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Ⅱ-1:献身の話[前編]

 事務所の扉を開けると、前条さんが段ボールをひっくり返しているのが目に入った。  壁際に設えられた本棚の隣、備品庫へと繋がる扉から食み出るようにして乱雑に並ぶ無数の段ボール。汚い字で何か書いてあったり、テープで雁字搦めに留められていたりするそれらの箱を、前条さんは何事かぼやきながらひっくり返していた。 「ちょっと、何やってるんですか。折角僕と司が整えたのに、台無しじゃないですか」  砂上の一件で前条さんが意識を失った際、何も出来ることがなく手慰みのように整理した段ボール類は、あっという間に元の乱雑さを取り戻してしまった。ガラクタにしか見えない道具や陶芸品、某かの死骸や玩具が床に広がる。 「見りゃ分かんだろ、捜し物だよ」  僕の声に振り返った前条さんが言うが、見ても一切分からない光景だった。  どこからどう見ても無造作に散らかしている人だ。捜し物ってのはもっとこう、選り分けてやるもんじゃないんですかね。  転がしたガラクタを蹴るようにして掻き分けながら、前条さんは更に段ボールを開ける。僕は半ば走るようにして歩み寄ると、新たな段ボールへと伸ばされる手を掴んだ。 「何を探してるんですか? 整理するときに見たから、どこに入ってるか分かるかもしれません」 「ん? ああ、タロットカード。このくらいのサイズで、四隅に金具がついた木製の箱に入ってるやつ」  前条さんが手で示した幅を見ながら脳内に検索をかけると、割とすぐに思い出せた。  段ボールの中身は得体の知れない不気味な物ばかりだったので、ただの箱は逆に記憶に残りやすかったんだろう。 「それならこっちに入れました。これの底の……あ、あった。これですよね? 次から何入れたか書いておきます? まあ、僕から見ると何が何だか分からないんですけど……」  貼られたガムテープを剥がし、中から前条さんが言った物であろう箱を取り出す。ああ、それだ、それ、と機嫌良く受け取った前条さんは、散らばったガラクタを見下ろし、また適当に拾い上げて段ボールに詰め込みながら言った。 「まあ、整理すんのは今度にしようぜ」 「その今度っていつ来ます?」  前条さんは答えることなくローテーブルにタロットカードを広げ始めた。随分と年季が入ったもののようで、角が擦り切れたようになっている。  多分、『今度』は来ないんだろうなあ。奇妙な音階の鼻歌を聞きつつ、ソファに腰掛ける前条さんの手元を後ろからのぞき込んだ。  全部のカードを確かめるように裏返したり、擦り切れた角を指でなぞっていた前条さんが、満足したように頷いてカードを戻す。木箱の留め金をかけた前条さんは、ソファの背に肘をつく僕を振り返った。 「けーちゃん、これ花恋ちゃんに返してきてくれる?」 「花恋さんって……月下部さんのお祖母さんでしたっけ? えっと、僕が行くんですか?」  差し出されたのでつい受け取ってしまったカードケースを見下ろしながら問えば、前条さんは「だって今日寒いんだもん」と言った。心底嫌そうな声音を聞きながら、今朝の天気予報を思い出して納得する。  十月も下旬だ、今日は晴れているとはいえ20度そこらと言ったところである。前条さんにとっては辛い気温だった。  心臓を失った前条さんには体温が無い。常時酷い寒気に襲われているらしい前条さんは、気温が下がれば下がるほど動きが鈍る。最高気温が15度に行くかどうかという日には事務所から出なくて済む依頼しか受けないのだ。  除霊場所が対岸町から離れている時に、紹介状を書いて余所を紹介したこともある。相も変わらずミミズがのたくったような字だったので、僕も依頼人も微妙な顔をしてしまった。だが、まあ、前条さんの紹介だけあってきちんと解決はしたらしい。  『もしも俺じゃなきゃダメな依頼だったら仕方ないから備品庫にけーちゃん連れ込むつもりだったけど、俺でなくてもよさそうだったから』と言われた時、胸をなで下ろしたのは記憶に新しい。  流石に扉一枚挟んで依頼人がいるところでヤっちゃうのはダメだろ。いくら必要経費でもそれはダメだろ。  『やらずに済んで良かった』と言った僕に、前条さんは『変な趣味に目覚めそうだから?』などとほざいた。違いますけど。違いますけど!?  閑話休題。話を『お遣い』に戻そう。 「……別に、行くのは構わないですよ。でも僕、その花恋さん?の家がどこなのか知らないんですけど」 「今地図書いてやるよ」 「住所だけ教えてください」  前条さんの書いた地図なんてクソの役にも立たない。対岸町では何故が精度が酷いことになる地図アプリに聞いた方が百倍マシである。  なんとも詰まらなそうに携帯を取り出す前条さんの視線から逃げるようにして目を逸らす。前条さん、誰がどう見たって死ぬほど字が汚いのに、それを自分で認めていない節があるからな。  メールで送られた住所に目を通す。『花恋ちゃんち』と言うタイトルで送られてきたメールにはこの近辺の住所が書かれていた。  画面を見つめる。なんとなく、本当になんとなく、嫌な予感がして、僕はその住所をネット検索にかけた。  無言で住所を検索にかけ始めた僕に、前条さんは何が面白いのかからからと笑う。スマートフォンの検索結果には数秒と経たずに、『カエルマンションって本当に出るんですか?』という知恵袋が引っかかった。  おい。何をさらっと心霊スポットの住所を送りつけてんだアンタは。 「なんだよ、けーちゃん今日は賢いな」 「いつも賢いですけど?」  司が起きていたら馬鹿にされるだろう台詞を澄ました顔で吐き出してみせた僕に、前条さんは噛み殺したように笑った。普通に笑ってくれた方がまだ良かった。  再度メールが送られてくる。件名に何も書いていないそれは、今度こそ本当に花恋さんの家のようだった。  カードケースが入った鞄を肩にかけ、自転車の鍵がポケットに入っているか確かめる。 「ついでに何か買ってきますけど、欲しいものあります?」 「んー……今日何作る予定?」 「かに玉です」 「ポトフ食べたい」 「じゃあウインナー買ってきます。パンにしましょうか」  よろしく、という声を背に受けながら事務所を後にする。空模様はどんよりとしていて、予報が正しければお昼頃には雨が降り出しそうだった。  前条さんの事務所から、僕の家を挟んで丁度反対側に、花恋さんの家はあった。  白い壁の一軒家だ。二階建てのファンシーな作りの家を、無数の木々が囲んでいる。屋根を越えるほど大きな木が、家と歩道の間に陣取っていた。  巨木の横に並ぶ生け垣の隙間から見えるのは、雨よけのついた自転車置き場と、立派な犬小屋。今は空っぽだ。その脇に更に木が並んでいる。  まるで、現実世界に箱庭ゲームの一軒家が紛れ込んだみたいな光景だった。 「ここであってるんだよな……」  木々に邪魔されて表札すら碌に見えない。植物の巻き付いたアーチを潜り、玄関扉へと向かう。もしかして季節になると薔薇とか咲くんだろうか、と思いながら物珍しさにきょろきょろと見回していた僕は、そこでしゃがみ込んでいる月下部さんと目が合って思わず肩をこわばらせていた。 「うわっ、月下部さん」 「あ? 櫛宮じゃねーか、何しに――……『うわ』って何だ、『うわ』って」 「え、いや、居ると思わなかったんです。花恋さん今一人で住んでるって聞いてたので」 「あー……暇な時にな、草むしったり何だりしてんだよ。ババアが腰がいてぇって文句言うから」  うんざりした様子で口にする月下部さんの手には軍手が嵌まっている。綺麗に整えられた花が並んでいる煉瓦の花壇には、高枝切りばさみが寄りかけられていた。  確かに、これだけの巨木や庭の世話はご高齢の婦人にはキツいだろう。案外おばあちゃん思いなんだなあ、月下部さん。  微笑ましさについ笑みを零した僕を、四白眼が睨み上げた。 「今お前、『月下部さんって案外おばあちゃん思いなんだ~、意外~、見えな~い! 老人から金毟り取ってそうなのに~』って思ったろ」 「断じてそんな悪意に満ちた感情ではないです」 「『オレオレ詐欺とかやってそうなのに~』って思ったろ」 「思ってないですってば! なんでそんな被害妄想激しいんです!? 言われたことあるんですか!?」  月下部さんからは蹴りが返ってきた。  ……あるのか。そうか。でも僕は思ってないですからね。 「言っとくけどな、ババアがうるせえから仕方なくやってるだけで俺がやりたくてやってんじゃねえからな。勘違いすんなよ」  唇を尖らせた月下部さんが、軍手を切り株の上に投げた。丁度、可愛い小人を模した置物の頭に乗っかる。 「でも頼まれたらやってあげるんだから、月下部さんって案外優しいですよね」 「俺はいつでも優しいですけど~?」 「…………そうですね」  再度蹴りが飛んできた。やめてください、さっきから執拗に脛を狙ってくるのなんなんですか。  すっかりやる気が削げてしまったらしい月下部さんは、ポケットから煙草を取り出すと銜えて火をつけた。小休憩を取るつもりのようだ。 「で? お前何しに来たんだよ」 「あ! そうでした、すっかり忘れてました」 「脳の容量1ビットか?」 「2ギガくらいはあります。これなんですけど、前条さんから花恋さんに渡してくれって言われて持ってきたんです」  鞄から取り出した木箱を見せると、月下部さんの片眉がくいと上がった。フィルター越しに空気を吸い込み、煙と共に吐き出す。  妙に重い一呼吸だった。  どこか遠くを見るような目で曇り空を見上げた月下部さんは、煙草の灰を落としながら、ふと、呆れと哀れみが混じった声で呟いた。 「自称2ギガ悲しすぎるだろ……」 「そこ別にどうでもよくないですか」 「32ギガくらいは言ってもいんじゃね……大丈夫だよ、お前だって32ギガくらいはある……」 「優しくするのやめてください」  ぽん、と肩を叩いてくる月下部さんの手を振り払うと、わざとらしく涙を拭う真似をされた。畜生、月下部さんだって64ギガくらいのくせに!  よく分からない憤りを覚えながら睨み上げる僕に、月下部さんは鼻を鳴らして笑った。 「お遣いご苦労さん、ついでに菓子でも食ってけよ。今ババアの激堅クッキーしかねーけど」 「え、いや、悪いですよそんな」  それに僕、帰り際に買い物する予定なんで――と、遠慮しようと続けかけた僕の声に、慌てた様子の足音と、声が被った。 「しぃちゃん! しぃちゃん大変よ!」  家の中から此方にかけてくる音がしたかと思えば、突如勢いよく玄関扉が開いた。  ショートカットのグレイヘアを揺らした老婦人――おそらくは花恋さんが、スリッパのまま玄関先まで出てくる。月下部さんは木箱を受け取ろうとしていた手を止め、花恋さんへと向き直った。 「あ? どうしたババア、ゴキブリでも出たか」 「違うの! ねっ、とにかく大変なのよ! もうすっごい大変! どうしましょう!」 「だから、何が大変なんだっての」 「良いから来てちょうだい! あらっ? あなた、しぃちゃんのお友達? バタバタしちゃってごめんなさいね! あなたも上がっていく? もうね、とにかく大変なのよ!」 「えっ、いや、僕はその……」 「上がってけよ。ついでに前条の話聞けば? あいつ、ババアと妙に仲いいからな」 「え……じゃあ、ちょっとだけ……。あの、ところで、何が大変なんです?」  この慌てようからすると、何かとんでもないことが起こっているようだ。つい前条さんの話につられて頷いてしまっていたが、本当に邪魔だったらお暇した方がいいだろう。  そう思って問いかけた僕に、花恋さんは両頬に手を当てながら悲鳴じみた声で言った。 「みぽリンちゃんが芸能活動休止するんですって!」  今ニュースでやってて、と続ける花恋さんの言葉を、月下部さんは既に聞いていなかった。尻ポケットからスマートフォンを取り出し、ホーム画面のショートカットから即座に公式ブログに飛ぶ。  最新記事を食い入るように読み終えた月下部さんは一番上までスクロールすると再度目を通し、悲痛な面持ちで見守る花恋さんを押し退けるようにして家の中へと入っていった。  脱ぎ散らかされた靴が転がる。リビングのテレビだろうか、開いた玄関から微かに音声が漏れ聞こえていた。  悲鳴が上がる気配はない。そもそも月下部さんは一言も発しなかった。  呼吸すら止まっているんじゃないかと思わせるような顔で駆け込んだ月下部さんを見送った僕は、沈黙を切るようにして花恋さんと視線を交わし合った。 「あの……僕、これを渡しに来ただけなんです。お邪魔でしょうから帰ります」  渡し損ねたカードケースを差し出すと、花恋さんは頬に当てていた手で口元を押さえて言った。 「あら! 昂ちゃんったら今回は随分早いのね、捜し物が上手になったのかしら」 「…………えっと、その、まあ、そうですね」  色々説明するのが面倒だったので曖昧に頷いておいた。心底驚いた様子でカードケースを受け取った花恋さんが、ふと僕の方へと視線を向ける。 「あなた、もしかして『けーちゃん』?」 「え? えっと、はい」 「やっぱり! 昂ちゃんがしぃちゃん以外をお遣いに寄越すなんて珍しいと思ったのよ。聞いてた通りとっても可愛いわ! ちっともお邪魔じゃないから是非上がっていってちょうだい。ついでに、一緒にしぃちゃん慰めましょ」  気づいたときには、花恋さんの手は僕の手を握っていた。そのまま、断る隙も無く引っ張られるようにして招かれる。  お、お邪魔します!とたたらを踏みつつ上がり込む。案内されたリビングでは、膝の上で震える両手を組み合わせた月下部さんが、テレビの前で固まっていた。  調度品も爽やかな白で整えられていて、ファンシーで可愛らしいのに、そこだけ暗くどんよりとした空気が漂っているようだった。  テレビ画面には『最上川みほさん、芸能活動休止』とテロップが出ている。いくつかのコメントで触れたのちに切り替わってしまったので、スマートフォンを取り出して検索をかけた。  さして時間もかからずに、『メルティックハニーの最上川みほ、芸能活動休止。引退か』という見出しの記事が出てくる。それによると、みぽリンこと最上川みほさんは昨年末から体調を崩していて、芸能活動の休止を考えていたのだという。メルハニの解散後も個人で活動する予定はあったようだけれど、体調面での不安が大きく、休止を発表するに至ったらしい。  記事にはブログの引用も貼ってあった。 『いつも応援してくださりありがとうございます。  突然のお知らせですが、私、最上川みほは20XX年10月31日をもって芸能活動をお休みします。  去年の11月くらいから体調を崩すことが増えてしまい、メンバーに迷惑をかけてしまっていました。病院でも見て貰いましたが原因不明とのことで、一度きちんとお休みして、体調を整えるつもりです。  心配をかけてしまってごめんなさい! 頑張って体調を整えて、みんなに必ず元気な姿を見せに来ます。  元気に戻ってきた「最上川みほ」を、よろしくお願いします』  僕がニュースサイトの記事を読み終わった頃、花恋さんがダイニングテーブルに温かい紅茶が入ったカップを三つ置いた。  手作りだろうか。皿に盛られたクッキーが真ん中に並ぶ。 「しぃちゃん、ほら、こっち来て。お茶飲んで落ち着きましょう」  月下部さんは動かなかった。動けなかったのかもしれない。震える両手でスマートフォンを握りしめ、話題が変わったニュース番組に視線を向け続けていた。  無理もない。自分が10年応援してきたアイドルが、体調不良で芸能活動を休止したのだ。普通の卒業や引退とはショックの度合いが違う。 「か、月下部さん、きっと大丈夫ですよ……」  ぐりん、と月下部さんの首が此方を向いた。その『大丈夫』には確証があんのか、と聞いている目だった。ただでさえ恐ろしい四白眼が、此方を呪い殺さんばかりの視線を向けてくる。僕はすごすごとダイニングテーブルの方へ逃げた。  絨毯の上で体育座りまで始めた月下部さんに、花恋さんが少し困ったように言う。 「しぃちゃん、そんなに不安なら占ってみたら?」 「………………俺はみぽリンの私生活を勝手に覗くような真似はしない」  喉の奥から絞り出すような声だった。本当は今すぐにでも占って無事を確認したいのだろうけど、月下部さんは唇を噛みしめるだけでそれきり言葉を発することはなかった。  確かに、そうだよな。月下部さんのやっている『占い』ってのは誰がいつどこで何をするのか分かるみたいだし、みぽリンからしたら勝手に私生活を覗かれるようなものだ。  みぽリンは占われたことすら知らないだろうけど、ファンとして超えてはいけないラインだと考えているんだろう。  花恋さんにもその気持ちは分かるのか、小さく頷くようにして同意を口にした。 「そうね、確かに、しぃちゃんはやりたくないわよね」  うんうん、と何度か頷いた花恋さんが、テーブルの上に置いていたカードケースの留め金を外した。 「だったら私が占ってあげる」 「ハァッ!? 何考えてんだババア!! 出来もしねえこと言うな!!」 「あら~、現役じゃないからって舐めて貰っちゃ困るわ」  途端、勢いよく立ち上がった月下部さんがテーブルまで飛んでくる。カードケースをひったくろうとした月下部さんの手をぺしりと叩いた花恋さんは、クッキーのお皿を寄せながら続けた。 「丁度昂ちゃんからカードも返して貰ったし、水希ちゃんにあげる前に一回くらい使ってもいいでしょ」 「あ? ちょっと待てババア、お前それミズキに渡すつもりなのかよ。先祖代々のなんちゃらだろうが、一応」 「だって私はもう使わないし、しぃちゃんはこんなの必要ないし。それに、しぃちゃん結婚しないし子供も作らないんでしょう?」  どこか拗ねたように唇を尖らせた花恋さんの言葉に、月下部さんはバツが悪そうに視線を逃がした。可愛らしい花を模したシャンデリアを見上げ、深いため息を吐く。 「そん通りだよ、月下部家は俺が末代だ」 「だったら使ってくれる人のところに在った方が嬉しいじゃない」  ね?と笑う花恋さんの手元には、あっという間に混ぜ切り終えたカードが配置されていた。月下部さんが所在なさげに視線を逸らしている間の出来事である。  ようやく目を戻した月下部さんは、テーブルに広がったカードを見下ろすとすさまじく嫌そうに顔を歪めた。めくられるカードを見たくないのか、眉を寄せて目を閉じる。  ……というか、僕は此処に居ても良いんだろうか。あまり良くない気がするが、ここで「帰ります!」と言える度胸は僕にはなかった。  花恋さんが、半円形に置かれたカードをめくる。Cの形に近く、見ようによっては三日月のようにも見えた。カードケースの意匠が連想させたのかもしれない。  全てのカードが晒される。僕にはタロットの心得は一切無いのでさっぱりだったが、見下ろした花恋さんの顔には困惑したような、何かをごまかすような笑みが滲んでいた。  最後のカードをめくった手が、そっと口元に添えられる。 「…………えっとね、しおんちゃん。ちょっと見てくれる?」  ぽつりと呟かれた花恋さんの声に、月下部さんが眼前に手を広げつつ、閉じていた目をそっと開けた。僕がホラー映画を見るときと全く同じやり方だった。  五枚のカードを確かめた月下部さんが、隠すようにして覆っていた手を外す。テーブルの端に両手をついた月下部さんは、所在なさげに縮こまる花恋さんとは裏腹に、やや前のめりにカードを覗き込んだ。 「……みぽリン、帰ってくるつもりねえな」 「ねえ、しぃちゃん、本当に占わないの?」  どうやら悪い結果が出てしまったらしい。最後の意思を確認するように自分を見上げた花恋さんに、月下部さんは眉を寄せながら八つ当たりじみた動きでクッキーを口に放り込んだ。  ぼりぼり。クッキーと言うより煎餅じみた堅い音が響く。しばらくぼりぼりした月下部さんは、飲み込んだ後に少しだけ震える声で言った。 「だってこれ、みぽリンの意思だろ。なら俺に止める権利はねえ」 「……でも、私、みぽリンちゃんのことよく知らないし、間違いかもしれないわ」 「そりゃそうだろうけど、仮にマジだったとしてもどうしようもねえよ。一介のファンに何が出来るっつーんだ」  吐き捨てるように言った月下部さんを、花恋さんはまだ諦めきれない様子で見つめている。そこでようやく、僕が口を挟めるだけの沈黙が生まれた。 「あの、どういう結果が出たんですか? 僕、タロットとかはよく分からなくて……」 「あ゛? 櫛宮お前、逆に何なら分かるのか言ってみろよ」 「いや、特に何も分からないですけど……あっ、トランプ占いとかならやったことありますよ。あれです、自分の誕生日をバラして全部足すんです、それでトランプのカードを、こう、……なんか使うやつです」 「やっぱりお前2ギガしかねえんじゃねえの~?」 「しょうがないじゃないですか、遊んだの小学生の時ですよ! で!? どういう結果なんです!?」  月下部さんが、あからさまに馬鹿にした顔で指差してくる。僕を馬鹿にして元気が出るなら何よりですよ! さっさと教えてください!  詰め寄った僕に、月下部さんはカードの表面をなぞりながら答える。 「みぽリンは多分帰ってこねえ、それももう自分で決めてる。多分ずっと前から決めてた、っぽいな…………ただ、」 「ただ?」 「…………妙な感じがある」 「妙な感じ?」  眉を潜めて言った月下部さんは、首を傾げる僕に答えることなくカードを片付け始めた。適当に揃えたカードを、雑な仕草でしまう。  そして、ケースの留め金をかけると、それ以上の言及はせずにケースを壁際の棚へと置きに行った。花の図鑑やアルバムなどが入っているらしい小さな棚にケースを置き、静かにその場にしゃがみ込む。 「…………はあ」  項垂れた月下部さんの口から出たのは微かな溜息だった。吐息にも似た溜息に、徐々に呻き声が混じり始める。  何も声をかけることが出来ず、ただ見守るしかない僕らの前でしばし涙を堪えるように鼻を啜っていた月下部さんは、不意にぴたりと静かになると、ゆっくりと顔を上げた。 「前条ってバットで殴ったら死ぬと思う?」 「…………出来れば殺さないで貰えると……僕としては……」  絶対に殺さないでください、とは言えなかった。昨年末からの体調不良なら、きっと八月の解散ライブの時点でみぽリンは活動休止のことを考えていただろう。もしかしたら、体調面での不安が関係して解散に向かったのかもしれない。真実は僕らには分からないが、この状況ならそう思ってしまうのも無理はなかった。  そして、月下部さんが人生で一度きりの解散ライブを逃したのは、僕と前条さんの未来について占ったからである。あの場で前条さんと僕が出会う為に必要な情報を、月下部さんは占ってくれた訳だ。  もしあの日、あのまま殴られ放題で金を奪われていたら、僕は対岸町を出ていたし、二度と近づかなかったと思う。  そうならなかったのは前条さんが助けてくれたからで、前条さんが僕を助けることが出来たのは月下部さんが教えてくれたからだ。 「もうあいつしねばいいのに…………」  絨毯の上に転がった月下部さんがか細い声で呟く。弱々しいそれは、普段のドスが利いた怒鳴り声より何倍も胸に刺さる気がした。 「月下部さん。もし……その……、それで気が済むか分かんないんですけど、なんなら僕のこと殴ってくれてもいいです」 「……何言ってんのお前、脳みそバグかよ」 「いや、だって、解散ライブ行けなかったのは僕のせいでもあるというか……僕と前条さんのことを占ったせいなら僕にも半分責任があると言いますか……」  自分でも何を言っているのか分からなかったが、とにかく月下部さんの気を紛らわせたい一心だった。  大の字で転がった月下部さんが、胡乱げな目で僕を見る。何かを汲み取ろうとしているかのような視線が僕に注がれたが、数秒と経たず脱力と共に逸らされた。 「そんなんでお前殴ったら俺がクズみてーだろうが、ざけんなよ」 「…………すいません」 「『クズじゃないとは言えないな~』とか思ってんだろ、殴るぞ」  がばりと起き上がった月下部さんが、事実でも言って良いことと悪いことがあんだろ!と続ける。自覚はあるんですね……。  月下部さんは基本的に口と態度が悪いだけでそんなに悪い人ではないけれど、『友人に金を借りて返さない内にまた借りる』だとか、『友人に貸す金を他の友人から借りて返済を友人同士でさせる』だとか、『友人と飲みに行くときに財布を持っていかない』だとかをやらかす人なのだ。悪い人ではないが、良い人でもない。別に、良い人で居ようともしていないんだろうけど。 「あーもうウゼーからいいわ。オメーに慰めて貰わなくたって俺にだって慰めてくれるやつ居っから、帰れよお前」  しっしっ、と追い払うように片手を振った月下部さんは、未だ重い足取りで二階に続く階段まで行くと、上階に向かって声をかけた。 「亀ー、ちょっと来ーい」  瞬間、元気な鳴き声が響いた。  犬の鳴き声だ。外に在った立派な犬小屋を思い出した僕の耳に、フローリングを掻く四つ足の足音が聞こえてくる。  あっという間に駆け下りてきた足音の主は、千切れんばかりに尻尾を振った柴犬だった。 「おーし亀、良い子で待ってて偉いなー、遊んでやろうな」  月下部さんの周りをぐるぐると掻け回る柴犬は、跳ねるようにして足に飛びつき始めている。  突然現れた柴犬に目を白黒させていると、花恋さんが紅茶を入れ直しながら小さく笑った。 「亀治郎って言うのよ、しぃちゃんが拾ってきてからずっと一緒なの。しぃちゃんの言うことしか聞かなくてね、いつも二階のしぃちゃんの部屋に籠もっちゃうのよ」 「か、亀治郎……」  名付けは誰がしたんだろう、月下部さんだろうか。頭をなで回されて機嫌良く擦り寄っている亀治郎を眺めながらどこか遠い目になった僕に、花恋さんが笑いながら続ける。 「ほら、あの子占ってから寝るようになったでしょう? 意識が無くなるから、お店ではいつも亀治郎が後ろに控えてるのよ」 「へえ、そうなんですか」  柴犬が後ろに控えてる占い屋か。それはそれで、可愛らしくて良いかもしれない。  不安や心配を振り払うように亀治郎と遊んでいる月下部さんを見守る僕に、花恋さんは卓上のクッキーを差し出した。ご厚意を無下にするのも如何なものかと思い、一口放り込む。ぼりぼり。何だこれすごく堅い。美味しいけど。すごく堅い。 「そうだ、けーちゃん。昂ちゃんのお話ししましょうか?」  紅茶と一緒にクッキーを味わい、感想を告げて立ち去ろうとした僕は、その言葉に浮かせかけていた腰を落ち着けていた。  ――――その後、なんやかんやと話し込んでしまい、月下部さんから心底呆れた顔で「いやお前ホントに帰れよ」と言われるまで居座ってしまった。  亀治郎と遊ぶ月下部さんが羨ましくなってしまいちょっかいをかけたのだが、花恋さんの言葉通り非常に冷たくされたので心を開かせようと意地になってしまったのもある。柴犬ってあんな、スン……って大人しくなるんだな……。  慰めるつもりなら俺の話を聞け、と言われたのでみぽリンの話も聞いた。月下部さんが応援し始めた頃は本当に無名のアイドルグループで、メンバーが一度も入れ替わることなく10年やってきて、今のメルハニがあったんだとか。  みぽリンはリーダーとしてみんなを支えたり、みんなに支えられたりしているところが良いのだという。めぐめぐへの突っ込みが良い、と動画も見せてくれた。おっとりとした喋り方なのに割とえげつないことを言うめぐめぐさん?にみぽリンが突っ込むことで空気が和らいでいるのが分かった。アイドルの口から『便所虫』って出てくるのシュールすぎませんかね。  頭の回転も速いし歌もダンスも上手いみぽリンだが、球技が苦手なようでバラエティ番組のドッジボール企画では外野に渡すはずのパスがことごとく内野の敵に入っていた。避けるのが上手くていつまでも一人コートに残っているから尚更パスのポンコツ具合が目立っている。  自分が好きなものの話をするのは楽しいのか、月下部さんはいつになく饒舌にみぽリンについて語った。10年分の愛は一時間かけても留まる所を知らず、膝に乗る亀治郎の欠伸でようやく中断されたほどだ。  苦笑いと共に亀治郎の頭を撫でた月下部さんが時計を確認し、「お前いつまで居んだよ」と言い出したのが二十分前。  お土産のクッキーを渡してくれた花恋さんに見送られて家を後にし、事務所まで戻りかけてスーパーに寄るのを忘れていたと気づいたのが十分前だ。その時点で正午を回っていた。本当に、『お前いつまで居んだよ』である。

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