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Ⅱ-2:学校の話[前編]

 クリスマスの一週間前、前条さんに指輪を買った。  本当はクリスマスプレゼントとして贈りたかったのだけれど、こそこそ隠れて用意をしていたら変なバレ方をしてしまったのだ。やっぱりプレゼントで隠し事をするのは良くない。でもプレゼント程度であんな追い詰め方するのはやり過ぎなんじゃ……いや、この話はもうやめよう。  大事なのは今日のことだ。十二月二十四日。クリスマスイブ、僕の予定には事務所でのクリスマスパーティが入っていた。「クリスマスって何するの?」なんて前条さんが言うので。  前条さんにとってはクリスマスは普通の平日、あるいは休日と何ら変わりない。冬場だからかそもそも外にも出ない。  妙にぞんざいな扱いこそ受けていたが、僕だってクリスマスを家族と過ごしていた。クリスマスを一人で過ごすのは寂しい、と思ってしまうのは植え付けられた価値観での感覚なのだろうけど、楽しいことをする日なら、楽しく過ごすのが一番だろうと思ってしまうのも本心だ。  僕は前条さんに楽しく過ごして貰いたい。これからずっと、幸せでいてほしい。  ……まあ、僕を虐げて楽しむのは程々にしてもらいたいんだけど。特に夜寝る前に怖い話をしてくるのも本当に嫌です、やめてください。  この間なんて酷かった。二十歳になるまで覚えていたら死んでしまう言葉だか何だかを教えてきやがったのだ。別に、他の誰から聞いてもふ~ん怖いね、で済ますけど前条さんからは聞きたくなかった。その後の慰め方だって酷かったし。 「大丈夫だろ、けーちゃん物覚え悪いから」  そうですね。その通りです。事実ですよ。でもそんな慰め方あります? 言っときますけどこの前のバイト先では結構覚えが良いって褒められたんですからね、などと反論しかけ、一見機嫌良く微笑む前条さんを前に口を噤む羽目になった。  ま、まあ、良いんだ。楽しくなかったことは早々に忘れるに限る。楽しかったことを考えよう。楽しいことを考えよう。なんたってこれからパーティである。  奮い立たせるかのように鼻歌を零しつつ事務所の扉を開けた僕は、その瞬間に後ろに一歩身を引くこととなった。  なんか居る。  いや、分かる。この『なんか』が、司であるということは分かる。だって僕に似た地蔵の首が乗ってるし。僕に似た地蔵の首が、なんか、犬の胴体の出来損ないみたいな粘土の塊に乗ってるし。何コレ。なんなんだコレは。  小学校の頃に使った油粘土みたいな、ライトブルーのぐにゃぐにゃの塊が、司の下で四足の胴体を持つ生き物かのような動きをしている。 「お、お前、なに、何それ」 『……あおぐが くれた』 「なんで断らなかった!?」  完全に引き気味の顔で見下ろす僕に、司は若干の涙声で答えた。  うねうねとウミウシが犬の真似をするかのような動きで近寄ってくる司を、反射的に避けてしまう。飛び退くように足で跨いだ僕に、司はとうとう泣き出した。と言っても、地蔵は涙を零さないので声から推察しただけだが。 『あおぐが! あおぐが くりすますだから ほしいもの あったら くれるって だから……からだ……からだほしいって つかさは つかさは…………』 「たとえ地球上に前条さんしかいなかったとしてもあの人にだけは頼んじゃ駄目だろ、それ……」 『つくるって おもわなかた』 「作るよ! そういう人だろ!」  そもそも「体が欲しい」ってお願いはどうやったら叶えられるものなんだろう。SFとかなら培養だろうな。でも此処はSFの世界じゃないし。ぐねぐねと動き回る司から逃げつつ、僕は空想による現実逃避に走った。文字通り、思考も体も現実から逃げていた。  ところで、元凶である前条さんはどこに居るんだ? 司以外に誰かが存在する気配がない。僕がケーキを受け取りに行って戻ってくるまでにどこかに出かけたのだろうか? 『けちゃ……とって……』 「そ、それ、取って平気なのか?」 『わかんない』 「分かんない物にはちょっと触りたくない……」 『わかる でもとって』 「…………しょうがないなあ」  僕を追いかけるのをやめ、めそめそと泣き始めた司が可哀想になって足を止める。先に冷蔵庫にケーキをしまい、ソファで大人しく待つ司の隣に座った。どういう形を取ったら良いのか分からない、とでも言うように次々と形を変える四肢を、恐る恐る手に取る。うわ、生暖かい。うわ。うわ……。 『うわ……』  多分、僕と同じような感想を抱いたのか、司も涙混じりの声を零した。  二人して「うわ、うわわ……」と言いながら、頭部の底面に張り付いた『体』を引き剥がしにかかる。特に痛みは無いようで、引き剥がす際も司は精神的な辛さですすり泣くだけだった。  司はひどく打ちのめされているようで、体が剥がれた後はしばらくの間ぼんやりと力なく宙を見つめていた。そりゃ、自分の望まぬ体を無理矢理くっつけられたらそうもなるか。  卓上でぐねぐねと動き続ける粘土の塊を、二人して身を守り合うように寄り添いながら注視する。  急に襲いかかってきたらどうしよう、と怯えから視線を外せないまま五分が経過した頃、事務所の扉が開いた。 「ただいまー。お、けーちゃん戻ったか。今ね、しおんちゃんが起きたって聞いたからクリスマスプレゼント渡しに行ってきたんだよ。そしたらあいつさ――」 「前条さん、何ですかコレ」 「ん? コレって?」 「コレですよコレ! この変な、なんか、何? なんかですよ!」  少し拗ねたように唇を尖らせる前条さんが何事かを言いかけたが、構うことなく卓上の謎生物について言及した。何が何だかさっぱり分からないので言及と呼べるほど言及できていた気はしなかった。  僕が指差した先を、前条さんが首を傾げながら視線で追う。卓上で未だのたうち回る粘土の塊を見やった前条さんは、ああ、と声を漏らしつつ手を打った。 「司が体欲しいって言うからあげたやつ」 「それはもう知ってます。なんでこんなことしたのかって聞いてんですよ」 「え? だから、体欲しいって言うから」  ああ、これは、珍しく百パーセント善意で行われたんだな、と察した。察したので、質問の仕方を変えた。 「…………もっと良い体用意できなかったんですか?」  こんな変な動きの気持ち悪いやつじゃなくて。まるで苦しんでいるかのような動きで這い回る粘土を見ていられず目を逸らした僕に、前条さんが紙袋を置きながらローテーブルへと歩み寄る。  黒手袋が粘土を拾い上げ、腕に抱え込んだそれの頭――頭?をゆっくりと撫で始めた。 「充分良い体だろ? 自分の思うように動くし、少し頑張れば好きなように変えられるし」 「司は嫌だったみたいですけど。ていうか、僕もあんまり見たくないです、あの光景。完全に人面犬の類いじゃないですか」 「ええー、可愛いのに」  どこがだよ。僕はあれが夜道で追ってきたら泣きながら逃げるぞ。  前条さんは同意を得られなかったのが不満なのか幾度か首を傾げつつも、反論すら出来ない司の憔悴した姿を見て哀れに思ったのか、それ以上何も言うことなく粘土を備品庫にしまいに向かった。お前の部屋は此処にしような、と語りかける声が漏れ聞こえてくる。僕は、備品庫には絶対入らないぞ、と改めて決意した。 「――――ところでお前、体なんて手に入れてどうするんだ?」  気を取り直してパーティの用意をする中、ふと気になって問いかける。幾分元気を取り戻した司は、フルーツポンチのボウルを見上げながら左右に小さく転がっていた。 『あそぶ! たくさん!』 「……今だって遊び放題だろ」 『てにす したい』 「テニス……」 『あと ばどみんとん』 「バドミントン……」  成る程、体が欲しいというよりスポーツがしたかったのか。……スポーツがしたかったのか。受け止めきれずに再確認してしまった僕の前で、司は機嫌良くぽすんぽすんと跳ねる。  ラケットを使う競技がしたいということだろうか。毎度思うけどそういうのどこで覚えてくるんだ、こいつ。 『ばどみんとん たのしそ けちゃ やったこと ある?』 「まあ、あるけど」 『たのしい?』 「…………上手い人は楽しいんじゃないか?」  僕は下手なので楽しくない。ネットを挟んだ競技はラリーが続かないと詰まらないからな。  返答から色々と察したのか、司はそれ以上聞いてこようとはしなかった。ちょっと気遣ってんじゃねえよ。それはそれで辛くなっちゃうだろ。 『あおぐは? ばどみんとん やったこと ある?』 「バドミントンって何だっけ」 『どうが みると いいよ! どうが! ながそ!』  ぽすんぽすんと跳ねた司が前条さんの膝の上に乗る。携帯を開いた前条さんが検索をかけ、出てきた動画を流し始めた。司が大喜びで画面にかぶりつく。  途中、何度か「見えない」と押し退けられつつも楽しげに笑った司の頭を撫でながら、前条さんが携帯を閉じる。 「成る程ねえ、司はこういうのがやりたかったのか」 『やりたい!』 「流石にここまで機敏に動ける体ってのは無理そうだなあ。ま、いつか思いついたら作ってやってもいいけど」 『ほんと? ばどみんとん できる?』 「一番良いのはけーちゃんの体を借りてみるとか? 一応、身代わりの契約は継続中だしな。ただそうなると俺の方の都合もあるから面倒なことになるかもしれないし」 「なんです? また僕の体によいしょってする話してます?」  嫌な予感がしてチキンを手にテーブルへと向かう。体ってのは貸し借りするもんじゃないんですよ、分かってます?  じっ、と何かを期待するように見上げてくる司の頭を軽く叩く。ばどみんとん……と名残惜しそうに呟いた司は、それでも温め直したチキンを見ると食欲に惹かれたらしく素直に食卓についた。 「大体、僕の体使ってまともにバドミントン出来る訳ないでしょうが」 「……けーちゃん、それ自分で言ってて悲しくなんない?」 「凄く悲しいです。なんでクリスマスにこんな思いをしなきゃならないんですか、もうこの話おしまいにしましょう」 『けちゃ……つかさの いちご たべてもいいよ……』 「過剰に同情するのもやめろ。もっと悲しくなっちゃうだろ!」  その後、チキンもケーキの苺もフルーツポンチもローストビーフもピザも等分に分け、食べ切って落ち着く頃には時計の針は十時を回っていた。  眠気からか反応が鈍くなった司が就寝を申告するので本棚に戻してやる。寝入ってからしばらく、もうまんぷく……と呻いていたが、やがてすっと静かになった。そうしていると本当にただの石像の置物にしか見えない。僕の首に似た置物だ。かなり悪趣味な光景であまりお客さんの目には入れたくないので、最近本棚の段にカーテンがついた。押し入れに住む猫型ロボット的な趣がある。  ふと振り返ると、前条さんが手袋を外しているのが見えた。  手の甲を目の前に掲げるようにして持ち上げ、眺める前条さんの左手の薬指には、真新しい指輪が嵌められている。  短期間のバイトでは貯金を合わせてもさほど高いものは購入できなかったが、それでも僕が彼に似合うものをと悩んで買った指輪だ。タンタルのブラックリングは随分とお気に召したようで、度々ああして手袋を外しては満足そうに眺めている。  『結婚』の約束をした割りに指輪の話はとんと出なかったから、てっきりそういう装飾品には興味がないのかと思っていたが、喜んでくれたなら何よりだ。  指輪を眺めながら嬉しそうに目を細める前条さんの手を、同じ指輪が嵌まった手でそっと握る。後ろから寄りかかるように頬を寄せると、楽しげな笑い声が響いた。 「司、寝た?」 「今寝ましたよ」 「けーちゃんも寝る?」 「馬鹿言わないで下さい」  本日、事務所内の室温は常より二十度は低く設定されている。理由は単純、午前中にホテルに呼び出しを食らったからだ。一応、そこで散々したのだけれど、折角のクリスマスだ。許されるならもう一度したい。  口づければ、僕の思いなどお見通しなのか合わせた唇の端から笑い声が漏れ聞こえた。それを飲み込むように深くすれば、幾分熱の移った舌が僕に応える。  お昼にしてるし、今日は脱がせてさせてくれないかなあ、などと思いながら前条さんのマフラーを解きかけた――その時、チャットアプリの着信音が響いた。 「……………………」 「……………………」  前もこんなことあったな。最初に浮かんだ感想がそれだった。  無視しちまえよ、と前髪の隙間から覗く前条さんの目が言っている。僕だって無視したいけれど、急用だったら困る。勝手にポケットから抜き出そうとしてくる手を払いつつ画面を確かめた。  画面に表示された名前は、『理沙』……理沙? なんでこんな時に。もしかして家でクリスマスパーティやってるから来ないかとか? クリスマス一人で過ごしてる寂しいやつだと思われてるんだろうか。思われてそうだな。  そう思って、一旦切れるまで待ってしまった悪い兄だったのだが、トーク画面に幾つかのメッセージが飛んできていたことに気づいて、罪悪感と共にかけ直すことになった。 【お兄ちゃん 今電話していい?】 【忙しいなら今度でもいいよ】 【ごめん】 【やっぱり今でもいい? 相談したいことがあるの】 【かけるね】  スマートフォンを耳に当てる僕に、前条さんが詰まらないものを見る目を向けてくる。いや、そりゃ、僕も中断したくないですよ。でも流石にこれはちょっとただごとじゃない気がすると言いますか。  ソファの背を乗り越えさせるように引っ張ってくる前条さんの手に従い、倒れ込むようにして彼の上に乗る。僕の下に寝転び、ベルトを外そうとしてくる前条さんの手と格闘中、電話が繋がった。 『もしもし? お兄ちゃん?』 「理沙? どうした、なんか相談事って」 『うん……、あのね、お兄ちゃんが学校行ってた頃って……七不思議とかあった?』 「はあ?」  七不思議? 何かと思えば、小学校の七不思議の相談? なんだってこのタイミングでそんなことを、と思いはしたが、いつも明るい理沙の声が幾分沈んでいるものだから、何か必要なことなのだろうと記憶を辿った。  小学校の頃の記憶なんて曖昧だ。勉強はあまり得意ではなかったし、体育も好きではなかった――いや、体を動かすのは嫌いじゃない。ただ、身体的な優劣を比較されるのがあまり好きではなかったというか。  あと、考えなしなタイプの馬鹿だったので小学校にあまり良い思い出がない。スイカの皮を食べまくって吐いた記憶しかない。そんなことを思い出してる場合じゃない。  七不思議。学校の怪談と言えば定番だろう。  僕の母校であり、現在理沙が通う有井山小学校にも、あると言えばあった。 「えーと、『校庭の異界タイヤ』とか、『家庭科室のタダレちゃん』とか……あとなんだっけ、『プールのおいでおいでさん』とか?」 『…………図書室は?』 「図書室? なんかあったかな、ちょっと待って、ちょっと、」  いつの間にかベルトを引き抜いていた前条さんの手を掴んで止める。伸ばした指の先が下着の上からなぞるように軽く布地を掻いてくる。おい馬鹿、やめろ。やめてください。流石に妹と電話中にヤる趣味はないんですよ!  終わったら相手しますから、と宥めるように指を絡めて手を握る。渋々といった様子で握り返され、僕はあっちこっちに飛ぶ思考をかき集めて再度記憶を辿った。  図書室の怪談。なんだっけ、あったような、なかったような。図書館で何かをしてはいけない。なんだっけ?  あっ、そうだ、『図書室の怪談』そのものだ。  “有井山小学校の図書室で、怪談話をしてはいけない。” 「あったあった! 『図書室の怪談』だろ? 図書室で怪談を話しちゃ駄目なんだよな、確か」 『…………それって、話すとどうなっちゃうの?』 「どうって……僕話したことないしなあ」  怖い物が駄目だったので、そういう『駄目なこと』は絶対に守るようにしていた。プールにも勝手に入ったりしなかったし、校庭の半円タイヤにも首を突っ込んだりしなかったし、家庭科室で火を使うときは人一倍気をつけた。今思えば、七不思議は『校内の危ないところに近づいたり、危ない使い方をしないように』という注意が込められた物ばかりだった。  子供に危ないことをさせないようにするには、ただの注意よりも効果があるとも言える。  ただ、そう考えると『図書室の怪談』は妙だった。  怪談として語られるのは『図書室で怪談を話してはならない』という一節だけで、それ以上もそれ以下もなかった。だから、七不思議の中では一番怖く無くて、存在感が薄かった。  それに、怖い物知らずの子たちが何度か試しているのも見たことがある。僕は怖くてそういう場面に出くわすとすぐに逃げ出していたが、その子たちが何か酷い目にあった、という話も聞いたことがなかった。  七不思議の中で言うなら、補欠で入ったみたいな感じだ。もはやおまけに近い。 「一応、話してるところを見たことはあるよ。ただ、『話すとどうなるか』ってのは聞いたことないし、話してどうにかなっちゃったやつも見たことない」 『…………そっか、ありがと』 「……急にどうした? 七不思議なんて、妙なこと聞いて」  理沙は、しばらくの間答えなかった。何かを言おうとして言葉に詰まり、息を呑む音が微かに聞こえる。それは泣き出す前の喉の震えに少し似ていた。  黙り込んだままの理沙は一度だけ鼻を啜って、先程よりははっきりとした声で言った。 『お兄ちゃんが帰ってきたときに話す。だから、絶対帰ってきてね』  縋るような声に了承を返すと、理沙は少しだけ安堵した声で『こんな時間にごめんね』と言って電話を切った。  何が何だかさっぱり分からないが、最近は分からないことにも慣れてきてしまったので、とりあえず疑問は先送りにしようと決め、実家に帰る予定だけを確認しておいた。物事には、理解するべきタイミングというのがあるのだ、多分。 「妹ちゃん、なんだって?」 「なんか、七不思議がどうこうって聞かれたんですけど……結局よく分かりませんでした」 「ふうん? 七不思議ねえ……」  興味を引かれた様子で呟く前条さんの手が、今度こそ僕の下着に指をかける。だが、電話の件で気持ちの切り替えが追いつかない僕の体は、しばらく冷えた指に遊ばれ続けるも今ひとつ反応が鈍かった。  咎めるような視線が飛んでくる。いや、でも、仕方ないでしょ。いつになく元気がなかった妹の心配をしつつ性行為に及ぶとか、僕のメンタルじゃちょっと難しいんですよ。  本当、あいつ、何があったのかな。僕に電話をかけるくらいならもっと他に友達とか上級生とかに連絡取ってそうなもんだけど。  妹は要領も良いし人好きもするから交友関係はかなり広い。わざわざ僕に聞かなくたって七不思議の情報くらいすぐに集まるだろう。妙に不安げな口ぶりから察するに、情報収集というよりは気晴らしや不安の解消的な面が多いんじゃないだろうか。だがそれも母さんに相談するのが先だと――、 「けーちゃん、いい加減こっち集中して」 「あ、す、すいません。つい……」 「ったく、折角けーちゃんの為にえっちな下着つけてきたのに無駄になっちまうだろ」  溜息混じりに告げられた台詞に、僕の脳内は全ての思考の放棄した。少しくつろげられたコートの合わせの隙間を覗く。  黒いデニムが透けて見えないかな、みたいな期待を込めて視線を注ぐ僕に、前条さんは笑いながらゆっくりとベルトを外した。  その後のことは、正直よく覚えていない。    2  大晦日、僕は久々に実家を訪れていた。 「へー、此処がけーちゃん家かあ」  ――――どういう訳か、前条さんを連れて。  クリスマスの朝、僕から『七不思議』の話を聞いた前条さんは、大晦日に帰省する僕に着いてくると言い出した。  どうも『仕事』の気配がするらしい。確かに七不思議なんてオカルトのど真ん中も良いところだけれど、考えすぎじゃないだろうか。  そう思いはしたものの、『前条さんを実家に連れて行く』という行為自体には不安こそあれど抵抗はなかったので素直に承諾した。僕も謙一さんの家に行ったのだから、前条さんが僕の実家に来たがってもおかしくはない。  謙一さんは元気にしているだろうか。統二の件が終わって、無事に済んだと連絡を入れようとした時には前条さんに止められたので、あれ以来僕は謙一さんと話をしていない。別に僕から連絡を入れても良いのかも知れないが、謙一さんと話したと伝えたときの前条さんの顔を見てから、その気は一切失せていた。  あんな、能面みたいな顔をした前条さんは出来れば二度と見たくない。思い出してまた震えてしまった体を摩りつつ、僕は門を開けて玄関へと向かった。    鍵を差し回し、扉を開ける前に、最終確認を取る。 「……あんまり変なことしないでくださいよ」 「変なことって?」 「無駄に人を煽らないでくださいってことです」  愛想良くしてくれと言うつもりはない。というより、今の時点で既に愛想は充分に良いのだ。  普段着ている黒いコートもマフラーも無く、掻き分けられた前髪から覗く顔は澄ましていればその容貌だけで存在に清廉な空気すら生まれる。  真っ昼間から清廉とは対極にあるような行為に耽っておいて、穢れなどまるで知りません、などという顔が出来るのはある種の才能だと思う。数時間前までこの顔が僕のアレを咥えていたなんて、咥えさせていた僕ですら信じられないくらいだった。 「けーちゃん、今なんかえっちなこと考えてない?」 「気のせいです!」  あるいは気の迷いです。どうして僕には被れる猫が前条さんの百分の一も無いのか。一匹くらい寄越して欲しい。もしくは面の皮を一枚くらい寄越して欲しい。  脳内に浮かんだやましい映像を振り払いつつ、僕は玄関扉を開けた。 「――――ごめん母さん、大晦日にお客さん連れてきちゃって……」 「別に良いわよ。仕事の帰りなんでしょう? アンタがお世話になってるお礼もしたいし」  玄関先で靴を脱ぐ僕を、階段を降りてきた母が出迎える。一応、説明としては『雇われている事務所の所長が、軽く挨拶をしたいと仕事終わりに訪ねてきた』ということになっている。前条さんもあまり長居をするつもりはないようだから、説明としては何一つ間違ってはいない。だというのに謎の騙している感があるのは何故なのだろう。僕は何一つ嘘はついていないのに。  そんなことを考えながら遠い目になっていたものだから、僕は、愛想笑いを浮かべながら前条さんを出迎えかけた母さんが、僕を見て固まったことに気づくのに、五秒もかかってしまった。  見開かれた瞳が、僕を真っ直ぐに見つめる。覚えのある光景だった。  前条さんに『けーちゃん』と呼ばれ始めてからの僕が、初めて実家に帰った日だ。あの日、母さんは僕を見て取った瞬間に訝しげに動きを止め、確認するように言った。 「……慧一?」  そして、今日もまた、母さんは何かに戸惑うように眉を顰め、僕を見つめている。  隣に立つ前条さんが微かに感心の滲む吐息を零したのが分かった。耳の端にその吐息を聞きながら、戸惑いが伝播したかのように狼狽える僕に、母さんは薄っすらと涙の滲む目を細めて言った。 「なんだか分からないけど、母さんアンタのこと引っ叩かなきゃいけない気がするわ」 「ええ!? ちょっ、なんだよ急に!」 「母さんにだって分からないわよ。とにかく引っ叩いてもいい?」 「やだよ!」 「冗談よ、そんな怯えることないじゃない。…………おかえり、慧一」 「た、ただいま」  あれは冗談の目では無かった。悲しみと怒りと喜びがごちゃ混ぜになった瞳が僕の前で何度か瞬き、微かに浮かんでいた涙を振り払う。  深い溜息を吐いた母さんは、そこでようやく前条さんの存在に思い至ったのか、慌てて愛想笑いを浮かべ直した。 「すみません、お見苦しいところを。いつも慧一がお世話になっております」 「いえいえ、此方こそ。いつも慧一くんには助けられてばかりです」  思わずぎょっとした顔で隣を見てしまった僕の背を、前条さんの手が抓った。痛みに反射的に背を反る。睨み付けるも、前条さんはどこ吹く風といった様子だった。 「改めまして、前条昂と申します。個人事務所でカウンセラーをしておりまして、今日はこの辺りで仕事があったのでご挨拶でもと……大晦日にお邪魔して申し訳ありません。此方、詰まらない物ですが」 「あら、わざわざすみません! もうこの子ったら高校卒業したらフリーターやるなんて言って、彼女に振られたからって考え無しに一人暮らしまでしちゃって、困った子なんですよ。コンビニも辞めたって聞いて心配してたんですけど、ちゃんと働いてるようで安心です」  この場に嘘は一つも無い。前条さんは『個人事務所』で『カウンセラー』をしているし、午前中に『ラブホテルに出る幽霊』を除霊がてら僕と致した帰りだし、手土産持参でご挨拶には来てるし、僕は高卒フリーターだし、彼女に振られたから一人暮らしをしたし、コンビニバイトは辞めた。嘘は一つも無い。  だがどうしてここまで白々しい空気を感じ取ってしまうのか。考えるまでも無く、隣でにこやかな笑みを浮かべる雇い主兼困った奥さんが原因で間違いなかった。  玄関先での世間話はそのままトントン拍子に盛り上がり、五分も経つ頃には軽く挨拶に伺っただけの雇い主は、まんまと櫛宮家の夕食にお邪魔することになっていた。

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