くころころ転がっていた。多分、あいつは手牌が結構揃っている。そして、前条さんに振り込んでも怖いことがないから、かなり気楽に進める気だ。というか、あいつが負った点数分の金は誰が払うんだ? 前条さんか?  そうなると四分の三、前条さんの金で賄われているようなもんなんだけど。  残り七枚。順番に、セオリー通り捨て牌と同じ牌を捨てていく僕らに、前条さんは詰まらなそうな声を零した。 「なんだ、上がれると思ったのに」  結局、その回は流れて、テンパイしてる前条さんと司にちょっとの点数が入るだけで終わった。ここから南場になる、らしい。半荘だから、さっきやった四回をもう一度やる訳だ。  結構長い遊びなんだなあ。 『けちゃ つかさ おやつ』 「あー、確かになんか摘まみたいかも。持ってきていいですか?」 「いいよ、俺コーヒーゼリー」 「月下部さんは?」 「煎餅。醤油」 「あったかな……」  かなりマジに考えているのか、月下部さんからは単語で返事が来た。そりゃそうか、7万取れるかどうかの勝負だもんな、遊びでやっている司や僕とは気合いが違う。  でもその気合い、きっと実らないんだろうな……と思うとどうにも悲しい気持ちになってしまうのだった。 「ツモ、字一色。16000オール」 「う゛ゃーッ!!」  南三局。月下部さんが壊れた。後ろにぶっ倒れた月下部さんが、目に涙を浮かべながら喚く。 「嘘だろお前!! 積み込みだ!! イカサマだ!! そんなにホイホイ役満が出てたまるか馬鹿!!」 「でも事実出てるし」 「お前もお前だ! 明らか字牌狙いのやつに字牌捨ててんじゃねえ!!」 『だって つかさ つかわないから』 「使わなくてもだよ!!」 『つかさも あがりたい…… なんば あがってない……』 「うるせえ!! 泣くな!! 悪かったよ!! 上がりてえよな!! 俺も!! 俺も上がりてえんだわ!! 分かってくれよ!!」  上がりてえー!!と青少年の青春が如く叫んだ月下部さんは、涙を拭いながら立ち上がった。やれば出来る……やれば出来る……と言い聞かせるようにして言う月下部さんが、虚ろな瞳で点棒を握る。  決意を新たに座り直した月下部さんが勝利を収めたのかと言えば――――、 「砂になりたい」  ダメでした。  結局あれから二本場まで行き、ようやく半荘を終えた頃には溶けた月下部さんがソファに沈んでいた。さっきから何を言ってもこれしか返さない。 「か、月下部さん、大丈夫ですか」 「砂になりたい」 「だ、ダメだ、心が死んでいる……」  ふにゃふにゃに溶けてソファと一体化し始めた月下部さんに、邪魔だなあ、という顔を隠しもしない前条さんが言った。 「別に7万くらいくれてやるよ。ルール教えてくれたし、中々楽しかったからな」 「…………砂……」 「何? もしかして10万くらいに上乗せされねえかな~とか思ってる?」 「………………別に思ってないですけど~?」  思ってたんだな。形を取り戻した月下部さんが起き上がり、前条さんの手から万札を受け取った。七枚。きちんと数えて懐にしまった月下部さんに、「とりあえず稲守に返してやれよ」と前条さんが言う。月下部さんは曖昧に頷いた。大丈夫かこの人。 「また使っちゃダメですよ」 「うるせーな分ぁってるよ、ありゃあちょっと、なんか、朝だから……消えたんだよ」 「尾坂さん?に借りた分も返さないといけないんでしょう?」 「尾坂は最悪めちゃくちゃ泣きつけば許してくれっから」 「めちゃくちゃ泣きつくんですか」 「米つきバッタみたいにすりゃなんとかなっから」 「米つきバッタみたいになってる月下部さんは見たくないんですけど……」 「見えねーとこでやっから想像すんな。ま、俺もなるたけやりたくねーから最終手段だな。しゃーねえからもう二、三人依頼受けっか……」  面倒くさそうに頭を掻いた月下部さんは、ひらひらと手を振ると「暇なときテンゴでやろーぜ」と言い残して事務所を後にした。あれだけ負けて懲りてないところはもはや尊敬に値すると思った。 「……ところで前条さん」 「うん?」 「イカサマしましたよね?」 「うん。点数計算面倒くさかったから」  やっぱり。流石にあれはどう考えたっておかしかったもんな。どうやってやったのかはさっぱり分からないが納得した僕に、前条さんは笑いながら言った。  点数計算よりイカサマの方がよほど面倒だとも思ったけれど、とりあえず僕は何も言わずにスマホで点数表を調べる。  僕が覚えて教えてあげれば前条さんは役だけ覚えればいいし、多分次は月下部さんが発狂するようなことにはならないだろう、と思って。

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