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Ⅱ-3:旅館の話③

 そんなやり取りをしている内に、前方を歩く実鞠さんの足が止まった。振り返る、と察すると同時に目線を逸らす。 「布施様、前条様がお越しになりました」  『牡丹の間』と室名札のかかった部屋の前で立ち止まった実鞠さんは、中にいる客──布施さんに声を掛けると、僕たちを室内へと通した。静かに礼を取って退室する実鞠さんを見送ってから、そっと眼鏡をかけ直す。  随分と立派な部屋だ。中にも廊下があり、障子戸に遮られた客室の奥にもう一つ部屋がついている。少なくとも一人で泊まるような部屋ではない。  その手前側の客室に、四十代半ばに見える男性が座っていた。和装の彼は、肩ほどまであるだろう軋んだ黒髪を緩く一つに束ね、眼鏡紐のついた薄い色つきの丸眼鏡をかけている。やや猫背気味に正座する彼は、優しげな顔つきをより柔らかく感じさせるような笑みを浮かべると、客室の入り口に立つ僕らを手招いた。 「やあ、やあ、昂くん。よく来てくれました、ま、ほら、とりあえず、座ってください。……ん? そちらの彼は、…………んん?」  呼んだのは前条さんだけのつもりだったんだろう。隣に立つ僕に気づいた布施さんは不思議そうに目を瞬かせた後、薄紫色の丸眼鏡を外すと、じっと僕を見つめた。  糸目がちで分かりづらかったが、鮮やかな碧眼だ。透き通るような鮮やかな碧。人ではないものを思わせるような輝きに知らず背を正しつつ、遅れて挨拶する。 「あっ、えっと、初めまして。櫛宮、あー……ええと、櫛宮です。前条さんの事務所で助手をやっています」  この人相手には本名を名乗っても良いのだろうか。というか、この旅館に居る間に本名を口にしていいのか?  分からずに濁したまま名乗ると、布施さんははっとした顔で眼鏡をかけ直し、ふにゃりとした笑みを浮かべた。 「これはどうも、初めまして。布施と申します。わざわざ遠いところを、ありがとうございます。君がいれば昂くんも心強いでしょう、本当に、ありがとうございます」  そう言って深く頭を下げるものだから、いえいえ、そんな、僕なんかいてもいなくてもおんなじくらいで、と呟きながら同じく頭を下げる。  そんなやり取りをしている間に、前条さんは布施さんの対面へと腰を落ち着けていた。勝手にポットのお湯を注いでお茶まで淹れているので、慌てて隣に座る。 「彼が噂のけーちゃんくんですか?」  にっこり、微笑みながら問いかける布施さんの手前に、前条さんが湯飲みを置く。なんと驚き。前条さんが人の為にお茶を淹れている。この人にも一応、オーナーに対して気を遣うとか、そういう精神があったのか。  自分でも分かるほどに目を丸くしている内に、ふと引っかかりを覚えて対面の布施さんへと視線を向ける。にこにこと柔らかい笑みを浮かべる布施さんは、確かに『けーちゃん』と口にした。  ビルのオーナーだと言っていたから、前条さんとは数年は付き合いがある筈だ。僕のことも話しているのだろうか。 「そ。これがけーちゃん」 「なるほど、可愛らしいですね。昂くんが大好きになるのも分かります」 「でしょ」 「ところで、許可は取ってあるんですか?」  うんうんと頷いていた布施さんは、やっぱりにこにこしたまま首を傾げて前条さんに尋ねた。  言葉こそ素っ気ないものの随分と上機嫌なことが分かる口振りだった前条さんが、静かに布施さんから目を逸らす。  許可? 許可って何だ。何の許可だろう。  答えを返さずに済む理由付けか、不自然なほど長くお茶を啜っていた前条さんは、微笑みを浮かべたまま待つ布施さんが話を流すつもりがないと悟ると、静かに湯飲みを置いた。 「取ったよ。ちゃんと全部読んで書かせたから」 「ああ、ならよかったです。きちんと真実を書いた上で了承したのなら、とても素敵な絆ですね」 「…………」 「昂くん?」  再度お茶を啜った前条さんは、中身が空っぽになると殊更にゆっくりとした動作でお茶を注ぎ、隣の僕に目を向けた。 「けーちゃん、ちゃんと読んで書いたもんね。契約書」 「え? え、え、あ、はい。そうですね……?」  念押しするような声音に、半分ほど理解が追いつかないまま頷く。確かに、あの日の僕はきちんと契約書を読んで署名した。労働時間にも給与にも特に問題は無かった筈だ。いや、しかし、そういえば以前にも『契約書』の話をした覚えがあるような気がする。  朧気な記憶を辿り、砂上の一件を思い出した僕の頭が、ファミレスで聞いた前条さんの言葉を探り当てる。 「……そういえば聞き忘れていたんですけど、あの『契約書』ってただの契約書じゃないんですか?」  黙れ、と言いたげに背中を殴られた。ちょっと、痛いじゃないですか。  隣で胡座を掻く前条さんに視線を向けると同時に、布施さんが頬を掻きながら苦笑した。 「昂くん、いけません。契約というのは、きちんと許可を取らなければ。悪魔だってもう少し優しいですよ」 「いいじゃん、別に。取って食おうってんじゃないんだし、保険みたいなもんだろ。それにもう付き合ってるから問題無い。それより、なんで急に呼び出された訳?」 「おっと、お付き合いを始めたんですか。それはそれは、めでたいですねえ、よかったです」 「うん。それで、なんで急に呼び出された訳? 『探偵』って何?」 「ああ、そうでした。その話です、そうです、とても大事なことでした」  ぱん、と両手を合わせて打った布施さんはあっさりと契約書の話を終わらせると、テーブルに用意された煎餅の袋を開けながら話を切り出した。  僕としては『契約書』の話が物凄く気になるのだが、流石に此処が話題を戻しにかかるタイミングでないことくらいは分かる。足が痺れそうなのでそれとなく正座を崩しつつ、素直に布施さんの言葉に耳を傾けた。 「実はですね、この化野旅館──元は花野旅館ですか、此処では昔、殺人事件が起こっているんです。殺されたのは旅館の経営者である旦那さんと、女将さんである奥さん、旦那さんの弟さんである料理長。三人とも、一晩の内に首を落とされ、四肢を千切られて絶命しています」  話し始めから大分重い話題が来た。旅館で起こった殺人事件。此処までは、まあ、起こりうる──として、一晩の間に三人とも、四肢を千切られて死んでいる、というのはちょっと異様だ。特に、『千切られている』という点が。  切り落とされて、とか、捻じ切られて、とかではなく、千切られている、と言ったからには、それは確かに千切られていたのだろう。 「旦那さんは宴会場で、奥さんは『桔梗の間』で、弟さんは調理場で死んでいたそうです。現場には犯人の痕跡は何もなく、結局見つからないまま凄惨な事件の影響で客足は遠のき、花野旅館は廃業となった────とされていますが、実際は少々事実が異なります」  一度言葉を切り、煎餅をかじった布施さんが、咀嚼したそれをお茶と共に飲み込む。 「実を言うとですね、旅館の経営に携わるこの三人が死ぬ少し前に、もう一件、殺神事件が起こっているんですよ」  殺神事件、とメモ紙に丁寧な字で書かれた四文字を掲げた布施さんは、言葉の意味を上手く飲み込めていない僕の訝しげな顔を見ながら、やはり穏やかな声で続けた。 「殺されたのはこの旅館についていた座敷童子です。彼女がいなくなった結果、三人が殺され、齎されていた富も消え、旅館は廃業となりました。どちらにせよ経営陣三人が亡くなっているので続けていくのは難しかったでしょうが、仮に生きていたとしても、彼女のおかげで栄えていた旅館ならば、同じ結果になったことでしょうね」  痛ましい事件です、と心の底から同情を込めた吐息を零して、布施さんは一度言葉を切る。 「そして今、この旅館は殺された座敷童子の念によって閉ざされ、当時のまま形を保たれています。座敷童子を殺した犯人が誰か分かるまで、出ることは許されていません。『犯人を突き止め、真相を暴いて欲しい』というのが、此処に捕らわれた者の一人である若女将さんからのお願いなのですが、今回、その探偵役を昂くんにお願いしたいと思いまして。急遽此方に来て頂いた次第です」 「……一つ聞いて良い?」 「ええ、どうぞ」 「布施さんさあ、手に負えないって分かってるくせに入ったろ」  なんともうんざりとした口調だった。頬杖をついた前条さんが怠そうな声で投げかけた問いに、布施さんが何故か妙に照れ臭そうな笑みで答える。 「おっと、ばれてしまいましたか」 「そりゃ分かるよ、俺のこと呼び出す前提で入りやがって。なんてところに呼び込んでくれたんだか。まあ、下手に動いたりしないでくれたのは良いけどさ」 「ぼくはまだ死ねないですからね、慎重に動かねばなりません。まだ、救うべき方達が沢山います」  ごく明るい声で告げた布施さんを見ながら、前条さんが元々傾けていた首を更に倒す。首を支えていた腕ごとぺたりと座敷机に倒れ込んだ前条さんは、長い溜息を零すと、あんたどうせ一人も治療できないじゃん、とぼやいた。  それは、なんというか、本人の前で言って良いことなのだろうか。よく分からないが、そもそも僕には二人が何の会話をしているのかも分からないので、どうにも判定不能だった。  前条さんの言葉が届いているのかいないのか、照れたような笑みを浮かべた布施さんが、持て余し気味に軽く指を組む。 「確かに、難しいことですから中々上手くいってはいませんね。ですが、君の治療は上出来だったと思いますよ。ぼくにも救える方は必ず居る筈です」 「…………」 「ああ、勿論、君の治療が出来たのはけーちゃんくんのおかげでもありますが。それは充分、分かっていますよ。ですが、助けを求める者がいるなら、救いの手を差し伸べるべきだとは思いませんか?」 「…………まあ、そうかもね」 「それに、解き明かすことが彼女の治療に繋がるのであればぼくの命など安いとも言えますが、間違っていれば無駄死にです。それに、折角君を呼びにいってくれた津夜子にも悲しい思いをさせてしまいますし……」 「ふーん、それで、俺なら良いって思ったんだ?」 「そうです、そうです。昂くんは頑丈ですし、きっと別の方法で彼女を救うことも出来るでしょう? これは適任だ、と思ったんですよ」  にっこりと微笑んだ布施さんの笑みには少しの嘘もないように見えた。  翳りのない優しげな微笑みを受け止めた前条さんが、小さな唸り声と共に身体を起こす。 「解放してやりたいなら、外から火でもつけてやればよかったのに」 「昂くん、最初から諦めては駄目なんですよ。彼女は解決と成就を望んでいます、患者の望みには出来る限り応えたいのです」 「ああ、もう既に患者認定なんだ」 「勿論です。彼女を病室に連れて行くことは難しそうですから、此処で治療しなければ。彼女は苦しんでいるだけなのです。ぼくはその苦しみを出来る限り除いてあげたい」 「……俺にしたように?」 「ええ、そうです」  深く頷いた布施さんに、前条さんは諦めの滲んだ軽い溜息を吐いてから隣に座る僕を肩に手を回す形で抱き寄せた。突然のことに目を白黒させる僕を置いて、前条さんはややトーンの上がった声で宣言する。 「分かった。どうせ此処まで来たし、付き合ってやっても良いよ。でもとりあえず、今からけーちゃんと向こうで寝るから、どっか散歩してきて」 「は? え、ちょ、前条さん?」 「承知しました。一時間くらいでいいですか?」 「しょ、承知しちゃうんですか!?」  寝るって、昼寝とかそういうんじゃないんですよ!? 分かってます!? 向こうの客室で今からおっ始めますよ、って話ですよ!?  口から出こそしなかったものの、目でもって全力で訴えた僕に、布施さんは出会いから此処まで少しも変わらない笑みを浮かべたまま、穏やかに頷いた。 「不特定多数と行為に及ぶよりは、余程健全な行為じゃないかと思います。ではまた一時間後に」 「別に五分くらいでもいいよ。そんなかかんないし」 「ハ!? そんな早くないですけど!?」  反射的に返してしまってから、いや今の返しはおかしいだろ、と我にかえる。別に自分が早漏じゃないとかそういうことを主張したかった訳ではなくてですね。違うんですよ、そりゃ五分で済んだ方が良いに決まってますよね分かってますすみません。  というか、この旅館に暇を潰せるような安全な場所なんてあるんだろうか、などと思っている内に、布施さんの背中は扉の向こうに消えてしまっていた。  肩に腕を回していた前条さんが、扉が閉まると同時に、意気揚々と僕を奥の部屋へと連行する。  襖一つで区切られた部屋には左手側に床の間と、更に奥に広縁がある。日はとうに沈んでいて、窓の向こう側は真っ暗だった。  これが本当に日が沈んでいるからなのかは僕には判断が付かないが、兎に角、外には光らしきものは少しも感じ取れなかった。 「これ布団って何処にあんの?」 「え、ああ、隣の押し入れじゃないですか……って、いや、なんで布団敷こうとしてるんです!?」 「え? 立ったまましたいってこと? 一時間貰ったのに冷たいやつだな」 「そもそもなんでしようとしてるのかって話ですよ!」 「寒くて動けないからとりあえず貰っとこうかなって」 「…………出掛けにしました、よね?」  心臓と体温が無く、寒くなりすぎると動けなくなるという少々特殊な身体の前条さんは、精液を摂取することで幾らか寒さを和らげることが出来る、という、意識が何処かに飛びそうな体質を持っている。  故に、寒さを誤魔化せる事務所から離れる時には誰かと──最近は主に僕と──寝て、身体の調子を整えるのだ。主に、というところがこの人の厄介なところである。  布施さんは健全だとかなんだとか言っていたけれど、実際のところは不健全極まりないままなのだ。というか、僕らの間では関係としては夫婦なのだから、普通に不倫だ。最悪だ。  その最悪な人がどうしようもなく好きな時点で、僕もある意味最悪なのかもしれない。自嘲と共に何処か遠くへ意識をやりかけた僕の耳に、なんともうんざりした声が届いた。 「此処じゃあまりに分が悪すぎるんだよ。わざわざ相手のテリトリーに入り込んで中から解決しようってんだからさ。ほんと、外から火でもつけた方が早いくらいだったけど、布施さんもう入っちゃったからな」 「……布施さんがいなくてもやっちゃ駄目だと思いますけど」 「なんで? 中に生きてる人間なんて居ないのに」  僕の言いたいことなんて分かっているくせに、わざとらしい笑い声が響く。言ったところで通じはしないと察してしまうような声だった。放火は犯罪だからですよ、更に言うなら重罪です、と返しつつ押し倒してくる前条さんの手に逆らうことなく布団に転がった。  必要経費だと言われてしまえば、やることをやるしかない。悪い冗談でも言いたくなるほどに『分が悪い』というなら、僕だって出来る限り協力は惜しまないつもりだ。  最低限の脱衣で済ませようとしてくる前条さんの口づけを受けながら、この後どんな顔で布施さんに会えばいいんだろう、なんて心配が頭の片隅に浮かんで、すぐに溶けた。 「────とりあえず、現時点でおかしな点が幾つかあるから確認していい?」 「ええ、勿論、ぼくが答えられることなら答えますよ。なんでしょう」  一時間後。どうせ時間があるなら何度かしようよ、なんて言って僕から搾り取っていった前条さんは、部屋に入った当初よりも大分気力を取り戻した調子で、戻ってきた布施さんに尋ねた。  対照的に気力のほとんどを持って行かれ、布団に横たわったまま出迎えるしかなかった僕の居たたまれなさと言ったらない。布施さんが特に触れることもなく会話を続けてくれたからよかったものの、これで呆れた顔のひとつでもされていたら恥ずかしくて布団で繭を作っていたレベルだ。  もはや今すぐ帰りたいくらいだが、生憎とこの旅館で起きた事件を解決しなければ出ることは出来ない──らしい。実際に試してはいないが、僕らより先に中に入っていた布施さんがそう断言し、前条さんも否定していないのなら事実なんだろう。 「この旅館を閉じてるのが座敷童子の念だとして、異界を作れるレベルの存在のくせに自分を殺した犯人が分からないってどういう状況?」 「おっと、最初にそこですか」 「そりゃそうだよ、それ以外無いだろ。そもそも三人が呪い殺されてるんだからそいつらが犯人なんじゃねえの、見つける以前に答えが転がってると思うんだけど」  肩を竦める前条さんの言葉を横になったまま聞きながら、そういえばそうだな、と納得する。座敷童子を殺したことでこの旅館が閉ざされているのなら、念だけにしても座敷童子はまだ存在している訳だ。人間と違って殺された後も存在出来る時点で、自分を殺した犯人を名指しで伝えられるし、なんなら報復だって出来るから、三人は呪い殺されたんじゃないのか? どうしてわざわざ探して欲しいなんて言うんだろうか。  上手く回らない頭でぼんやりと考える僕の横で、布施さんは困ったように眉を下げた。 「そうですねえ……それに関しては、『真相を暴いて欲しい』としか言われないんですよね。どうやら、彼女自身にも制約に近いものが働いているようで。話すこと自体が辛い、というのもあるかもしれませんが、解決を求めているのなら情報提供はしてくださると思いますから、やはり話すことが出来ない、というのが正しいように思います」 「そりゃ、あの様でこんな所に居るんだからそうだろうけど。布施さんは視て何も感じなかった訳?」 「ええ、なにぶん、『こんな所』ですから、ぼくから視ると何処も彼処も万華鏡のように歪んでしまっていて、正直少し困っています」 「…………あー、感覚としては俺も似たようなもんかな。だから入りたくなかったんだけど、布施さんが呼ぶからさあ」 「昂くんは優しいですからね、きっと、来てくれると思っていました」  にっこりと微笑んだ布施さんに、前条さんは確かに呆れの滲む顔で小さく溜息を吐いた。  顔を合わせた当初から感じていたことだが、前条さんは布施さんに対しては大分毒気が抜かれているように思える。布施さんもまた違った意味で掴み所がない人だからかもしれない。  もしくは、先程言っていた『治療』の一件で恩があるから強くは言えない、とか? 二人きりの時に聞ければと思っていたのだが、とてもそんな余裕はなかったので結局布施さんと前条さんの関係はよく分からないままだ。  ただ、謙一さんとは違って大分友好的な関係を築いているらしい。完全に僕の勝手なイメージでしかないが、なんというか、距離感としては謙一さんよりも余程『親戚の人』みたいだった。 「別に来たくて来たわけじゃないよ、しおんちゃんが言うから来ただけ」 「月下部くんが? それはそれは、一体何を言われたんでしょう、気になります」 「二月十日、俺かアンタが死ぬらしいよ」 「なんと、いやはや、死ぬ、となると非常に困りますね……三号室の方は改善の兆しが見えていたように思うので、あともう一息だと考えていたんですが」 「けーちゃんが居れば回避出来るらしいから連れてきた。一応、死んでも大丈夫なようにしてあるし」 「いや、死んでも大丈夫だろうと死にたくはないですよ、僕は……」  一部聞き捨てならない言葉が出て来たので、無駄と知りつつも一応主張だけはした僕に、前条さんは分かってるよと軽く手を振った。  本当に分かってます? 分かってる人間は『死んでも大丈夫』とか言わないと思うんですけど。いや、そもそも『死んでも大丈夫』な状態ってなんだよ。そんな状態あるのか?  脳裏に浮かぶのは、名前を取り戻した日、啜り泣く統二を前にした時の前条さんの言葉だ。『けーちゃんは死んでも一緒』だと、確かにそう言っていた。察するに、例の契約書に何かあるんだろう。それが何なのかは、呪術にも怪異にも超常現象にも詳しくない僕にはよく分からない。何せ、一般的な職種ではないのだ。調べたところでその知識が正しいのか僕には判断できないし、更に言えば前条さんは特殊すぎるほど特殊な人だから、僕がちょっと調べた程度で正解に辿り着けるとも思えなかった。 「大丈夫ですよ、けーちゃんくん。死んでも問題ないように取り計らっているとしても、昂くんは大好きな人を黙って死なせるようなタイプではありませんから」  前条さんにも布施さんにも死んで欲しくないが、無論僕だって死にたくはない。この先何が起こるか分からない不安が顔に出ていたらしい僕に、布施さんは穏やかな声で言い聞かせた。 「大好きな人、と言われるには大分無茶な扱いを受けてきた気がしますけどね……」 「そうなんですか? 恋人は大事にしないと駄目ですよ、昂くん」 「これ以上無いほどに大事にしてるけどなあ?」 「言っときますけどね、大事にしている人は動けなくなるほど搾り取ったりしません」 「けーちゃんが貧弱なだけでしょ」  笑いながら告げられた言葉に黙り込んだ僕を見て、前条さんは込み上げる笑いを堪えるように顔を背けた。小さく肩が揺れている。悔しいことに何も言い返せず、身動きも取れなかったので、とりあえず抗議の意味を込めて歯軋りをしておいた。 「もう一つ聞きたいんだけど、今まで此処に入った奴らってどうなったのか知ってる?」 「犯人当てに失敗した方はその場で潰れてしまいました。これはぼくが目の前で見たので確かです」 「……ふーん、そう。出て来た奴が居ないってことは、全部そうなったってことだな」 「そのようですね」  惨状を思い出したのだろう、痛ましげに眉を寄せた布施さんが緩慢な仕草で頷く。まだ若い方だったのに残念です、と続ける布施さんの声を聞きながら、僕は反射的に身体を起こしていた。酸欠の名残か、ぐらつく頭を支えるように手を突く。 「つ、潰れたって、どういうことですか?」 「そのままの意味です。その場でこう、上から押し潰されてしまったんですよ、ええ」 「…………えっと、待って下さい。犯人を間違えたら、そうなるってことは、やっぱり『正解』は分かっている、ということになりませんか?」 「みたいですねえ」 「いや、みたいですね、じゃなくて……」  『間違い』の罰が存在するなら、やっぱり『正解』はもう出ているということになる。殺されたせいでこの旅館を呪い、閉ざした座敷童子の目的が『犯人を知ること』なら、それは既に果たされているってことにならないか?  だったら多分、この旅館にかかった呪いの目的は『犯人を知ること』ではない筈だ。でも、それならどうしてわざわざ『犯人を突き止めて欲しい』なんて言うのか。  呪いに理屈なんて通用しないのかも知れないが、今ひとつしっくりこない状況に首を傾げる僕の視界で、頬杖を突いていた前条さんがぼやくように言った。 「大体、『犯人が分かれば旅館から出られる』って確証も無いよな。此処がこうなってから、出て来た人間が一人も居ないんだから。仮に呪われて千切られた三人の内の誰かが犯人だって言うなら、運で当てた奴だって居そうなもんだけど」 「ぼくもそれは考えていましたが、提示された条件がそれしか無い以上、此方側には他に選択肢はないように思います。ちなみに、ぼくと同じタイミングで旅館にいた彼は料理長が犯人だと言ったのですが、そのまま押し潰されてしまいました。かといって残りの二択かと言われれば、それもどうも違う気がしまして。ぼくは人の治療しか取り柄がありませんから、此処は昂くんのような人に助けて貰うしかない、と女将さんに『探偵を呼びたい』と無理を言って津夜子を送り出した訳です」 「布施さんさあ、一度取り柄って言葉、辞書で調べた方が良いよ」 「おっと、確かに、自分で優れている点などというのは烏滸がましいですね。精々、適職と言ったところでしょうか」  照れ臭そうに微笑む布施さんに、前条さんが半笑いで天井を見上げた。布施さんは呆れた様子に気づかないのか、笑みを絶やすことなく続ける。 「出られるかどうかは分かりませんが、このような場では提示された条件に従うのが最善と言えます。最悪の場合は昂くんの力技に頼ることも考えていますが、出来ることなら彼女の心を救いたい。彼女ははっきりとそれを望んでいます」 「助かりたいってんなら、自分でも犯人捜しすりゃいいのに」 「自力でどうにも出来ないと察したからこそ、外部に助けを求めているのでしょう。見目こそ妙齢の美しい女性ですが、事件が起きた当時、彼女はまだ十二歳でした。恐らく、『客』を呼び寄せるのに最も都合の良い形を取っているだけで、彼女の精神性は事件当時のままです。丁度、謙一くんとは逆の状態ですね。あ、そうです、謙一くんはお元気ですか? 暫く会えていませんが」 「…………元気なんじゃない? いつも通り煩かったし」 「きちんと顔を合わせているんですね、良いことです。兎も角、十二歳の少女に必要以上に重荷を背負わせるのはあまりよろしくありません。ぼくらは大人ですから、出来る限り彼女の助けになってあげるべきです」  謙一さんの話題が出た途端、前条さんは露骨に顔を顰めた。あからさまに示された不快感を読み取れていないのか、それとも元より読み取るつもりがないのか、特に気に留めることもなく穏やかに頷いてみせた布施さんは、眼鏡をずらし、目頭を指先で優しく揉むと、少し疲れの滲む吐息を零した。  空っぽになった布施さんの湯飲みにお茶を注いだ前条さんが、脱ぎ捨てていたコートを拾いながら立ち上がる。見上げる僕と布施さんの視線を何処か拗ねたような顔で受け止めた前条さんは、コートの袖に腕を通すとファスナーを上げることなく首元から斜めに配置された金具だけを止め、ぶっきら棒に告げた。 「ちょっと出てくる。けーちゃんも布施さんも疲れてるだろうから、適当に休んでろよ」 「え、いや、でも」  僕が引き留めるより早く、前条さんはコートを翻して部屋を後にしてしまった。障子戸の向こうで部屋の扉が閉まる音が響く。残された僕はしばらくの間、呆けたまま扉を眺め、お茶を啜る音で我に帰って布施さんへと視線を向けた。  言葉を探しながら見つめている内に、視線に気づいた布施さんが僕へと顔を向ける。 「今は行かない方がいいと思いますよ」 「そ、そうですかね」 「彼はぼくが謙一くんの話をすると嫌がりますから、多分、機嫌が直るまで歩くついでに旅館の中を探ってくるつもりなんでしょう」 「…………ええと、」  嫌がると分かっていて話題に上げたんですね、と言っていいものか迷い、言葉に詰まる。わざとやっていたにしても、悪意があるようには見えなかった。このまま口にしたら、なんだか責めているような口調になってしまう気がする。  どうすれば上手く伝えられるだろうか。迷いに迷い、微妙に話題を逸らそうとした僕の口から出たのは、そもそもの原因に対する言及だった。 「あの、布施さんはどうして謙一さんと前条さんがあんなに仲が悪いのか、理由を知ってるんですか」 「おや、君は知らないんですか? けーちゃんくんなのに?」 「…………基本的に、何も知らない、ですね、僕は」  自分から何かを知ろうとする人間なら、きっとこんな風にはなっていない。自己嫌悪すら覚えるのにそれでも教えられるまでただ待っているのは、相手がそうしたいと思ったタイミングで聞けたなら、少なくとも対応としては間違っていない、と思えるからだ。  踏み込んで間違えて、彼を傷つけてしまったらと思うと怖い。きっと怒られたりはしないだろう。でも、前条さんだって傷つくことはある。好きだから知りたい、と突っ走って傷を開くような真似をしてしまったら、と思うとどうしても尻込みしてしまう。それが逃げだとは分かっているのだけれど。  僕の覚悟って一体なんなんだろうな。情けない気持ちで答えた僕に、布施さんはあくまでも柔らかい声音で告げた。 「ではきっと、知られたくないんでしょうね。昂くんはいつだって君のことを思っていますから、少しでも君の存在が揺らぐようなことは伝えたくなかったのかもしれません」 「……僕の存在」 「ひとつ言えるのは、ぼくからすれば昂くんも、謙一くんも正しいということです。ただ一人残った肉親を守ろうとした謙一くんも、この世で唯一の想い人を守ろうとした昂くんも、きっと間違ってはいません。手段として正しいかと言えば少し困るところですが、互いに納得していればそれで良いと思いませんか?」 「……納得、出来ているんでしょうか」  出来ていないからあんな関係になっているような気がするのだけれど。布施さんの意図するところが分からないなりに考えを口にした僕に、煎餅をかじった布施さんが小さく笑った。 「出来てはいないかもしれませんが、しようとはしているのではないですか。だからこそ、嫌うことで謙一くんに向き合おうとしている訳です。昂くんは優しいですが、納得がいかない相手を生かしておくほど心の広い子ではありません。それこそ、君という存在が関わっているなら尚更です」 「…………布施さんは、前条さんのことをよく分かってるんですね」  口にしてから、明らかに嫉妬が滲んでしまったことに気付いて居た堪れなさに思わず目を閉じる。  知ろうとしない割に嫉妬だけは一丁前かよ、と自分に突っ込みを入れると同時に、布施さんの優しく言い聞かせるような声が耳を撫でた。 「彼自身が教えてくれましたから。勿論、それも必要だったからこそ、教えてくれたんですよ。君という存在を保つ為には、まず何よりも昂くん自身が強固な存在でなければいけませんからね。ぼくはサーカスに行ったことはありませんが、人よりも視ることには長けていますし、あれがどれ程の存在かも少しは分かっています。  その上で言いますが、昂くんが君を守るためにかけた労力というのは、要するに『世界に拮抗する力』と同じくらい強いものなんですよ。正直、ぼくは少し怖いと思っています。世界と同じくらいに愛されるというのは、一体どれ程の重みがあるんでしょうね」 「…………すみません」 「はて、どうして謝るんでしょうか? けーちゃんくんは不思議な人ですね」 「いえ、なんか、こう、自分の小ささを謝罪しなければならない気がして……」  本当にみみっちいことで嫉妬してしまったという事実を、嫉妬した相手に突きつけられてしまった。結局僕は、いつまで経っても、どこまでいっても馬鹿なのである。  布団に潜って繭になりたい気分だったが、今更そんな失礼な真似は出来なかった。ようやく自由が効くようになってきた身体を起こし、布施さんの対面に座る。湯呑みにお茶を注いでくれた彼は、やはりにこにこと笑みを絶やさないまま僕を楽しそうに見つめていた。 「ぼくが昂くんに出来たことはほんの小さな手助けくらいですが、その結果こうして二人が出会えた今を知ると、とても幸せだと思えます。ぼくからお願いするようなことではありませんが、どうぞ末永く共に居て下さいね」 「ええ、あの、えっと、はい。居ます」  あんまりにも嬉しそうな笑みと共に言われたものだから、妙にしどろもどろな返答になってしまった。こんなにも真正面から祝福されるのは初めてだったからかもしれない。 「ああ、そういえば、そうです、お二人は結婚式は挙げられたのですか?」 「え、は、はあ、はい!?」 「一応、昂くんから『けーちゃん』を見つけたという話は聞いていたので、はてさて、いつ招待状が届くのか、と楽しみにしていたのですが、一向に届きませんでしたね。写真で済ませてしまったということでしょうか」 「いや、あの、さ、流石に式までは挙げてない、です」 「おっと、それは、なんと勿体ない。昂くんはきっとタキシードが映えるだろう、と思っていたんですよ、是非見たかったものです。出来ればバージンロードはぼくと歩いてほしかったのですが、この場合は謙一くんになるのでしょうか。残念です」 「ど、は、はあ、確かに似合うでしょうけど、えっ、いや、──えっ?」  淀みなく語られる『結婚式』について処理しきれずに固りかけたその時、部屋の扉が開く音がした。  スリッパを脱ぎ捨てた前条さんが障子戸を開けて入ってくる。 「あいつと歩くくらいなら布施さんの方がまだマシかな。そもそも呼ばないし」  どうやら招待状の下りから聞こえていたらしい前条さんは、半ばフリーズしかけている僕よりも余程自然に会話に加わり、隣に腰を下ろした。  脳内で生成される結婚式の映像と、先程まで考え込んでいた自身の矮小さへの悩みと、戻ってきた前条さんの存在を気に掛ける意識が混ざり、中和されでもしたのか溶けて消える。なんて雑な造りだろうか。器だけでなく脳味噌の容量まで小さいのか、僕は。  一周回ってすっきりしてしまった脳味噌に頭を抱えたい気分になりつつ、とりあえず煎餅をかじることで挙動不審を誤魔化すことにした。 「大体あいつ、今あの屋敷から出られないだろ」 「それは問題ありません。式の会場を前条家にすれば解決しますよ」 「彼処ですんの? けーちゃんとの結婚式を?」  今月一番面白い冗談を聞いた、と言わんばかりに笑い出した前条さんは、そのまましばらく笑い続け、区切るようにひとつ息を吐き、酷く冷めた声で呟いた。 「死んでも嫌なんだけど」 「では無難に阿見谷梁あたりで挙げるのはどうでしょう、ぼくは昂くんの結婚式を見るなら絶対に彼処がいいと思っていました」 「阿見谷梁……あー、俺が最初に仕事したところ」 「そうです。もう〝花嫁さん〟は居ませんから、特に心配は要りませんし、あの時のお礼で半額で使える約束もしてあります」 「半額? ケチ臭いな、タダにしてくれてもよくない?」 「昂くんが派手に汚してしまいましたから、どうにも修繕費が大変だったようで」 「好きで汚したんじゃないのにね」 「ところで昂くん」 「何?」 「そろそろけーちゃんくんを構ってあげないと拗ねてしまうかもしれませんよ」 「はあ?」  まさか、とでも言いたげに半笑いで僕を見やった前条さんは、そこで瞬時に表情を誤魔化しきれなかった僕にきょとりと目を瞬かせると、一拍空けて、何とも楽しげに笑い出した。  喜色を乗せて弧を描く瞳から逃げるように顔を逸らすも、笑い声が止む気配は無い。もはや何一つ誤魔化す術がなく、ただ赤い顔で黙り込むしかなくなった僕に、前条さんは「さっきあんなに構ったじゃん」などとほざいた。  あれは構ったとは言いません。ただの搾取です。というか別にそこまで拗ねていた訳じゃないんですよ。さっきあれほど自分のみみっちさについて反省したんですから、こんなことで易々と拗ねている場合じゃないんです。  いや、まあ、その反省はさっき何かと中和されて消えかけてたんですけど。本当に、悲しいくらいに小さい男だな、僕は。 「そっ、それで? 前条さんが見てきて、何か分かったんですか?」 「ん? ああ、今の所は何にも。ただ、妙な点がある」 「妙な点?」 「外から見た時にどう見ても二階建てだったのに、階段が何処にも無い」  その言葉に記憶を探るも、遠目から見た時点で眼鏡を外していた僕の脳内にはぼんやりとした輪郭しか捉えた映像しか残っていなかった。しかし、輪郭だけで見たとしても確かに二階建てくらいの高さはあったように思う。自信は無いが。 「ぼくは此処に来て一週間ほど経つんですが、成る程、確かに見た覚えがありませんね」 「一週間も気づかなかったのかよ」 「ええ、上がる用事が無かったので」 「…………ああ、そう」 「やっぱり昂くんに来て貰って良かったですね、頼りになります」  まるで邪気の無い笑みを浮かべる布施さんの顔を胡乱げな目で見つめていた前条さんは、やがて何か──多分疲労に似た感情──を払うようにざっくりと髪を掻き混ぜ、短く息を吐いた。 「とりあえず階段を見つける所から始めればいいんじゃない? わざわざ隠されてるってことは何か意味があるってことだろ」 「意味が無いから排除されているのかもしれませんよ」 「理由があって存在する空間に『犯人探し』の為に客を閉じ込めてるんだから、有無自体に意味がないわけないでしょ」 「ああ、それは確かに、そうかもしれません」 「仮に何もかもに意味が無かったとしても、このまま出られずに永遠に此処にいる羽目になるだけなんだから、これまで見た覚えの無いものを探すのは悪い方法じゃないと思うけどね。とりあえず明日になったらもう一度探しに行くよ」 「では今日はもう休みますか? お邪魔なら、もう一時間ほど散歩してきますが」 「いや、流石に今日はこれ以上やったら死にます!」  あくまでも善意しか感じられない声で告げられた提案だったが、既に限界が近かった僕は即座に、丁重にお断りさせてもらった。  何の遠慮も無い百パーセントの本音を聞き取った前条さんが詰まったような笑い声を響かせ、「腹上死で契約を果たすのは面白い事例だとは思いますが、避けた方がいいでしょうね」と深く頷く布施さんの相槌を聞くや否や、喉を鳴らして笑った。 「俺も、今日はもういいかな。それよりちょっといいもの見つけてさ」 「いいもの?」 「そうそう。けーちゃん、露天風呂入らない?」 「はい? ろ、露天風呂?」 「大浴場開いてたし、普通に温泉あったから。さっき汗掻いたし入りたくない?」 「え、はあ、いや、まあ、それはそう、ですね」 「よしじゃあ行こうか」 「はっ?」  行こうか、って何処へ?と聞く間もなく手を取られ、布施さんに見送られながら部屋を後にする。もう眠いのか欠伸を噛み殺していた布施さんは、一切引き留めることなく、笑顔で手を振っていた。  受付に向かう廊下の途中を左に曲がり、中庭を横目にしつつ奥へと向かう。中庭を挟んで対面に見えたのは、例の宴会場だろうか。誰も居ないのに場違いなほどに明るく保たれた部屋が、どうにも寂しく映った。  続く廊下を再度曲がった前条さんが、あれ、逆だったかな、なんて言いながら方向を変える。手を繋いだまま振り回されかけた僕は、そこで浴場への案内が出ていることに気づき、前条さんの手を引っ張り返した。 「向こうみたいですよ」 「……ふーん? そっちだっけ、まあ良いや」  何やら独り言染みた呟きを零した前条さんが、軽い足取りで暖簾の掛かった入り口へと向かう。青い布地を潜りながら、前を行く前条さんの背に、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。 「なんで急にお風呂入る気になったんです? 前条さん、濡れるの嫌いでしょうに」 「そりゃまあ、せっかく来たんだから旅行気分も味わっておきたいだろ?」 「旅行気分を味わうには大分物騒な旅館じゃないですかね……」  座敷童子が殺され、そのせいで三人が呪い殺された旅館である。呑気に風呂なんて入っていていいものか、とは思うが、汗でべたついているのも事実だ。布施さんだって僕らがそういうことをしたのは知っているのだから、確かに、此処は入っておくのがマナーだろう。一応、部屋にもシャワーはついているようだったけれど、布施さんが在室のなか二人で入る気には──たとえ布施さんが気にしなかったとしても──なれないし。多分、前条さんは僕と一緒でないと入る気にならないだろうし。  流されるままに自分を納得させる理由をいくつか挙げていた僕の目に、振り返った前条さんの楽しげな笑みが映った。 「それにほら、けーちゃんのこと構っておかないと、と思って」 「…………もう充分構って頂いたんで大丈夫です」 「へー、そう。じゃあ今度は俺のこと構ってくれる?」 「…………いいですけど」  どうにも、転がされる運命からは逃れられないようである。  ────前条さんは風呂が嫌いだ。それは体温が無いから、というのもあるが、『浴槽に浸かる』という行為自体に嫌悪感を覚えるようだった。本人の口から聞いたわけではないが、きっと僕の勘違いではないだろう。謙一さんに聞いた話を思えば、忌避の理由は想像がついてしまう。つきたくはないが。  そんな想像がつくような理由なんてなければいいのに、と本気で思ってしまう。前条さんがこれまで苦難を乗り越えるためにしてきた努力を無視してでも、最初からそんな辛いことが彼に訪れなければよかったのに、と願ってしまう。たとえそれが理由で僕と彼が出会わなかったとしても、それでも、前条さんがただ幸せでいてくれる世界があればいいのに──と、願いかけて、やっぱりそれは嫌だなあ、なんて思ってしまう辺りが僕の馬鹿なところである。  前条さんに出会えない世界は嫌だな、と素直に思う。彼には、僕の隣でずっと幸せでいてほしい。楽しく暮らしていてほしい。そのために僕に出来ることならなんだってするつもりだ。一体僕に何が出来るのかは、分からないけれど。  大浴場の洗い場に腰を落ち着けた僕の後ろに、前条さんが膝をつく。警戒心から身体を縮こまらせて振り返った僕に、前条さんは一見無邪気そうに見える笑みを浮かべた。 「あ、けーちゃん、背中流して良い?」 「…………えっちなことに持ち込む気じゃないでしょうね」 「持ち込んでほしいならそうするけど」 「………………………今日はもう無理です」 「ああ、うん、今日は、ね」  何とも楽しそうに笑われてしまった。また今度な、なんて、耐えきれない笑いを含んだ声で言われてしまった。しょうがないじゃないですか。持ち込んでほしいのも本心だし、今日はもう体力的に無理なのも確かなんですよ。しょうがないじゃないですか。  一体何が『しょうがない』のか微塵も説明できなくとも『しょうがない』ことになるところが、『しょうがない』の良いところだ。とりあえずしょうがないことになった。  普段よりは幾分体温の宿った手が背中を撫でてくる。本当に『また今度』にしてくれるつもりなのか、触れてくる手の平にそういった意味合いは無い。前条さんになくとも僕にはあったことになってしまうかもしれない、とも思ったが、何度も宣言している通り、流石に今日の僕にはもう無理だった。 「けーちゃんさあ、案外背中広いよね」 「……そうですか?」 「うん。なんかもっと、ちっちゃいかと思ってた」  そりゃアンタに比べたら小さいでしょうよ。日頃から身長差については度々揶揄われるため反射的に口をついて出そうになったが、大きくなったね、なんて耳元で響く笑い声が何だかあまりに愛しげだったものだから、僕は何の言葉を見つけられずに俯くことしか出来なかった。 「うーん、こっちも大きくなるかな?」 「ならないって言ってんでしょうが! こら、人のちんこで遊ぶな!!」 「え~? 洗ってるだけだけど?」 「ちんこ洗うときにそんな触り方することあります!? 自分のちんこ洗ってみせて下さいよ!!」 「また特殊なプレイの話してる?」 「してません!!」  仮にそういうプレイに興味があったとしてもこのタイミングでは言いません。というか、別にそこまで特殊なプレイでもなくないですか?  余計な主張をしかけ、寸前で黙った僕は、これ以上好き勝手される訳にはいかないと残りの部分を手早く洗い、タオルを巻き直して外の露天風呂へと逃げ込んだ。やっぱり眼鏡かけたまま入って良かった、と心の底から思った。より正確に言うなら、『俺が面倒見てあげるから外していけば?』などという言葉に従わなくて良かった。 「前条さんもちゃんと洗ってから来て下さいね!」 「あれ、見なくていいの?」 「今度で良いです!」  言い残して逃げた僕の耳に、揶揄い以外の何物でもない声が届く。ほとんど脳を通さない言葉で返せば、笑い声だけが返ってきた。  湯船に浸かる時には外した方が良いのだろうが、こんな旅館でマナーがどうとも言っていられない。どうせ僕ら以外に客はいないし、これ以上防御力に不安がある状態にはなりたくなかったので、タオルは巻いたまま入った。さっき持って行かれなくて本当に良かった。 「折角誘ってやったのに置いてくなんて酷いやつだな」 「その言葉を口にしていいのは置いてかれるようなことをしなかった人だけです」 「なんかしたっけ?」  清々しいまでに白々しい声がしたので、いつになく胡乱げな視線を向けてしまった。向けてから、『濡れた髪を掻き上げる前条さん』を真正面から喰らってしまい、何も言えなくなった。  体温が上がるか試したくて鍛えた、などと言っていた前条さんは、言葉に違わず程々に鍛えられた男の身体をしている。神様が完璧な比率で生み出した美貌と同じく、その体型までもが嫌味なほどに美しい比率で出来ている。端的に言えばスタイルが良い。 「どしたよ? やっぱり見とけば良かったって思ってる?」 「……いえ、別に」 「ああ、そう。タオル邪魔だな、みたいな顔してるけど取った方が良い?」 「取ったら僕のも取ろうとしますよね」 「うん」 「じゃあいいです」  無粋な布地が均整の取れた美しさを損なってるようで邪魔だな、と思ったのは事実だった。隣に腰を落ち着けた前条さんは、真顔で頷いた僕にやや呆れたように笑った。  ちょっかいをかけてこようとする手を避けつつ、どろりと飲む込むような暗闇が広がる空から目を逸らす。露天風呂としては大分最悪の眺めだった。どうやら、外に繋がっているように思える場所も断絶されているらしい。  此処から帰る方法なんて本当にあるんだろうか。胸に浮かぶ不安を打ち消すように、あくまでも明るく口にする。 「今度は普通の旅館に行きましょうよ。司も連れて」  きっとあいつも温泉に入りたがるだろうから、露天風呂つきの部屋がいいだろうな。湯船に直入れは不味いから桶にでも浮かべとくか……いや、それって入ってるって言えるのか?  妙な方向に真剣に悩み始めた僕を見て、前条さんが小さく笑みを浮かべる。濡れた手が優しく頭を撫でてくるのを感じながら、やっぱりお見通しな上で構ってもらってしまったな、なんて思った。

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