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Ⅱ-3:旅館の話②

 雑に靴を脱ぎ散らかし、案内もないまま迷いなく進む前条さんにひっつきながら、外観よりも遥かに広い屋敷の奥へと向かう。転がったブーツを揃えた方がいいんじゃないかと思ったが、前条さんから離れないまま揃えるのはちょっと不可能だった。  月下部さんと来た時とは空気が違う。あの時も屋敷の雰囲気自体は異様なものがあったけれど、まだ『受け入れられている』という感覚があった。だが今は、僕でも感じ取れるような圧迫感が肌を刺してくる。  何処かから見られている気がする。覗かれている、とも言えるかもしれない。時折不安になって辺りを見回すが、人の気配はない。  前条さんもあまり機嫌がいいとは言えない横顔だったので詰まらない質問をする空気でもなく、僕らは無言のまま奥座敷へと入ることになった。  そう、無言のままである。前条さんは目当ての部屋に辿り着いた瞬間、足の爪先で襖をこじ開け、乱暴に開いた。  すぱんっ、とやや間の抜けた乾いた音が、静まり返った座敷にやたら大きく響く。  恐る恐る覗き込んだ僕の視線の先には、あの日と同じように静かに腰を落ち着ける謙一さんの姿が在った。  白い睫毛に縁取られた瞳が、ゆっくりと、嗜めるような光を帯びて前条さんへと向けられる。  相変わらず、十歳前後の少女にしか見えない。その見目からは想像もつかないほど重く厳しい視線を、前条さんはまるで意に介することなく、遠慮の欠片も無い仕草で室内に上がり込んだ。代わりに、その隣に居た僕の胃が重圧の余波を受けて痛んだ。 「それで? ゲジ子なんて言ってた?」 「昂、最初に言うことがあるだろう」  長居するつもりは無いのか立ったまま問い掛けた前条さんに、謙一さんは呆れたように溜息を吐いた。  苦々しい溜息を聞いた前条さんが、わざとらしく首を傾げ、合点がいったように口を開く。 「ああそうだ、言い忘れてた。けーちゃんになんかしたらぶっ殺すからな」 「こういう場合は普通、挨拶から入るものだ。やり直しなさい」 「お前だってしてないんだから良いだろ。俺は用件済ませたらさっさと帰りたいんだよ」 「礼儀のなってない人間に頭を下げる必要など無いからそうしているだけだ」 「じゃあどっちも礼儀知らずってことで、ほら解決」 「お前の覚えが悪いから、わざわざ繰り返し教えてやっているんだよ。その歳にもなって躾のなっていない己を恥じて、少しは素直に聞き入れたらどうだ?」 「お前に歳のこと言われたくねえよ、今年で幾つになったんだ? 十歳か? 良く出来た娘さんですね、親御さんの躾が余程良かったんでしょうねえ」  顔を合わせて一分と経たない内に、座敷の空気は冷凍室もびっくりの勢いで凍り付いていた。  冷え切った薄ら笑いを浮かべる前条さんと、無表情ながらも不快感を滲ませる謙一さんが睨み合う。  きっと仲は良くないんだろうな、とは思っていたのだが、まさかここまでとは思わなかった。  元々人を食ったような態度を取りがちな前条さんだが、普段の面白半分な物言いとは違い、明確な悪意がある。一体、謙一さんの何がそこまで気に食わなくて喧嘩腰になっているのか。僕の印象では、物言いは突き放しているようにも聞こえるが普通に良い人だと思ったのだけど。  落ちた沈黙は肌を刺すような棘を含んでいて、僕は居心地の悪い思いで小さくなることしかできなかった。  冷え切った空気が溶ける気配はない。無言で睨み合う二人の間に、やってきた使用人さんがそっとお茶を置いていく。  そのまま助け舟でも出してくれないだろうか、と祈る思いで見つめてみたが、気づいた時には襖の向こうへと消えていた。  謙一さんの視線が、前条さんから湯呑みへと移る。途中、確かめるように僕を経由した瞳は、伏せられると同時に、僅かばかりだが剣呑な光を緩めた。 「……頼み事をしに来たのだろう? なら、それに相応しい態度を取りなさい」 「お前に頼みに来た訳じゃない。銀が出てくるなら頭でも何でも下げてやるよ、それが礼儀ってもんだろ?」 「いつまで経っても駄々を捏ねる子供そのものだな。櫛宮くんの前で恥ずかしくないのか?」  瞬間、座卓が湯呑みごと吹っ飛んだ。  僕が悲鳴を挙げる暇もなかった。前条さんの足は迷うことなく座卓を蹴り飛ばし、宙を舞ったそれを、謙一さんの周りに積もるようにして張り付いていた糸が寸前で受け止める。  蜘蛛の巣にかかった獲物のように、ぶらりと垂れ下がった座卓の向こうで、謙一さんが静かに息を零した。 「ぜ、前条さん、ちょっとこれは……」  やりすぎじゃ、と言いかけた僕は、振り上げた足で苛立たしげに畳を踏んだ前条さんの横顔を見て、その言葉を飲み込んだ。  きっと怒りが浮かんでいるのだろうと思った彼の顔が、痛みを堪えるかのように歪んでいたからだ。確かに、怒りもあるのだろう。だがそれ以上に、堪え切れない悲しみのような物がそこには在った。  かける言葉が見つからずに見つめることしか出来ない僕の隣で、前条さんは吐き捨てるように呟く。 「どの口が言ってんだよ」  忌々しげに目を細め、謙一さんを見下ろした前条さんが低く這うような声で言葉を紡いだ。 「お前こそ、よくもけーちゃんの前でそんな面が出来るな。恥ずかしくないのかよ、自分が殺しかけた人間の前で人格者気取って、説教垂れてさ」  殺しかけた? 物騒な言葉にぎょっとしながら記憶を辿るも、そんな心当たりはない。  もし統二とのいざこざについて言っているのなら、誤解も良い所だ。むしろ謙一さんは御守りまでくれて僕を守ってくれたのだから。 「どうせお前は謝ってもないんだろ。間違ったことしたら謝るのがまともで真っ当な人間じゃないのか? どうなんだよ」  誤解を解くにはどうすればいいのだろう。張り詰めた空気に割って入る一言を探している僕の前で、謙一さんは静かに、だがはっきりとした口調で言った。 「私はあの時の判断を間違いだと思ったことはないよ。事実、今もそう思っている」  その言葉を聞くと同時に僕が前条さんを押し倒すように身体ごと突っ込んだのは、反射にしては割とマシな行動だったと思う。  謙一さんの顔面を蹴り抜こうとしていた前条さんは、非力ながらも全体重をかけた僕の勢いを片足では支えきれず、畳に倒れ伏した。すぐさま腕をつき体を持ち上げようとする前条さんの上に、覆い被さるようにして乗っかり押さえ込む。 「ちょっ、ちょっと! 待ってくださいよ前条さん! 一体何を──」 「退けよ、邪魔すんな」 「退くわけないでしょうが!」  何が逆鱗に触れたのか分からないが、前条さんは今、間違いなく謙一さんを殺す気で踏み込んだ。いくら僕には手加減してくれるとは言え、止められたのは奇跡に近い。このまま放せばまず間違いなく、僕では止めようがなくなる。  半ば抱きつくようにして止める僕に、前条さんは苛立ちを隠すこともなく舌打ちした。此処まで苛ついているのに力任せに押し退けないのは、きっと僕があんまりにも情けない顔をしているからだ。 「やめましょうよ、そんな……よくないですよ……」  顔に違わず情けない声を零した僕に、前条さんはうんざりしたように溜息を吐いた。 「『よくない』ことなら散々やってきたし、今更だろ」 「…………僕が嫌なんです」  一人残った親族を手にかける所なんて見たくないし、そもそもそんなことをして欲しくも無かった。  僕から見れば謙一さんは悪い人ではないけれど、前条さんとの間には何かあるのかもしれないし、事情なんて分からない。ただ僕が嫌だというだけで、前条さんの『嫌』を押さえ込もうとしている。完全に単なる我が儘だ。  自覚はあったので強く出ることも出来ず、口にした言葉は消え入りそうな声量になる。だが、この距離だ、前条さんの耳には届いたらしい。  僕を見上げた前条さんは、それまで明確な殺意を浮かべていた瞳を諦めに塗り替えると、気がそがれたように、横たわる身体から力を抜いた。 「――ところで、いつまで押し倒してるつもり? それとも此処でする?」 「しっ、しませんよ! する訳ないでしょどんなプレイですかッ!!」  苛立ちに歪んでいた唇が揶揄の混じった楽しげな笑みを浮かべた所で、僕は慌てて前条さんの上から飛び退いた。  前条さんの暴挙を止めるためとはいえ、ほぼ押し倒す形になってしまっていた。やむを得ずなので他意は無いが、そんな風に言われて尚も親族の前で押し倒し続ける度胸は、僕には無かった。  なんだ、つまんないの、と零す前条さんを睨みつつ、取り繕うように何もついていないズボンを叩いて払う。  気を取り直し、謙一さんへと向き直る。そう、まだ話の途中だったのだ。  前条さんは用があって此処に来たのだから、その用件を済ませなければならない。いちゃついている場合では無い。いや別にいちゃついていた訳ではないけど、誰かにそう言われる前に自分で言っとこう的な、多分月下部さんが居たら「いちゃついてんじゃねーよ」と言われたに違いない的な。  でも言われても良いから月下部さんが居た方がまだ良かったかもしれない。などと、運命を共にする生け贄を求めて思考を飛ばしていた僕は、そこで対面に座る謙一さんがどこか呆けたように此方を見つめていることに気づいた。 「謙一さん? どうかしましたか?」 「……いや、何、少し驚いてね」  驚く? 何に。首を傾げる僕が問いを重ねようとしたその時、隣から黒い手が伸びてきた。開こうとした口が手袋に押さえ込まれる。 「むぐ」 「もう一個言うの忘れてた。けーちゃん、此処出るまで俺以外と話すなよ」 「もがむぐぐ」  なんだそりゃ、僕には発言の自由も認められないのか。抗議を込めて暴れてみるも、先程までとは違ってびくともしなかった。どうやら手心の時間は終了らしい。  前条さんとは話して良いなら口を塞ぎ続ける必要は無いだろうに、前条さんの手は何度叩いても離れる気配も無かった。 「それで、結局ゲジ子はなんて言ってたんだよ」  幾分落ち着いた声で問いかける前条さんに、謙一さんはいつの間にか整え直した座卓の上の湯呑みに口をつけることで答えた。ずず、とお茶を啜る音が響く。  それ以外に返ってくる音は無い。前条さんは限りなく白けた顔で首を傾けると、わざとらしく溜息を吐いた。 「お前こそ子供じゃねーか、大人ならこのくらい軽く流せよ」 「もむぐ」 「私はただ、人として正しくあれと言っているだけなんだがな」 「もがむぐもご」 「人として正しく、ねえ? 相変わらず言ってることだけは立派だな、真っ当なことを口にしてれば真っ当な人間になれるとでも勘違いしてんのか?」 「もももむぐぐ」 「……けーちゃん、ちょっと黙って」 「もむぐむっ!」 「……あー、もう分かったよ。分かったから、そのもむもむ言うのをやめなさい」 「別に好きでもむもむ言ってんじゃないですよ!」  再びあの不穏な空気にするわけにはいかない、と出来うる限りの声を上げた僕に、前条さんは辟易したように手を放した。  その手を掴んで引き寄せつつ謙一さんの対面に腰を下ろす。嫌そうな顔こそされたものの、それ以上の抵抗はなく、前条さんは胡座を掻く形で僕の隣に並んだ。  対面に座る謙一さんが、変な物を食べたような顔をする。今まで見た限り早々表情が変わらない謙一さんにしては、珍しい表情だった。  気を取り直すように咳払いを響かせた謙一さんが、彼女を取り巻く絹糸の束へと視線を逸らしながら口を開く。 「……お前が連れてきた女からの伝言だが、『とある旅館に飲まれて出てこられなくなった。君なら干渉出来るだろうから、僕の代わりに〈探偵〉をやって欲しい』とのことだ」 「探偵? 何それ」 「私に聞くな。言伝以外のことは分からんよ」 「……うーん……『探偵』ぃ?」  渋るような声からは珍しく心情が浮き彫りになっていた。『俺、超常現象カウンセラーなんだけど』という不満だ。自作の資格のくせに――自作の資格だからだろうか――、前条さんは自分の胡散臭い肩書きに拘る節があった。  しばらく納得が行かない様子で首を傾げていた前条さんだったが、それでも得た情報には満足したのか、多少は機嫌が上方修正されたようだ。 「で、その『とある旅館』ってのはどこな訳?」 「〝化野旅館〟という名の旅館だそうだが、……行くつもりか?」 「まあね。あの人が死ぬと俺も困るし、行かないと不味い事になるのは確かだろうから」  飄々とした軽い調子ながらも有無を言わせない声音で答えた前条さんに、謙一さんは眉間の皺を数本増やしつつも諦めたように目を伏せ、片手に乗せた白い御守りを差し出した。 「持っていくといい、少しは役に立つだろう」 「別にいらないけど」 「お前にではなく櫛宮くんにだ、必要になることもあるんじゃないのか」 「もっといらない。俺が居れば充分だろ」  弾くようにして御守りを突っぱねた前条さんに、謙一さんは呆れたように頭を振った。 「お前が側に居られない状況というのもあるだろう。この間も不測の事態を考えて渡しておいたし、実際役に立った。持っていて損は無いはずだ」 「持っていること自体が損だから要らない。二度と俺のけーちゃんにそんなもの持たすなよ、今度は両足へし折るぞ」  前条さんの言葉を受けてか途端にざわつき始めた絹糸の束を、謙一さんが宥めるように片手で摩る。 「…………お前はどうしてそう、思春期の子供のような駄々を捏ねるんだ」 「情緒育ってないから? さっさとゲジ子返せよ、帰る」  清々しいまでの満面の笑みを浮かべてみせた前条さんに、謙一さんは何度目になるかも分からない溜息と共に片手を振った。  壁を塗り込めるように折り重なった絹糸の束から、ずるりとゲジ子さん――だろうか?の身体が現れる。一瞬判別が利かなかったのは、彼女の身体が昼に事務所で見た物とはあまりにも異なっていたからだ。  無数に生えていた腕は二本に収まり、穴だらけだった顔面は優しげな目鼻立ちの女性へと変わっている。  孵るようにして現れたその女性をゲジ子さんだと判断できたのは、単に流れとしてゲジ子さん以外が出てくるのはおかしい、という消去法に過ぎなかった。  意識の無いらしいゲジ子さんを、来た時と同じように肩に担いだ前条さんが、僕の腕を引いて座敷を後にしようとする。  僕は逆らわない程度に足を止め、頭を下げつつ、卓上に出されたままの御守りを二つ手の内に収めた。口を利くな、と言われたので無言でひったくった形になってしまったが、同じく無言で此方を見上げた謙一さんの目に咎めるような色は無かったので、何度か頭を下げつつ、前条さんに手を引かれながら敷居を跨いだ。  長い廊下を進みながら尻ポケットの奥に御守りをねじ込んで隠し、ゲジ子さんを後部座席に押し込んでから助手席に乗り込む。  キーを差し込んだ前条さんは、エンジンをかけながらキーから離した手を僕の方へと向けた。 「捨てるから出して」 「……何をです?」 「出せよ」 「い、嫌ですよ。だって前条さん要らないんでしょう? だったら僕が貰ってもいいじゃないですか」  これはしらばっくれるのは無理そうだな、と屁理屈を捏ねると、前条さんはしばらく無言で僕を見つめた。常に笑みを浮かべているような、薄ら笑いが標準装備な前条さんの真顔は、直視するには少々堪える。  だが、命を落とすかも知れない場所に乗り込むのだから、身を守るすべの一つや二つは手に入れておきたい。前条さんだって、万能では無いし、不死でも無いのだから。 「……前条さんが目を覚まさなかった時、謙一さんの御守りが役に立ったのは事実なんですよ。手段としてはアリだと思います」 「別にけーちゃん以外が使うなら良いよ。でもけーちゃんは駄目」 「なんでですか?」 「あいつがお前に何するか分かったもんじゃないから」 「……もし何かするつもりなら、前に会ったときにそうしてたんじゃないですか?」 「あの時は利用価値があっただろ」  利用価値? 今ひとつピンとこない僕に、前条さんは車を走らせつつ答える。 「お前が俺の中に出せば、その分目が覚めるのは早まった筈だ。結局やんなかったみたいだけど、可能性があるなら使おうとはするだろ」 「…………そんなこともありましたね」  忘れかけていた一件を思い出すと同時に、あの時の自分の慌てふためきようも脳裏に蘇ってしまい、思わず遠くを見つめてしまう。 「でも、謙一さんは無理強いはしないって言ってましたよ。タイミングが早まるってだけで変わらない、どうするかは任せるって。それに……もし僕が前条さんから離れることがあるなら、きっと前条さんは……自分を殺すだろうから、前条さんが人を殺す前に自死を選ぶ、とも言ってたんです。あんなこと言う人が、わざわざ僕を傷つけようとはしないと思うんですけど」 「口だけは上手いからな、あいつ」  吐き捨てるように言った前条さんは、最後に小さく、掠れた声で何事かを呟いた。  本当、口だけなんだよ。  その呟きが酷く悲しげに響いたものだから、僕はそれ以上何も聞けず、流れる景色を眺めるしかなかった。   2  ――――化野旅館は、対岸町から新幹線を使って二時間半程度の、とある観光地にある。  ただ、建物こそ残っては居るが、旅館自体は何年も前に廃業して今は廃屋同然になっているらしい。  どうも、〝化野〟というのは廃業する前の旅館の名前である『花野』の看板が一部破損したことで付けられた名称のようだった。  化野旅館は、ざっくり言ってしまえば『入った者が戻ってこない廃屋』だ。  ここ半年ほどで急にそういう人達――前条さんと同じような職種の人や、その類いのマニアの人――の間に噂が回り始めたのだという。  噂を聞いた人に寄れば、化野旅館には『艶っぽい美人女将』の幽霊が出るのだそうだ。それはもう、幽霊と分かっていても惹かれてしまう程の美しい女性が、旅館の入り口で『探偵』を待っているのだとか。  新幹線での移動中、暇潰しがてらに聞かせてくれた前条さんが言葉を切るとの同時に、僕は何となく、そう、あくまでも何となく、車内の天井へと視線を逃がしていた。 「へ、へー……美人の幽霊、ですか。ふ、布施さんって方はその方を目当てに行ったんですかね」 「だろうね。まあ、此処にも一人美人目当てになった奴がいそうだけど」 「どッ、どこのどいつです!?」  全く心当たりがありませんね!と浮つく胸を押さえて白を切った僕に、前条さんは呆れたように窓の外へと目を移した。  緩く掻き上げられた前髪が窓ガラスに当たり、晒された顔が反射する。その顔が段々と拗ねたものになっていくのが見えたので、僕は前条さんに寄り掛かるようにして、周りの席に聞こえないだろう声量で呟いた。 「……僕の目当ての美人は此処にいるので、全く心当たりはありませんね」 「ふーん、じゃあ俺が美人じゃなくなったら別のやつに目ぇつけに行くの?」 「…………本気でそう思ってるなら流石に怒りますよ」  あんまりなことを言われたのでつっけんどんな物言いになった僕に、前条さんは何が面白いのか、喉を鳴らして笑い始めた。おいこら、笑うな。どうせ、『けーちゃんがどんなに怒っても俺の方が強いしな』とか思ってるんだろ。畜生。それは紛れもない事実ですけど、怒るときは怒るし、戦わなければならないときは戦いますからね!  流石に前条さんだって、僕が彼の顔だけを好き、だなんて本気で思っちゃいないだろうが、冗談だとしても言って良いことと悪いことがある。大体、たとえどんなに顔が良くたって、前条さんみたいな人は前条さん以外お断りだ。  未だ続く笑い声を止めるようにぶすくれながら伝えると、ようやく落ち着いたらしい前条さんは中々聞かないしみじみとした声で、「俺もけーちゃんみたいなのは、けーちゃん以外お断りだな」なんて呟いた。  目的の駅で降りると、出てすぐの所に観光客向けのバスの発着所があった。その奥には土産屋が沢山並んでいるのが見える。丁度駅の改札を抜けて道路を挟んだ対面には、派手な看板の立った観光案内所も建っていた。  街並みの後ろを高い山々が囲んでいる。立派な山があると空気が美味しい気がした。空気が澄んでるとかどうとか、僕には上手いこと判別できないけども、少なくとも悪くはないと思う。  ちょっとした旅行気分だな、なんて思いかけて、『旅行』にはあまり良い思い出がないなと苦笑する。  櫛宮家は年に一、二度は旅行するのだが、僕は大抵予約の時点で存在を忘れられる。早く気づけば追加で取るけれど、当日気づいた時にはそのまま置いて行かれることもあった。  そもそも、部屋を取っても出発の段階で置いて行かれたりもした。恐らくあれもまた僕の存在の曖昧さが引き起こしていたものなのだろう。分かった今では仕方なかったな、と思えるが、当時は結構、凹んだりもした。  少し苦い思い出に一人渋い顔で佇んでいた僕を、既に目的地に向かって歩き始めていた前条さんが振り返る。 「どしたよ、けーちゃん。もしかして手ぇ繋いでないと歩けない?」 「は? いえ、別に! ちょっとぼーっとしてただけです!」 「繋ぎたいとは思ってそうな顔だな」 「すいませんね、顔面が正直で!」  後を追いながら勢いよく返事をした僕に、前条さんが笑いを噛み殺そうとして変な吐息を零す。  これ以上揶揄われる前に開き直っただけなのだが、割と効果があったらしい。前条さんは僕の頭を軽く撫でただけで、特に何を言うでもなく足を進めた。  旅館の位置は既に分かっているらしい。初めての土地だと言うのにすたすたと迷い無く歩く前条さんの後を追う。向こうを出た時間が遅かったもので、もう日が沈みかけていた。 「前条さんって地図とか見るの得意なんですか?」 「さあ、どうかな。考えたこと無いけど、今進んでるのは道が分かってるからじゃなくて場所が分かってるってだけだよ」 「……場所が分かってるなら道も分かってるってことですよね?」 「けーちゃんだって住宅街に高層ビルが建ってたら遠くからでも何となく近づけるだろ? それと一緒」  まあ、確かに、建物に隠れないくらいのビルがあれば、方向の目印にもなるし迷うことはないかもしれない。  だがこの辺りにそれらしいビルなんて一切無いし、そもそも探しているのは廃屋と化した旅館だ。それと一緒、と言われても今ひとつピンと来ない。 「少しすればけーちゃんにも分かるよ。周りが空き家だらけになったらもう近い」 「空き家、って……潰れたのはその旅館だけじゃありませんでした?」 「そうだけど、もし俺なら『あんな所』には絶対住まないね。たとえ御神体が祭られてる霊験あらたかな土地だとしても、御神木が百本立ってても住みたくない」  半笑いで告げられたその文言には聞き覚えがあった。一度だけ、前条さんがはっきりと『受けない』と言った仕事――砂上の一件の際に聞いた台詞だ。  前条さんにとっての『あんな所』、遠くから見ても分かるほどに不味い場所に、今から向かおうとしている。素直に足が重くなった。  コートに入れた御守りを、ポケットの上から祈るようにして撫でる。どうか無事に帰れますように、と祈願する僕の手を、黒手袋の指先がコートから引き剥がすようにして取った。  あ、と思った時には黒い指が僕の指に絡む。恐らく僕が謙一さんの御守りに頼ろうとしたのを察知したのだろう。御守りまで駄目って、そんなに嫌いですか。  一体、前条さんと謙一さんの間に何があったのか。聞きたいけれど、あの横顔を思い出すと上手く切り出せない。下手をしたら、統二のことよりも深い問題にも思える。  また落ち着いたときに話してくれるかもしれない。話したくないのなら、それはそれで構わないし。とりあえず僕がいま早急に考えなければならない案件は、この、がっちりと組まれた恋人繋ぎの右手である。 「ちょっと、前条さん! 流石に人目がある所でこれはどうかと思いますよ!」 「人目? 人なんてもう居ないけど?」  は? そんな訳ないでしょう、一応観光地ですよ。  そう思って辺りを見回した僕の目には、何とも閑散とした民家ばかりが映っていた。トタン屋根の剥がれ落ちた小屋や、ボロボロの洗濯機が転がった荒れ果てた庭や、窓ガラスの割れた民家。薬局でもあったのか、薬を持った緑色の蛙が半分に割れて転がっている所もある。  駅前の大通りはあんなに賑わっていて、近くに建つ立派な旅館の前は明るく照らされて輝いていたというのに、此処はまるで、墓場か何かのようだった。  振り解きかけていた手を、僕の方から強く握る。前条さんは不気味な鼻歌を響かせながら、やはり迷いの無い足取りで民家の間の路地を抜けていった。  夕焼けに染まる住宅街に、不安定な鼻歌が響く。それ怖いからやめて下さい、と言いかけたところで、僕はいち早く異常事態を察知した。  前方に古ぼけた旅館が建っている。話に聞いていたほど廃屋じみてはいないが、長い年数で劣化したのが分かる代物だ。  それ自体も不気味だが、僕にとって重要なのはそこではない。  古いながらも丁寧に手入れされた引き戸の手前に、青い着物の女性が佇んでいる。立ち姿から既に麗しいその女性を認識しかけた僕は、かつてない程の手早さでもって、眼鏡を外した。 「前条さん! 駄目です! ちょっと待って下さい!」 「何? 駄目なのは承知で行くんだから今更──……なんで眼鏡外してんの?」 「いや、ちょっと、不味いですアレは! ちょっと不味いです!」 「何が?」 「ちょっと美人過ぎますよアレ!!」  眼鏡を外していなかったら即死だった。  自分のことだ、自分が一番良く分かっている。およそ十年ほど『自分』を半分失っていた僕が言う台詞では無かったが、たとえ存在が曖昧になろうと僕の常軌を逸した面食い具合は変わらなかったのだ。その点に関してだけは圧倒的に信頼がある。  コートのポケットに眼鏡をしまい、大分ぼやけた視界で捉えて尚美しいと分かる女将から目を逸らした僕に、前条さんは珍しく、本当に珍しく、若干引いた様子で「ああそう……」と零した。  耐えきれず前条さんの腕に顔を埋めた僕の耳に、美人で良かったね、と優しい声が降ってくる。やめてください。優しくしないで下さい。今の僕に優しくしないで下さい!  コンマ数秒見ただけだというのに記憶に焼き付いてしまった美しい顔立ちの若女将を必死に振り払う。  どうして美人の泣き黒子はあんなにも素晴らしいのか。やや下がり気味の眉と控えめな笑みを浮かべる唇も相俟って、憂いを帯びた儚げな美しさがある。クソッ、脳内から追い払えない! 「前条さん!」 「何?」 「ちょっとキスしてください!」 「気でも狂ったの?」 「ダメですか!」 「いいけど、気でも狂ったの?」  狂いそうだから助けて欲しいんです!と涙目で叫べば、前条さんはここ半年でも中々見せなかった困惑の滲む顔で僕に口づけた。本当に困っている顔をしている。困惑をそのままに、軽く押し当てるだけの口づけで済ませた前条さんは、そのまましがみつく僕の情けない顔を見下ろし、心の底から同情した声で、「頑張れよ」とだけ言った。  いや、だから、今の僕に優しくしないで下さいってば!  何ならいつものようにちょっと脅してくれるくらいの方が良かった。優しくされると涙が出て来そうになる。違うんですよ、僕の細胞は美人を見ると全面降伏するように出来ているんです。すいません。  本当についてきてよかったのだろうか。役立たずも良いところじゃないだろうか。  今更過ぎる事実に打ちひしがれながらも、月下部さんが『連れていけ』と言ったのだから、きっと何か意味がある筈だと己を鼓舞する。  そ、それに、別に美人を見てときめいてしまうだけで浮気をしている訳ではないのだし……なんて思ってしまうが、心底哀れむように見てくる前条さんの目を見ると、違うんです僕はもっと鋼の意志で貴方を愛しているんです、と態度で示したくなってしまう。畜生。……畜生! 「前条さん、ちょっと可愛い顔してください。僕を助けると思って」 「はいはい、馬鹿言ってないでさっさと行って片付けて帰ろうな」 「可哀想で見てられない、みたいな顔しないでください!! 可愛い顔をしてください!!」 「うんうん、そうだねえ」  抱っこちゃん人形みたいにくっついた僕に雑な返事をしつつ、前条さんは迷うことなく旅館の前まで足を進めた。眼鏡を外しているのでついていくことしか出来ない僕の視界に、鮮やかな青い着物がぼんやりと映る。  藍色に染まりゆく空の下、明かりの乏しい旅館の入り口で微笑む彼女は、対面で立ち止まった僕らを見ると、見目に相応しい美しい声で出迎えの挨拶を口にした。 「ようこそいらっしゃいました。ご案内しますので、どうぞ此方へ。布施様がお待ちです」 「……どうも」  恐らく、よそ行きの微笑みを浮かべつつ返したのだろう前条さんと共に、古い造りの引き戸の奥へと足を向ける。近眼故に近くしか確かめることは出来なかったが、古いながらも綺麗に整えられた、雰囲気のある旅館であることは十分に分かった。  正直、幽霊旅館としての趣はさほど感じられない。電気が通っているわけでも無いのに明るいし、普通に泊まるにも問題無さそうなくらいだった。  開かれた戸の奥で促すように振り返る女将に続こうとしたところで、隣を歩く前条さんが足を止める。視界不良の僕は前条さんについていくしかないので、当然僕の足も同様に止まった。 「……前条さん? どうかしました?」 「今の状況でけーちゃんが俺にそれ言うの、大分面白いね」 「…………そうですね」  突っ込みを入れようにも何一つ反論できなかったので素直に頷いた僕に、前条さんは喉を鳴らして笑った。今回ばかりは甘んじて受け入れよう。どう見たってどうかしているのは美人を前に錯乱している僕の方だからだ。  躊躇うように立ち止まっていた前条さんが、「面倒だな」とぼやきながら引き戸の奥へと足を進める。その『面倒』の意味は僕にはよく分からなかったが、やはり前条さんにとっても此処は喜んで来たいような場所では無いらしい。  緊張と共にもたつきながら靴を脱ぎ、フロントまで向かう。カウンターの下から宿泊名簿を取り出した女将さんは、横綴じのそれを開くと、『布施 七彦』と書かれた欄の隣を示した。   「お名前を頂戴してもよろしいですか」 「あ、はい」  落ち着いた声に促されて、ごく自然にペンを受け取る。眼鏡を外したままなので至近距離で見下ろし、『櫛宮』まで書いて、ごくごく素直に『慧一』と続けようとした所で──ペンを握っていた手を、一回り大きな手が上から掴んだ。背中に、冷えた体温が在る。 「はっ、えっ、ぜ、前条さん!? アンタ何して、」 「いいからいいから」  押さえ付けられたペン先が、無理矢理動かされたことで歪な文字を形作る。仮にペンを渡していたとしても汚く歪んだであろう字は、『櫛宮』の後に『司』と書き足した。  酷い形のそれを見下ろし、眉を顰める僕の対面で、女将さんが静かに呟く。 「『櫛宮 司』様で宜しいですか?」 「え、え? あ、いや、えーと」 「ええそうです、櫛宮司です。けーちゃん、俺にもペン貸して」 「え、いや、え? あの、ちょっと」  櫛宮司。ほんの半年前まで、紛れもなく僕の名前だったものだ。しかしそれはあくまでも『だった』であって、今は違う。そもそも、必死に取り戻そうとしていた名前を、どうしてよりにもよって前条さん自身が否定するような真似を?  困惑しながら見上げる僕に答えることなく、前条さんは笑みを崩さないまま台帳に名前を書いた。相変わらず汚いが、『前条 昂』と書かれていることは分かる。正直汚すぎて『昴』に見えてしまっている気がするが、僕にはそれを指摘する勇気は無かった。 「なんか昴に見えるな。これ、昂です」 「自分で言うんですか!? ねえ!? あれ!? ぜ、前条さん!?」  吹っ切れたにしても、ギアが上がりすぎではないだろうか。アクセルを踏み込みまくっている気がする。このままだと何処かに突っ込んで事故を起こしそうな勢いまである。  混乱する僕に、前条さんは人差し指を唇に当てながら笑う。女将さんは僕にしたのと同じように名前の確認をしかけ、そこで息が詰まったように口を噤んだ。 「前条……様、ですね」 「ええ、そうです」  微かにひりついた空気が漂う。宿泊名簿を閉じた女将さんが、そこで初めて僕らを認識したかのように、じっと此方の顔を見据えた。  ぼやけた視界でも美しい顔立ちに、思いっ切り視線が泳いでしまう。挙動不審になる僕を余所に、女将さんは静かに頭を下げた。 「申し遅れました、私、花野実鞠と申します。まず、このような場所にお呼び立てしてしまったこと、お詫びさせて下さい」 「ええ、本当に。土下座でも足りない程度には最悪です。出来れば今すぐ帰りたいくらいですが、どうせもう開かないんでしょう? どうやらあの人も『閉じ込められた』らしいですからね」  開かない、という言葉に、何が、と意識するより先に視線が入り口の引き戸へと向かう。夕暮れ時だった筈の外は、磨り硝子越しにもはっきりと分かるほどの暗闇に変わっていた。 「えっ、あそこ、もう開かないんですか?」 「開かないね。あの人がどういう意図で俺を呼びつけたのかは分からないけど、何かさせようとしてるのは確かだ。まあ、どういう動機で呼びつけたかは……」  冷めた瞳が女将さん──実鞠さんを見やる。  美しい顔を悲しげに歪めた実鞠さんは、胸元で震える両手を握り締めると、祈るように言葉を紡いだ。 「……前条様、櫛宮様、どうか私達を助けて下さい。私達は沢山のことを間違えてきました。もう、外の方に助けを求めるしか、手が残されていないのです」  分かるけど、という掠れた呟きが溜息に混じって消えた。疲弊の滲む仕草で目を閉じた前条さんが、気を取り直すように一呼吸置き、瞼を上げる。 「とりあえず、部屋に案内して貰えます?」 「……かしこまりました」 「ああ、あと、後で話を聞くかもしれないんですけど、普段は何方に?」 「……受付におります。此処では食事も必要ありませんので」  何処か自嘲気味な微笑みを浮かべた実鞠さんは、カウンターから出ると、少し先に立って僕らを部屋まで案内し始めた。  広くはない廊下を進み、中庭らしき景色を視界の端に捉えつつ、青い着物の後を追う。彼女とは少し離れていること、腕にしがみついている為に僕らの距離は近いことを利用して、僕は隣の前条さんにそっと尋ねた。 「……さっきの、何の意味があるんですか」 「ん?」 「名前ですよ、名前。なんだってあんな……」 「ああ、アレね。こんな場所で相手に名前を知られるのなんて俎上の魚も良いところだし、折角有効な名前があるならどうせなら使っておこうと思って」 「……でも、前条さんは本名じゃないですか」  わざわざ訂正までして本名を書いていた筈だ。汚すぎて無効、とかいう裏技でもない限りは、僕や、恐らくは偽名なのだろう布施さんと同じように別の名前を使った方がいいと思うのだけれど。  怪訝に思って尋ねた僕に、前条さんはなんてことは無い声で笑いながら返した。 「そりゃお前、あんな化け物が飛び切りの呪いを込めてつけた名前だからな。半端な偽名より使い勝手が良いんだよ」  返す言葉が上手く見つからなかった。  なんと返すのが正解なのかも分からない。結果唇を噛んで気まずげに目を逸らすことしか出来なくなった僕の頭を、前条さんの手が何処か慰めるようにぽんぽんと軽く撫でた。  気にするな、と言われてしまえば、僕には気にしないように努めることしか出来ない。前条さんがあの男に名付けられたのは変えようのない事実なのだし。名付けられた本人が上手く使ってやろう、と考えているくらいが丁度良いのかもしれない。  彼があんな、何処かへ消えてしまいそうな顔をせずに済むのなら、それでいいのだと思う。

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