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閑話⑬

 名前が戻って困ったことが一つある。 「……画数多いなあ」  何かしらの書類を書く時に面倒が増えた。仕方ないことではあるのだが、総画数四十五は毎回書くには少々辛い。  そもそも『櫛』自体が元々画数が多くてバランスも取りづらいのに、そこに『慧』が加わった日には溜息も出る。書道の授業とか無いタイミングで戻って良かった、などと、今だからこそ言えるようなことを思ってしまった。  依頼主名を書き込みながら肩を落とした僕の隣で、ベッドに腰掛けていた前条さんが栞紐を挟んで文庫本を閉じる。軽く響いた音に何故だかぎくりとして目を逸らした。いや、戻ったのは嬉しいんですよ、本当です。ただちょっと、もうちょっと画数が少なかったら嬉しかったのにな、と思って。ちょっとだけ。 「少ないのが良いなら、名字でも変える?」 「……前条に?」 「前条に」  にんまりと笑った前条さんが、僕の膝に頬を乗せてくる。前条慧一。確かに今より随分と少なくなる。  それも良いかなあ、なんて思いながら送り状を貼り付ける僕の膝で、前条さんが「あ」と低い声を零した。 「駄目だ。謙一と一文字違いじゃん」 「……まあ、そうなりますね」  確かに前条姓になるとそれこそ謙一さんと一文字違いになってしまう。別に僕は構わないのだけれど、前条さん的にはアウトらしく不機嫌に顔を顰められてしまった。  拗ねたように俯せに転がった前条さんが、文庫本を放り投げる。窘めるように後頭部を叩くと投げやりに振り払われた。うーん、ご機嫌斜めだ。 「えーと、それじゃあ逆に櫛宮になってみます?」 「櫛宮昂?」  顔を上げた前条さんが、顎に手を当て首を傾げる。ふむ、と思案の声を零した前条さんは、ぱっと体を起こすと機嫌良く目を細めた。 「いいね、『いけません、俺には単身赴任中の夫が』から始めようぜ」 「誰も団地妻ごっこするとは言ってないでしょうが」 「え? したくないの?」  返事に窮した。したいので。窮してしまった。  けらけらと笑った前条さんが僕の手を引いてベッドに倒れ込む。僕の家に来た時、前条さんは比較的早い段階で軽装になる。比較的早い段階で致してしまうからだが、今現在の前条さんはコート姿のままだった。僕の都合でいささか待たせてしまっていた訳だ。団地妻云々は要するに、そろそろしようぜ、ということである。  鼻歌交じりにマフラーが放られ、襟の金具を外したコートのファスナーが下ろされる。現れた黒いタートルネックの裾から指を差し入れると、ひやりと凍るような肌に触れた。 「あ、待って」 「はい?」 「いけません、俺には単身赴任中の夫が」 「本気でやるんですか、それ」 「だってやりたいんだろ?」 「……したいけど出来るかどうかは別でしょう。こういうのはシチュエーションが大事なんですよ。一体どうやって僕がアンタを無理矢理組み伏せるって言うんですか」 「支払いはきちんとしますから……身体だけは……」 「ああ、借金があるんだ……」 「やめてください、夫には秘密にしてください。何でもしますから!」 「…………それで身体だけは勘弁してくれなんて、奥さんちょっと都合が良すぎじゃありませんかねえ」 「ああ、だめっ!」  ここまで来てようやく気づいた。これ、この間見たAVの内容そのままである。  『呪いのAV』などという呪いのビデオに謝れこの野郎と言いたくなるような物品を持ち込んできた依頼人のコレクションに入っていて、僕がちょっと気になっちゃったやつである。いや、だって、あの、あれ、あれちょっと女優が。…………女優が。その。 「どう? 似てる?」 「…………何故でしょう、案外似てません」  顔はそこそこ似てたのに。  比べられるほど見たのかよ、などと笑う唇に口づけながらベルトに手をかける。わざとらしく抵抗じみた所作で弱々しく押し退けてくる手にやたらと興奮してしまう。分かっていて高ぶってしまうのだから始末に負えない。  演技だと分かりきっているのに、やめて、だの、だめ、だの言われるとじわじわと痺れるような熱が上ってくる。時折堪えきれなくて笑いさえ零しているのに、僕のものは笑っちゃうくらいに固くなっていた。笑ってる理由は僕の股間かもしれない。いいですよ、思う存分笑って下さいよ。笑われようと挿れますからね。勃っちゃったんだからあとは挿れるしかないんですよ。  半ばやけくそ気味に挿入した僕は、次の瞬間――甘ったるい声で啼いた前条さんの台詞に思い切り突っ込んでいた。 「あんっ♡ 夫のよりおっきい♡」 「いつもと同じサイズですけど!!」  思い切り突っ込んでいた。何かが我慢ならなかったので突っ込んでしまっていた。二つの意味で。根元まで突っ込まれた前条さんが、ひ、と引きつったような息を零して、唇の端を震わせる。  一呼吸の間を置き団地妻の仮面を投げ捨て、げたげたと笑い出した前条さんの中が、きつく締まった。不意打ちを食らった僕が秒で果てる。悲しさと切なさでちょっと泣いてしまった僕を指差し、前条さんは何が面白いのか丸々二分も笑い転げた。その間僕は虚無を味わい続け、以降、僕らの間で団地妻ごっこは全面禁止となった。

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