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Ⅱ-3:旅館の話⑤

 外から感じた通り、明るい調理場だった。殺人現場などと言っているが、丁寧に使っているのが分かるくらいには綺麗に整えられている。  思わず拍子抜けしてしまうほどに普通の調理場だった。一日の業務を終えて、綺麗に片付けた後のような──とまで考えてから、場の一点にある異常に気づいた。  笑顔の首が、まな板の上に置かれている。板前の帽子を被っていることから、どうやら彼が料理長らしい、と察せた。  あまりにも満面の笑みなので、もしかしたらまな板の下に身体が繋がっているんじゃないか、と思えてしまう程だった。そんな筈がないことは、断面から滴る赤黒い血を見れば分かり切っているのに。  笑顔の生首と目が合っている。無言で見つめるも、硬直しきった顔が表情を変えることはない。  やっぱりちゃんと覚悟を決めてから開けばよかった、と心底後悔した。一歩も進めず、扉を開いたまま静かに深呼吸を繰り返す僕に、前条さんはやや熱の失せた声で言う。 「入って話してこないと意味がないんだよな、これ」 「…………話す」 「うん」 「アレと?」  指を差しながら見上げた僕の顔があんまりにも情けなく歪んでいたのか、前条さんの手が僕の頭を優しく撫でた。このタイミングでその優しさ要ります? いや、要るか。要ります。  ついでにキスもしてください、と泣きついた僕の頬に前条さんの唇が当たった。 「そんなに怯えんなよ。大事な魂だからな、こんな所で危害は加えないだろ」 「……この光景そのものが危害に当たると思うんですけど」 「そこはほら、過程自体が害だから、今更だな」 「…………確かにそうですね」  納得するほか無かった。この場の全ては『魂を奪って贄にする』為だけに用意されている。そんな理由で作られた部屋に、ひとつの害も無いなんてあり得るはずがなかった。身体的な害が無いだけまだ良しとするべきだろう。  満面の笑みでまな板に乗る生首。調理場内がやけに明るいのが殊更に不気味だった。蛍光灯に照らされた男の顔は、何か、念願の夢が叶ったような喜色の滲む笑みを浮かべている。今にも笑い出しそうな程に、生に満ちた笑顔だ。 「えっと、じゃあ、その、行ってきます」 「行ってらっしゃい」  扉の前に立つ前条さんに見送られながら、調理場の中へと入る。瞬間、後ろで扉がしまった。振り返る。多分、前条さんでは無い。流石にそんなことはしない筈だ。  心臓が嫌な音を立てている。生首と二人きりの密室というのは、想像以上に心臓に悪いのだと知った。出来れば一生、実感したくない情報だった。  深呼吸をひとつして、そろそろと足を踏み出す。進んだ途端に何か起こりやしないかと身構えていたのだが、まな板の前に辿り着いても、煌々と照らされた調理場内はしんと静まりかえったままだった。  生首は笑顔のままだ。目が合っていたような気がしたが、距離が開いていたせいでそう見えただけで、近づいたところで笑みの形に歪んだ瞳が僕を見上げることはなかった。 「あの、……えーと、こん、こんにちは」 『陽鞠か?』 「……はい?」  話す、と言っても何を話せばいいか分からずとりあえず挨拶から始めた僕に、料理長の生首は笑顔のまま尋ねてきた。  僕の聞き間違いでなければ、『陽鞠か?』と聞かれたように思う。聞き間違えて、『実鞠』と言われたのかと考えかけた瞬間、生首が血反吐を吐きながら笑い出した。 『良かったなあ、陽鞠。お前にも役目が出来た、ようやく役に立つときが来たんだ、良かったなあ』 「は、はあ、あの、」 『良かったなあ! 良かったなあ! 良かったなあ!』  大声で繰り返される声に、思わず身を引く。心の底から祝福を送るような声で繰り返す生首は、やがて口を動かしたことでバランスが崩れたのか、まな板からごとりと転がり落ちた。  慌てて足を上げ、飛び退く。転がった生首は、僕に構うことなく笑い続けている。参った。この光景がちょっと漏らしそうなくらいには怖い、という点もそうだが、会話が一切成り立たない点が特に困った。一体どうすればいいのだろう。 『お前のおかげで俺達はこれから先、ずっと幸せでいられるよ、ありがとう陽鞠、ありがとう、ありがとう、陽鞠、陽鞠、陽鞠!』 「あの」 『お前がいてくれてよかった! 陽鞠、お前は俺達の自慢だ、産まれてきてくれてありがとう、ありがとう』 「陽鞠さんって誰ですか」  尋ねると同時に、天井から伸びてきた手が生首を押し潰した。ひしゃげた悲鳴が自分の喉から零れるのを、何処か他人事のように聞いた。成人男性の頭なんて軽々と押し潰してしまえるような大きな手が、手の平が床にべったりとつくほどに長い腕についている。  真っ白な手の平が持ち上がると、床と指の間に、粘性のある赤色が糸を引いた。粘ついた音を響かせながら、天井に開いた穴へ腕が戻っていく。  やがて指の先までが天井に飲み込まれ、ぽつ、ぽつ、と伝い落ちていた血が垂れなくなった頃、からり、と戸の開く音がした。  耳に拾った音に反射で振り返る。扉の向こうには前条さんが立っていた。  震える足を動かし、必死に扉へと向かう。部屋を出た途端にへたり込んだ僕の頭を、対面に屈み込んだ前条さんの手が優しく撫でた。あと百回は撫でて貰いたい気分だった。 「…………もしかして、これがあと二回あります?」 「もしかしなくてもあるよ」  引きつった顔で振り返った僕に、前条さんは真顔で答えた。指で正解の丸まで作っている。そうですか。これがあと二回。これが。  『犯人を見つけて欲しい』なんて言って集めたくせに、現場の状況は何一つ此方に分かるような有様ではなかった。張り上げるような祝福の声を思い出し、思わず目を閉じて呻いてしまう。 「こんなのからどうやって犯人を見つけるって言うんですか……」 「んー、別に意味なんてないからなあ、言葉を交わすこと自体が重要なだけで…………いや、でも、どうかな。自白はしてるのかも」  何処か遠くを見るようにして呟いた前条さんは、腰が抜けかけている僕の手を取ると、雑な仕草で扉を閉めて歩き出した。  気を抜くともつれそうになる足を何とか動かし、前条さんの後を追う。宴会場へ続く廊下と、牡丹の間に続く廊下の境目で立ち止まった前条さんは、力の無い溜息を落として、右手へと進んだ。 「前条さん、なんか元気ないですね。もしかして体調悪いですか?」  朝にしたばかりではあるけれど、こんな場所だ。必要経費としては全然足りてなかったのかもしれない、と不安になって尋ねた瞬間、僕の手を握っていた手に不自然に力が籠もった。加減の利かない強さで握られかけた手に鈍い痛みが走る。  呻いた僕の口から不平が零れるよりも早く、若干苛立たしげな視線が此方を射抜いた。 「……あのさ、まさかそんなことはない、と思いたいんだけど、けーちゃん、俺のこと、けーちゃんが死ぬとこ見て喜ぶやつだと思ってる?」 「い、いや、流石にそこまでの人とは思ってないです、けど」 「じゃあそういうこと」  冷めた声で吐き捨てた前条さんは、それきり言葉を発する気配もなく、ただ僕の手を引いて歩いた。ぺたん、ぺたん、と気の抜けるようなスリッパの音だけが響く。同じような足音を立ててそれを追いながら、何か上手い言葉──前条さんの気を紛らわせるような気の利いた台詞──を探して、結果何一つ見つからず、握った手を此方からも強く握り返すことしか出来なかった。 「前条さん」 「うん」 「か、帰ったら何したいですか」 「そういうプレイの話?」 「プレイじゃない方の話です」  なんでこのタイミングでプレイの話をしなきゃならないんですか。いや、別に、前条さんの元気が出るならプレイの話でも良いですけど、出ないでしょうが。  僕が死に向かうのは決定事項で、此処を出るには避けられない結果だ。それ故に前条さんの気が沈んでいるというなら、せめてその先の話をするのはどうだろう、と思ったのだけれど。更に間違えたかもしれない。小走りに進んで隣に並び、様子を伺うように見上げた僕に、前条さんは少し呆れたような顔で笑って、呟いた。 「そうだな、帰ったら、とりあえずけーちゃんの作ったご飯が食べたい」 「いいですよ、何にします?」 「たこ飯とサバの味噌煮と豚汁」 「やけに具体的ですね……分かりました、覚えておきます」  もしかしてずっと食べたいもの考えていたんだろうか。普段あまりメニューには頓着しない前条さんからはっきりしたリクエストが来るのは珍しい。たこ飯か。最近炊飯器を買い換えたから、ご飯ものはきっと前より美味しい筈だ。  そういえば冷蔵庫の豆腐がそろそろヤバかった気がする。賞味期限いつだったっけ。えーと、今日が六日だから、あと二日は持つ。……ん? 十日に何か起こるんだとしたら、それまでには帰れなくないか? 「そういえば、今日ってまだ六日ですよね。月下部さんの占いだと十日に何かあるんだから、今日無理矢理進めるのって良くなかったりするんですか?」 「あくまでけーちゃんを連れていかなかった場合の話だからな、何とも言えない。俺としては、早く帰れる方が良いかな」 「まあ、僕も帰れるなら早く帰りたいですね。豆腐の賞味期限が怪しいので……」  本当は此処に来る前に麻婆豆腐として消費するつもりだったのだが、色々あってすっかり忘れていた。食事を作っている場合ではなかったというものある。  間に合うように帰れるだろうか。いや、帰れるように頑張ろう。気合を入れ直したところで、僕らは丁度、宴会場の前に辿り着いた。  大浴場に向かう廊下から見た時はガラス窓の向こうには何も見えなかった。だが、襖で遮られた部屋の中からは今、賑やかな声が漏れ聞こえている。丁度、宴会の最中のように。  丸い引手に指をかけ、開く。今度は割と覚悟を決めてから開いた。どんな光景が広がっていようと、さっさと言って、さっさと話して戻ってこよう────なんて決意は、即座に砕けた。  お膳の上に並んだ無数の生首が、楽しげに騒いでいる。皆同じ、髭を蓄えた白髪交じりの顔をしているのに、声だけが老若男女入り乱れていた。  賑やかな笑い声。祝いの席だ。皆が口々におめでとう、と口にしている。 『陽鞠ちゃん、偉いわねえ、偉いわ、中々出来ることじゃないわよね』 『陽鞠のお陰で俺達はずっと安泰だ』 『有り難いなあ、有り難いなあ、』 『ようやっと役に立ったなあ、陽鞠、おめでとう!』 『自慢の娘だ、陽鞠、陽鞠、お前だけがいてくれれば、俺達はそれでいいよ』  並んだ生首が騒いでいるのでなければ、本当に賑やかで、暖かな声に溢れている場だった。皆が口々に『陽鞠』を褒め称え、感謝の言葉を贈る。陽鞠──ちゃん?は、どうやら余程感謝されることをしたらしい。 「…………あの、前条さん、ちょっと、その……背中を押して貰えますか」 「物理的に? 精神的に?」 「……どっちもです」 「頑張れけーちゃん、帰ったら前に着て欲しいって言ってた下着つけてやるよ」  耳元で甘く囁いてきた前条さんは、そういう意味の応援じゃなくてですね、ていうかそれ僕が着て欲しいって言ったんじゃなくて前条さんが『どっちが良い?』って見せてきたんじゃ、と言いかけた僕の背に片手を添えると、室内へと軽く押し出した。  決して強いとは言えない体幹は片手一つで容易く揺らぎ、宴会場の中へと一歩踏み出す。身体が全て入ると同時に、背後で襖が閉じた。  お膳の上の生首は未だ、口々に『陽鞠ちゃん』を褒め称えている。異様な光景だ。そして、何処か奇妙でもあった。  そもそもこの場に奇妙でない部分などひとつもないが、何より、実鞠さんの親族である筈の生首たちが、彼女によく似た名前の別人を呼んでいる、という状況が不思議でならない。 「あの、陽鞠さんって誰ですか」  今度も潰されてしまうだろうか。しかし話をしないことには何も進まないし、この部屋から出ることも出来ないのだ。  意を決して尋ねた僕に、生首達は一度ぴたりと口を閉じ、ばらばらだった発声のタイミングを揃えて言った。 『陽鞠は俺達の宝だ』  胃の腑を掴まれたような圧があった。しん、と静まり返った宴会場で、無数の生首が僕を見つめている。そのどれもが満面の笑みを浮かべているのが、ただただ悍ましかった。  今すぐ逃げ出したい。だが、襖は開いていなかった。まだ足りないのかもしれない。 「……宝、と言うと?」 『陽鞠は俺達の宝だ、富をもたらしてくれる』 『良かったなあ、陽鞠、お前にも役目が出来た』 『陽鞠だけが俺達の宝だ』 『宝だ』 『良かったなあ、良かったなあ、良かったなあ』 「…………実鞠さんとは、関係がある人ですか?」  生首が、長く伸びた手に押し潰された。天井から伸びた手が、膳の上の生首を次々に押し潰す。生首達は最後まで笑っていた。笑ったまま押し潰されて、畳の染みになった。  背後で襖が開く。二度目だからか、今度は割合しっかりした足取りで部屋を出ることに成功した。 「……あの、気になることがあるので、実鞠さんに会いに行ってもいいですか?」 「気になること?」 「なんか、みんなして『陽鞠』さんて人の話をするんですよ。彼女なら何か知ってるかと思って」 「……良いけど、別にそれは必要じゃないよ」  どう説明したら良いのか分からず、首を傾げながら呟いた僕に、前条さんは何処か冷めた口調で告げた。強い断定の口調でもなければ、拒絶を感じるような物言いではなかったけれど、不要と切り捨てる意思だけは伝わってくる響きだ。  恐らく前条さんは何かを察しているんだろう。もしかしたら全て分かってしまっているのかもしれない。そんな彼が『不要』だというなら、多分、帰るためには本当に不要な行いなのだろうけれど、それでも、胸に沸いた疑問をそのままにしておくには、ちょっとあまりにも居心地が悪く、気味の悪い状況だった。 「あと、知りたいなら『桔梗の間』に行った方が早いな。まあ、けーちゃんがどうしても美人と話がしたいっていうならそれでもいいと思うけど」 「…………いや、美人ではありますけど、流石にこの状況で動機がそれだったら、僕は自分で自分をぶん殴りますよ」  そもそも布施さんの言葉が真実なら、彼女の精神性は十二歳のままだ。いくら見た目が成人した女性だとして、それが美人だからといって十二歳の女の子に邪な目を向ける訳が──いや、それはまた誤解がある。別に今も向けてはいない。  僕が美人に弱いのはあくまでも美しいものに対して惹かれる心を上手いこと制御できないだけであってそこに性欲があるかと言われると別なんですよ、分かります? 別に分からなくていいんですけど。僕の性癖が拗くれていることについて前条さんに理解して欲しい、とかは特に思っていないので。  つらつらと並べ立てる言葉の全てを飲み込み、妙な顔で唸るように口にしただけの僕に、前条さんは小さく笑った。若干の自嘲が滲んでいる、ような気がする。 「それで? どっちに行くんだっけ?」 「……桔梗の間でお願いします」 「いいよ、行こうか」  何方を選んでも知ることが出来るというのなら、僕としては少しでも前条さんに嫌な思いをさせないで済む方を選びたい。ただでさえ、この工程自体が彼にとっては嫌なことだろうから。  無論、僕にとっても嫌ではあるのだけれど、それでも妙に落ち着いているのは、きっと、少なくともこの方法なら前条さんが危ない目に遭うことはない、と分かっているからだ。自分の意思で決めて解決に向かえる、というのは何も出来ないよりはずっと気が楽なのだ。  そして、普段から何事も自力で解決してしまう前条さんにとっては、今の状況はかなりのストレスになっているに違いない。苛立ちは既に足取りにも出ていて、ぺたん、と床を叩くスリッパには殺意にも似た感情が鉤爪となって滲んでいた。  ……見ない振りしてたけど、この人度々形変わってるよなあ、なんて、今更なことを思いながら後を追う。僕は前条さんがどんな形になったって彼のことが好きだけれど、きっと、前条さんはそうは思っていない、んだろう。  何せ、重度の面食いである。そこに関しては異常なほどの信頼があり、信頼が有り余っているが故に、一切信用されていないのだった。  どうすれば前条さんにきちんと、『貴方だけが好きですよ』と伝えられるんだろうか。なんだか付き合い始めてからの方が思いの違いについて悩むことが増えている気がする。  悩んだところで前条さんの思いの強さに応えられるとは思えないところがまた、悩みの種になってしまう。でも、そうだろう。前条さんが僕を想ってくれるほどに、僕も彼のことを想えるのか、と聞かれたら、答えはNOだ。単純に、僕の想いの総量が、全力を尽くしても彼のそれに到底追いつかない。これでも全力をかけて愛してるつもり、なのだけれど。  恋愛って難しい、などと、こんな所で悩むような事柄ではない考えに気を取られている内に、『桔梗の間』と室名札のかかった部屋に辿り着く。牡丹の間より更に奥、隠されるかのように配置された部屋に、黒塗りの扉が在る。  二歩先を歩いていた前条さんが、部屋の前で立ち止まった。何とも面白く無さそうな顔で僕を見下ろした前条さんが、黒塗りの扉へと視線を戻す。細く息を吐いた前条さんは、ゆっくりと一度目を閉じ、吐息を溜息に変えた後、短く吐き捨てるように口にした。 「何も出来ないのって最悪の気分」 「…………えーと、すみません」 「は? なんでけーちゃんが謝るの? 謝るべきは布施さんじゃない?」 「い、いや、なんというか、僕がもっと……こう、前条さんを安心させられるくらいしっかりしてたら、良かったのにな、と想って」 「…………」  何言ってんだこの馬鹿、みたいな目で見られてしまった。今の状況でその顔をされるのは大分堪えるので出来ればやめてほしいんですが。すみません、機嫌が悪い時に妙なことを言ってしまって。  待ち受ける恐怖とは別に目の前の前条さんに怯えて縮こまり始めてしまう。小さくまとまり出した僕をしばらく見下ろしていた前条さんは、苛立ちを逃がすように髪を掻き乱したあと、先程よりも深く息を吐き出した。 「……別に、安心ならしてるから、けーちゃんが謝る必要は無いよ」 「え、でも……その……」 「俺はけーちゃんが死んでも大丈夫なようにしてあるし、そもそも百パーセント確実な方法でなかったらいくら布施さん相手でもこんな方法取らない。だからけーちゃんは欠片も心配しないでいってくればいいよ。大丈夫、全部上手くいくからさ」 「じゃあ、ええと……何がそんなに、嫌なんです?」 「だってけーちゃん、『可哀想な女の子』好きだろ」 「はい!? そ、そんなこと言った覚えないですけど……!?」  なんですか急に。『可哀想な女の子が好き』!? そんなピンポイントな性癖あり──いや、ある、あるだろうけど、少なくとも僕はそうではないですが!?  も、もしや綾音と付き合っていたときのことを言われているのか? 砂上の一件で確かに助けようとはしたけれど、あれはもうそれ以外どうしようもなかったからで、一応三年も付き合った彼女を見捨てるとかいうのは人としてどうかと思うし、そもそも綾音は僕と付き合っていた時には常に明るく無邪気で可愛い女の子だったから、『可哀想』な要素は少しも見た覚えが無い。  一体何をもってそんなことを言われたのか分からない。混乱する僕を余所に、前条さんは「まあ、しょうがないよな」と一人で納得しているらしい声で呟き、『桔梗の間』を指し示した。 「ほら、けーちゃん。最後の現場だよ」  ……とりあえず、その辺りの誤解は全てが終わってから解こう。今は目の前のことに集中するべきだ。  言葉を飲み込み、黒い扉を見つめる。美しい桔梗が彫られた扉にはやはり鍵はかかっていないようで、取っ手を掴んで押すと、すんなりと開いた。  履き物を脱ぐスペースの奥に、客室がある。入り口からも見える座卓の上に、やはり、笑顔の生首が────笑顔の?  いや、あれは断じて笑顔ではない。結い上げた髪が不格好に乱れ、右半分の皮膚が削げ落ちた女性の首は、確かに憤怒の表情に歪んでいた。  食いしばった歯から、ぽたり、ぽたり、と赤黒い血が垂れている。何もかもが凍り付いたように静止した室内で、赤い滴だけが微かな音を立てる。  入りたくなさで言うなら一番だった。笑顔の生首だって勿論怖いが、怒っている生首は尚更怖い。生首がそもそも怖いし、怒っている人も怖いのだから、怖いと怖いが合わさって最悪だ。  怯みはそのまま足に出た。一歩引いた僕の背が、後ろに立つ前条さんに当たる。見上げる僕と、見下ろす彼の目が合って、薄く形の良い唇が「やっぱり代わろうか?」の「や」を作ろうとした瞬間、僕の口から反射的に言葉が滑り出た。 「行ってきます」 「……行ってらっしゃい」  多分、前条さんにはもう一つくらい、此処を出る為の方法があるんだろう。布施さんもそう思っている様子だった。でも、前条さんが選ばなかったということは、今僕がしようとしていることよりは確実性に欠ける方法の筈だ。だったら、僕がやらなければならない。そもそも、格好つけておいてやっぱりやめます、じゃあ流石にダサすぎる。振られてもおかしくないレベルだ。  覚悟を決めて告げた僕に、前条さんは最後に額に軽く口づけて、宴会場と同じように僕の背を押した。  踏み出した足が、扉を越える。そのまま、もう一歩進んだところで、ばつん、と明かりを切るように意識が途切れた。    ◇  ────揃いの着物を着た少女が一人、座敷の中央に座っている。  場に集まっている親戚らしき大人達は、美しい顔立ちの少女の頭を代わる代わる撫でながら、口々に彼女を褒めそやしていた。 『実鞠ちゃんは可愛いわねえ、お姫様みたい』 『お母さんによく似て綺麗な子だわあ』 『四歳なのにしっかりしてるのよ、将来が楽しみね』  確かに綺麗な子だった。子供らしく丸くふっくらした頬も、艶やかな黒髪も、黒目がちな瞳も、泣き黒子も。全てが整い、正しい位置に置かれた美しい人形を見ているかのような、そんな子供だった。  実鞠、と呼ばれた少女は、しばらく頭を撫でてくる大人達に愛想の良い笑みを浮かべてみせたのち、「手伝いがあるから」と立ち上がる。四歳とは思えない所作で場を後にした実鞠さんは、調理場に続く廊下を歩き、その先で作業を続ける叔父の背にそっと声をかけた。 『……叔父さん、おねえちゃんのご飯は?』 『あ? ああ、そこにあるだろ、持っていきな』  示された先では、残飯の乗った皿が床に置かれていた。実鞠さんが僅かに顔を顰め、見咎められないうちに顔を伏せる。  小さな両手で皿を支えた実鞠さんは、逃げるように調理場を後にした。従業員用らしき廊下を通り、暗く、明かりの乏しくなっていく道を選んで進む。  辿り着いた先にあったのは、恐らくは動物用の正方形の檻だった。薄暗い座敷の隅に、鉄製の檻が置かれている。  実鞠さんはその中で膝を抱えて座る少女にそっと近づくと、下に空いた隙間からそっと皿を差し入れた。 『おねえちゃん、ご飯だよ』 『ごあん』  不明瞭な声が響く。抱えていた膝から顔を上げた少女は、顎の下半分が溶けた口で実鞠さんの言葉を繰り返した。  差し出された皿の前に四つん這いになった『陽鞠』ちゃんが、崩れた口を使って盛られた食材の残骸を掬い上げ、咀嚼する。傍らに寄り添う実鞠さんは、その様子をただ静かにじっと、見守っていた。  檻の隙間から手を伸ばそうとして、何かを躊躇うように膝の上に手の平を置く。 『…………ごめんね』  掠れた呟きは、食い散らかすような咀嚼音に紛れて消えた。    二年後。花野旅館の近くに、大型の旅館が建つことになった。長年揉めていた土地の権利についてようやく決着がついたらしい。  不安げに口にする父母の予感は的中し、花野旅館は数年と経たずに経営難に陥った。蜘蛛の子を散らすように寄りつかなくなった親戚への罵詈雑言と、母の啜り泣きだけが響く。実鞠さんを売りに出す、などという案まで出たところで、ふと、料理長である叔父が声を潜めて切り出した。 『兄さん、俺さあ、一つ、良い方法知ってるんだよ』  そう言って、叔父は初老の男を連れてきた。  まじない屋をやっているのだという男は、父母の前で幾つか実際に『奇跡』を起こしてみせると、実鞠さんの髪と純潔を貰う代わりに、『座敷童子の作り方』を教えていった。  残されたのは万力に似た器具と、呪符、白く濁った酒。そして、『幼子の四肢に呪符を貼り、十日に分けて四肢を引き延ばせ』という男の指示だった。  実鞠さんはすぐに、家族が『誰』を犠牲にするつもりでいるのか気づいた。普段は近づきもしない奥座敷に向かう叔父と父親を引き留めるために声を張り上げる。 『やめて、おねえちゃんにひどいことしないで、私が代わりになるから』 『馬鹿言わないで、実鞠があの子の代わりだなんて! ああ、もう、考えただけでぞっとする。ね、実鞠、良い子だから、お母さんを助けると思って、あのおじさんの言うことをちゃんと聞くのよ』  母親は、嫌悪感に歪んだ顔を誤魔化すような笑みを浮かべながら、実鞠さんの肩を押さえ付けた。 『陽鞠にもようやく役目が出来たのよ。あの子が、私達を助けてくれるの』  良い子だから言うことを聞いて、と押し込められた座敷から出られたのは、それから十日後のことだった。  花野旅館は嘘のように繁盛し始めた。立地がいいとは言えないのに、上客ばかりが泊まりに来る。資金援助を申し出る資産家まで現れ、廃業寸前に陥ったとは思えない程の富が齎された。  父も母も叔父も、皆上機嫌に親戚を迎え入れている。一度見捨てようとした負い目があるからか、みな卑屈にこびへつらってくるものばかりだ。 『実鞠ちゃんは本当に綺麗ね、流石は鞠江さんの娘さんだわ』 『十歳とは思えないくらい。こんな出来た娘が居たら幸せねえ』 『実鞠ちゃんも幸せでしょう、自慢のお父さんとお母さんで』  口々に褒めそやしてくる親戚の目当てが金であることはとうに理解していた。持ち直した父母をただ褒めるのは口惜しいからと、娘である自分ばかり褒めていることも。  ただ曖昧な笑みでそれら全てを受け流し、波風を立てないように場を後にする。手伝いを終え、夕飯の時間になる頃、実鞠さんは調理場を訪ねた。 『……叔父さん』 『ん? ああ、陽鞠の飯か。ほら、持っていってくれ。大事に運ぶんだぞ』  上機嫌な笑みを浮かべた叔父が、綺麗に盛り付けられた膳を渡してくる。今すぐにでも叩き落としてしまいたい。そんな衝動に駆られるも、実鞠さんはただ静かな笑みでそれを受け取り、数年前と何も変わらない部屋へと向かった。  座敷童子──神様となった姉に、もう食事は必要ない。必要なくなった途端に美しく飾り付けられた食事が用意され、それでいて、伸びきった腕の痛みに苦しむ呻き声は無視される。 『いいい゛ぃいィい』 『……おねえちゃん、ご飯だよ』 『い゛ぃいい゛ぃいぃいい』  だらりと伸びた四肢は、器具で壁際に押さえ付けられている。伸ばされた腕自体が痛むのか、それとも白い手の平を挟む器具が苦しいのかは分からなかったけれど、姉が苦しんでいることだけは、きつく噛み締められる歯の隙間から漏れ出る呻き声を聞くだけで充分に察せられた。  強く噛み締めすぎるものだから砕けてしまう歯は、彼女の神性によって瞬く間に治ってしまう。 『…………ごめんね、おねえちゃん』  欠片となって落ちる歯を眺めながら、ただひたすらに、姉を楽にする方法を考える。仮に此処から陽鞠を救い出せたとして、子供二人で生きていけるとは到底思えなかった。助かる方法は一つしかない。陽鞠を殺して、自分も死ぬ。それだけが、許される道ではないだろうか。  憎悪と共に積み重なる決意はいつしか確かな覚悟となって、実鞠さんの中で形を成した。  それから二年後。花野旅館の異常な繁盛を訝しんだ人間が、客として泊まりに来た。子供ならば秘密を漏らしやすいだろう、と実鞠さんに探りを入れてきたその霊媒師は、淡々と事態を説明し、ただ静かに『座敷童子の殺し方を知りたい』と告げた実鞠さんに、赤く塗られた釘と、一冊の手帳を置いていった。  きっとそれは憐れみだったのだろう。神の死を持って成す呪いと、蘇りの儀式についての記述を読み解き、正しく理解した実鞠さんは、ある雪の日に姉を殺し、そして父母と叔父を殺し、旅館を閉ざした。  全ては、姉を人間として蘇らせる為に。    ◇  血塗れの座卓を押し潰しているのが天井から伸びた腕だと気づいた時には、背後の扉は開いていた。座り込む僕の前で、血塗れの手の平がゆっくりと天井に飲み込まれていく。長く引き延ばされた腕が全て天井へと収まり、血の跡だけが残った頃、僕はようやく、床に手をついて立ち上がることが出来た。  目眩が酷い。ふらつく足でようやく部屋の外に出た僕を、前条さんはただ静かに出迎えた。 「どう? 分かった?」 「…………分かった、ような、分からなかった、ような、ですかね」 「そう」  前条さんの答えはあまりにも素っ気なかった。多分、僕の顔に隠しきれないほどの憐れみが滲んでしまっていたからだろう。前条さんはきっと、『自分の命を奪おうとしてる奴に同情するなんて馬鹿げている』と思っている。その感覚が正しいことくらいは、僕にだって分かる。いくら辛く苦しい過去があったとして、それは人の命を奪って良い理由にはならない。  ただ、どうしようもなく、救われて欲しいと思ってしまうのも事実だ。そう思ってしまう心を押さえ付けることは出来ない。たとえこれが、同情を引く為に用意された代物だったとしても、僕は、彼女達二人を可哀想に思ってしまう。 「櫛宮様」  振り返ると、廊下の向こうに、実鞠さんが立っていた。僕らが此処を訪れた時と変わらない、青い着物を身に纏った美しい実鞠さんは、その綺麗な顔を微かに歪めて、よろめきながら僕に歩み寄る。 「……犯人は分かりましたか」  今にも泣き出しそうな声だった。こうして聞くと、確かに、幼い子が気を張っている時の声に似ている。  犯人、と言われて、ああ、そういえば一応、そういう手順になってたな、と思い出す。僕らはこの旅館で起きた事件について知って、考えて、『犯人』を見つけなければならない。座敷童子を殺した犯人を。  そして、それは手順さえ踏めば誰にでも分かるように出来ている。なんというか、やはり不思議で、不自然な手順だと思う。  僅かな不可解さから答えに詰まった僕を見て、実鞠さんは縋るように膝をつき、僕の前で頭を垂れる。 「もう、全てを分かっている、かと思います。ですが、私達には、もうこれしかありません。櫛宮様、どうか私達を救ってください」  僕の後ろで舌打ちが響いた。項垂れた実鞠さんの身体が強張る。引きつった吐息を零す実鞠さんを見下ろし、思わず慰めかけ、流石にそれをやったら殺されかねないな、と慌てて屈みかけた腰を止めた。  代わりに、ぎこちない動きで後ろを振り返る。機嫌が氷点下を割っているような前条さんと目が合った。 「ぜ、前条さん」 「何?」 「あの、これって誰を指しても、結果は一緒なんですか?」 「まあ、そうだね」 「そうですか、えーと…………それじゃ、あの、実鞠さんに、聞きたいことがあるんですけど」  予想していなかった言葉なのか、実鞠さんが戸惑いながら顔を上げる。濡れた瞳に映る疑問と怯えを受け止め、出来るだけ安心させられるように微笑んでから、上手く言葉にならない思考を舌に乗せる。 「もしかして、なんですけど、…………実鞠さんは、罰が欲しくて『探偵』を呼んだんですか、ね」  後ろの舌打ちと、実鞠さんが息を呑む音が重なった。  鉤爪が床をかく音がする。これ以上深入りするのは不味い、とは分かっているが、一応、これは僕の覚悟を決めるためにも必要な確認なので、どうか勘弁して欲しい。 「あ、いや、あの、僕が勝手に思っただけっていうか、その、えーと、犯人は今もう僕に分かってる訳で、それで、まあ実鞠さんにも分かってる訳で、きっと、手順ってもっと他にもあったんじゃないかなって思うんですけど、わざわざそんな、自分が……自分のことを、そうやって知ってもらうってのは、何か、……そういう思いがあったのかな、って僕は、ちょっと、思いました」  おかしい、小学生の感想文みたいになってしまった。もっと色々と言いたいことというか伝えたいことはあったのだけれど、まとまらない言葉をそのまま吐き出したものだから、感想文になってしまった。  座り込んだ実鞠さんの、僕を見上げたままの瞳から、瞬きと共に滴が零れる。震える唇が言葉を紡ぎかけ、きつく噛み締められたかと思うと、実鞠さんは床に手をつき、静かに額をつけるように頭を下げた。 「お願いします、どうか、おねえちゃんを助けて下さい。私はもう、沢山のことを間違えました。でも、おねえちゃんは何も悪くありません。だから、どうか、おねえちゃんだけは助けて下さい」 「…………えーと、」 「ねえ、けーちゃん」  はい、と答えかけた僕の右手首を、前条さんの手が掴んだ。そのまま強く引かれ、向き合うように抱き寄せられる。 「お前いま誰の為に死のうとしてる?」  晒された瞳は暗く、それでいて刺すような光を宿している。心臓が止まるかと思った。少なくとも、息は止まった。 「…………ぜ、前条さんです」  前条さんの為に死のうとしてます。それ以外の理由は一切ありません。本当です。間違いありません。僕は前条さんを助ける為だけに今死のうとしています。本当です。  掴まれた手首が軋んだ音を立てている、気がする。このまま行けば折れるかもしれない。痛みと恐怖から引きつった顔になった僕を見下ろした前条さんが、見定めるように目を細める。  いかん、不味い。このまま行くと正規の手段で死ぬより先に前条さんに殺されてしまう。それじゃ何の解決にもならないのだ。 「けーちゃんの嫌なところはね、」  何か言わねば、と思った僕が口を開くと同時に、微かに震えた声が耳を撫でた。 「身代わりがなくても、事情さえ在ればきっと同じようにするところだよ」 「え、いや、そんなことは、」  ない、と言い切れるか怪しいところで、前条さんが軽く突き飛ばすように僕を放した。蹈鞴を踏みつつ振り返った僕を、実鞠さんが見上げている。  前条さんの様子も気になるが、これ以上彼女を待たせることは出来ないだろう。それに、此処から出ないことには何も解決しないのだ。  振り返ったら殺す、と言わんばかりに首元に当てられる手に冷や汗を掻きつつ、やや気まずい思いで口にする。 「犯人は────」  実鞠さんです、と口に出来たかどうか意識するより先に、何処か遠くへと引っ張られる感覚が僕の身体を襲った。    ◆  ────目を覚ますと、視界には青空が広がっていた。  背中が痛い。どうやら道路に寝転がっているらしい、と気付いて、身体を起こした僕は、目の前にあるトンネルと、その手前にちょこんと座る首のない狸に気付いて、此処がどこなのかを察した。そして、まず間違いなく現実世界ではない、ということも。  狸は此方を向いている。断面は真っ黒に塗り潰されていて、そこから時折、墨汁のような液体がぽつり、ぽつり、と垂れていた。 「……もしかして、司か?」  多分、合っている自信はある。クビナシトンネルに居る『謎の何か』が司以外であるとは思えない。  だが一応確認はしておくべきだろう、と尋ねた僕に、狸は答えるより先にぴょんっと跳ねながら突進して来た。 『つかさの ばげんだつは!?』 「は?」 『かすかべが ないしょだよて、かってきてくれた  つかさ、たべる、たべるつもりで、すとろべり、おいしくて、ふたくちめたべよ!とおもたら、ここにいた』 「あ、ああ、そう、それは、なんというか、……悪かったな」 『つかさの はげんだつ……』  どうやら僕が死んだ時間が、丁度おやつタイムだったらしい。しょんぼりと丸まり始める司はハーゲンダッツを食べれなかったことが余程悲しかったらしく、そのまま、すん、と鼻を鳴らして泣き始めた。いや、だから、お前の鼻は何処なんだよ。  地蔵じゃなくなっても訳の分からなさには変わりが無いのか。呆れとも疲れともつかない溜息を零しつつ、落ち込む司の背を撫でる。 「別にそのくらい、帰ったら僕が買ってやるよ。今回はお前のおかげで助かった、助かった?訳だし……」 『ほんと? すとろべりと、まちゃと、ちょこたべていい?』 「やたら増やすな。まあ、良いけどさ」 『けちゃにも いっこ あげるね!』  嬉しそうに跳ね始めた司は上機嫌に叫ぶとそのまましばらく僕の周りを回り、三周くらいしたところで、はっと立ち止まった。 『そいや けちゃ しんだ?』 「気づくの遅いな!? うん、まあ、多分、死んだっぽいな」 『いたかた? へいき?』 「うーん、どうだろう、よく覚えてない」  何せ、僕にとっては自覚すらない出来事だった。大方他の生首達と同じように潰されたのだとは思うが、実感は皆無だった。ただ、覚えていたくないほどの恐怖はあった──ような気がする。  脳が思い出すことを拒否するような。やはり、生きてる人間にとっては死は記憶したくない代物なんだろう。  この状況の僕に脳とかあるのかは、ちょっと分からないが。  そういえば、今の僕は一体どういう状態なんだろう。幽霊? いや、でも、現実世界にいないんだよな。向こうだとどうなってるんだ?  死後、というか、『身代わり』を使うなどという状況が初めて過ぎて何も分からずに首を傾げる僕に、足下の司が何かに怯えるように身体を震わせた。 『……け けちゃ、えと、はやめに かえったほうが いいよ』 「いや、今ちょうど帰る方法考えてたところなんだよ。普通はどうやって帰るんだ?」 『おきたらかえる でも、ちょとむずかしそ  んん、けちゃ いま へんなとこにいる?』 「あー……うん、変なところ、だと思う」  『異界』と呼ばれるような旅館だ。確実に変な場所だろう。  頷いた僕に、司は普段ならもうとっくに起きている頃だと告げると、やや困ったように寝そべり、僕をじっと見上げた。逆立った毛が震える。 『かえれなかたら、あおぐ とっても おこる』 「……それは、そう、だろうな」 『ぜたい おくらないと まずい……』 「……もしかして、此処で過ごした時間って向こうでも同じくらい経ってるのか?」 『…………うん』  重く、噛み締めるような響きの呟きに、不安になって尋ねる。よく映画や漫画で見るように、此方で経った時間は向こうでは無かったことになってる、とか、そういう都合の良い仕様だったりしないのか?  だとしたら相当に不味い、と思いながら問いかけた僕に、司はやはり震えながら肯定を返した。  一気に、背に冷や汗が滲んだ。 「…………えーと、待ってくれ、その間、僕って現実世界では死んだままか?」 『うん……』 「ま、不味い、早く帰らないと!」  僕が死んだまま起きなかったりした日には、前条さんがどうなるか分かったものじゃない。あんな最悪の別れ際で死んだ上に不必要に待たせたりしてみろ、まず確実に、あの状況に追い込んだ布施さんがヤバい、なんなら実鞠さんも陽鞠ちゃんもヤバい、いや、もう、とにかく何もかもが不味い!  僕の奥さんが人殺しになる前に戻らねば。そもそも既に人を殺しているという点はさておき、焦燥から司の身体を抱え上げる。ふわふわだ。狸だ。ひんやりしている。 「ど、どうすれば帰れるんだ!?」 『い いま かんがえてる ど、どしよ これは そうていがい……』 「たっ、頼む司! お前だけが頼りだ!!」  涙目になって叫んだ僕に、焦ったように前足を振りながら考え込んでいた司は、ふと僕の胸元を見下ろすと、ほっとしたように身体から力を抜いた。 『あ! そか あるある だいじょぶ』 「だ、大丈夫なのか? 本当か?」 『だいじょぶ、けちゃの むねにある くさびに ついてく』 「楔?」  そういや、布施さんもそんなようなこと言ってたな。胸、と言われ、司と同じく自分の胸元を見下ろした僕は、そこで初めて心臓を貫くように突き刺さる真っ黒い楔に気づき、根を張るように暗闇を広げるそれに、喉を痙攣らせた。 「……な、なんだこれ」 『くさび』 「いや、だから、楔ってなんだよ!」 『けいやくの あかし? けちゃ あおぐと けいやくしたから ついてる』 「…………その契約が分からないんだってば」 『んん……とりあえず いまは はやくかえったほうが いいよ』  説明してくれるつもりはあったのだろうが、司は僕の問いに応えることなく、帰還を促した。確かに、今はそっちを優先すべきだ。最優先事項である。  胸に刺さった楔から、これまた黒い鎖が伸びている。景色として存在しているトンネルとは逆方向、暗がりの先へと繋がっていた。とりあえず、これを辿れば前条さんの元には辿り着けるらしい。 「分かった、じゃあ、ちょっと急いで行ってくる」 『もどってきたら つかさのこと むかえにきてね』 「迎え?」 『とんねるに かえっちゃうから』 「えーと……分かった、とりあえず迎えに行く」 『あと、はげんだつね』 「分かってるよ、あとでな」  ぽすん、と跳ねる司に見送られながら、暗がりの向こうへと走る。ぶら下がった鎖が小さく音を立てて揺れる。何処からどう見ても心臓に刺さっているが、特に痛みはなかった。  向こう側の景色は、露天風呂で見た、囲いの外によく似ている。暗闇の中に手を伸ばし、触れる──と同時に、ぞっとする程冷たい感触に思わず身を引いていた。触れた端から凍り付いてしまいそうな冷気だ。これを通って帰れと?  振り返ると、司が無い首で頷いていた。そうか。これを通るのか。吐きそうな程に寒い──が、これを越えなければ前条さんには会えない。早く戻らなければならないのだ。  歯を食いしばり、飛び込むようにして足を進める。気道が凍り付くような感覚を最後に、僕の意識は途絶えた。

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