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Ⅱ-3:旅館の話④

 翌日、目を覚ました僕は、自分が何処にいるのかすぐに理解出来なかった。  隣にある冷えた体温をぼんやりと感じながら見慣れない天井をしばらく眺めて、ひんやりとした手の平が股間の辺りを弄り出してからようやく、僕は此処が花野旅館であることを思い出し、隣で眠っているのが前条さんであることも思い出し、そして、この部屋が事務所のビルのオーナー、布施さんと同室であったことに思い至って飛び起きた。 「ちょっと前条さん!? 朝から何やってんです!?」 「朝だからやってんだろ、寒いんだよ」 「い、いや、でも、ふ、布施さんが!」 「とっくに出て貰ったけど。ほら、早く勃てろよ、最低二回はするから」  寝起きの反射で手をはね除けたせいか、やや不機嫌に低い声が響く。寒さが耐え難い、というのもあるのだろう。こうなってしまった以上は僕に拒否権はない、と諦めて好きにしてもらうことにしたが、幾ばくもしない内に妙な違和感が胸に浮かんだ。 「……前条さん、あの、もしかして結構、具合悪いですか?」  必要経費として行為だからさっさと済まそう、としているにしても、普段よりも大分雑な仕草で触れてくる指先に異変を感じ取る。もしも身体の不調が症状として出るほどに辛いのなら、此処は彼が主体の行為ではなく僕が頑張るべきだろう。  そう思って尋ねた僕に、前条さんは陰茎を口に含むために開きかけていた唇を一旦閉じ、どうにも素直でない形に曲げてから、ぽつりと呟いた。 「此処に入った時から吐き気が酷い」 「え? ええ? ちょっ、な、なんでもっと早く言ってくれないんですか」 「言ってもどうにもならないだろ」 「そ、それはそうですけど……大丈夫なんですか? 僕に出来ることあります?」 「早く勃起して」 「……えーと、あの、じゃあ、ハイ」  ごく真剣な顔で言われたので、多分真剣な話なんだろう。言葉のチョイスだけが何一つ真面目に聞こえなかったが、前条さんにとっては死活問題の筈だ。  恐らくはこの場から何か悪影響を受けているのだろう吐き気に、体質による不調まで加わってしまったら、流石に前条さんも普段通りとはいかない。何の戦力にもならない僕に出来ることと言えば、彼の体調を整える手伝いをするくらいだ。  しかし、急かされるとどうにも上手く出来そうにない。想いが通じ合ってから初めての行為に至るまでも随分とかかったのだ、僕の矮小な股間は残念ながらプレッシャーに弱い。勃ってほしくないときには勃つくせに必要なときには役立たずなあたり、僕の股間だなあ、と思う。なんとも情けない話だが、悲しいことにこれが現実だ。  反省を浮かべているせいか、やはり反応が鈍いらしい。僕のを咥えたまま不満げに鼻を鳴らす音が微かに聞こえた。申し訳なさが胸を支配し、それによって更に反応が悪くなる。お手本のような悪循環が二巡しかけたところで、僕は一度、中断の意思を伝える為に前条さんの肩を掴んだ。 「ちょ、ちょっと待って下さい。仕切り直させて下さい」 「あ?」  いかん、寒さのせいでキレてらっしゃる。完全にちんこのカツアゲにあっている気分だ。  選択を間違えると握られているものが大変なことになってしまうだろう。ちょっとした心霊現象に遭遇した時と同じくらい怖い気持ちを抱えつつ、慎重に言葉を選ぶ。 「……昂さん、ちょっとキスからやり直しましょう」 「…………ちんこ咥えちゃったけど」 「昨日綺麗に洗って貰ったので別に良いです」 「あ、そ」  僅かに笑い混じりの声に、チャンスとばかりに抱き寄せて唇を合わせる。僕の腕力で前条さんを抱き寄せるのはほぼ不可能に近いので、寄ってきてくれたということは彼も多少は付き合ってくれるつもりだということだ。  短いキスを交わしながら、頭の後ろに回した手で髪を撫でる。指で梳きながら撫でている内に此方を見下ろす視線が緩み始め、やがて触覚に集中するように瞳が閉じられた。  今のところこれが、僕に出来る唯一の籠絡手段である。この方法の良い点は、前条さんを宥めようと頑張っている内に僕もその気になっているところだ。 「えーと、何回するんでしたっけ」 「にかい」 「……三回になっちゃっても大丈夫です?」  念の為聞いてみたのだが、返ってきたのは小馬鹿にしたような笑い声だった。甘く蕩けた吐息に混じってもはっきり分かるほどに馬鹿にされていた。畜生。僕だって、やる時はやるんですからね!?  気合いを入れて前条さんのズボンに手をかけた僕が『やれた』のかと言えば────結果は伏せておこう。僕の名誉の為に。 「それで、なんでしたっけ。階段?を探すんですよね」  二時間後。行為に三十分かけ、一時間半を疲労回復に使った僕は、居心地の悪さを誤魔化すようにあくまでも何でもない風を装って問いかけた。  後ろ手に扉を閉め、廊下を歩く前条さんの背を追う。 「うん、そう。本当は布施さんが探せるなら一番良かったんだけど、あの人いま、大分限界だろうし。俺達で探すしかないね」 「えっ、もしかして前条さんみたいに体調が悪いとかですか? 大丈夫なんですか?」 「あの人、目が良いからな。言ってたろ、万華鏡みたいに見えるって。いつもならある程度見ないように出来るけど、ここは何処も彼処もこんな感じだから、気分は良くないだろうな。まあ、船酔いみたいなもんだよ」 「は、はあ、なるほど?」  確かに昨日、そんなようなことを言っていたような気がする。布施さん自身、『視ることには長けている』とも言っていた。サーカスに行ったことがなくともあの場の異常が分かる程度には、そういうものを視ることに慣れているのだろう。  見えないものを視ることに長けている人にとっては、こういう変な場所に居続けるのは辛いことなのかもしれない。実際、前条さんも普段よりも強い不調を感じている訳だし、とそこまで考えた所で、今朝の暴挙が思い返され、僕の足が止まった。 「あの、前条さん。一つ聞きたいんですが」 「何?」 「そうなるとつまり、僕らは体調が悪い人を部屋から追い出しておっ始めていたことになると思うんですが」 「俺だって充分体調悪かったし、お相子でしょ」  行いとして大分よろしくないんじゃないだろうか、と胃の痛い思いで投げかけた僕に、前条さんはあっさりと言い放った。いや、確かに前条さんにとっても死活問題だったとは思うんですけど。なんというか、居心地の悪さが増したというか。此処から出られた時には絶対に詫びの品を用意しよう、と心に誓った。  苦々しい顔をして歩く僕が上げた自省を含んだ小さな呻き声に、前条さんが詰まらなそうな顔で振り返る。 「そもそも布施さんみたいな体質でこんな所に入る方が悪いんだから、気にする必要ないんだよ。『人助け』するにしたって自分の力量を見極めてするべきだと思わない? もう何年も言ってるから無駄だって知ってるけどさ、俺を巻き込むのも大概にしろっての。今回なんて、けーちゃんまで連れてくる羽目になった」 「……それは、そうかもしれませんけど。でも、別に悪いことしてる訳じゃないですし」 「『良いこと』が悪い結果を招くことだってあるだろ。密嘴堂だって求来里美術館だって全部そうだった、尻拭いしたのは俺だよ。今回もそうだし、これからもそうだろうし、あの人のそういう善意で助かった人間は居るし、別にそれは良いんだけどさ」  何か思い出しでもしたのか、過去への苛立ちを滲ませた声でぼやいた前条さんは、昨晩と同じルートを辿り、大浴場の手前で宴会場へと目をやると、僕の手を引いて其方へと進み始めた。 「前条さんは、布施さんに助けて貰ったことがあるんですよね」 「聞いたの?」 「いや、詳しくは。ただ、ちょっと手助け?した、みたいなことを」  目的地が決まっているようには見えない足取りだ。旅館に辿りついた時とは違い、前条さんは時折立ち止まっては何かを確かめるように天井を見上げ、また違う廊下へと足を向ける、というのを何度か繰り返した。  ただついていくことしか出来ない僕は、前条さんが立ち止まれば立ち止まり、歩き出せばその後を歩くだけだ。 「まあ、助けて貰った、と言えばそうだと思うよ。あの人の善意が、たまたま俺には上手く働いたってだけの話だけど、それでも俺が助かったのは事実だね」  この辺りからだった。天井から微かに軋むような音が聞こえ始めたのは。  前条さんが立ち止まった位置から、ぎ、と床を踏むような音が響き、離れていく。  右へ向かったそれを追うように進んだ前条さんは、やがて辿り着いた行き止まりの壁を静かに見つめると、小さく鼻を鳴らした。 「けーちゃん、ちょっと離れてな」 「あっ、また蹴り抜く気ですね!?」 「正解」  どうしてそう暴力的に解決しようとするんですか、と言う僕の突っ込みは、前条さんのスリッパが行き止まりの壁を破壊する音に掻き消されてしまった。鉄板入りのブーツならともかく、スリッパで壁を蹴り抜けるのはどういう理屈なんだろうか。考えかけて、穴の開いたスリッパを足にぶら下げてている前条さんを眺めて、なるべく考えないようにしよう、と決めた。  鉤爪に抉られたような穴だらけのスリッパと、どうやら千切れたらしい靴下を脱ぎ捨てた前条さんが僕を振り返る。  その背の向こう側には、此方の明かりで微かに照らされた木製の階段が、全てを飲み込むような暗闇に向かって続いていた。 「……もしかして、これを上らないといけないやつですか」 「いけないやつだろうね」 「わ、罠とかじゃないんですか、これ」 「まあ、罠かもしれないな」 「……行くんですか」 「行くよ。こんな所、早く出たいし。けーちゃんは? 来る?」  小首を傾げて手を差し出す前条さんを見つめ、その向こうに広がる暗闇を見つめ、両者の間を視線で三往復くらいしてから、僕は小さく頷いた。  正直言えば絶対に行きたくない。こんな旅館にある、こんな階段の先が、安全な訳がないのだ。必要がなければ絶対に近づきたくなんかない。だが、今回ばかりはその『必要』がある。  二月十日、前条さんか布施さんが死ぬ。月下部さんはそう言った。その死因が十日に直接訪れるのか、それとも、旅館で何か呪いや怪我を負ったことが理由なのか、僕には分からない。『僕がいれば回避出来る』というなら、危険な場所にいく前条さんの傍には僕がいる必要がある。  覚悟を決めて手を取るも、やはり怖いものは怖い。絡ませた指が帯びた恐怖心を正しく読み取ったのか、一段目に足を掛けた前条さんは不安を祓うように笑った。 「大丈夫だって、危なかったら俺が守ってやるから」 「『死んでも大丈夫』とか言ってた人の台詞とは思えませんね」 「アレはあくまでもけーちゃんが死んだ時に俺が寂しい思いをしない為の保険の話であって、別にけーちゃんに死んで欲しい訳じゃないよ。出来れば生きたまま、爺さんになっても一緒に居て欲しいな。そしたらきっと、一生幸せだ」 「……それは、その、……まあ、ハイ、勿論、デスケド」  急に可愛いことを言われたので露骨に挙動不審になってしまった。浮ついた気持ちから定まらなくなった視線を、足を乗せた段に落とす。  前条さんから『この先』の話をされるのは、実は意外と珍しい。十年も僕を待ってくれた前条さんにとっては、今が何よりも楽しくて、幸せで、この人はいつも、今がずっと続くようにと願っている。今を積み重ねた先にあるものが過去で未来だから、結局のところそれは未来の話でもあるのだけれど、でも、『老い』も含めた話をされるのはこれが初めてかもしれなかった。  勿論、彼がそう願ってくれるのなら、僕だってそう在りたいと思う。勿論。めちゃくちゃ。そう思う。  やっぱり好きだな、なんて改めて噛み締めながら階段を上がる僕の耳に、先程の柔らかい声音と同じトーンの台詞が飛び込んできた。 「それに、けーちゃんがどうしても死ななきゃならないなら、そいつより先に俺が殺すよ」 「…………」  本気かな?と見上げてから、非の打ち所が無いほどに美しい笑みと目が合って、僕は静かに愛想笑いを浮かべた。恋人繋ぎにした手に、どっと冷や汗が滲む。  完全に本気だった。  どのくらい本気かと言えば、ここで僕が冗談でも、突っ込みでも、『そんなの嫌です』と言わせない圧がある程度には本気だった。いや、あの、もう、そうですね。僕だって、別に、別にそんなことされなくても拒否ったりしないですけど。したいですけど。しませんけど。 「……………その時は出来れば痛くない方法でお願いします」 「んー、善処します?」 「絶対に痛くない方法がいいです!」 「痛くない死に方とかあんの?」 「あったらいいなと思いますけど、どうなんですかね……死んだことないんでちょっと分からないですね……」  あったとしてもやっぱり死にたくはない。死んでも大丈夫だったとしても。絶対に死にたくはない。  そんな風に心の底から拒絶したのは、階段を登り切った先に広がる光景に、根源的な死を感じたからかもしれない。  階下から伸びる明かりが途切れたことで訪れた暗闇を抜けた先には、燭台に照らされた薄暗い座敷が広がっていた。襖で区切られた部屋が、幾重にも奥へと続いている。  異様な光景だった。どう考えても外から見た旅館からは考えられないほどに広い空間が続いていることもそうだが、何より僕が忌避したのは、開かれた襖に描かれた『朱い鳥居』だった。  開かれた襖の縁と、その上の欄間までを、『开』を書くように赤黒い液体がべったりと汚している。最奥に向かい九つ並んだその赤色は、風も無いのに揺れる燭台の炎によって歪に照らし出されていた。  此処に長く居るべきではない。本能はそう言っている。だが、真相とやらを知るためには先に進むべきなのだろうか。  光景の異様さと胃の腑を掴まれたような嫌悪感に緊張を感じつつも判断が付かず前条さんを見上げた僕に、彼は笑みの失せた唇を舌先で湿らせ、僅かに息を吐いてから握っていた筈の手を僕の腰に回した。 「けーちゃん」 「はい?」 「一旦戻るよ」 「え? あ、はいっ!?」  返事をするよりも早く、僕を抱え上げて方向転換した前条さんが階段を降りる。あまりにも軽々と抱え上げられたものだから、驚きよりも先に情けなさが胸に滲んだ。  小脇に抱えられたまま階段を降りる、というのは、視覚的に中々の恐怖感がある。結局、抗議の言葉を一つも発することが出来ないうちに下段に辿り着いてしまった。 「やっぱり最初からこのつもりで呼びやがったな……」  動くのも怖いのでぬいぐるみのごとくじっと固まる僕を抱えた前条さんが、うんざりした声でぼやいた。時折鉤爪が地を掻くような足音を響かせ、大股で廊下を進む。来た道を戻った前条さんはそのまま僕を下ろすことなく部屋に辿り着くと、『牡丹の間』の扉を蹴り飛ばすように開けた。金具が幾つか壊れた気がしたが、見なかった振りをした。  扉を入って、障子戸までの間にある廊下を二歩で跨ぎ、僕を抱えていない方の手で引き裂くような勢いで戸を開く。開かれた先の客室では、昨日と同じく姿勢良く正座した布施さんが、穏やかな顔で座っていた。 「おや、お帰りなさい、昂くん。階段は見つかりました?」 「見つけた。ついでに全部分かったからとりあえず一発殴っても良い?」 「良いですけど、痛くないと嬉しいですね」 「あっそう。じゃあけーちゃん、ちょっと布施さんのこと殴って。全力で良いよ」 「全力で殴ったら流石に僕でもちょっと痛いと思いますけど!?」  もしかして僕のこと、はんぺんか何かで出来てると思ってます? なんて言いかけて、まず先に突っ込むべき場所があっただろ、と思い直す。 「い、いきなりどうしたんですか。理由もなく人を殴るのは良くないですよ」 「理由なら充分にあるから殴っていいよ。あ、けーちゃん突き指には気をつけてね」 「とりあえずその理由を聞かせて下さい、それから考えます」  流石に何も分からないまま人を殴ることは出来ない。未だに抱えられたままなので今ひとつ格好はつかないものの真剣な顔で口にすると、前条さんは不愉快そうに目を細めたのち、ぽいっと僕を転がした。  転がされた先は、敷かれたままの布団だ。顔面から着地したもののふかふかの布団なので、鼻が痛いくらいで済んだ。 「この人、最初から俺のこと贄にするつもりで呼んだんだよ。まだ自分が死にたくないからって」 「……に、贄?」  強打した鼻を押さえつつ、振り返ると同時に、物騒な単語が耳を入る。贄、というと、生け贄のことだろうか。生け贄。何の? 「あ、いえいえ、待って下さい昂くん、それは誤解ですよ」 「誤解? それ以外に出る方法が無いのに誤解もクソもあるかよ」  眉を顰めた前条さんが、困ったように笑む布施さんを見下ろす。その顔にはやはり悪意があるようには見えなかった。見えない、というだけであるのかもしれないが、だとしたら前条さんはもっと早く気づいただろう。  この旅館で起きた事件の犯人を突き止める、という条件にある程度同意していた時点で、前条さんも布施さんが自分を害すつもりで呼んだとは思っていなかった筈だ。少なくとも、前条さんが信頼を置く程度の関係にはあったのだろうし、そもそも、彼は自身への悪意には聡い方だ。  一体どういうことなのか。訳も分からず見守ることしか出来ない僕の前で、布施さんは人の良さそうな笑みを浮かべたまま眉を下げた。 「……やはり昂くんでもそれ以外の方法は見つかりそうにありませんか?」 「無いね。完全にその為に用意された場だ。他の用途には使えない代わりに、内側から破るのは不可能。おまけにもう九つまで揃ってる」 「それはそれは……やってしまいましたね。うーん……でも、昂くんだったら一度くらいは大丈夫だったりしません?」 「…………アンタ、誤解がどうとか言ってなかった?」  布施さんを見下ろす前条さんの目に、明らかな侮蔑の色が宿った。息が詰まるほど冷えた視線を、布施さんは穏やかな笑みで受け止める。 「ええ、もちろん、ぼくが昂くんを身代わりに捧げるつもりだった、などという推測は誤解です。ぼくはですね、きっと昂くんならこの状況でもどうにかしてくれるんじゃないかなあ、と、一縷の望みを掛けて呼び出したんですよ。君だけが希望でした。その結果、残念なことに、他に方法がない、と判明した訳です。ね、誤解でしょう?」 「………………ほらけーちゃん、殴る理由だよ。殴って良いよ」 「え、いや、ぼ、僕には未だに何が何だかさっぱり分からないんですが、説明して頂けませんかね」  毎度の如く、何一つ把握し切れていないまま振り回されている僕である。  生け贄として呼ばれた、ともなれば怒る理由には充分だとも思えるが、二人の間では当然のように分かっているらしい事実に、僕だけが追いついていない。かなりの疎外感だ。怒るにしてもせめて、ちゃんと事態を理解してから怒りたい。何のために怒っているのかも分からなくなりかねないし。  曲がった眼鏡を直しつつ尋ねた僕に、前条さんは何とも面倒臭そうに一度視線を他所にやったあと、短く息を吐き出した。僕に対して、というよりは、自嘲を思わせる吐息だった。 「とりあえず、最初にこの人が言ってた『この旅館で起きた殺人事件』だの『殺神事件』だの『犯人を探して欲しい』だのの話は忘れてくれる?」 「は、はあ、忘れちゃって良いんですか? その犯人を探すのが目的だった、と思うんですけど」 「それが目的じゃないから忘れて良いよ」  立っているのも馬鹿らしくなったのかその場に腰を下ろした前条さんは、やはり微笑みを崩すことのない布施さんを見やると小さく舌打ちを響かせた。 「あの女将が旅館に人間を呼び込むのは、犯人を探す為じゃなくて、蘇りの儀式に必要な贄を集める為だ」 「……蘇りの儀式?」 「例の階段の上にあった座敷があったろ、あれが儀式の場。あの襖、九枚目まで開かれてただろ? 奥の十枚目が最後の襖の筈だ。最初の数枚から見て絵柄は十種神宝だな。死者すら蘇らせる神宝の形を借りて、贄まで用意して何を蘇らせる気かといえば、そりゃまあ、例の座敷童子しか居ないよな」  蘇りの儀式。贄。九枚目。十種神宝。説明される端から疑問が湧くが、一々尋ねていては切りがない。多分、前条さんも詳しく説明する気はないだろう。  彼が言いたいのは、『犯人を突き止めること自体は目的ではない』という点だけだ。そして、現時点で僕が気になるのも、一応はその点だけである。 「だったらどうして、わざわざ『犯人を探して欲しい』なんて言ったんですか?」 「三つの事件現場にそれぞれ儀式に組み込む為の仕掛けがあるんだよ。『蘇り』の為に魂そのものを扱うとなると、自ら捧げさせないと些か都合が悪い。ただ、幾ら美人に誘われて入ったとしても自ら捧げるやつなんて早々いないから、手順をぼかして騙す訳だ。『犯人を探す』行為そのものが儀式の事前準備になってるってこと。ああ、あと、自分が何のためにここに居るか認識させる意味もあるな」 「捧げる……って、そのつもりもないのに、それだけのことで、魂まで持っていかれちゃうものなんですか?」 「普通は無理だけど、此処なら問題ない。『閉ざされている』ってのはそれだけで大分無茶が利くんだよ。ある種の異界だから、ルール自体が向こうに都合よく出来てる。だからこそ入りたくなかったんだけど、この人は困ったら俺に丸投げするつもりで後先考えずに入ったわけ」  黒手袋の指先が、乱雑な仕草で布施さんを指差す。 「それでなんとか出来ずに自分もその儀式に組み込まれそうになったもんだから、代わりの贄を用意することで免れようとしたんだろ? でなきゃわざわざ嘘の説明までする必要ないからな」 「んー……そうですね、弁明させてもらえるなら、一応、命乞いをして延命している身ですから、そう易々と向こうに不利益となる情報は口に出来ません。本当は、ぼくも最初から伝えたかったんですよ? ほら、囚われの身の人間が監視の目を盗むのはちょっと厳しい、といったようなものです」 「そのせいでアンタは今、俺にも命乞いしないと不味いことになってるわけだけど、それについてはどう思ってんの?」 「それは、そうですねえ、困ったなあ、と思っています。昂くんに嫌われるのは悲しいですからね」  心の底から本心だと思わせる声で呟いた布施さんは、片眉を上げた前条さんの目に端的な拒絶を見て取ると、観念したように両手を上げた。 「ま、ほら、落ち着いてください。昂くんがどうして怒っているのかは、充分に分かっていますよ」 「ふうん? ほんとかな」 「ええ、もちろん。昂くんは、ぼくなんかを助ける為に、どうやら大事なけーちゃんくんを使わなけらばならないと気付いてしまって、いやだなあ、と思っているんですよね。どうせなら、初めては自分が良いですものね」 「…………やっぱり俺が殴る」 「でしたら、お腹が良いですかねえ、せめて」  何の不安も恐怖も感じさせない顔で微笑む布施さんの対面で、前条さんが苛立ちの滲む仕草で腰を上げる。その手を掴んだのは、やっぱり無意識の反射だった。  止めるつもりで掴んだものの、構うことなく引き上げられて一瞬立ちあがりそうになった僕の身体が、前条さんが此方を見やり、手を振り払うと同時に重力に従って降りる。  あまりに何の抵抗にもならなかったので、もしかして僕の身体ははんぺんで出来てるんじゃないだろうか?と一瞬思ったが、気のせいだと思うことにした。もしくは、逆に前条さんの身体が重機か何かで出来てるんだと思うことにした。多分、間違ってはいない。 「……何?」 「いや、あの、ちょっと理解が遅れてるんですけど、気になったことがありまして」 「後にしなよ」 「もしかしてその贄ってやつ、僕がやる感じですか?」  この旅館が閉ざされているのは蘇りの儀式の為で、それを成すには贄が必要だというなら、此処から出るには誰か一人は確実に死ななければならない、と言うことだ。  布施さんはそれを『頑丈だから』と前条さんにやらせるつもりで彼を呼び、僕らは此処に来た。月下部さんが『前条か布施が死ぬ』と言った上で、それを回避するのに僕が必要だとなったなら、多分、この場の僕の役割は一つしかないはずだ。何より、前条さんは僕が此処に入った時、司の名前を書いた。まだ僕が『櫛宮司』だった頃──身代わりを用意した時の名前を。だとしたら、使うなら此処しかないんじゃないか? 「別にけーちゃんがやる必要はないよ。あれはあくまで目眩しに使っただけで、他に意味なんかない」 「でも、そうなると前条さんか布施さんがやることになりますよね? 僕なら、何でしたっけ、司の身代わりが活きてるから、一度なら大丈夫なんじゃないんですか?」  僕にしては冴えている方だと思ったのだが、此方を見下ろす前条さんの目には『こいつ余計なことばっか察しがいいな』と書かれていた。明らかに僕に読み取らせる気がある表情だったが、此処で押し負けていたら、わざわざ付いてきた意味がなくなってしまう。 「それとも、その、潰れる?とか言うのだと流石に不味いんでしょうか」 「…………」  返答は無かった。前条さんが言葉に詰まる、という状況は極めて珍しい。意図して黙っている時とも違う、本当に、何某かの反論をしようにも出てこない、そういう類の沈黙だった。  こうなるともはや、答えがないことそのものが答えである。どうやら僕にもちゃんと役立てることはあったらしい。それが散々拒否していた『死』なのはちょっと辛いものがあるが、前条さんが危険な目に遭うよりは大分マシとも言えた。 「えーと、とりあえず、良かったです。ちゃんと、ついてきた意味があって」 「……普段はぎゃあぎゃあ喚くくせに、こういう時だけ聞き分けいいんだな」 「そりゃ、痛いのも死ぬのも嫌ですけど、前条さんが死んじゃうよりは大分マシです。まあ、いつも守られてばっかりですし、たまには守らせてくださいよ」   前条さんは確かに強いけれど、決して万能ではないし、無敵でも、不死でもない。それはもう、砂上の一件で痛いほどに思い知っていて、だからこそ、前条さんにも危ない目にあって欲しくはなかった。僕が頑張ることで何とかなる問題なら、精一杯頑張るつもりだ。  この思いが本気であることは、僕の目を見れば充分に伝わったらしい。前条さんは僅かに苛立ちの残る仕草でくしゃりと髪を掻き混ぜると、溜息混じりに呟いた。 「けーちゃんさあ、たまに格好良いよね」 「……すみませんね、大体格好悪くて」 「何言ってんだよ、いつもは可愛いだろ」  揶揄われているのかと思ったのだが、僕を見つめる瞳はただただ不思議そうに瞬いていた。これが本心から来る表情であることくらい、流石に僕でも分かる。  こ、この人、本気で僕を可愛いと思っている。一応、今年で二十歳になる男なんですけど。  照れと嬉しさと不服が混じった、なんとも微妙な面持ちになってしまった。そんな僕を見ても尚、首を傾げ続ける前条さんに、なんだか居たたまれない気持ちになりながら言葉を紡ぐ。 「だ、大体、今回僕が役に立つのは司のおかげなんで、別に僕が格好良い訳じゃないです」 「でもけーちゃん、俺の為なら本当に死んでくれるつもりでしょ?」 「……それは、別に、前条さんだって同じじゃないですか」  同じだったじゃないですか。砂上に押さえ付けられ道路に横たわった、微塵も動かない前条さんの身体を思い出しながら呟いた僕に、前条さんは笑みの形に歪んだだけの唇を微かに開き、何も言葉にすることなく閉じた。  音に成らなかった言葉について考えるより先に、薄い唇が、今度は明確に笑う。 「初めては俺が良かったんだけどなあ」 「……初恋の人はアンタなんだからそれで我慢して下さいよ」  冗談で聞き流すには、あまりにも瞳に宿る光に真剣味がありすぎた。対照的に、声だけが薄っぺらい。心の底から残念そうなのに、何処か軽薄な響き。  彼はいつだって僕に対しては本気だけれど、それを薄く、希釈したような喋り方をする。多分、きっと、僕を潰さないで済むように。  それが無意識から来るものなのか、意識的なものなのかは分からなかったけれど、いつかは、その重さを受け止めても立っていられるくらい、強い男になりたい、と思った。  僕の決意なんてお見通しなのか、此方を見下ろす前条さんの笑みが柔らかい、情を込めたものへと変わる。彼がそういう顔をすると、いつもどこか寂しげなものに見えてしまう。初めて会った時の笑みがちらついて、反射的に抱き寄せようとしたその時、穏やかを通り越して呑気にも聞こえる声が場に落ちた。 「今日も一時間くらい散歩してきましょうか?」  視線を交わしていた僕らの瞳が、ほぼ同じタイミングで布施さんへと向かう。失礼ながら、完全に存在を忘れていた。前条さんは覚えていたけれど無視したに違いない。  危ない。目の前でキスするところだった。完全にそういう流れだった。  冷や汗をかきながら座り直した僕の横で、前条さんがぶっきら棒に答える。 「その前に殴らせろよ。腹に二発くらい入れてやる」 「蹴りではなく拳で済ませてくれるあたり、昂くんは優しいですね」 「…………」 「もちろん、分かっていますよ。昂くんは僕にも騙されたのか、と思って、悲しくて、許せなくて、怒っているんですよね」  なんとも嫌そうに目を細めた前条さんに、布施さんはやはり何一つ揺らぎのない、穏やか極まりない声で続けた。 「昂くんはぼくを信じていたから、ぼくの言葉だったからこそ、多少怪しいと思いつつ付き合ってくれたのに、ぼくはその信頼を裏切りました。騙したつもりは、まあ、ありませんが、裏切った、という意味では確かにそうです。その点に関しては本当に申し訳なく思っていますよ。だから、二回くらいなら殴られても妥当かなあ、という感じです」 「俺、アンタのそういうところ大嫌い」 「ぼくは昂くんのそういうところが大好きです。わざわざぼくに嫌い、だなんて言ってくれる人はそうそう居ませんからね」  にっこり微笑んだ布施さんに、前条さんは無言で平手打ちをかました。わあ、とどう聞いても驚いていない声が驚きとして布施さんの口から漏れる。更に追加で逆頬も打った前条さんは、眼鏡紐ごと吹っ飛んだ眼鏡を探す布施さんを見下ろし、吐き捨てるように言った。 「ていうかさあ、まず最初に謝れよ」 「なるほど、確かに、悪いことをしたら謝らないといけませんね」 「良いか悪いかなんてどうでもいい、俺がムカつくから謝って」 「えーと、どういう風に謝ったら一番嬉しいですか?」 「『昂くんごめんなさい、もう二度と嘘はつきませんし事務所の患者は向こう一年増やしません』」 「昂くんごめんなさい、もう二度と嘘はつきません」 「『事務所の患者は向こう一年増やしません』」 「そもそもぼく、一年近く帰っていないと思うんですが」 「今日から一年だよ」  眼鏡を直した布施さんは、打たれて赤くなった両頬を押さえながら三秒ほど沈黙し、やがてハッとしたように明るく顔を上げた。 「もうぼくは嘘をつかない約束をしたので、それは言えません」 「けーちゃん、ちょっとこの人ぶん殴っていいよ」 「……いや、もう充分両頬が腫れてますし、これ以上はちょっと」  それに、布施さんはこの旅館の中では視覚に不調があって体調が悪い筈だ。騙されたのだとしても、責めるのはまずここから無事に出れてからにしたい。  あと、『悪いことをしたら謝る』に関しては、前条さんが言えた義理ではないし。ただ、前条さんが騙されたことに明らかに傷ついているのは事実で、しかもそれを分かっているのに見ないフリをしていたことに関しては、素直に不信感を覚える。 「……一つだけ聞きたいんですけど」 「ええ、どうぞ。ぼくに答えられることなら」 「布施さんは、もしも此処に前条さんしか来てなくて、出る方法が贄を捧げることしか無いって分かったら、それでも前条さんに贄になってくれって言いましたか」  腫れた頬を摩っていた布施さんが、軽く首を傾けた。 「うーん……そうですねえ、そうなっていたら、きっとジャンケンで決めたと思います」 「…………ジャンケン、ですか」  前条さんが呆れたように溜息を吐くのが聞こえる。布施さんは、やはり何一つ変わらない調子で頷いた。 「ええ、そうです。ぼくにはまだやらなければならないことがありますが、昂くんも、せっかく一番大事な人と再会できたのに、お別れも言えずに死ぬのは可哀想です。そうなるとやはり、人間はいつ死ぬか分かりませんから、その『いつ』が今として、此処は運が悪い方が死ぬ、ということで、ジャンケンするしかないかな、と思います」  ぼくは結構ジャンケン強い方ですよ、なんて笑う布施さんに何と返したら良いか分からずにいると、後方の前条さんから声がかかった。 「布施さん、もし俺がけーちゃんとまだ会えてないままで此処に来てたら、どうしてた?」 「それはもう、ぼくが贄になるしかありません。昂くんは幸せにならなければいけませんから。どうしてそんな事を聞くんですか? 昂くんは分かっているのに」  ぱちりと目を瞬いた布施さんは、なんとも不思議そうな顔で、見開いた碧眼を前条さんへと向ける。何かを見透かそうとするような視線に晒され、ただ軽く肩を竦めた前条さんが、苦笑混じりに僕を見やった。 「どうする、けーちゃん。一発殴っとく?」 「いや……なんか、もう、いいので、とりあえず此処から出ましょう。方法は分かってるんですよね」 「大体さっき言った通りだよ。三つの現場──宴会場と、桔梗の間と、調理場を巡って、魂を捧げる手順を踏むだけ」  そうやって言われると随分と簡単に聞こえる。聞こえるだけで、きっと簡単には行かないのだろうけれど。  宴会場と、桔梗の間と、調理場。指を折りながら確かめる。宴会場は見た覚えがあるが、桔梗の間と調理場はまだ場所すら知らなかった。 「その現場って何処にあるんですか? 実鞠さんに聞けば分かりますかね」 「場所なら覚えたから案内してやるよ。けーちゃん一人で行ったら多分泣いちゃうだろ?」 「な、泣きませんよ。昨日見た時も別に、宴会場とか、普通でしたし、でも、……」 「でも?」 「ついて来て貰えると、その、嬉しいです」  いつもの癖で思わず反論してから、思い出している内に不安になってしまった。そりゃそうだろう、僕はこれから自死の手順を踏むのである。不安にならない方がおかしい。  この先何があるか分からない場所に行くのは恐ろしいし、到着地点が死なら尚更だ。出来たら、隣には前条さんがいてくれたら嬉しい。 「今から行くんですか? ぼくもついていきましょうか」 「布施さんは来なくていいよ、そこで一人で反省してろ」 「反省ですか。ええと、何を?」 「人助けなんて未来永劫向いてないってこと」  きっぱりと言い切った前条さんに、首を傾げていた布施さんが曖昧な笑みを浮かべる。納得のいかなさが滲み出ているような笑みだったが、布施さんは確かに軽く頷き、腫れた頬を摩った。  言うだけ言って満足したのか、それ以上は責めるでもなく背を向けた前条さんの後を追う。開いた扉の向こうに踏み出す直前、僕らの背に穏やかな声がかかった。 「ところで昂くん、楔を使う気はないんですね?」 「無いね」  楔? 耳慣れない単語に振り返りかけた僕の手が、前条さんに強く引かれる。  蹴り飛ばしたせいで壊れてしまった扉が、妙な音を立てて閉まる。これって弁償になるのか?と思いかけて、弁償も何も廃業してたんだったな、と思い出した。いや、廃業していたからって壊してもいい理由にはならないけれど。 「あの、前条さん」 「何?」 「楔ってなんですか」 「V字型の木片や金属片。主に木材を割ったりするのに使う」 「じ、辞書」  読み上げるように淡々と告げた前条さんは、それ以上の問いを拒むように僕の手を引いて歩き出した。言いたくないことなら言わなくてもいい、と思うけれど、布施さんが知っているのに僕が知らないのは、なんというか、やはり、疎外感がある。  布施さんは前条さんの何なのだろう。ビルのオーナー、というだけにしてはあまりに気を許している気がした。 「あの、前条さん」 「……何?」 「布施さんって……、えーと……布施さんって結局、いい人なんですか? 悪い人なんですか?」 「さあね。けーちゃんにはどっちに見える?」 「…………よく分からないですけど、なんか、こう、よくない人、ですよね」  出会って二日で受けた印象のそのまま伝えると、隣を歩く前条さんからは小さな笑い声が返ってきた。喉を鳴らした前条さんが、宴会場への道を選んで足を進める。ぺたん、ぺたん、とスリッパの音が響く。  今のところ異常はないが、明かりに照らされている筈の廊下が段々と薄暗くなっていくことだけが気がかりだった。 「まあそうだな、よくない人だよ。あの人は良くないように生まれてきたから、よく在ろうとしてる。良いことをしてたらいい人になれるって信じてるんだ、馬鹿みたいだよな」  『馬鹿みたい』なんて言う割りには、前条さんの口振りは随分と柔らかかった。どうしようもない人を許容する時の声だった。丁度、僕の馬鹿さ加減をそのまま受け入れてくれる時のような。 「布施さんのこと、好きなんですね」  口に出してから、ああ、またやった、と自己嫌悪に額を押さえてしまった。完全に嫉妬が声に滲み出ていた。前条さんに僕以外に大事な人がいるのは嬉しいことの筈なのに、何なら、『僕以外にも大事な人が出来ればいい』とさえ思っていたのに、実際に彼の心に僕以外の存在を感じたらこの様だ。  もしかして僕は何処かで、前条さんには僕以外の大切な人なんて出来る筈がない、とか思っていたんじゃないか? だとしたらそれはもう、死んでしまいたい程に恥ずかしい傲慢だ。  唇を噛み締めて唸る僕に、前条さんは笑い混じりに告げた。 「そりゃまあ、布施さんだけだったから。『けーちゃん』のこと否定しなかったの。どいつもこいつも、これだけ探しても見つからないならもう居ないんじゃないかとか、巫山戯たことほざくんだけど、でも布施さんは違ったからさ。  どうせ、単純に治療のつもりだったんだろうけど、でも、布施さんだけはちゃんと、けーちゃんが居るって信じてくれたから、だから好き」  多分、まだ前条さんが僕を探している頃の話だろう。その頃の前条さんは僕と出会うことだけに執心していて、僕の存在を絶対に信じていて、でも僕は半分くらいは消えてしまっているような人間で、前条さんが信じてくれていなければ容易く消えてしまうような存在だった。  消える筈だった僕を、覚えておくことで繋ぎ止めていた前条さんの抵抗は、つまりはサーカスそのものに対する抵抗だ。世界が隠しきれないような異常に抗い続けるというのはきっと、僕には想像も付かないような苦しみがあった筈で、多分そこに寄り添ってくれたのが布施さんで、だから前条さんは布施さんを信じていて、……要するに僕は自分でも引いてしまうほどに矮小な心の持ち主だということだ。  羞恥を通り越して自分への殺意に変わりそうだった。 「…………………」 「けーちゃん? なんで蹲ってんの?」 「いえ……ちょっと、死んでしまいたいなと」 「へえ、前向きじゃん。覚悟決まった?」  顔を上げる。首を傾けながら僕を見下ろす前条さんの後ろには、木製の扉で遮られた調理場らしきものが見えていた。  そうだ、そうだった。僕はこれから死ぬ為に殺人現場を回らないといけないんだった。もはや何を言っているのか分からなくなってきたが、大体いつものことなので流して立ち上がる。 「……此処に入れば良いんですか?」 「そう。ちなみに、けーちゃん一人でね」 「えっ!? ひ、一人じゃないと駄目なんですか!?」 「一応、手順としてはそうなる」 「え、ええ……そんな……」  まさかの事実に狼狽えつつ、視線を扉へと戻す。調理場に続いている扉は、磨り硝子が嵌まった引き戸だ。向こう側にはステンレス製の調理台が薄らと見えている。明かりがついているという点は有り難い。少なくとも、ついていないよりはマシだ。  覚悟が出来たのかと聞かれれば嘘になるが、やらなければならないことは決まっている。引き戸の取っ手に手をかけ、横開きのそれを一気に開く。下手に躊躇うと一生開けられない気がしたので。

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