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Ⅱ-3:旅館の話①
二月四日。前条さんが留守にしている内に事務所の換気をすることにした。
俺が居る間にやったら放り出すからね、とまで言われたので、『二人きりになる必要がある』と前条さんが一人でみほさん宅へと向かった今日は都合が良かったのだ。
暖房器具には触れないまま、窓を開けていく。付けっ放しは勿体ない気もするが、そうしろとのお達しだったので素直に従っておいた。
新品同然の暖房器具にはボロボロの奇怪な札が貼られまくっている。壊れた器具は全て買い換えたばかりでまだ真新しく輝いていて、ただでさえボロい札が余計に汚く見えた。
この札を貼り直す時、寒々とした事務所を片付ける前条さんの口から、延々と呪詛が溢れていたのを覚えている。
呪詛、と言っても悪態に近く、そこには重苦しい感情は一切無かった。前条さんはあの日、なんてことはない子供の悪口のような暴言を吐きながら、まるで投げ散らかすようにして片付けを終え、同時に、何かに片が付いたようにそっと息を吐いたのだった。
風が吹き込み下がった室温に、軽く震えながらコートを羽織る。昼とは言え二月だ、この気温は前条さんでなくとも辛い。
これ完全に無駄遣いだよな、と思いつつも誘惑に負けて暖房器具の前に座ってしまう。落とした溜息が白く染まることに再び溜息を吐きかけたその時だ。
後方から、粘質な音が聞こえてきた。
びたんっ。
分厚い肉が扉にぶつかったような音に、反射的に肩が強張る。ノックと呼ぶにはあまりにも乱雑な響きだ。確かめようと首を動かしかけ、強張りが硬直に変わった身体でじっと暖房器具を見下ろし続ける。最初の勢いで振り返れば良かった、と後悔したのは、耳に拾った異常による緊張と恐怖で振り返れなくなってからだった。
明らかに呻き声がする。それも、人の物ではない声が。
動くのも恐ろしい。見ないことにしていたらそのまま見えないことになって居なくならないだろうか。馬鹿なことを考えながら目を瞑る僕の耳に、獣じみた呻き声が届く。
見えない物を捉えるには、見たくない物を見なければならない。前条さんはそう言った。だが見たくない物というのは、見たくもないのに、見えない筈なのに、視界に入ってくることがあるのだ。なんて理不尽な話だろう。
びたん、びたん、と何かがのたうち回る音が扉の付近でしている。
司が大騒ぎせず呑気に寝ているということは、これは騒ぐような代物ではない筈だ。震えつつも比較的冷静な判断を下した僕は、冷や汗をかいた両手を祈るように握り合わせながら、ゆっくりと振り返った。
換気のために開けた扉から、女の人――のようなものが覗いていた。
女の人だ。多分。そうだと思う。恐らくきっとそうだとは思ったが、僕は『人を模した人ではない何か』の性別を見分ける能力には乏しい自覚があったので、曖昧な物言いになってしまった。
女の人っぽい何かだ。長く伸びた胴から無数の腕を生やし、それを足のように使って進もうとしては崩れ落ちのたうち回っているその人は、髪の毛に黄色い簪をつけていた。
小さな花がついていて可愛いデザインの物だから、多分、女性である。首から下は延々と腕の腹部が続いていたし、顔には無数の穴が空いていたので、性別を判断する材料がそこしかなかった。
びたんっ、びたんっ、とのたうち回る女の人が扉を叩いている。濁音の混じる呻き声が友好的な物なのかどうか、僕にはさっぱり分からなかった。
寒さ以外の理由から震え始めた僕に、女の人は首の骨を無視した動きで頭を回しながら、オオ゛ォ、アァ、と零した。零れた。顔面の穴から。何かが零れた。
無数の穴からわらわらと現れたそれが何であるかを理解するのに時間はかからなかった。
見慣れてこそいるが決して慣れない害虫。ゲジゲジだ。
ゲジゲジ、というのは通称であって本来はゲジと言うらしい。十五対の足を使って素早く動き、餌を捉えるのだとか。見た目から不快害虫とされているが臆病な性質で、蛾とかゴキブリだとかを食べてくれる益虫で、まあ割と良い虫ってことなんだけど、でも流石にこの量が一斉にこっちに向かってくるのは本当に本気で無理というか勘弁願いたいというかつまり僕はダッシュで逃げて段ボールの山を抜けて司が寝こけている本棚へと飛びついた。情けない悲鳴付きで。
「おひょぉぁあゎわわぁっ!!」
穴を作りすぎた埴輪みたいな顔から出てくる無数のゲジゲジ。もはや人外がどうとか怪異がどうだとかではなく、物理的かつ生理的に怖い。
虫に対して特別な思い入れも嫌悪感も無いが、流石にこれは無理だ。無理すぎる。ナウシカも裸足で逃げ出すレベル。いや、ナウシカなら平気だろうけど。僕はナウシカでは無い。
「司っ!! 起きろ司!! 頼む起きてくれ!! 起きろ!! なんだ!? 死んだのか!?」
『しんでる あとごふん……』
「五分も待てるか!」
五分で一体何匹増えると思ってんだ! わらわらと群がってくるゲジを泣きながら払い逃げ惑う僕の叫びに、司はようやくのそりと起きた。意思を持って動き始めた地蔵の頭は、僕の周りを取り囲むゲジの群れと、扉の前でのたうち回る女の人(?)を見るや否や、ぽすんと跳ねた。
『おたすけ!』
「僕の台詞だ! なあ、なんとかならないのかこれ!」
『ちがう ちがう あのこを おたすけ』
「はあ!?」
『たすけて いってる たいへん ううん……むしのこと は よくわかんな つかさ たぬき だから』
「たぬ、何!? 何の話だ!?」
左右に揺れる司は困ったように唸った後、ぽんっと本棚から飛び降りた。
床を這うゲジたちが綺麗に円を作って避ける。その分こちらに寄ってきたので僕はその場で片足立ちをする羽目になった。事務所が土足で良かったと思ったのはこれで二度目だ。
ゲジの花道をぽすんぽすんと跳ねていった司が、途中から力尽きてごろごろと不規則に転がり、玄関扉の前に向かう。僕はそれを縋るように見つめながら、後生ですから勘弁して下さい、とゲジ相手に本気で懇願していた。お願いですから登ってこないで下さい。動かないまま集られるのも怖いし、動いて潰してしまうのも怖かった。兎に角怖くて仕方なかった。
僕の命運は司にかかっていた。あの、玄関扉の前でちょっと欠伸をしている地蔵にかかっていた。ふざけんな真剣にやれ。今日のおやつ抜きにするぞ。
『こんにちは! つかさはつかさだよ ここは ぜんじょういのうそうだんじむしょ だよ』
元気よく挨拶をかました司に、それまで顔面から無限にゲジを生み出していた彼女がのたうち回るのをやめた。弱めたと言った方が良いかもしれない。連なる腕の幾つかは未だに床や壁を掻いている。
〈ア゛ォ、アァァ、ヴュ、オォ、オオ゛ォォェ、ォォ〉
大きく開かれた口――に当たるだろう穴から、洞窟を抜ける風に似た唸り声が漏れ出る。
司はふんふん言いながらそれを聞いた後、その場でぽすんっと跳ねた。
『あおぐは いま るすだよ』
〈ア゛ァァア……ァ、イゥ、オ゛ァァア〉
『けちゃは じょしゅ だよ あんまやくに たたないよ!
でも けちゃを だいじに しないと あおぐは おこる』
前半に対して文句を言ってやりたい気持ちはあったが、後半を聞いた途端、僕の身体からゲジゲジが一斉に離れたので、僕はとりあえず泣きながら感謝の言葉を口にした。
今日は米粉ドーナツだぞ、喜べ司。もちもち好きだからなお前。きな粉も振ってやるし黒蜜もかけてやる。
膝をついた僕を囲み円を作るゲジゲジから目を逸らすように、司と女の人を注視する。またぽろりと顔面の穴からゲジが落ちたが、静止するゲジの群れに加わっただけで動くことは無かった。
『あおぐに ようじ?』
〈ォア……アア゛ァァ……イ…… ウォァァァ、ア゛、オォオォオ、ィ、ア゛ァア、〉
『うん? あんま むつかし ことばは わかんない』
どうやら司の言葉は通じているようだが、彼女の言葉は司には今ひとつ理解できないようだった。
司は困ったように身体を揺らしながらまた幾つか呻き声と言葉を交わし、最後には右の頬が床にくっつくほど身体を傾けて止まった。
『とりま あおぐを まてば いいよ
けちゃが おやつ つくてくれるから いっしょ たべよ』
僕は思わず組んでいた手を再度強く握り締め、天井を見上げていた。
神様的な何かが助けてくれやしないだろうか、と思った。見たくない物は散々見たので、見えない何かが僕を助けてはくれないだろうかと祈った。誰も来なかった。
『けちゃ! きょうの おやつ なに!?』
期待を込めた、ご機嫌な声で司が振り返る。脇に伏した女性(恐らくきっと多分)は、困惑したように穴だらけの顔を傾けていた。また一匹ゲジが落ちたが、ゲジもまた困ったようにうろうろと彷徨っていた。
司と、女の人と、部屋中を埋め尽くすゲジの視線を受け止めて、僕は小刻みに痙攣しながら答える。
「ドーナツです」
受け止めて、というのは嘘だ。僕はライブ会場もびっくりな量の視線を受け止めきれず、その場で気を失った。
「――――ううん……なんか凄い怖い夢を見た気がする……」
具体的には部屋中にゲジゲジが湧いて僕を取り囲んでくる夢を見た気がする。
三十分後。僕は固い床の上で身体を起こしながら呻き、周りを取り囲んでいるゲジの群れにすぐさま顔を覆った。
「すみません! 後生ですから戻って下さい!!」
司の言葉は理解していたようだが、僕の言葉はどうなんだろうか。言ってからそんな疑問を抱き、指の隙間から覗いた景色がゆるゆると波のように動いているという事実にあらゆる疑問と思考が吹き飛んだ。床にゲジの絨毯が敷かれている。泣いてしまう。ていうか泣いた。泣いてた。もう三十分も前から泣いてた。
ティッシュを取ろうとしたらまだ箱の上を横断中のゲジが飛び跳ねたので僕も飛び跳ねてしまった。アッ、すいません。待ちます。お帰り下さい。すいません。何に謝っているんだろう。とにかくすいません。
ずるずると引いていった群れはぐったりと横たわる女の人の顔面へと戻っていく。飲み込むようにして穴に収まるゲジたちを横目に見ながら、僕は恐る恐るキッチンへと向かった。
彼女の目的は分からないが、少なくとも敵対的な存在では無い。前条さんに用事、ということはもしかすると依頼人――人?である可能性すらある。此処は怪異の依頼も受け付けているんだろうか。
『けちゃ! どなつ あと どんくらい?』
「生地寝かせてあるから、後は形作って揚げるだけ」
『あじは?』
「米粉ドーナツだからきな粉と抹茶にしたけど」
『まちゃ! けちゃ! まちゃがいい!』
「どうせきな粉も食べるだろ」
『たべる!』
喋る地蔵すら癒しに思えてきた。窓を閉めてからキッチンに向かう。いつになく丁寧に穴を開け、ドーナツの生地を油に放り込んだ。司は三個は食べるとして、僕の分が一つ、前条さんにも一つあげるとして……あとは何個作れば良いんだ?
さっき司がおやつを一緒に食べるなどと言っていたが、あれはどのくらい本気なんだろうか。
横たわり、軽く痙攣する女性に、離れた位置から声をかける。
「あの」
穴だらけの顔が此方を向いた。蓮の実が落ちた後のような有様で、突然視界に入ると肌がざわつく。目を逸らせば良いのだろうけど、逸らしている間に予測不能な動きをされたら、と思うとつい見つめてしまう。
「ド、ドーナツ……食べます?」
ごきん、ぼきん、と骨を無視して動いた首が横に振られた。食べないらしい。そうですか。すみませんうちの地蔵が勝手なこと言って。本当に。すみません、お構いなく。くつろいでて下さい。あの、とにかく。すみません。
頭を下げつつキッチンに引っ込む。前条さんはいつ帰ってくるんだろう。早く帰ってきてほしい。『なんかよく分かんないのが来てます。早く帰ってきて下さい』とメールを送ってはあるが、返事はない。恐らくまだ呪いをかけている最中なんだろう。
喜々としてドーナツを貪る地蔵と時折呻く胴長の怪異に囲まれ、縮こまりつつ味のしないドーナツを食べ終えた頃。事務所の階段を上がる靴音が聞こえてきた。
ソファの前に横たわる女性の脇を通り抜け、玄関へと走る。扉を開けると同時に、前条さんが廊下へと上がってくるのが見えた。
「前条さん! 待ってましたよ!」
気が緩んだせいか涙目で出迎えた僕に、前条さんが首を傾げる。
「どうしたよ、やけに情熱的なお出迎えだな。留守番そんなに寂しかったか?」
「メール見ました!? なんか、何、なんかよく分かんないのが来てるんです!」
「『よく分かんないの』?」
どうやら見ていなかったらしく、前条さんは取り出した携帯の画面を確かめる。しかし此処まで来たらもはや必要も無い。背を押すようにして事務所の中へ通した。
重みのある鈍い足音が事務所内に数歩響き、止まる。おかえり、と元気よく告げる司の声に答えるより早く、前条さんはやや気の抜けた声で呟いた。
「あれ、ゲジ子じゃん」
ゲジ子と呼ばれた女性の髪が、ぶわりと逆立った。
ちょっと、怒ってません? ねえ、あれ怒ってませんか? 絶対に名前『ゲジ子』じゃないでしょう。
威嚇する獣じみた唸り声を上げ始めたゲジ子さん(仮名)に、前条さんが遠慮の無い歩調で歩み寄る。途中、投げ出された腕に靴が当たったのか呻き声が高くなった。
「わざわざ来るの珍しいな、布施さんになんかあったの?」
〈ア゛……ォオ゛、ヴ、オォァァ……アォ〉
「……何だよ? 言葉忘れた?」
すぐ側に腰を下ろした前条さんに向かって、顔面を掻くようにして腕が伸びる。軽く背を逸らしてそれを躱した前条さんは、呻き続けるゲジ子さんを見下ろしながら少し困ったように頬を掻いた。
「司、こいつの言葉分かる?」
『んん、ちょとなら わかる
むつかし ことばは わかんな』
「ふぅん? なんて言ってた?」
『おたすけ!』
「……やっぱり布施さんになんかあったんだな?」
どこかうんざりとした様子でゲジ子さんに向き直った前条さんを、穴だらけの顔が見上げる。帽子を脱いで放った手が雑な仕草で髪を掻き、携帯を取り出した。
どうせ繋がらないんだろ、とぼやきながら何処かへ電話をかけ始めた前条さんは、しばらく携帯を耳に当てたのち、溜息と共に呼び出し音を切った。
「直接俺に連絡取れない状況って訳ね。ったく、何やってんだよあの人は……」
〈ア゛ァ、イ゛……オォオ゛オ、ェヴ〉
「あー、いい。説明すんな。お前のそれも訳分かんねえな、何があったんだか」
ひらひらと手を振ってゲジ子さんの言葉を遮った前条さんが、今度は今にも舌打ちしそうな顔で開いた携帯を見下ろした。
無言で画面を見つめて数秒、嫌なものでも触るようにボタンを押した前条さんは、通話が繋がるとぶっきら棒に告げた。
「俺だけど。銀起こしとけ、十八時には着くから」
言い終わるや否や電話を切った前条さんの様子から、なんとなくだが相手が謙一さんであることを察する。
携帯をしまった前条さんがゲジ子さんを肩に担ぐのを横目にしつつ、僕はざっと元栓やら戸締まりの確認をした。
「前条さん、僕もついていって良いですか」
「は? なんで?」
片手でゲジ子さんを、もう片方の手でドーナツを持った前条さんが玄関先で振り返る。
彼の中では僕は司と一緒に留守番をしている予定だったのだろう。前髪の隙間から覗く瞳には怪訝な色が浮かんでいた。
もはや敵意すら感じさせるような視線に気圧され、思わず目を逸らす。
どういう理由かは分からないが、前条さんは僕と謙一さんが顔を合わせるのをよく思っていないようだった。
統二の一件で謙一さんに話を聞いたと言った時の顔は、あまり思い出したくない。丸々一分の沈黙の後、「何もされなかった?」とだけ聞かれたが、僕の返した肯定には納得していない様子だった。
前条さんが嫌がるなら僕だって積極的に会おうとは思わないが、今回はタイミングがタイミングだ。
「月下部さんの占いだと、二月十日に前条さんか、その布施さん?って人が、その、危ない目に遭うんでしょう? もう大分近いじゃないですか、そんな時に布施さん絡みの人……人?が来て、アンタと僕が離れるってのは不味いんじゃないですか」
『前条か布施が死ぬ』
月下部さんはそう言った。そして、『僕がついていけばそれを回避できる』とも。
だったらこの『布施さんに関係する存在』が現れた段階で別行動は控えるべきじゃないだろうか。そう思ってついていくと決めていた。僕にしてはちゃんと考えた結果の判断だ。至極まっとうなことを言っているとも思う。
前条さんも僕の言葉は否定しきれないのか、特に反論する様子もなく黙り込み、そのまま無言でドーナツを囓った。何もかかっていないドーナツが前条さんの口へと消える。
最後の一口を飲み込み、舌の先で唇をなぞった前条さんは、呻き続けるゲジ子さんをちらりと見やってから、仕方ないと言いたげに呟いた。
「向こう着いたら俺から離れるなよ」
月下部さんを運んだ時に使った車に、今度はゲジ子さんを運び込み、謙一さん宅への道を進む。
後部座席に乗せられたゲジ子さんは、律儀にもシートベルトを締められていた。大事なんだぜ、などとほざいていたが、もし仮に警官に止められたとしても、絶対に何も見なかったことにされて通れるに違いなかった。
「あの、聞いても良いですか?」
「ドーナツはチョコ派だけど」
「……じゃあ次はチョコにします。布施さんってのは結局誰なんです?」
「事務所が入ってるビルのオーナー」
無意味にはぐらかされるのにも慣れてきたので流して尋ねれば、思っていたよりもあっさりと望んだ答えが返ってきた。
横顔が大変詰まらなそうなので不本意なのだろうが、それでも素直に教えてくれる気はあるらしい。
「オーナー? あのビルの?」
「俺の事務所と一つ上の階以外は殆ど布施さんの私物で埋まってる。この間在庫整理しに行っただろ? 無料で貸してくれる代わりに、俺にあそこに集めたもんの面倒見させてんだよ」
「集めた? 集めたって……あの、下の階に居た人?とかをですか? なんでまた」
蛇女だというお客さんが訪ねてきた日、前条さんは在庫整理をすると言って下の階に降りていた。
依頼だと言うので前条さんを呼びに行った訳だが、下の階の部屋をノックした僕の呼びかけに応えたのは若い女性の声だった。結局部屋から出て来た所は見ていないが、あれが普通の人間でないことくらいは僕にも分かる。
前条さんの事務所が入っているのだから絶対にろくでもないビルに違いないとは確信していたが、まさかそれがわざわざ集められた物だとは。
一体どんな理由で集めたのだろう。訝しむ僕の隣で、前条さんはハンドルを切りながらホットコーヒーに口をつけた。
「んー……簡単に言うと病室かな」
「病室? えーと、病気、なんですか? あの人たち」
幽霊って病気になったりするんだろうか。予想しなかった答えに面食らう僕に、前条さんは自分でもやや納得の行っていない様子で続ける。
「さあ? 分からないけど、布施さんの中では『病気』ってことになってる。人を呪い殺すような存在は『病気』だから、治療してあげないといけない、らしいよ」
「はあ、……成る程?」
つまり彼処に居るのは全部人を呪い殺してきた存在ということだ。あのフロア丸ごと。病棟、と呼ぶには些か物騒すぎやしないだろうか。
「ってことは、前条さんもその、治療的なことをしてるんですか? この間、なんか降りていきましたよね」
「俺が? まさか。俺の役目は彼奴らがビルから出ないようにすることと、布施さんが『治療できない』って判断した奴を潰すことだよ。在庫整理って言ったろ?」
「……患者さんを在庫呼ばわりするのはどうかと思いますけど」
「いいんだよ。彼奴ら全員、布施さんが『お医者さんごっこ』する為の道具でしかないんだから」
何とも軽い調子で告げた前条さんは、不信感から眉を顰めた僕に目を向けると喉を鳴らして笑った。
「俺があのビルの管理を手伝うようになってから見た限り、『治療』を終えて出て来た奴なんてひとりもいないよ。全員、『これ以上は手の施しようがありません』で潰されてお終い。それでまた、あの人はどっかに行って霊を連れて帰ってくる。
病室に繋いで、『治療』を始めて、また何処かで〝助けを求めてるだろう患者〟を探しに行く。まあ、ここ一年は帰ってないかな。たまにメールで空けて欲しい部屋の連絡が来るくらい。こんなの『お医者さんごっこ』以外の何物でもないだろ?」
「…………布施さん、って人は何を目的にしてそんなことしてるんですか?」
「んー、強いて言うなら『誰かを助けたい』から? あるいは、『誰かを助けることで自分が助かりたい』から、かもな。まあ、厄介だけど悪い人じゃないよ。むしろ大分良い人なんじゃない? 本気で助けたいと思って連れてくるんだからさ。それにそいつらがいた場所で呪われる奴は居なくなるんだし、結果的には人の為にもなってるよな」
今一つ納得が行かず、何と答えたら良いか分からないまま小さく唸った僕に、前条さんは明るい声で付け足す。
「それにほら、人間相手にやらかすよりは大分健全だしな」
「まあ、そうです……ね?」
確かに、その親切心を生きている人間に向けるよりは良いのかもしれない。何にせよ、話に聞いただけではよく分からない人だった。
そうこうしている内に、景色に山が増え始める。住宅街を抜け、人気のない方へと向かうと見覚えのある風景が見えてきた。
林を抜け、立派な門構えが見えてきた所で車を停める。後部座席からゲジ子さんを降ろし、門扉の前へと歩いて行った前条さんは、僕が止めるより早く、靴の爪先で乱暴に扉を叩いた。
止める間も無かった、というより、止める勇気が無かった。蹴りつける足がいつになく苛立っていたので。
無言のまま、三回ほど蹴り飛ばした辺りで、重苦しい作りの扉がゆっくりと開いた。
月下部さんと来た時は門の前には誰もいなかった覚えがある。だが、今回は開いてすぐの位置に、見覚えのある使用人らしき着物姿の人が立っていた。
前に来た時には気づかなかったが、なんとも印象に残らない人だ。印象に残らない、という印象を、顔を見るまで思い出せなかった。
丁寧だが冷淡な所作で頭を下げた使用人さんが、ゆっくりと両手を差し出す。前条さんは特に言葉を交わすでもなくその手にゲジ子さんを乗せた。
十代半ばにも見える使用人さんの細腕には荷が重いのでは、と心配したのだが、彼──もしくは彼女──は薄い反物でも受け取ったかのような、重みを感じさせない動きでゲジ子さんを抱えたまま屋敷の中へと消えてしまった。
一切の言葉もなくなされたやり取りに追いつけず、間の抜けた顔で見送る僕の腕を、前条さんが掴む。
「俺から離れるなよ。離れたら殺す」
「そ、そんな何度も言わなくても離れませんよ」
「殺すのは謙一」
何をそんなに、と呆れかけていた僕の耳に届いたのはどう聞いても本気にしか聞こえない声だった。思わず隣を見上げれば、緩く掻き上げた髪の間から、刺すような視線が屋敷の奥へと向けられているのが見えた。疑いようもないほどに本気である。
慌てて、しがみつくようにして前条さんの腕を掴み返した。
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