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Ⅱ-1:献身の話[中編]
「すいません! 今戻りました!」
自転車置き場についた辺りから降り出した雨を避けるように走り、事務所の扉を開けた僕に、前条さんは軽い調子で「おかえりー」と返した。
起きた司と暇つぶしにゲームをしていたのか、卓上にはUNOが並んでいる。二人でやるUNOってかなり詰まらなくないですか?
急いで戻って買い込んできた食材類を冷蔵庫にしまい、ポトフの用意をする。切った野菜をパックに詰めて電子レンジに任せ、切り分けたフランスパンにバターを塗って焼く。肉が食べたかったので鶏肉も焼くことにした。
『あおぐ! はなふだ しよ!』
「こいこい?」
『けちゃが おにく やいてるから おにく かけよ』
「俺二枚も要らないんだけど」
『だいじょぶだよ つかさが かつからね』
ふふん、と頭を張った司に、前条さんも同じく鼻を鳴らしながら花札を取り出す。
硬質な作りの札が掻き混ぜられる音を聞きながら、ふと花恋さんに渡したタロットカードが脳裏に浮かんだ。あのタロットカードはどうやら月下部さんの家に伝わるものらしい。それがどうして前条さんの事務所の段ボールにあったのか。人にあげるつもりで返してもらったと言っていたし、花恋さんの口ぶりからすると最悪見つからなくなってもいい、とさえ思っているようにも聞こえた。
それに、タロットカードを見た時の月下部さん顔も、少し気になった。……月下部さんは月下部さんで、色々と事情があるんだろう。人の家の事情なんて、変に詮索するもんじゃないよな。
『――あおぐ! もういっかい! もういっかい!』
「ええ~? 司が一回勝負だって言ったんじゃん」
『つかさが かったら おにく かえして』
「負けたら?」
『…………ぱん あげる』
前条さんは笑いながら札を切り始めた。鍋に浮かんだアクを取り、適当に塩こしょうする。やっぱりポトフにはウインナーだよなあ。味見をして、最後にパセリを散らして完成だ。
「決着つきました?」
「いま司がもう一回負けたとこ」
『ぽとふだけに なっちゃった……』
「別に食っても良いと思うけど。前条さんそんな食べないですよね?」
「食べないけど、一応勝負で決めたことだし。けーちゃん食べれば?」
『じゃあけちゃ! けちゃ しょうぎ しよ!』
「お前な、隠す気もなく勝てる勝負挑んでくるのやめろ」
どうしても肉が食べたかったようだ。別に頼めば二枚くらい焼いてやるっての。この野郎、と小突くと司は笑いながらソファの上を転がった。
審判の僕がドローとしたので肉もパンも平等に分配されることになった。不正判定じゃん、と笑った前条さんにも異論はないようだ。
この間、月下部さんを交えて賭け麻雀をしてからというもの、司は何かを賭けて遊びたがるようになった。地蔵がギャンブルにハマる、なんともシュールな図である。お金よりもご飯を賭けたがるので、司の中ではご飯の価値が一等高いらしい。
「そういえば……前条さん、ニュース見ました?」
「ニュース? 今日はまだ見てないけど、なんで?」
鍋敷きの上に乗った鍋から熱々のポトフをよそう前条さんが首を傾げる。
「…………実は、みぽリンが、芸能活動休止、するみたいなんですよね」
「へえー、薬でもやったの?」
言うべきか言わざるべきか、直前まで迷っていたので妙に歯切れが悪くなってしまった僕の言葉に、前条さんは首を傾げたまま言った。なんでそういう発想が一番最初に出てくるんですかね。
本気で非難する目つきになった僕の前で、前条さんは降参の意でも示すかのように両手を挙げた。
「違いますよ。体調不良なんですって。昨年末から体調が悪かったらしくて、療養の為にお休みするそうです」
「そりゃ残念だなあ、お大事に」
「…………一回、真面目に謝った方が良いと思うんですけど」
「誰に?」
「月下部さんですよ、それ以外に誰がいるって言うんですか」
「割と沢山いるけど」
本心からの言葉だったのか、素直な声音で返ってきた。
そりゃそうでしょうね、と知らず視線が遠くへ逃げてしまう。ええ、そりゃそうでしょうよ、謝らなきゃならない人は沢山居るでしょう。
遠くに飛ばした視線を戻す際に丁度隣の皿からお肉が消えているのが見え、司の口元が汚れていたので、ティッシュで拭いてやった。
「花恋さんの家に丁度月下部さんが居たんですよ。その時に活動休止のニュースが流れて、色々話を聞いてきたんですけど……あんなに一生懸命応援してきたのに、僕らのせいで解散ライブにも行けなくて、その上活動休止ですよ。あんまりじゃないですか」
「確かにあんまりだなあ、可哀想に」
薄っぺらい声で同情を表した前条さんは、それ以上何を言うでもなく一さじ掬ったポトフに口をつけた。もう彼の中では半分くらい話が終わったことになっているのを感じつつ、僕は言葉を重ねる。
「前から思ってたんですけど、前条さんちょっと月下部さんに当たり強くないですか?」
前条さんは元から誰に対しても優しい、なんてタイプの人間ではないけれど、それでも優しく出来ない人間ではない。猫を被ることだって出来るし、場を円滑に回すために柔らかい物言いをすることもある。
他人に優しくすることで生まれる益についても理解しているだろう。変な労力は使わないし、気まぐれでどうとでも態度を変える人ではあるけれど……月下部さんに関しては普段から『意図して追い詰めている』瞬間がある気がする。
でも別に悪意だけで酷い目に遭わせてやろうって感じではなくて、こう、大型獣が小動物を割と手加減なしに構うみたいな。
「だって俺まだ許してないもん」
「……何をですか?」
「別にしおんちゃんがそんなつもりで言ってないことは経緯を見れば明らかだったしそこを責めるつもりなんて少しも無いけど、それでもか弱い俺の心は些細な一言で深く傷つけられた訳だよ」
「…………ええと」
「しおんちゃんは馬鹿だからそういうつもりで言うならもっと直接的に言う。でもあいつ謙一と繋がってるから、俺からしたら謙一から言われて言ったのかしおんちゃんがそう思って言ったのかなんて分からない訳だよ、透視とかテレパシーとか無いから、俺。でもしおんちゃんはそういうの下手だってことは分かる程度にはわかりやすく馬鹿だったし、友達だって言うからやめてやったんだよ。友達は大事にするもんだからな。あいつから言ったんだぜ? 命乞いだよ。でもまあ友達だからな、良いよ、謝ってやっても」
「えーと…………アリガトウゴザイマス」
二、三どころではなく突っ込みたい所があったが、賢い僕は素直に礼だけを口にした。こういう時の前条さんに口答えをしたり、変に神経を逆撫でしてはいけない。
背中に変な汗を掻いていた。久々だな、この感覚、と口元に勝手に引きつった笑みが浮かぶ。
前条さんは基本的に僕に甘いし優しいけれど、それは前条さんがそうしたいからそうしているだけで、彼自身は甘くも優しくもないのだ。
恐らく僕は何かしろの、踏み抜いてはいけない所を踏み抜いたのだろう。
前条さんと月下部さんには五年の付き合いがある。当然、僕の知らないやりとりだって沢山あった筈で、前条さんの月下部さんの態度にも僕が思う以上の理由があるのかもしれない。
花恋さんも、月下部さんと前条さんが出会ったばかりのことは知らなかった。花恋さんが前条さんと顔を合わせたのは、前条さんが数年前にビルのオーナーと知り合って事務所を構えたあたりだそうだ。
その前から、月下部さんがげっそりした様子で帰ってくるようになったので心配はしていたらしい。ただ、当時の前条さんはその頃も花恋さんに対しては割と普通に受け答えしていたのだとか。
――ただ、そうね。昂ちゃんって、割と中身がめちゃくちゃでしょう? 多分、安定してない時は私の所には顔を出してないと思うのよね。
占い師の家系だという花恋さんにも、前条さんの異常性は何となく分かるらしい。サーカスを見たことはないから服装についての言及はないけれど、前条さんの身体異常は、サーカスとは関係が薄い。
二人の間に何があったのか、僕には分からない。今の時点では教えてくれるとも思えなかった。
深追いするのはやめておこう。謝ってくれると言ってくれただけで充分だった。
2
それから、一週間が経った。
十一月に入り、前条さんは益々事務所に籠もるようになっている。一度、炬燵を買ってみたらどうだろうかと思ったけれど、何かよく分からない違和感と嫌な予感がしたのでやめておいた。これだけの暖房器具がある部屋に炬燵がない、ということは、つまりは買わない方がいい、ということだ。
今日も今日とて、僕にとっては暑すぎる事務所で汗を拭いながら過ごす。
外から事務所に入った時は少しだけあの暖かさがありがたくなったりもするのだけど、一時間も過ごせば鬱陶しさのが勝る。日課のシャワーを浴びながら、もうここまで来たら恥を捨てて朝に一発シてしまった方がいいんじゃないか、と真剣に検討し始めていた。
風呂場の冷房機能で体を冷やしてから、事務所に戻る。
その時だった。
事務所の扉を叩く音。前条さんが返事をするのと同時か、それよりも早いくらいに、扉がゆっくりと開いた。
「…………此処、前条異能相談事務所ですか?」
帽子にマスク、黒縁の眼鏡をかけた女性が、扉から半身を出すようにして事務所を覗いていた。眼鏡の奥の瞳は、これまでに訪ねてきた依頼人の誰よりも冷静に、事務所の中を見定めるような視線を向けている。
前条さんはその視線に応えるように立ち上がると、半開きの扉を開け放して女性を出迎えた。
「ええ、そうです。霊障、怪奇現象から超能力被害まで、手広くやっております。本日はどのようなご依頼で?」
「…………呪い返しを」
「ほう、呪い返し」
何やら感心した声で呟いた前条さんが、片手で僕に指示をする。急いでお茶の用意に走る僕の視界の端で、司が本棚の二段目に戻るのが見えた。
ソファに腰掛けた女性は、差し出したお茶に軽く頭を下げて礼を言うと、名乗りも置いて、対面に座る前条さんに依頼の説明を始めた。
「私には体の弱い妹が居るんですが、どうも昨年末から体調が悪化しまして。元々体が弱く入退院を繰り返しているので、お医者様も合併症や悪化を疑われていつもより詳しい検査をしたのですが……理由が分からず。ただ、身体的な異常では無いようなんです」
「それで呪いだと? 断定した理由がおありで?」
「……無いんです、影が」
「へえ、成る程。盗られましたか」
影を盗られる。僕にはどういう状況かさっぱり分からないが、女性は前条さんの言葉に重い動作で頷いた。
冷静さを保とうとしているのか、一度、細く長い息を吐く。
「盗り返すことって出来ますか」
「取り戻す、ではなく?」
「盗り返して貰いたいんです」
「……どういう意味でおっしゃっているのか、お分かりですか?」
「殺すつもりで来た相手に容赦する必要があるんですか?」
女性の声は肌を刺すような鋭さだった。酷く冷静で、声を荒げることも無く、ただ淡々とした殺意が滲んでいる。
その殺意を向けられたわけでもない、脇に立っているだけの僕でも心臓が痛くなるような声だった。
ただ、そこでふと何かが引っかかる。僕はこの声を、どこかで聞いたことがあった。でも、どこだろう?
違和感に眉を寄せる僕を気に留めることも無く、二人の会話は進む。前条さんは女性の答えが大いにお気に召したようで、ぱん、と機嫌良く両手を合わせた。
「そうですよねえ、殺すつもりで来た相手に情けも容赦も必要ありません! 仰るとおりです」
「受けてくれるんですか」
「ええ、勿論。承りましょう! 人を呪わば穴二つと言いますしね、相手方もリスクは覚悟の上でしょうから。では依頼料なんですがうちは基本20万からで、依頼達成までに必要があれば上乗せしていきます。達成できなかった場合は依頼料はお返ししますので――」
「あ、分かった。みぽリンだ」
どこで聞いたか思い出せない声の正体が、ようやく分かった。雰囲気がかなり違うので分からなかったが、女性の声は月下部さんに見せて貰った動画のものによく似ていた。
もやもやが晴れて、どこかすっきりした思いでいた僕の口から、知らず呟きが零れる。その瞬間、室内の空気の硬度が上がった。
ぽつり、と本当に、ただの独り言だった僕の呟きを拾い上げた女性は、それまで前条さんに向けていた視線を僕へと注いでいた。
伊達眼鏡越しの冷静な瞳が僕を射貫く。そこには殺意とまでは行かずとも、明確な負の感情が乗っていた。
やばい、と口を押さえるももう遅い。僕の脇腹には前条さんの肘が入っていた。
これだけ顔隠してんだから素性を知られたくない客に決まってんだろ、の意だ。すみません。本当にすみません。僕も言ってから気づきました。本当にすみません、申し訳ない。
『ばか……』と呟く司の声がした。何一つ反論できなかった。
みぽリン――最上川みほさんと思しき女性は、青ざめる僕をしばし無言で見上げると、深い溜息を吐いて帽子を脱ぎ捨てた。
うんざりしたような仕草で頭を振り、マスクと眼鏡を外す。
「中に入っちゃえば外しても良かったんです。ただ、此処、変だから何かあったら逃げようと思って隠してただけで」
「変ですか? まあ、変でしょうね、暑いでしょうし」
「? 暑さは別に……丁度良いですけど」
一瞬、興味が引かれたように水を向けた前条さんは、首を傾げるみほさんにこっちの話です、と雑に切り上げた。
訝しげな視線を向けるみほさんは、本題に戻りたいのかそれ以上追求することも無く、ただ疲れの滲む溜息を零した。申し訳なさに身を縮こまらせる僕に、みほさんは苦笑を浮かべる。
「別に気にしないで。バレなかったら、それはそれで悲しかったかもだから」
「こ、国民的アイドルですもんねえ」
「そんなんじゃないよ」
謎の返しをしてしまって恥ずかしくなってきたので、僕は努めて空気を演じることに決めた。身を引いた僕の前で、へー、これがみぽリン、とでも言いたげに観察していた前条さんが口を開く。
「いいんですか? 国民的アイドルが呪殺なんて」
「私、同じこと二度言うのあんまり好きじゃないです」
「奇遇ですね、私もですよ」
にっこり笑った前条さんに、みほさんが眉間に皺を寄せる。
「出来れば今日にでも見て頂きたいんですけど、大丈夫ですか?」
今、妹さんは病院ではなく自宅で療養しているらしい。呪いによる症状以外は安定しているようで、『影が無い』ことに気づかれるリスクを減らしたいと無理を言って退院したのだという。
みほさんの言葉に、前条さんはいったん返事を置き、扉へと向かった。気温の確認だ。外を覗いた前条さんが、雨が降っているか確かめるような仕草で掌を伸ばし、小さく唸った。
「一時間後に伺います。住所だけお聞きしても?」
「確かに、一緒に行かない方がいいですよね」
再び変装を始めたみほさんは何やら納得した様子だったが、本当の理由を知っている僕は居たたまれない気持ちでさらに小さくなるしかなかった。
――――一時間後。僕らはみほさんに教えて貰った住所へとやってきていた。
前条さんは普段の服装に加え、最近新調したらしいイヤーマフと浅めのニット帽を被っている。寒いならもっと厚着したらどうなんです?という僕の言葉には、「また伸ばすの面倒くさいから」という意味の分からない言葉が返ってきた。
イヤーマフに刻まれた謎の凹凸から考えるに、どうやら普通の防寒着ではないようだ。
「お邪魔しまーす」
対岸町から電車で二十分ほど行った駅の近くに建つ、高層マンションの一室。
何とも気楽に、友人の家でも遊びに来たかのような軽さで上がり込んだ前条さんに、みほさんはやはり淡々とお茶を差し出した。
「あそこが千紗の部屋です。一つだけ言っておきますけど、千紗を害したり傷つけるようなことがあれば、容赦はしません」
「おや、私のことも呪殺する気ですか?」
「警察を呼びます」
「呪いより怖いですね」
けらけらと笑いながら言った前条さんとは対照的に、みほさんは至って真面目な顔だった。何かあれば本気で警察を呼ぶだろう。人気アイドルの部屋に押し入った『超常現象カウンセラー』か。ダメだ、一瞬で捕まる。「自称『超常現象カウンセラー』の……」などと言われてしまう。肝が冷えた。
紹介された以上、ある程度前条さんを信用はしているらしいが、信頼は全くなさそうだった。前条さんを相手にするなら正しい判断だと思う。
妙な緊張感を持ったまま、僕らは僕を先頭にして千紗さんの部屋に入っていった。
僕、前条さん、みほさんの順である。ここで気づいたのだが、みほさんは手にスタンガンを持っていた。信頼はゼロを通り越してマイナスのようだった。
みほさんが二十四歳、妹さんは五つ下だと言うので十九歳で僕と同い年だ。多分、僕が先頭なのは年齢が近いというのも考慮されているのかもしれない。
「こ、こんにちは。お姉さんから依頼されてきた者です」
少なくとも前条さんが話しかけるよりは穏便に済むだろう。なるべく、優しく聞こえるように声をかけた僕の前で、ベッドの上で体を起こした少女――千紗さんが弱々しい笑みを浮かべた。
窓のついた壁際に設えられた淡いブルーのベッドに、同系統のパジャマを着た千紗さんは、何度か小さく咳払いをする。
「……こんにちは、最上川千紗です。お姉ちゃんが言っていた、霊媒師……さん?ですか? ええと、よろしくお願いします」
「あ、はい。そんなようなもんです、よ、よろしくお願いします」
お互いに頭を下げ合う僕らの後ろで、前条さんが『超常現象カウンセラー』だってば、とぼやく。どうだっていいんですよそんなこと。デタラメ資格なんだから別になんだっていいじゃないですか。
「僕は助手なので、この……えーと、先生?が見てくれます。大丈夫です、実力は確かなので」
「はーい先生でーす。今から視ますからね、助手君は下がってな」
入退院を繰り返しているからだろうか。千紗さんは下手をすると十六歳くらいに見えるような、幼さのようなものを残していた。
今にも消えていなくなってしまいそうな、儚い空気。依頼時の話を思い出して、蛍光灯に照らされた彼女の影を探してみるも、シーツの上に置かれた手の影すら見当たらなかった。
「体調はどうですか。今どこか痛いとか、ある?」
ベッドの隣においてある椅子に腰掛けた前条さんが、明るい声で千紗さんに話しかける。
「えっと……今は特に……。でも、夜になると、全身が凄く……焼かれてるみたいに、熱くて」
「成る程ねえ。ちょっと触ってもいい?」
答えを聞くより早く手を取っていた気がしたが、千紗さんが頷いたのでお咎めはなしで済んだようだった。
千紗さんの、小さな白い手を裏返したり、指を曲げさせたりしながら前条さんが更に質問を投げる。
「千紗ちゃん、誰かに恨まれるような心当たりある?」
「…………ない、と思います」
「本当に?」
「私、滅多に外に出たこと無くて、病院の先生くらいしかお話しもしないので……」
「成る程ねえ。退屈になったりしない? つまんないでしょ」
隣でより当てやすいようにスタンガンが握り直された気がしたが、僕は見ないふりをした。胃が痛い。
どうか傷害事件には発展しませんように、と祈りながら、いざとなったら僕が殴ってでも止めようと決意する。無論、殴るのは前条さんである。
前条さんの言葉を聞いた千紗さんは、眉を下げて困ったように笑いながらも、首を横に振った。
「お姉ちゃんがいるから、全然。楽しいです。メルハニが解散しちゃったのは悲しいけど、お姉ちゃん、来年は映画にも出るって聞いたからすごく楽しみで」
「…………そっかあ、それは楽しみだねえ。自慢のお姉さんだ」
「はい」
千紗さんの言葉からは、『みほさんの引退』を知っている気配が全くしなかった。前条さんも正しくその気配を読み取ったのだろう、当たり障り無い物言いで会話を流し、黒手袋を外す。
「じゃあ、今からちょっと呪い持っていくので、目を閉じてくださいね。横になっても良いですよ」
「……はい」
「ゆっくり呼吸して。まあ、怖いこと無いから」
千紗さんは何一つ疑うことなく素直に頷き、ゆっくりとベッドに横になった。目を閉じた千紗さんの顔を覆うようにして前条さんの右手が被さる。
地蔵の呪いの時とは打って変わって、丁寧な仕草だった。流石に顔面を握ったりはしないか。警察は怖いもんな。
今回はこのまますんなり何事も無く終わるだろう。そう思っていた僕の耳に、小さく空気を震わせる音が届いた。
「…………ふふっ、何コレ」
前条さん、今なんか笑いました?
ごく小さな声だったので殆ど聞こえなかったが、微かに笑い声が聞こえた気がした。スタンガンのスイッチが入った気がした。僕も鞄を構える。
何か不埒な真似を働いたら殴ってでも止めよう、と意気込んでいた僕だったが、その後は沈黙が破られることはなく、一分が経った。
「千紗ちゃん、手は離すけど目は閉じてなよ」
十秒ほどかけてゆっくりと千紗さんの顔から手を離した前条さんは、千紗さんがまだ目を閉じていることを確認すると、ごく自然な動作で親指の爪を食み、――思い切り引き剥がした。
覆われていた部分が剥き出しになり、引き剥がされた際に裂けた肉から黒い液体がぽつぽつと垂れる。
親指から伝い落ち、血痕となったそれは、息を呑む僕らの目の前で、まるで虫が穴から這い出るようにしながら形を作り始めた。
ラグに染み込みかけていた黒い血が、見る間に一つに集まり、不格好なムカデじみた姿を取る。床を這いずっていたそれは、やがて行き場所を定めたのか、流れるような動きで窓の隙間から外へと這い出していき、鳥へと姿を変えて飛び立った。
沈黙が落ちた室内で、前条さんが食んでいた爪を掌に吐き出す。気づいた時には親指の血は止まっていて、指先が真っ黒に染まっているだけだった。
「ゴミ箱あります?」
「……捨てていかないでもらえると有り難いです」
みほさんの答えに、前条さんはそれもそうですね、と笑い、ほらけーちゃん、プレゼントだよ、と僕の掌にそれを押しつけた。
いらねえよ、と言い損ねたのは、単に今し方行われた行為を飲み込むのに時間がかかっていて、ぼんやりしていたからである。
呪いを剥がした後、そのまま眠ってしまった千紗さんの顔色が良くなったのを見て、みほさんはようやく僕らへの警戒を解いたようだった。
リビングに置かれたお茶の横に、軽いお茶菓子が並ぶ。ありがとうございました、と頭を下げたみほさんに、前条さんは手袋をはめ直した手を振りながら「いえいえ、これが仕事ですからね。あとお茶は温かいのをください」と図々しく言い放った。
そうして、五分ほど世間話のようなやり取りをして、帰ろうかと腰を上げたところで、前条さんが堪え切れない笑いを滲ませた声で言った。
「ところで、みほさんのやろうとしてるそれ、十中八九失敗しますよ」
大分和やかになりつつあったみほさんの表情が、その言葉で再び顔を合わせた当初のような強ばりを取り戻した。すう、と冷めた表情になったみほさんが、得体の知れないものを見るような目を前条さんに向ける。
そこに浮かぶのは、はっきりとした忌避と、畏怖だった。
「…………失敗する? どうして」
「ああいうのは双方の合意が無いと駄目なんですよ。まあ、合意なしにあそこまで同化させたのは感嘆に値すると思いますが。素晴らしい執念――いえ、姉妹愛かと」
一体何を言っているのか、さっぱり分からない。大体の出来事に分からないまま立ち会っている気がする。
なんだか微妙な気持ちになる僕の前で、前条さんの言葉の意味を理解しているらしいみほさんは棘のある声で言葉を紡いだ。
「どうして失敗って言い切れるんですか?」
「ええ? どうして失敗しないと思っているんですか?」
絞り出すような声で問い質したみほさんに、前条さんはわざとらしいまでに驚いた様子で肩をすくめて見せた。みほさんの眉間に、苛立ちから生じた皺が寄る。やめてください、警察呼ばれますよ。
前条さんは、自分を睨み上げるみほさんを楽しげに見下ろし、笑った。
「だって妹さん、アンタを殺してまで生き残りたいタイプじゃないだろ」
「…………それは」
「確実に拒絶反応が起こる、賭けても良いね。まあ、俺は別に止めないから好きにしなよ」
面白がった口調を隠しもせずに言った前条さんを、みほさんは先程までとは少し違った感情から眉を顰めて見上げる。揺れる瞳には縋るものを探すような不安が滲んでいた。
立ち尽くすみほさんを置いて、前条さんはさっさと帰り支度を始める。ちょっと、帰るんですか? どうすりゃ良いんですかこの空気。
戸惑い混じりに俯くみほさんと、軽やかな足取りで帰って行く前条さんの背を交互に見やった僕は、何が何だか分からないまま、軽くみほさんに頭を下げて前条さんを追った。
「どうすれば成功するんですか」
声がかかったのは、僕が靴を履き終えたタイミングだった。扉を開けようとしていた前条さんが、声をかけてきたみほさんを振り返る。
かつん、とブーツの踵が楽しげに地面を叩いた。唇を笑みの形に歪めた前条さんが、見せつけるようにして二本の指を立てる。
「方法は二つある。ただ、どっちが正解で、最善かは俺には分からない」
「……なんですかそれ、それじゃ、結局同じじゃないですか」
「其方から見りゃそうかもな。ただ、この二択を完璧に選ぶ方法を俺は知ってる」
それを問うように目を細めたみほさんに、前条さんはとうとう笑い出しながら告げた。
「最高の占い師を知ってるんだ、そいつにアンタを占って貰う」
百パー当たるよ、と笑う前条さんを、何とも胡散臭いものを見る目で見つめていたみほさんは、しばしの沈黙の後、一言だけ口にした。
「また連絡します」
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