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Ⅱ-2:学校の話[中編]

「すみません、家族の団欒にお邪魔してしまって……」 「いえいえ、良いんですよ。無理に誘ってご迷惑じゃなかったかしら?」 「ああ、いえ。両親は幼い頃に亡くなっていて、帰る実家もありませんので……むしろこういう場にお邪魔できたことが嬉しいくらいです」  儚げに微笑む美青年に心打たれたのか、母さんはせっせと年越しそばの天ぷらを追加し始めた。僕が美人に弱いだなんだとか言うけど、母さんの血じゃ無いのか、それ。  父さんも『若くして事務所を立ち上げ、様々な理由で心が弱った人々を助けているカウンセラー』とやらが好ましく映ったのか、割と好意的に接している。  いや、確かに、嘘は言ってないけど。嘘言ってないだけじゃねーか、とそろそろ突っ込んでいいだろうか。 「慧一はどうですか? ちゃんとやってますかね」 「ええ、とても。一生懸命働いてくれていて、助かってます」  明るい声で返す前条さんに、父さんは満足そうに何度か頷き、安堵したように肩から力を抜いた。  父さんもまた、母さんほどではないにしても『僕』の姿に何かしろ思うところがあったのか、こみ上げる何かを堪えるような顔を見せた。  その顔を見れば、僕が――僕という存在が、いかに曖昧なまま櫛宮家の中に居たのかが分かってしまった。  『櫛宮司』は、サーカスによって奪われた『櫛宮慧一』をこの世に繋ぎ止める為の存在だ。  消えかけた『櫛宮慧一』の存在を前条さんが覚えていることで、そして、母さんが新たに名前を付け直すことで、『僕』はかろうじて世界に存在することが出来ていた。  だが歪な修正を加えた僕の存在は、主張し続けなければ認識されにくいほどに淡く、他者からの配慮も薄くなりがちだった。最も近くに居る家族はまだマシな方で、繋がりの薄い人間――例えば高校の同級生なんて下手したら僕の存在など『無かった』ことにしている。  逆に、強い感情を持て余した人間は僕のような存在を捌け口に使うこともあるそうだ。店長なんかが良い例で、彼は自分の中の不満をぶつける相手に僕という曖昧な存在を選んだ。  綾音が交際相手に僕を選んだこともそれに近いそうだが、正確には異なるだとかなんだとか……最後に顔を合わせた時に前条さんが説明してくれたけれど、当の綾音が既に別人と言ってもいいほどに変容していたので真相は分からないままだ。  ともかく、僕が取り戻した『櫛宮慧一』という存在が帰ってきたことで、家族は僕という存在をきちんと認識できるようになった。そこに居ても居なくても変わらない曖昧な存在ではなく、きちんと『息子』として認識できている。  『けーちゃん』と呼ばれるようになってからも僅かに変化はあったけれど、こうしてきちんと目を見て話されると、もはや戸惑いを通り越して挙動不審になってしまう。  名前を取り戻す前。僕の話を聞き終えた時に、灯りを吹き消されるように興味を失う家族の目が、僕は心底苦手だったのだ。今更ながら自覚し、自分が自分で思っているよりも傷ついていたのだと気付いてしまって、困惑している。  こうして戻ってきたのだから、これから過ごしていけばこの戸惑いも消えていくのだろうか。 「ママ? お兄ちゃん帰ってきたの?」  母さんが年越し蕎麦の準備を終えた頃、それまで姿が見えなかった理沙が、二階から降りてきた。目を擦りながら階段を降りる理沙の声は寝起きらしく、妙に覇気が無い。  リビングに顔を出した理沙を見た母さんは、慌てた様子で理沙へと声をかけた。 「理沙、起きて大丈夫なの? 具合悪いならまだ寝てなさい」 「もう大丈夫……おそば食べても良い?」 「良いけど、無理しないでね」 「うん。…………お客さん?」  母さんの言葉に頷いた理沙は、ふとダイニングテーブルに四人の人影があるのを認めると、訝しげに眉を寄せた。  微かに警戒心の滲む視線に応えて、前条さんが柔和な笑みを浮かべる。こうして見ると、異様に『人の好い人間』に見えるのがもはや不気味と言える程だった。  ――――僕は、この、異常なほどに好意的に受け取られる笑みを、前に一度見たことがある。  だがそれは恐らく、前条さんがこの世で最も疎ましく思い、嫌悪をもって唾棄する連想だと知っていたので、表層に浮かび上がる前に心の奥底へと押し込めた。  前条さんが此方を向いていなくてよかった。 「こんばんは、前条と言います。お兄さんの上司、みたいなものかな。挨拶しに来るだけのつもりだったんだけど、厚意に甘えて少しだけお邪魔してます」 「……櫛宮理沙です。お兄ちゃんが、いつもお世話になってます」  ぺこりと頭を下げた理沙に、しっかりした妹さんですね、と前条さんが笑う。母さんは頬に手を当てながら謙遜を口にして、嬉しそうな笑みを返した。 「――お兄ちゃん、ちょっと来て」  年越し蕎麦と言っても我が家では普段の夕食とそう変わらない時間に食べる。食べ終わってもまだ時刻は八時を回ったところで、僕が理沙に呼ばれたのは、丁度自分の皿を片付け終わったタイミングだった。  リビングで前条さんと話し込んでいる父さんを横目に見つつ、理沙を追って二階へと上がる。一時間も経たない内に、前条さんは古馴染みかと見紛うほどに櫛宮家に溶け込んでいた。  機嫌良く笑った父が酒が無いかと尋ねる声が聞こえてくる。晩酌に付き合えないかと持ちかけられた前条さんが色好い返事を返していた。 「……お兄ちゃん、幽霊って信じる?」  僕を部屋に呼び込んだ理沙は、ベッドに腰掛けると脇に置いてあるクマのぬいぐるみを抱き寄せた。縋るように両腕で抱きしめ、茶色いクマの後頭部に半分ほど顔を埋める。  僕は勉強机の前に置かれた椅子に腰掛けながら、不意に投げかけられた質問に思わず深い溜息を零していた。途端、理沙の顔が強張る。 「ば、馬鹿なこと言ってるってのは自分でも分かってるよ。でもね、聞いて欲しいの」 「いや、違う。別に信じてない訳じゃないって。むしろ信じてるよ、幽霊とか……怪異とか、超常現象とか」 「……ホントに?」 「ああ、本当だ。最近、信じざるを得ない状況にいるからな」  僕が幽霊など信じていないから呆れて溜息を吐いたと勘違いしたらしい理沙が慌てた様子で言葉を重ねたので、僕の方からも食い気味に否定を口にした。  今の溜息は、『やっぱりそういう系か』という諦めの溜息である。 「…………お兄ちゃん、“だるま様”って知ってる?」  僕の言葉を信じたのかどうかは分からないが、理沙は不安げに目を瞬かせながらも、例の『僕に話したかったこと』について語り始めた。  ――――有井山小学校の生徒たちの中で“だるま様”という怪談が流行り始めたのは、つい最近のことだ。    夜の学校で、一階の廊下に在る非常灯の下で『だるまさまがころんだ』と唱えると、“だるま様”を呼び出すことが出来る。  廊下の一番端にやってきた“だるま様”は、呼び出した人間と、いわゆる『だるまさんがころんだ』をするそうだ。  そして、 “だるま様”はゲームに勝った子供の願い事をひとつだけ叶えてくれる。  ルール上此方が鬼となる為、“だるま様”を捕まえることが勝利条件となるが、“だるま様”を捕まえることが出来なかった場合――つまり鬼が負けてしまった場合、“だるま様”は、鬼の手足を捥ぎ取っていくのだという。  最近の話だという理沙の言葉の通り、僕が通っていた頃には影も形も無いような怪談だった。 「それで、その“だるま様”がどうしたって言うんだ?」  怪談については理解できたが、理沙がその怪談を僕に話した理由が今ひとつ掴めない。妙な予感、要するに嫌な予感はしているので知らず沈んだ声で問いかけた僕に、理沙はぬいぐるみを抱きしめる腕に力を込めながら言った。 「……唯香ちゃんが、“だるま様”に会ったの」  二度目の溜息は堪えることが出来た。ぐ、と息を詰めた僕に気づくことなく、理沙は力の無い声で続ける。 「…………唯香ちゃん、“だるま様”から逃げてきたんだって」 「逃げてきた?」 「……うん。唯香ちゃん、ずっと泣いてて、よく分からなかったんだけど、……“だるま様”が怖くて、ルール無視して逃げて来ちゃったんだって」 「……それ、どうなったんだ?」  こういう場合、ルールを無視した人間にはそれ相応の罰があるものじゃないだろうか。僕の予想は嫌なことに外れなかったようで、理沙は暗い顔で俯いた。 「唯香ちゃん、おかしくなっちゃった」 「…………」 「今、お母さんと同じ病院に入院してる。唯香ちゃん、多分、お母さんのことお願いしたくて“だるま様”を呼んだんだと思う」  何も言えずに黙り込んだ僕を、理沙の瞳が微かな恐怖を浮かべて見やる。 「…………お兄ちゃん」 「うん?」 「…………これから理沙が言うこと、パパとママに言わないでくれる?」 「お前が内緒にしてくれって言うなら、僕は黙ってるよ。ただ、一つ良いか?」 「うん、何?」 「いま下の階に居る職場の上司、ちょっと呼んできたいんだけど」  僕の言葉に、理沙はきょとりと目を瞬かせた。唐突すぎて訳が分からないのだろう理沙に、ざっくりと前条さんの職業について説明する。  これ以上理沙が何を語るのか、僕には予想がつかなかったが、どう考えても前条さん向けの案件だった。ならばこの先には彼がいた方が確実に話が早い。  前条さんが『異能相談事務所』などという胡散臭い事務所を開いていて、なおかつ『超常現象カウンセラー』などというこれまた胡散臭い肩書きを名乗っていることを伝えると、理沙は信じ切ってはいないものの、一応了承の意を示してくれた。  扉を開け、階下の前条さんに呼びかける。 「前条さん! ちょっと来て下さい!」  扉を開いた瞬間に聞こえてきた賑やかな笑い声に、ちょっとした切れ間が生まれた。どんだけ盛り上がってるんだ、あの二人。いや三人か?  酒盛りってそんなに楽しいもんなのかな、などと呆れる僕の耳に、両親に断りを入れる前条さんの声と、階段を上がる足音が聞こえてきた。 「なあに、けーちゃん。妹ちゃんの話?」 「ええそうです、どう考えても前条さん向けの案件です」  頷いた僕に、前条さんが満足げな笑みを浮かべながら部屋へと入ってくる。顔色こそ常と変わらないものの、少しばかり陽気な気配を漂わせているのが分かった。  扉を閉め、先程理沙から聞いた話をざっと話す。有井山小学校で流行っている怪談、“だるま様”の話と、理沙の友達がそれを喚び出し、おかしくなってしまったことを。前条さんは途中何度か頷きながら僕の話を飲み込んだ。  桃色のクッションの上に腰を下ろした前条さんが、ベッドに腰掛ける理沙を見上げ、懐から名刺を取り出す。 「お兄さんから話は聞いてるかな? 一応俺、こういうものなんだけど――まあ、なんとなくお化けとか幽霊とかやっつける人だと思ってくれれば良いよ」  名刺を受け取った理沙が職名と名前を読み取ったのを確かめると、前条さんは名刺をケースにしまい直した。多分、この家に名刺を置いていくつもりがないんだろう。  理沙は未だに半信半疑といった様子だったけれど、微笑んだ前条さんが話の続きを促すと、ためらいつつも口を開いた。話し出す前にもう一度、「パパとママには言わないで」と付け足して。 「……“だるま様”はね、私たちが作った、ただの作り話なの」  理沙は、何かに怯えるように体を縮こまらせながらぽそりと呟いた。その正面に座る前条さんが、興味を惹かれたように片眉を上げ、目を細める。 「いつも遊んでる五人組でね、七不思議を確かめてたんだけど……『図書室で怖い話をしよう』って陽菜ちゃんが言い出して、それでみんなで考えた話を図書室でしたの。……そしたら、本当に、“だるま様”が来ちゃった」  クマの後頭部に顔を埋めた理沙が、小さく啜り泣く。 「そのせいで唯香ちゃん、おかしくなっちゃった。私たちのせいで……学校が変になっちゃった……」  掠れた言葉は嗚咽に掻き消され、理沙の口はそれ以上意味のある言葉を紡ぐことは無かった。いつも強気な理沙のこんな姿は初めて見る。 「……ただ怪談作って話しただけだろ? 理沙たちのせいじゃないよ」  慰めを込めて頭を撫でると、理沙は緩く首を横に振った。 「だって、お兄ちゃん、“だるま様”知らないんでしょう? 元からいなかったなら、きっと、私たちがよんじゃったんだ、だから、わたしたちのせい」  クマを抱き締めていた腕が僕へと伸びる。縋り付いてくる手を好きにさせつつ、宥めるように背に優しく手の平を当てた。  ついでに、何事かを口にしかけた前条さんのことはじっと見つめておいた。『頼むから余計なこと言わないで下さい』という気持ちを込めて見つめておいた。睨むのは流石にお門違いな気がしたので。  恐らく、今回の件は本当に『理沙たちのせい』でもあるんだろう。  ――――“図書室で怪談を話してはいけない”。七不思議の中で浮いていた補欠怪談が、とんだ地雷だったという訳だ。  だが、僕が通っていた頃にも図書室で怪談を話している人間は多々居た筈だ。その度に先生がそれとなく注意して辞めさせていたが、最後まで語られているものも数多くあった。  何故それらの怪談は今回の“だるま様”のように本当に現れなかったのだろう? 不思議に思って眉を寄せた僕の視界で、前条さんが意味ありげな笑みを浮かべた。 「成る程ねえ、“図書館”か。誰が仕込んだのかは分からないけど、かなり悪趣味な奴がいるもんだな」 「…………原因、分かってんですか?」 「こうだろうな、って予想はある。実際に当たってるかは見てみないと何とも。ただ、最近の学校はセキュリティとか面倒だからな、迂闊に侵入出来ないからそれ相応の手段を考える必要がある。警備会社に追いかけられるのはもう御免だしな」 「まるで追いかけられたことがあるかのような口振りですね」 「悪霊の方が百倍マシだったね」  呆れた視線を隠しもしない僕に、前条さんは肩を竦めて応えた。携帯を取り出すと、有井山小学校ね、と検索をかけ始める。  携帯の画面を見つめたまま、前条さんが泣きじゃくる理沙へと声をかける。 「理沙ちゃんのお願いは、その“だるま様”を消して欲しいってことで良いの?」  クマに埋まったままの頭が、微かに上下に揺れる。 「そう、良かった。俺そういうのなら得意だから、きっと上手くやれるよ」 「…………本当?」  顔を上げた理沙に、前条さんはにっこり微笑んで頷いた。 「悪霊ぶっ殺すのは大得意なんだ」  アンタ本当、なんでよりにもよって“カウンセラー”なんて名乗ってんですか――と聞けなかった程に清々しい笑顔だった。  結局、僕と前条さんは除夜の鐘が鳴る頃に櫛宮家を後にした。  このところ不安で碌に眠れていなかったらしい理沙は、前条さんが「必ずなんとかする」と約束したことで気が緩んだらしく、あの後すぐに寝入ってしまった。  その時点で九時になるかならないかだったのに、気づけば日付を跨いでいた。つまり、それから三時間近くも前条さんは父さんの晩酌に付き合っていたということになる。  母さんは十時頃に、「前条さんに迷惑かけちゃ駄目よ」と言い残して寝室に向かった。普段迷惑をかけられているのは僕なのだが、訂正する暇も無かった。どうやら『櫛宮慧一』となっても、僕への扱いは基本的に変わらないらしい。まあ、これ以上急に変わってもなんか困るし、それは別にいいんだけど。  意外だったのは父さんだ。切りの良いところで外そうとした前条さんを引き留めた父さんは、そのまま何かと酒を勧めながら前条さんと話し込んでいた。  そして、いつになく酔っ払った父さんは、家を後にする僕と前条さんを見送る際に、ゆっくりと頭を下げて言った。 「……息子をよろしくお願いします、大事にしてやってください」  その声には、『雇い主として』以外の意味が含まれていたように思う。前条さんも同じ物を感じ取ったのか、件のラブホテルに再度入室しながら――言っておくがやむを得ず泊まる先として向かっただけである――ほんの少し困ったように言った。 「親父さん、俺らのこと気づいたみたいだな」 「気づいたって、その、僕らが……付き合ってるって?」 「うん。きっと俺がけーちゃんのこと話しすぎたか、聞きすぎたかしたんだろ。まあ悪いようには思ってないだろうから良いけど……」 「けど?」  いつになく歯切れが悪い口振りが引っかかって聞き返すと、ベッドに体を投げ出した前条さんは唸るようにして呟いた。 「多分、俺がけーちゃんを抱いてると思われてる」 「………………別に、僕はどう思われても、いいですけど」  事実と違う推測が立ったとしても、事実は事実だ。揺らぐことはない。  ホテルのベッドは二人で並んで寝転んでも余裕がある。案外酔いが回っているのかもどかしげに唸る前条さんに寄り添い、うつ伏せの体に腕を回した。 「ていうか、思ってたんですけど、前条さんって僕のこと抱きたいとか思わないんですか?」  髪を撫でる内、微睡みに沈みゆったりと細められていった瞳が、僕の言葉にぱちりと瞬き、見開かれた。  形の良い唇から呆けたように力が抜け、その奥に隠れた赤い舌を覗かせる。何事かを言おうと僅かに動いた舌が、数秒の間の後に、初めての言語を口にしたように緩慢な仕草で動いた。 「……俺が、けーちゃんを抱く?」  考えたことも無かった、とその顔が言っていた。  ヘッドボードに置かれた淡い明かりが照らす顔に浮かぶ困惑の色が、徐々に濃くなっていく。  視線を彷徨わせる前条さんは、一言も発することなくただただ戸惑い、そして、一分をかけたのちにようやく口を開いた。 「…………けーちゃんは俺に抱かれたいの?」 「いえ、特にそういう訳では」 「だよな」  あからさまにほっとした声が響く。 「もし僕が抱かれたいって言ったら、前条さん嫌ですか?」  珍しいくらいに当惑していたので、つい、するつもりもなかった質問が口をついて出た。 「嫌じゃないけど、俺はけーちゃんに抱かれたいから、毎回力ずくで上に乗ると思う」 「……この間、無理強いはしない、みたいなこと言ってませんでした?」 「それはしたくない場合の話だろ? けーちゃんが俺としたいと思ってんなら、俺はけーちゃんに抱かれたい。そこを譲る気はない」 「はあ、なるほど……あ、そっか。逆だと中出し出来ませんもんね」  ようやく思い至った理由を、思い至ったままの勢いで言葉にすると、前条さんは嫌なもの――具体的に言えばデリカシーの無い馬鹿――を見るように目を細めた。  え? な、なんか違いました? 少なくとも事実ではある、と思うんですけど。  『精液を得ることでしばしの間体温を取り戻す』などという滅茶苦茶な体質である前条さんが、性行為において受け入れる側を望むのは当然の話だ。  一応、経口摂取でもある程度効果はあるらしいのだけれど、どうせなら中出しの方が効率が良い。  僕も前条さんのことは抱きたい側だし、相性以外にも利害の一致的な意味合いもあるよな、と思ったんだけど。  呆れを吐き出すように溜息を落とし、擦り寄ってきた前条さんが、軽く唇を合わせてくる。すぐに離れたそれが、微かに「ばか」と呟いた。 「あのな、けーちゃん。俺はけーちゃんに抱いて欲しいから抱かれてんだよ、必要経費は関係ない」 「……えっと、それは……はい。すいません」 「俺ね、俺のこと抱いてる時のけーちゃんが好きなんだよ。必死で、可愛くて」  甘く、耳馴染みの良い、蕩けるような声が囁く。 「気持ちよくさせようって一生懸命なけーちゃん見てると、幸せだなあって思うよ」  熱に浮かされたような瞳が僕を見つめている。 「好きになったのがけーちゃんで良かった」  幸せが零れ出たような笑い声混じりの言葉に、僕は気づけば前条さんに覆い被さっていた。 「……僕も、前条さんが僕のこと好きになってくれて良かった、って思ってますよ」  あの日、サーカスで前条さんに出会ったのが僕で良かったと思ってます。きっと、あの日の前条さんにとって、あそこで出会うのは僕じゃ無くても良かった。  僕は、傷ついて滅茶苦茶になった前条さんの心の隙間に入り込んだだけだ。あそこに居るのが僕である必要なんて少しも無かった。でも、あの日あそこに居たのは僕だった。他の誰でもない僕が、馬鹿でどうしようもない僕が前条さんと出会って、そうして、彼は僕を好きになってくれた。  好きになって、サーカスに奪われる筈だった存在を十年も思い続けて、そして、見つけてくれた。僕に思い出すきっかけをくれた。  多分、前条さんはあの日出会ったのが僕じゃ無くても同じようにしただろう。誰か、前条さんだけを想って、真っ直ぐに見つめてくれる人だったなら、きっと誰でも良かった。  その誰でも良い心の枠に、僕が滑り込めたことを幸福だと思う。奇跡だとも思う。 「傍迷惑でどうしようもない人だと思ってますけど、でも、そんなアンタが好きです」 「顔が良いから?」 「……次にそれ言ったら紙袋被って暮らして貰いますからね」  どうして僕らは真面目になるタイミングが合わないんでしょうね。  真摯な告白が流されたことに不満を覚えつつ下着を脱がす僕に、前条さんは「今日はえっちなのじゃなくてごめんな」などと笑った。  その後のことはよくよく覚えているが、僕だけが覚えていれば良いので割愛する。

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