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Ⅱ-1:献身の話[後編]
――――『魂の同化による精神転移』、というものらしい。
三日前、みほさんの家から帰ってきた前条さんは何一つ理解が追いつかずに思考を放棄している僕にそんな説明をしてくれた。
なんでも、今のみほさんと千紗さんは限りなく魂が同じ性質を持っている、いわば魂だけが同一人物のような状態なのだそうだ。
『クソ面倒くさい手順を踏めば誰にでも出来る』けど、『クソ面倒くさいから誰もやらない方法』だと、前条さんはやけに弾んだ口調で語った。
奇妙な生態を持つ生き物を新発見したみたいな、妙に気味の悪い喜色の滲んだ声だった。
とにかく、みほさんと千紗さんは魂だけで見れば同一人物であり、異なるのは体だけである。何故わざわざ、『クソ面倒くさいから絶対にやらない』ような方法でそんなことをしたのかといえば、答えは『精神転移』にある。
限りなく同一の魂同士ならば、魂の置換が可能なのだそうだ。Aの魂をBに移すことで、Bの魂は消滅しBの体を持ったAが生まれる。不老不死を目指した古代のなんちゃら、みたいな話をされたが、よく分からなかった。
要するに、みほさんは自分の体に千紗さんの魂を移すために、そんな面倒くさいことを行った訳だ。恐らく、体の弱い千紗さんに健康な体――――自分の体を与える為に。
だが、それを実行に移す前に妹に呪いがかかってしまった。正確には、『最上川みほ』を呪った筈の呪術が、同一の魂である『最上川千紗』に作用してしまったのだという。
前条さんは千紗さんから呪いを取り除く際に魂の同一性と、呪いの掛け違いに気づいたそうだ。こんな七面倒くさい方法を取る人間が実在しているのか、と面白くなって笑ってしまったらしい。
みほさんの公式ブログを見直す。恐らくこの体調不良というのは妹さんのことを指しているのだろう。
呪いによって引き起こされた体調不良だ、呪ってきた相手は『最上川みほ』を狙っている。これでは仮に千紗さんがみほさんの体を得たとしても、『最上川みほ』になった千紗さんが狙われてしまう。だから、みほさんは呪い返しを望んだ。
どこの誰とも知れない相手を完全に排除するにはそれが一番だったからだ。
――――元気に戻ってきた『最上川みほ』を、よろしくお願いします。
この『最上川みほ』は、きっとみほさん自身ののことではない。千紗さんが入った『最上川みほ』だ。だが、それを千紗さんが望まないだろうことは、少し考えれば分かった。
あんなに姉を慕っている妹が、姉に成り代わってまで健康な体が欲しい、などとは思わないだろう。前条さんもそのように捉えたようで、だからこそ『転移の失敗』について告げた。
前条さんから見てすら、確実に失敗するような方法だったということだ。どうして側で見てきたみほさんにそれが分からないのだろう……と思っていた僕の疑問は、今日、再び事務所を訪ねてきたみほさんの告白によって解決した。
「……本当はもう長くないんです、あの子」
無理に延命するより、自宅で家族と過ごした方が良いと判断されるほどの状態なのだと、みほさんは言った。近づく死期に気が急いたみほさんの狭まった視界には、千紗さんの気持ちも、意思も入ってこなかったのだ。
例え千紗さんに恨まれたって構わないから、これから先の人生を健やかに過ごして欲しかったのだと言う。
「治療して体調が良くなったとしても一時的なものでしょう? 仮に綺麗さっぱり身体が治ったとしても、あの子はこれまで失ってきたものを取り戻す所から始めなきゃならない。それなら、もういっそ全て変えてしまえたら、と思ったんです」
元々、アイドルも千紗さんの治療費の為に目指したのだと言う。賞金が出ると聞いて出たコンテストでスカウトされ、そこからはひたすらバイトとアイドル活動の掛け持ちだ。
働ける年齢になったら風俗に行くことも考えたようだったけれど、千紗さんがアイドル活動を喜んで応援してくれたから、続けてきたのだと言う。
みほさんの口からは、ただの一度も両親のことは出なかった。
「まあ、もしそれが出来るならその方が手っ取り早いですからね。ところで、その方法はどこで覚えたんです? 化石みたいなもんでしょう、それ」
「……布施さん、という方に」
「は? えっ、うわー、布施さんかぁ」
興味本位を隠そうともしない声で問いかけた前条さんは、みほさんの返答に、珍しく仰け反るようにして蛍光灯を仰いだ。
「何やってんだろあの人」
ぼやく声が聞こえる。布施さん。また知らない名前が出てきた。それも、前条さんが思わず天井を仰ぐような人が。昂さんが、あ、やめようか。
脳内に浮かんできたクソみたいな駄洒落を振り払おうと、『布施さん』について尋ねかけた僕は、そこで勢い良く開いた扉に反射的に口を引き結んでいた。
「前条テメェ!! 人にアポ取れとか言っといて当日急に呼びつけんじゃねえ!!」
いつぞやの再現が如く、月下部さんが事務所の扉を蹴り飛ばして入ってきた。その態度から、どうやら月下部さんが今回の件について『一切何も聞いていない』ことを、僕は静かに察した。
銜えた煙草に火を付けようと、何度もライターを鳴らす月下部さんに、前条さんは極めて薄っぺらい声で言う。
「やー、ごめんごめん。サプライズしようと思ってさあ」
「何がサプライズだふざけんなよテメェ! で、何? 俺に占って欲しいやつがいんだって? マジ金払い悪かったら断っからな、安くねえんだよ俺ァ」
「一応、所長さんにお払いする額と同額用意してきました」
「はあ? 前条と同額とかマジで――――」
勝手知ったるといった様子でずかずかと上がり込んだ月下部さんは苛立ちをぶつけるように何度か前条さんを蹴り飛ばし(当然のように避けられていた)、そこでようやく声を上げたみほさんに目を向け、存在を意識し、帽子も眼鏡もマスクもしていないみほさんを正しく認識して――――、
「ミ゛ッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!」
一瞬で壁際まで吹っ飛んだ。誰かに吹っ飛ばされた訳では無い。セルフである。セルフで、かめはめ波を食らった敵みたいな吹っ飛び方をした。
そして前条さんはそれを見て指差してげたげたと笑っていた。絶対にこうなると分かっていて、『誰を占うか』は教えずに占いの依頼だけをしたのだろう。性格が悪すぎる。
よほどツボにハマったのか、前条さんは体をくの字に追って、中々見ない方の笑い方をしていた。ひひっ、ひぇっ、ひーひっ、ぅふっ、セミ、セミみてぇ、セミの死に様、と爆笑する前条さんと、カーテンに包まって蓑虫みたいになっている月下部さんを、みほさんは真顔で見つめていた。
非常に不味い空気である。場を裂くように大きく咳払いを響かせた僕は、未だ笑い続ける前条さんの頭をしばき、カーテンの向こうに隠れる月下部さんを引きずり出しに向かった。
「前条さん! 笑ってないでちゃんと説明してください! 月下部さんが死にそうじゃないですか!」
「ええ? だ、だって、そいつがそんな、すげえ吹っ飛び方、んふっ」
「みほさんにも失礼でしょうが! すみません、みほさん! この人これでも凄い占い師なんです!」
「やめろ櫛宮……俺はゴミクズ野郎だ……何も凄くない……」
「月下部さん!?」
「金返さねえし……パチンカスだし……俺はゴミだ……窓から捨ててくれ……」
蓑虫状態の月下部さんは現実を受け止めきれないのか、過剰な自己嫌悪に襲われているようだった。いや、まあ、そうでしょうよ。10年応援しているアイドルに暴言を吐きかけましたもんね、しょうがないですよ。全部前条さんが悪いです。
「き、聞いてください。実は三日ほど前にみほさんから依頼を受けまして、話はちょっと長くなるんですけど……」
蓑虫を優しく撫でつつ、状況の説明と共に十五分くらい宥めた頃だろうか。
前条さんの笑い声も収まったあたりで、月下部さんは恐る恐ると言った様子でカーテンから体を出してきた。
あまりにきつく蓑虫していたからか、ワックスで上げた髪がぐしゃぐしゃになって降りてしまっている。泣き黒子の上を通るようにして、涙の跡が残っていた。
どこかぼんやりと、意識をどこかに置いてきたかのような様子の月下部さんは、のろのろとソファに向かいながら小さく呟いた。
「そっか……みぽリンが頑張ってた理由、妹ちゃんだったのか……そうか……そりゃ、帰ってこなくても、しょうがないよな……」
ぐすぐすと鼻を啜っていた月下部さんは涙を拭うと、大きく深呼吸をして呼吸を整え始めた。乱れてしまった髪を適当に、掻き混ぜるようにして手ぐしを通し、最後に溜息にも似た呼吸を落とす。
「事情はなんとなく分かった。みぽリンからの依頼だって言うなら、俺は無料で占わせて貰う」
「…………え、でも、そんな、受け取ってください」
「あ、いや、ほんとに、ほんとに良い。俺が勝手に、そうしたいだけだから、マジで要らねえ。もしみぽリンが払いてえっていうなら、あとでこいつに払ってくれりゃあ良い」
何事かを言いかける月下部さんに、みほさんは困惑を隠しきれない顔で、戸惑いがちに頷いた。
ソファに戻った僕の隣で前条さんが心底戦いたように呟く。うわ、しおんちゃんが金貰ってない、嘘だろ。真顔で呟かれたそれには戦慄すら滲んでいた。
どうやら前条さんは、ここに来てようやく、月下部さんの愛の重みを理解したようだった。
「おい、前条」
「何? 言っとくけど俺も払わないよ」
「いらねっつってんだろ人の話聞けや。……お前、方法は二つあるって言ってたよな? とりあえずそれ聞かせろ、どうせ碌でもねえんだろ」
「うん」
「うんじゃねえ、しばくぞ」
吐き捨てるように言った月下部さんに、前条さんは分かってて聞いたくせに、と笑う。
『方法が二つある』と告げた前条さんは、今日に至るまでその方法について話すことは無かった。口元に笑みを残した前条さんが、あの日と同じように二本の指を立てる。
「ひとつ、みぽリンが妹ちゃんを産み直す」
指を折る。
「ひとつ、みぽリンを殺して妹ちゃんに自ら魂を捧げさせる」
指を折る。
「以上です。ご質問は?」
その場の、前条さん以外の全員が、なんとも言えない嫌な顔をしていた。みほさんは前回築いた実績による信頼を吹き飛ばしたようだったし、月下部さんは顔をしかめて下まぶたを痙攣させていたし、僕は某かに救いを求めるように天井を仰いでいたし、司は壁際を向いていた。
長々と落ちた沈黙を破ったのは、月下部さんの、疲弊の滲む声音だった。
「お前、その二択の為に俺のこと呼んだってマジなの……?」
「うん」
「だから、うんじゃねえって……」
「しおんちゃんなら、どっちが『最善の結果』を生むか分かるだろ? どっちも碌でもない方法なら、どっちが最善かを選ぶ必要がある」
「……すみません、質問いいですか?」
「どうぞ?」
それまで、何かを思い出そうとするかのように眉を寄せていたみほさんが、前条さんに問いかけた。
「私が千紗を産み直す、というのはどういう方法なんですか」
「文字通りです。何のひねりも無い。まあ、ざっくり言えば妹ちゃんの魂と人格を含んだ呪い——まじないと言い換えましょうか、それをみぽリンさんにかけて、通常の手順で産まれる子供に付与するって代物です。ちなみに、子供を作ってくれる相手がいないと面白いことになります」
月下部さんが死にかけのメダカみたいな顔になったので、絶対に面白くはないことになるんだろうな、と分かった。百万かけても良いくらいだった。
「なので必然的に相手が必要になるんですがその辺大丈夫ですか? まあ、此方に決まった場合の話ですけど」
「……問題ありません、必要があるのなら探しますから」
月下部さんから微かに引きつった声が漏れた気がしたが、見られないように俯いていたので気づかないふりをしておいた。
「で、もう一つの方法はもっと単純です。要は同意が取れれば良いわけですからね、貴方の死体を見せて妹ちゃん自ら魂を捧げるように仕向けられればあとは多少無茶でもなんとかしましょう。なので必然的に死ぬ必要があるんですが、これは元より確認いりませんよね」
「……そうですね」
「それで、このどちらが最善かをこいつに占って貰います。もしかしたら貴方が死んだことを乗り越えて強く生きていくかもしれないし、産まれた後に不幸になるかもしれないし、気が狂って死ぬかもしれないし、無事に夫婦の愛の結晶として生きていくかもしれないし。どっちがいいかなんて俺には分かんないんですよ、どっちもやることは出来るけど、それによって生じる結果に責任は持てない。解決したとは言えない状態で依頼料を貰うのも気持ちが悪いんでね、しおんちゃんにお任せしようってことです」
前条さんはなんとも朗らかに、旅行の行き先でも決めるかのような声音で言って、月下部さんの肩を叩いた。月下部さんは即座にそれを叩き落とし、手櫛を通した髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、両頬を叩いた。
「…………正直、俺はみぽリンにどっちの手段も取ってほしくない。どっちも、どっちにしろ危ねえから」
気合いを入れるかのように両頬を叩いた後、溜息を落とした月下部さんの言葉を、みほさんは静かに見つめ返しながら受け止めた。
「でも、俺は……つーか、俺らは、もうずっとみぽリンが『アイドル』以外に大切なもんがあるんだって知ってた。解散の話を聞くずっと前から、『みぽリンはいつか俺らの前からいなくなるんだ』って確信があった。だから、別に、今回のことはショックだったけど、そうだよなとも思った」
「うん。私も、ジロー君たちみたいな、ずっと来てくれてる人には、バレてるだろうなって思ってた」
「だから、俺はみぽリンが自分で選んで決めたことなら構わないと…………………あの」
占ってしまえば意識を失うからか、最後のチャンスだと独り言じみた声で語っていた月下部さんが、みほさんの言葉に震えながら顔を上げた。
その顔をしっかりと見据えたみほさんが、自身に確認するように何度か頷き、口を開く。
「ジローくんだよね? 合ってる?」
恐らく、月下部さんは握手会でジローと名乗っていたんだろう。自分の名前、嫌いみたいだから。『オメーこの顔でしおんって直ったときの相手の顔見たことあるか? 俺はなるべく見たくねえ』とぼやいていたのを知っている。
みほさんは確認めいた聞き方こそしていたけれど、月下部さんが自分のファンの『ジロー君』であると確信しているようだった。みほさんの顔に、柔らかい笑みが浮かぶ。僕らには一度も見せること無かった、優しい笑顔だ。
特別ファンではない僕でも、なんだか胸がぎゅっと締め付けられるような笑顔。
その笑顔を真正面から受け止めた月下部さんはといえば、
「………………」
感極まって、完全に硬直していた。
石像みたいになっていた。
今なら司をぶつけても跳ね返るかも知れない。前条さんもそう思ったのか司を取りに立ち上がろうとした辺りで、月下部さんの再起動が終わった。
「……みぽリン」
「うん」
「俺、みぽリンがやってることは、すげー、エゴだと思う」
「うん、私もそう思う」
「でも俺、みぽリンのエゴが好きだったんだよ。上手いこと隠して、隠しきれなくて、それでも俺らの前で輝いてくれるみぽリンが好きなんだよな。大体、エゴのない献身なんざ、気色悪くてダメだし、俺」
月下部さんは、みほさんと会話しているというより、自身の胸の内を吐露しているようだった。
「俺は、占うだけだ。結果がどう転ぶかは範疇外で、未来を選ぶ力はない。けど、どんな結果が出ても……俺にとって嫌な結果が出ても正直に伝える。みぽリンに誓って」
「ありがとう。お願いします」
月下部さんの目には、いつになく真剣な光が宿っていた。再度深呼吸した月下部さんが、丁度立ち上がっている前条さんに「コップに水」と呼びかける。
前条さんも分かっているのか、特に逆らうこともなく素直にキッチンへと向かった。
「ジョッキでいい?」
「お前マジはっ倒すぞいい加減にしろ」
「たまにビールでもやってくれんじゃん」
「水はビールじゃねえ」
「まあ、確かに」
戻ってきた前条さんは、普段滅多に出さない切り子細工のグラスと水のペットボトルを持っていた。
一体何が始まるのか。やはりというか、おきまりのように分からないまま見守るしかない僕の目の前で、グラスに水が注がれる。
占いと言うから、花恋さんがやっていたようにタロットカードだとか、そういう道具だとか使うもんだとばかり思っていたのだけれど、コップと水って。事務所にあるものでも大丈夫なんだろうか。
沈黙が落ちた事務所内で、深い青色のグラスに注がれた水を、月下部さんが静かに見下ろす。
広げた両手で緩くグラスを覆うようにした月下部さんは、ゆっくりと、注がれた水に息を吹きかけた――――途端、事務所内の気温が一気に下がった。
冷えた湖に浸かっているような感覚。明らかな異常に狼狽える僕の視界に、グラスの水面が映る。透明だったはずの水は、今や夜を溶かしたような色に変わっている。
その中心に、月が浮かんでいた。
暗く、深い水面に、小さな月が穴を開けている。
みほさんも異常を肌で感じているのか、僅かに戸惑った様子で組んだ両手に力を込めていた。ぎゅう、と握りしめられた両手が、微かに震えている。
張り詰めた空気。何か、只事ではない事象が起きているのだと、本能が言っていた。
そんな中に、場違いな舌足らずの声が響く。
『わっぷ わっぷ おぼれるるる』
「ちょ、お前、し、静かにしろ」
司だった。
気づけば、僕の膝の上に司が乗っていた。おぼれる、と焦った様子で僕にすがりつく司を支えてやる。そのまま引き寄せてな、と前条さんが囁くので、僕は何が何だか分からないまま、慌てる司を抱きしめておいた。
やがて、月下部さんは揺れる水面を掬い上げるようにグラスを持つと、その中身を一気に飲み干した。
その瞬間、一瞬だけ、肺が水に押しつぶされるような錯覚に襲われる。溺れる、と言った司の気持ちが分かった。
空になったグラスが、硬質な音を立ててローテーブルに置かれる。たまにあれビールでもやってくれんだよ、などと後ろで前条さんがうるさかったが、息苦しさで相手をしているどころではなかった。
「前条」
「うん、何?」
「一つ目の方だ。来年1月16日に『目黒真臣』と入籍、まじないは2月4日にかけろ、それまで妹ちゃん生きてるから、産まれた妹ちゃんは半分くらい記憶がある、みぽリンが……妹ちゃんの成人式で笑ってる」
「へえ、良かったね」
ぐす、と鼻を啜った月下部さんに、前条さんはなんとも軽い調子で相槌を打つ。それと同時に月下部さんの体が大きく傾いだ。
僕の方に倒れかけた月下部さんの体を、ソファの後ろから前条さんが逆側へと引っ張り倒す。
倒れ込んだ月下部さんは寝入る直前の朧気な声で、「よかったな」と、心の底から安堵したように零して、電池が切れるみたいに意識を失った。
微かな寝息を立てる月下部さんを見下ろしながら、前条さんが言う。
「さて、最強占い師のお墨付きも貰ったので2月4日にまたお越しください」
「……よろしくお願いします。ジローくんにも、お礼、伝えておいてください」
頭を下げ、二回分の依頼料を置いて事務所を後にしたみぽリンの背を見送った前条さんは、そこでソファに寝転んだままの月下部さんを見下ろして大げさな溜息を吐いた。
「さて、けーちゃん。これ一緒に運んでくれる?」
「え? ど、どこにですか?」
「しおんちゃんちだよ、此処に置いておきたくないだろ?」
「だったら事務所でやらせなきゃいいじゃないですか……」
至極まっとうなことを言った僕に、前条さんはわざとらしく今気づいたとでも言うような仕草で答えた。
サプライズでみぽリンに会わせるなら事務所の方が都合が良かったとか、多分そんな理由だ。呆れと疲れから溜息を零した僕の膝で、司は『ぷはっ』と息継ぎのような声を零した。さっき突っ込み忘れたけど、お前息してんのかよ。してないだろ地蔵なんだから。
『おぼれそ だった あぶない』
「……お前呼吸どこでしてるんだよ」
『はなとくち』
だから、鼻と口はどこにあるんだよ。探るように撫で回す僕の手の中で、司が擽ったそうに笑う。結局見つからずにやめたところで、笑い疲れた司がしみじみと呟いた。
『かすかべ ふかいね』
「そう、しおんちゃん深いんだよ。なのに俺のこと化け物呼ばわりすんだぜ? 嫌になるよな」
『なんで かえってくるの? こわい』
「さあ?」
首を傾げた前条さんが、力の抜けた月下部さんの体を起こし、肩を貸すようにして立たせる。そのまま引きずるようにして運び始めるので、僕も慌てて後を追った。
司は『つかれた るすばん』と言うのでソファに置いておいた。身長差故にあんまり役に立っている気はしないが、僕も逆隣から月下部さんを支える。
階段を降りながら、やっぱりエレベーターつけた方がいいんじゃないかと真剣に思った。エレベーターってどうやってつけるもんなんだろう。よく分からない。よく分からないことだらけだ。今回の依頼なんて、特にそうだった。
「……なんでみんな僕に説明なしに話を進めるんですかねえ」
「けーちゃん以外は大体分かってるから、わざわざ説明すんのが面倒なんだよな。けーちゃんだって七並べやっててルール知らないやつが一人しかいなかったら『とりあえずやってみれば分かるから!』って言うだろ?」
「とりあえずやってみちゃったら不味い感じのことばかりあるから問題なんですよ……」
「そんときは俺が守ってやるから、安心しとけよ」
笑いながら告げた前条さんと一緒に、月下部さんを見慣れない白のミニバンに運び込む。流石に今回はボロボロの軽トラックではないらしい。端から見たら完全に何かしらの犯罪じみていたので、つい不安になって辺りを見回してしまった。
良かった、誰も居ない。胸を撫で下ろしてから、完全に犯罪者の思考だったことに悲しみを覚える。違うんですよ、と誰に言うでもなく言い訳しながら、僕はこそこそと車に乗り込んだ。
前条さんが運転席に座り、僕と月下部さんが後部座席に乗ることになった。助手席には、何故が木彫りの人形が置いてあったので。何故か人形の両目から血が垂れていたので。
自転車でも行ける距離だ。車では然程時間もかからない。花恋さんの家を通り過ぎ、ギリギリ通れそうな小さな路地をいくつか曲がる。
そうして道を進み、三階建てのアパートが見えてきた頃、それは起こった。
「————2月10日」
突如、僕の隣で月下部さんが呟いた。反射的に月下部さんを振り返るも、意識が戻ったようには見えない。
車内の温度が下がるのが分かった。見つめる僕の前で、月下部さんの口がゆっくりと動く。
「2月10日」
「……え、っと、」
「けーちゃん、会話すんなよ。寿命縮むからな」
「えっ、えっ、誰のですか」
「しおんちゃんのだよ。知らない? 寝言に返事すると寿命縮むんだぜ」
それは僕も聞いたことがある。迷信の一つでしょう? 睡眠の邪魔をすると脳にダメージが行く、みたいな。
ただ、この場合は迷信でないのだろうな、とは感じ取った。未来を当てる占い師の寝言だ。
嫌な音を立てて鼓動を速める心臓を抑えながら月下部さんの言葉の続きを待った。
2月10日に、何が起こると言うのだろう。見守る僕の前で、月下部さんは小さく、だがはっきりと呟いた。
「……前条か布施が死ぬ」
「それって回避できんの?」
「ちょっ、ぜ、前条さん!」
今しがた会話をするなと言ったばかりの人が真っ先に問いを投げていた。途端、月下部さんが咳き込む。鮮血が散った。
ま、待ってください。血が! 血が出てますよこれ!!
慌ててカバンから取り出したハンカチで拭おうとした僕は、そこでゆらゆらと伸びる指先に差されて、動きを止めた。
「連れてけ」
それだけ言うと、月下部さんは、がくん、と首を落とした。言葉を発していた間は微かに体に力が入っていたように思うが、今度こそ完全に脱力している。
連れてけ、と口にした月下部さんは僕を指差していた。連れてけって、僕をですか? ……どこに?
ハンカチを構えたまま困惑し続ける僕がようやく月下部さんの口元を拭った頃、前条さんはとあるアパートの前で車を停め、微かに困ったように頭を掻いた。
「けーちゃんも死ぬのか聞けば良かったな」
「いや、え、その、えっと、これ、なんなんです?」
「ん? ああ、占いだよ。このタイミングで出たってことは、回避しようはあるけど今のところ確定した未来だな。しょーがない……2月10日、どこに行くか知らないけどついてきてね、けーちゃん」
「そ、そりゃ……ついてはいきますけど」
死ぬ、などと言う結果が出たのだから、それを僕の存在で回避できるのなら幾らでもついて行く。当たり前だ。
だがしかし、幾ら自分を鼓舞しようと、前条さんが死ぬかもしれないところについていかなきゃならないのかと思うと、今から恐ろしい気分だった。
その後、前条さんは月下部さんの部屋の鍵を当然のように開け(雑に一纏めにした大量の鍵がポケットから出てきた。多分僕の部屋の鍵もある)、敷きっぱなしの布団の上に月下部さんを転がした。
掛け布団を掛けながら、「しおんちゃん、いつもごめんね」と呟いていたので、「それは謝ったのにカウントしませんよ」と釘を刺しておく。
不満げな顔で振り返った前条さんが、依頼料の半額をテーブルの上に置きながら、拗ねたようにぼやいた。
「今度謝るよ」
「その今度っていつ来ます?」
僕の言葉に、前条さんはなんとも意地の悪い顔で、「俺が死ななかったらな」と笑った。
少なくとも、今年中は謝るつもりはないらしい。
了
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