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Ⅱー2:学校の話[後編]

 年明け。新年早々、僕の耳に嫌なニュースが飛び込んできた。  理沙から掛かってきた電話は、要約すれば『有井山小学校でシルバー人材センターの派遣員が不審死した』という内容だった。  深夜の学校で、普段通学路のパトロールを行っているシルバー人材センターのお爺さんが亡くなった。  学校からの連絡メールには『深夜清掃時に階段から転落した事による事故死』となっていたそうだ。事故を受け、有井山小学校からは設備の見直しを行うとして、新学期の開始が遅れる恐れがあるとの連絡が来た。  理沙を含め、“だるま様”の存在を知っている生徒はこれが事故死だとは到底思えないらしく、学校に行きたくないと怯えているようだ。  “だるま様”の呪いなのだと泣く理沙を宥め、何とか落ち着かせた僕から話を聞いた前条さんは、丁度良いな、と満足げに笑みを深めた。 「一人で深夜清掃なんて明らかに不自然だよなあ。その爺さんは意味があってそこに居た訳だ。あの辺なら砥綿サンのとこかな、まあそれはあとで連絡するとして。学校側も既に『異常』については認識してる筈だ。大方そのシルバー人材センターから来た爺さん、ってのが元々そっち関係の職についてるんだろうな」 「……霊能者とかってことですか?」 「学校ってのは碌でもないもんが集まりやすいからな、非常時に備えてそういう人間を置いてる所もある。元から分かってたってことだ。事態を理解してない人間に売り込むのは面倒なんだが、これなら話が早い」  そう言って上機嫌に電話をかけ始めた前条さんは、その日の昼頃には有井山小学校の校長と顔を合わせる約束を取り付けていた。  日付は一月三日。三が日も終わらない内から怪異現象に首を突っ込むのかと思うと気分が沈むが、これも妹の為だ。普段生意気な妹だが、あれはあれで可愛いところもある。それに、普段生意気だからこそ、いつも生意気でいてくれないと調子が狂ってしまうのだ。  久々に訪れた母校は、僕が通っていた頃から何も変わっていなかった。やかましい音を立てる重い正門も、手入れが大変そうな生け垣も、くすんだコンクリートの壁も、何一つ変わらない。  職員玄関から入り、変に脱げやすいスリッパをぺたぺた鳴らしながら校長室へと向かう。冬休み中だからか、先生の姿は殆ど無かった。  校長室は二階の、職員室の奥にあった。廊下に繋がっている扉をノックすると、中から声が聞こえる。  失礼しまーす、と何とも気軽な声で入室した前条さんに続いて、妙に緊張しながら足を踏み入れる。校長室なんて殆ど入った経験がないし、入るときは大体怒られる時、みたいなイメージがあったので何だか落ち着かない。  学校は殆ど変わりなかったが、残念なことに校長先生は替わってしまっていた。  僕が通っていた頃は、眼鏡と蛍光灯を反射する頭頂部が印象的な校長先生だったのだが、眩しい頭頂部は見当たらなかった。そもそも性別が違う。今の校長先生は高仲麻里という名の女性だった。  あの先生、優しくて好きだったから久々に会えたら良かったんだけどな、と少し残念な気持ちになる。 「…………霊能者の方ですね? ご足労いただき感謝します」 「『超常現象カウンセラー』の前条昂です、どうぞよろしく」  かけてください、と勧められたソファに、二人並んで腰掛ける。高仲先生がその対面に座った。 「早速本題に入りたいのですが、貴方なら例の“図書室”そのものを何とか出来るとか?」 「ええ、恐らくは」 「恐らくでは困ります。それでは貴方に依頼しようとした意味が無い」  軽い口調で返す前条さんに、高仲先生は極めて厳格な声でもって答えた。真っ直ぐに前条さんを見つめる高仲先生の瞳は一切の感情の揺らぎなく、凪いだ視線を前条さんへと向けている。  前条さんは組んだ足の先をふらふらと揺らしながら、まるで面白い玩具でも見つけたかのように口元の笑みを深めた。 「一応、金を貰ってやってる以上、不用意な断定はしたくないんですよ。責任ってもんがあるじゃないですか。もし仮に私に何の責任もなく趣味や酔狂で来てるんだとしたら言えますよ、『あの程度、何の問題もありません』とね。ただ今回これを言うのは、その“図書室”を見に行ってからです」 「……ご案内しましょう」  高仲先生が立ち上がり、前条さんと僕はその後ろをついて三階へと向かった。階段を上がる間、前条さんは妙に上機嫌だった。  ぺたん、ぺたん、とスリッパの音を響かせ、僕らは図書室へと辿り着いた。  図書室もまた、僕の記憶の通り何一つ変わっていなかった。  廊下に貼られた読書感想文や推薦図書のポスター等の展示物は僕が居た頃よりレイアウトが綺麗になっている気もしたが、図書室そのものは何も変わらない。  小規模な学校にふさわしい、こじんまりとした図書室だ。  端と端に扉が一つずつ在って、片方は鍵をかけて締め切られている。中に入って右手の、黒板がついた壁側に小さなカウンターと様々な書類が入ったラックが置かれ、その隣には返却用の棚も並んでいる。  真ん中には自主学習や読書用のテーブルが幾つか置いてあって、それを挟むようにして本棚が配置されている。部屋の大きさに対して本の量が多いのか本棚が窓際にも置かれていて少し薄暗いのがちょっと不気味なのだ。  何だか懐かしい気持ちになりながら見回す僕の隣で、前条さんは口元に手を当てながら足を進めた。  んー、と何事か考える素振りを見せながら本棚の間を歩き回り、幾つかの本を手に取る。  児童向けの本を捲りながら、前条さんは感心したように軽く頷いた。 「夜に来ねえと意味が無いな、そういう風に出来てる」 「よ、夜ですか? 夜に此処に?」 「何処に在るのかが曖昧で掴みづらい、こういうのは一度失敗するとどうにもならないからな。やるなら一発勝負になる。多分、此処を作った奴はよほど『学校の怪談』が好きなんだろうなあ」 「…………はあ、成る程」  全然ちっとも成る程ではなかったが、一応助手として来ている僕が訳が分からない顔をしていると不信感が高まるだろう、と高仲先生の目を気にして頷いておいた。  薄暗い図書室内で僕らの動きを観察するように鋭い視線を向ける高仲先生を、前条さんが振り返る。 「まあでも、大丈夫ですよ先生。この程度は何の問題もありません」 「…………一先ず、信じることにしましょう。砥綿先生の紹介ですから」 「依頼料は達成後で構いませんよ、無事に終わったらご連絡差し上げます。ついでにお願いなんですが今日の夜はセキュリティーは解除しておいてもらっても?」 「……終わり次第連絡を下さい、私が鍵をかけに来ます」  高仲先生は最後の最後まで揺らぐことなく、平坦な声で冷静に告げた。前条さんはその間ずっと上機嫌だった。この間のみほさんの件と良い、前条さんはこういうタイプの女性を好ましく思う傾向にあるんだろうか。  僕の目から見ると何の変哲も無い図書室を見回しながら、ぼんやりとそんなことを思った。  そして、一月三日の夜。九時半を回った頃、僕と前条さんは有井山小学校の校門前に居た。  当直らしき先生は校長先生から話を聞いているのか、僕と前条さんに頭を下げて職員玄関から去って行く。こんな時間まで働かないといけないなんて、学校の先生ってのは大変なんだな。  昼間に見た時とは打って変わって不気味な空気を漂わせる校舎を見上げ、溜息を零す。  途中から緊張を解す為の深呼吸へと切り替えた僕を振り返りつつ、前条さんは今度はスリッパに履き替えることなく校舎内へと入った。 「そういやけーちゃん、なんで着いてきたの?」 「なんでって、そりゃ…………え? 今回僕いらなかったんですか!?」 「居てくれたら俺は嬉しいけど、別に居なくても良かったよ」 「そういうのもっと早く言ってくれません!?」 「だって聞かれなかったから」  しれっとした声で答えた前条さんの脇腹を殴りつける。さっぱり堪えた様子もなく笑いながら足を進める前条さんに続いて、僕も土足で校内へと踏み入った。後で怒られるかも知れないが、何かあった時にスリッパじゃ上手く逃げ切れそうにない。  非常灯の明かりだけが鮮やかに、それでいて頼りなく校内を緑色に照らしている。正直今から帰るという選択肢も視野に入れかけたが、来てしまった以上は最後まで付き合おう、と前条さんの腕を掴んだ。  帰ろうか帰るまいか迷っている間に三階に上がっていたので、ここから一人で帰るのが怖かったというのもある。僕はいつだって決断が遅い。  L字型の校舎は、階段を上ると丁度四年生と五年生のクラスが並ぶ廊下に続く角に出る。短い方が四年生のクラスで、長い方に図書室と五年生のクラスがある。  この階にも非常灯があった。しかし、それにしても暗い。何もかも見えないほどではないけれど、明かりとするには心許ない。 「……前条さん、これって電気とか付けたら不味いんですか?」 「近隣住民から無駄遣いだって苦情が来るんだと」 「はあ、なるほど……世知辛いですね……」  公立の学校はそういう所が厳しいのか。確かに、最後に帰って行った先生も廊下の電気はつけていなかった。ついていたのは職員室の電気だけだ。たとえ教員免許が取れたとしても、僕は絶対学校では働けないな、と思った。意味の無い想像だ。この場合、意味の無い想像をすることに意味がある。避けられない暗闇から逃げるには何を使ってでも気を紛らわすしかないのだ。  廊下に並んだ手洗い場の横を通って図書室へと向かう。扉は閉まっていて、中は真っ暗だった。日が落ちたからだと判断するには暗すぎるほどだった。  扉に『開放時間:休み時間と放課後 その他の時間に使いたいときは先生を呼んでください』とポップな字体で書かれたポスターが貼られている。  前条さんは手袋を外すと横開きの扉に手をかけ、そして、ガッ、と引っかかったそれに予想外とばかりに唇を尖らせた。 「鍵開けとくって聞いてたんだけど」 「さっきの先生が閉めちゃったんですかね」  もしかしたら図書室の鍵が職員室にあるかもしれない。そう思って前条さんに提案しかけた僕は、前条さんが掴んだ扉の取っ手、僅かに開いた隙間から覗く目と視線が合って、すかさずその場から飛び退いていた。 「ぜっ、前条さん! なんか居ます!」 「そりゃ居るだろうよ、喚んだんだから。居なきゃおかしい」  前条さんは扉の取っ手から手を離すと、少しだけ距離を取り、軸足に力を込め――――扉を蹴り抜いた。  ガァン、と派手な音が廊下に響き渡る。古い、スライド式の扉だ。僕が通っていた頃はふざけてぶつかっただけで外れたこともある。あの勢いで蹴られて無事で済む訳がない。  だというのに、淡い黄緑色の扉には靴跡がついただけで、外れる気配も無かった。いや、まあ、このまま、蹴り飛ばしてぶっ壊れても困りますけど。  びくともしない扉を眺め、前条さんが首を傾ける。ふうん、とさして興味もなさそうな息が零れるのが聞こえた。 「こっから引き剥がさないと駄目だな。けーちゃん、一階に戻るよ」 「え? えっ、一階ですか?」 「だって一階だろ。“だるま様”が喚び出せるの」  答えは元より求めていないのか、前条さんはさっさと廊下を進んでいく。慌てて後を追う僕の背後で、バンッ、と扉が叩かれる音が響いた。走っている時に飛び跳ねたもんだからスキップみたいになってしまった。楽しそうだね、なんて笑う前条さんに、僕は何も言うことが出来ずに下唇を噛んで不満げな視線を向け続けた。 「どうするんですかアレ。確実に怒ってるじゃないですかアレ。そもそもなんなんですかアレ」 「“だるま様”」 「いや、でも、“だるま様”ってのは、理沙と友達が作った話でしょう? なんでそれが実在……実在?しているんです?」 「喚び出したからだよ。まあ、喚び出したってのは正しくないかもな。正確には作り上げたもんだから」 「は、はあ、ええと」 「けーちゃん、百物語は分かる?」  リズム良く階段を降りる前条さんにしがみつきながら頷く。微かに扉を叩く音が聞こえていた。  百物語くらいは分かる。怖い話を百個すると、百個目を語り終えた時に本物のお化けが出てくるやつだ。 「塵も積もれば何とやらって奴で、軽微な恐怖も積み上げれば本物を呼び寄せるだけの力を持つようになる。アレはその応用で、『あらかじめ用意された場で怪談を語ることで、その恐怖に力を持たせる』って作用するようにあらゆる物が配置されてる。中核が何処か分からないのが面倒だな、探すためにも副産物を排除する必要があるんだけど……」 「よく分かんないんですけど、あの、僕もあそこで色々怪談が話されてるの見たんですよ。でもこんなことになってるのは初めてです、いや、僕が知らないだけかもしれないですけど、なんで理沙たちが話した“だるま様”だけがこんな風に出てきたんです?」 「そりゃあ、こういうのは『人間を選ぶ』からだよ。正しい手順や方法が流布されてもそれを実行、実現できる人間は少ないだろ? 『本気で相手を呪ってみたけど何の効果も無かった、だから呪いなんて実在しない』、そういう風に言う奴は、そいつがその呪いに値しない人間だったってだけさ。逆に、やる側に充分な力があれば道具や手順だって何でも構わない、とも言う事が出来る。やる奴によってはトランプでも人が殺せる」  トランプで一体どうやって殺すって言うんです。ババ抜きで負けたらとか?   よく分からないどころか、さっぱり全然、これぽっちも分からなかったが、怖いので事務所に置いてあるトランプは持って帰っておこうかな、とちょっと思った。 「恐らく、怪談を語ろうと言い出した友達の中に、飛び切りそういうのと相性が良い子が居たんだろうさ。元から場は整ってるんだ、あとは相応しい人間がやるだけでいい。例えば、九十九話の怪談を収めた本があんだけど、最後の一話を自分で語れば簡易的に百物語が出来る。“出る”かどうかはそいつ次第――――それを一部屋規模でやってんのがあの図書室だ」  どうしてそんな物が小学校の図書室に、という質問は、丁度一階に辿り着いてしまったせいで口にすることが出来なかった。  丁度、階段を降り切った地点に非常灯がある。“だるま様”が手順通りの存在ならば、この下で宣言する必要がある。  非常灯は壁際の、校庭へと繋がる鉄製の扉の上を照らしていた。扉の前には古ぼけたマットが在る。丁度このマットの上に立つと、非常灯の下に立つことになる。  前条さんは迷いなく足を進めると、鈍い色の扉を見つめながら口を開いた。僕が騒ぐ暇も、戸惑う暇も、覚悟を決める暇も無かった。 「だるまさまがころんだ」    ごとん、と何かが落ちる音がした。  反射的に振り返る。そして、振り返った瞬間に、振り返ったことを後悔した。  四肢の集合体だ。無数の手足が、蠢きながら一つの生き物のように固まっている。丸みを帯びた塊となった手足の上方には、ぽっかりと二つの穴が開いている。暗い穴だ。微かに照らされる明かりの下で、闇よりも深い穴が僕らを見つめている。  “だるま様”は、廊下の端に居た。あそこがスタートラインだった。僕らの視線の先で、“だるま様”はそこから動くことなく佇んでいる。  見ているだけで頭がおかしくなりそうだった。だが、目を逸らすことも出来なかった。  硬直する僕の首を、前条さんの手がそっと押さえる。ちょっと待て、と思った瞬間には僕の視線は扉に固定されていた。 「だーるーまーさーまーが」  いやいやちょっと待て。待ってくれ。  肉が這うような音がする。事実這っているのだ。あの無数の手足の集合体が、引きずるようにして近づいてきている。 「こーろーんーだ」  振り返ると、“だるま様”は中程の位置に居た。思っていたよりも数倍早い。ぴたりと止まった“だるま様”が、僕らに真っ暗な視線を注いでいる。  出来ればこれ以上やりたくない、というのが本音だったが、その本音を吐き出すための口が全くもって、一切仕事を放棄していた。  前条さんの手が僕の首を支える。気づいた時には視界には扉が在った。 「だーるーまーさーまーが」  ずず、ずず、と足音が近づく。変な汗が出てきた。妹が作った怪談に怯える兄。かなりダサいな、と思ったが、ダサくていいので退場の許可が欲しかった。  前条さんの手が僕の首にかかっている。徐々に食い込み始めるその手の平の感触に、僕はそこでようやく違和感を覚えた。 「こーろーんーだ」  もはや首元に食い込む革手袋の力は、息を吸うのも難しいほどだった。振り返った、振り返らされた僕の視界いっぱいに、蠢く手足が広がる。  “だるま様”は目の前に居た。次のタイミングで確実に触れられる位置だった。  そして、恐らく、いや、確実に、僕の横に立っているのは前条さんではない。  首を傾け、さらりと揺れた前髪の奥には、顔が無かった。首に食い込む手に爪を立てるも、びくともしない。いつだ。一体いつから前条さんじゃなくなったんだ? 全く訳が分からない。  空気を求めて喘ぐ僕を引きずるようにして壁際に寄せた『それ』が、間延びした声で言う。 「だーるーまーさーまーが」  後ろから、無数の腕が僕を掴んだ。肉を食むようにして皮膚へと爪が立てられる。やばい、確実にやばい。けれど、もはや意識も保てそうにない。  藻掻く力もなくなり、だらりと四肢を垂らした僕の耳に、最後の言葉が届く。 「こーろーん、」  だ、の瞬間、骨のひしゃげる音が響いた。  途端、緩んだ手から解放された首が、空気を取り込もうと動く。  蹲り、急激に入り込んだ空気に咳き込む僕の横に、どさりと何かが落ちてきた。重みのある肉が倒れる音。非常灯の明かりに照らされたのは、————首の無い前条さんの体だ。 「おいおいけーちゃん、勝手に居なくなるなよ。心配するだろ?」  気付いた時には傍に立っていた影は、言葉と裏腹にちっとも心配してなさそうな前条さんだった。  地面に転がる首の無い自分を跨いで隣に屈んだ前条さんが、咽せる僕の背を摩る。ひっひっふーだよ、などと言い出すので、何産ませる気ですか、と息も絶え絶えに突っ込んでしまった。  生理的な涙で滲んだ視界で辺りを見回す。“だるま様”の姿は既に無かった。恐らく、これが、ルール通りならば、“だるま様”は逃げているのだろう。本当にルール通りなのかどうかは、今ひとつ信用ならないが。 「居なくなったって、僕、ずっと前条さんと居ましたけど……」 「ああ、『前条さん』とは一緒に居ただろうな。多分、階段を降りる途中で入れ替わったんだろ」 「…………なんなんですか、コレ」 「爪の残骸」 「爪?」  横たわる前条さん――にしか見えない男の体を横目に尋ねれば、前条さんからは端的な一言が返ってきた。  首を傾げる僕に、前条さんが鞄のポケットを指差す。全て閉めていた筈なのに、小さなポケットが一つ開いていた。 「けーちゃん、此処に俺の爪入れてたろ」 「…………捨てようとして忘れてたんです」  みほさんの一件で呪い返しをした際、僕はそれに使ったらしい前条さんの爪を受け取っていた。すぐでも捨てるつもりだったのだが、みほさん宅には捨てていく訳にもいけないので適当な所に仕舞っていたのを、すっかり忘れていたのだ。  なんというか、『パートナーの爪を後生大事にとっておく性癖の持ち主』だと思われている気がする。違いますよ、誤解です。たまたまです。 「まあ、何だって良いよ。欲しいなら後でもう一枚やってもいいし」 「いらないですよ」 「仕込みが悪趣味だからかね、やり口も悪趣味だな。子は親に似るってやつかね」  あー、やだやだ、と零す前条さんは肩を竦めながら僕の腕を取って歩き出す。今度こそはぐれる訳にはいかない、と腕ではなくその手を握りしめると、前条さんは少し呆れたように振り返った。前髪の隙間から覗いた瞳が、言葉の一つも無く、恋人繋ぎで握られた手を見下ろす。  しょうがないじゃないですか、これが一番解けにくいんですよ。多分、きっと。  言い訳するのも恥ずかしく無言で押し通す。そのまま二人で手を握り合ったまま、図書館まで戻ってきた。  左手を僕と繋いでいる前条さんが、右手を取っ手にかける。そのまま右に引くと、今度は、先程の堅牢さが嘘のようにあっさりと開いた。  窓から差し込む光が殆ど無いからか、図書室内は校内でも一層暗かった。 「けーちゃん、これ持ってて」  流石にこれじゃ何が何だか分からない、と眉を顰める僕の手に、懐中電灯が手渡される。持ってたんじゃないですか。咎めるような視線を送るも、前条さんの興味は既に図書室の本棚に映っているようで、僕の不満は受け止められることはなかった。 「昼間に一応目星つけておいたから場所は大体分かってんだけどさ、この辺の本棚照らしてくれる?」 「此処ですか?」 「そう」  前条さんの指示通りに、幾つか本棚を照らす。目星をつけておいた、という言葉は本当なのか、前条さんはさして迷うこともなく幾つかの本を抜き、その表紙をコーティングするビニールごと、取り出した折り畳みナイフで切り裂き始めた。 「ちょっ、ちょっと! 学校の物ですよ!」 「別に、買い直せばそれで済むだろ」 「そ、それは、そうでしょうけど……」  抜き出された本が次々に切り裂かれていく。傷つけられる本を電灯で照らしていた僕は、ふと、その本の傷から、何かが漏れ出していることに気づいた。  電灯の明かりがちらつくせいで影が揺れているのか思ったが、違う。切り裂かれた本からは、まるで血が溢れ出るように黒い液体が滴り始めていた。ぎょっとして固まる僕を他所に、前条さんは全ての本を切り裂き終えた。 「さてと、あとは中核が何処か、だ」  中核、と前条さんが呼ぶ何かの居場所は、そう簡単には分からないらしい。前条さんの指差す方を幾つか照らすも、今ひとつピンと来ないようで、首を傾げながら見回している。  そのうち、一つの本棚に絞ることは出来た。だが、そこから先に進まない。やっぱりあっちかも、などとあまり頼りにならないことを言い始めた前条さんに呆れつつ懐中電灯を動かした僕は、そこで、視界の端に映った影に反射的に電灯を向けていた。  そこには、首の無い前条さんが居た。  図書室の入り口、開け放った扉の前に、先程一階に転がした首の無い『前条さん』が立っていた。ぐらり、ぐらり、と傾く体を支えるように壁に手が添えられ、握られた扉がガタガタと音を立てる。  握りしめたままの手に一際強く力を込めると、隣の前条さんが宥めるように僕の頭を撫でた。 「ったく、人の爪で怪談作るんじゃねえよ」  笑い混じりの声が響く。その声に応えるように首無しの体が傾ぎ、もげた首の穴からぼたぼたと粘ついた液体が零れた。  がくん、と四肢の使い方を知らぬ人形のような体が動き出す。首も無いのにどうやって認識しているのか、大きく一歩を踏み出した首無しは、真っ直ぐに僕へと向かってきた。  ちょっ、ちょっと待ってくれ、狙いは僕なのか!?  ゾンビ映画でよく見る動きでもって僕に襲いかかる首無しを、隣に立つ前条さんの足が躊躇いなく蹴り飛ばす。恐らく、先程も同じようにしてこいつの首を飛ばしたのだろう。自分と同じ姿形をした存在の首を。  蹴り飛ばされて尚、藻掻きながら襲いかかる首無しの腕を取った前条さんが、握りしめていた僕の手を振り払うようにして放す。確かに邪魔だろうと素直に放した瞬間、体を捻った前条さんが首無しの体を背負い投げた。  首無しがテーブルに乗り上げ、本棚にぶつかって転がる。床に伏したそれはしばらくバタバタと藻掻いていたが、近づいた前条さんが首に開いた穴から片手を突っ込み、何かを引きずり出すように手を引き抜くと、一際大きく痙攣して、やがてぴくりとも動かなくなった。  瞬く間に、どろどろと溶けていく首無しの体を見下ろし、前条さんが笑う。 「妖怪『けーちゃん大好き』だな」 「…………前々から思ってましたけど、命名センスないですよね」  ていうか、好きなら殺しに来ないで下さい。  喧しく騒ぎ立てる心臓を何とか抑えつけ、溜息を吐く。呆れる僕の隣で、しばらく床の染みに視線を落としていた前条さんは、やがてゆっくりとその視線を本棚へと向けた。今し方、首無しがぶつかったせいで本が殆ど抜け落ちた本棚――先程から探っている本棚へと。  一度、二度と瞬いた瞳が、某かに納得したような声と共に見開かれる。 「ああー、そういうことか」  ワントーン上がった声で呟いた前条さんは、次の瞬間には壁際に寄せられた本棚へと手を伸ばしていた。中の棚と共に外枠を掴み、力任せに引き倒す。一応ある程度の留め具は施されているようだが、古いせいか、地震対策は万全とは言えないようだった。  もはやどこもかしこもしっちゃかめっちゃかの酷い有様で頭が追いつかず、思考が二、三周遅れている。せめてもう少し丁寧にやりましょうよ、と言おうとした二周遅れの突っ込みは、視界に映った『本棚の裏側』によって出た悲鳴でもって掻き消されてしまった。 「な、なんなんですか、これ……!」  懐中電灯で照らされた先に在ったのは、どう見たって人の顔の皮だった。しかし異様にサイズが大きい。巨人の皮でも剥いだのかと思ったが、どうやら、複数の人間の皮を組み合わせて作られているようだった。  大きく口を開き、黒い穴のような瞳で此方を見つめる皮の顔。その周りには掠れた赤黒い線で酷く歪な――草書のような字体で謎の言語がびっしりと書き込まれていた。  鳥肌が立つような気味の悪さに足を引く。読み取れないはずの言語が脳内で自然と形を作る気配がする。これは、長く見ていて良い物では無い。 「何って、中核だよ」  気軽な声で答えた前条さんの白い右手が、貼り付けられた皮に指をかける。  釘を打ち込み、ぴんと張るように固定されたその皮は、前条さんが指先に力を込めるのと同時に、呆気ないほど簡単に、本棚の裏から引き剥がされた。  握り潰された皮が、乾いた蝶の羽根のように脆く崩れ去っていく。何処か遠くの、校舎の端で断末魔の叫び声が上がった。  その後、帰ってからで良いと渋る前条さんに廊下の水道で手を洗わせ、高仲先生へと連絡を入れた。  鍵をかけて貰うのと、校舎の後始末についての相談だ。この際、近隣住民の苦情など気にしていられないと電気を付けた図書室内は、思わず額を押さえて呻いてしまうほどに酷い有様だった。怪異との争い故とはいえ、ほぼほぼ前条さんの仕業である。  近くで待機していたらしい高仲先生がやってくるまでに散乱した本だけは整えてみたが、汚れた床も、倒された本棚もそのままだ。  これじゃあ依頼料を貰うどころか賠償を払う必要がある。肩を落とし、深い溜息を吐く僕の耳に、廊下を淀みなく打つ、規則正しい足音が届く。  丁度顔を上げたところに現れたのは、相も変わらず背筋をピンと伸ばした高仲先生だった。  開け放たれた扉から室内を覗いた高仲先生は至って冷静な表情ではあったが、一瞬、ほんの一瞬、視界に入った惨状にぴくりと頬を引きつらせた。 「ああ、先生。無事に終わりましたよ」 「…………無事に、ですか」  這うような声で告げる高仲先生に、前条さんはたった今気づいたとでも言いたげに辺りを見回す。 「まあ、ちょっと散らかってますけど、生じた怪異も、怪異を生じさせる原因も取り除いてあります。少なくとも図書室の被害者はもう出ないでしょう」  あくまでも飄々とした態度で答える前条さんを数秒見つめた高仲先生が、目を閉じてから深く深呼吸する。怒りを抑えようと努めている大人の顔だった。  頭痛を堪えるように米神を叩いた高仲先生は、取り出したスマートフォンで連絡を取りつつ、極めて冷静な声で吐き出した。 「ありがとうございます。依頼料は後日振り込んでおきますので、本日はお帰り下さい」  階段への道を示され、僕らは素直に図書室を後にする。一刻も早く立ち去りたい、と足早になる僕の後ろで、前条さんが振り返る気配がした。 「ああそうだ。一つ伺いたいんですが、依頼料の代わりにあの本棚の裏を貰う事って出来ます?」 「……お帰り下さい」  酷く冷えた声で繰り返された文言に、僕は急いで前条さんの腕を引く。こういう時は素直に帰っておくんですよ! 向こうが大人な対応をしてくれている内に!  階段を降り、例の非常灯の下から目を逸らしつつ玄関扉へと向かう。僕に引かれるままに歩く前条さんは、何が面白いのか喉を鳴らして笑っていた。  後日、高仲先生から依頼料の振り込みがあった頃に、理沙からお礼の品として幾つか消耗品が届いた。  必要だった物が丁度良いタイミングで届いたと知った前条さんが「本当によく出来た妹ちゃんだねえ、本当に十歳なの?」と零していた。言外に、『あれで昔のけーちゃんとほぼ同い年なの?』と聞かれているのを察したので、無視しておいた。理沙はあの歳にしてはしっかりしすぎているし、僕はあの歳にしてはしっかりしなさすぎていた、それだけの話だ。  兎に角、有井山小学校の怪異はこれで消え失せた。万事解決である。  僕もある程度は兄としての威厳を保てたし、学校からも器物破損のお咎めは無かった。まずは一安心だと安堵の息を吐いた僕の目に、今日の日付が入り込む。  1月10日。脳裏にちらつくのは、月下部さんの占いだ。2月10日――あるいはその付近に、一体何が起こるんだろう。心配しても仕方ないと前条さんは言うが、気の小さい僕には全く気にしないでいるのは無理だった。  しかし、沈んだ思いで溜息を落とした僕の耳が騒ぐ司の声を拾い上げた瞬間、脳内の悩みはほぼ霧散していた。 『うう! もち! もちがいじめる! うぐ!』 「お前また詰まらせたのか!?」  正月に初めて餅を食べて以来、司はすっかり餅にハマってしまった。そして、おいしい!とおかわりしまくった挙げ句、餅を喉に詰まらせてのたうち回ること数回。今日のこれでめでたく十回を迎えていた。  喉ってどこだよ!!と叫びたい気持ちを余所に、苦しげに呻く司を逆さに振る。鳩尾もクソもないのでひたすらに逆さに振る。そうするとどういう訳か『とれた!』と言い出すので、そこで僕の仕事は終了だ。 「……お前、もうそろ餅禁止な」 『つぎは! つぎは へいき』 「お前それ昨日も言ったぞ」 『し しっぱいは せいこうの はは』 「うるさい」  わあわあ騒ぐ司の声を聞きながら、餅の大袋をしまう。いい加減にしないと前条さんに言ってまた胴体つけるぞ、と脅すと、ようやく大人しくなった。  そうして今度は「ねえけーちゃん、いま俺の作った胴体を罰扱いした?」と前条さんがうるさくなったので、僕は急いで事務所から逃げ出した。  全く、悩み事も長続きしないほどに忙しない日々である。    了

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