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Ⅱ-3:旅館の話⑥

 目を覚ますと、視界には青空が広がっていた。  あれ? 僕、旅館に戻ったはずだよな? 不思議に思って辺りを見渡し、身体を起こしかけたところで気づく。  天井が吹き飛んでいた。二階の床どころか、屋根までが跡形も無い。隕石でも降ってきたのか、と上手く回らない頭で考えかけ、そこでようやく、自分がどういう状況で戻ってきたのかを思い出し、弾かれたように立ち上がった。 「ぜっ、前条さん!? 何処ですか!」  僕の声に応えるかのように、まだ崩れていない二階の端から叫び声が上がった。前条さんのものではない。もっと甲高い、女の子の泣き声だ。  不味い、非常に不味い。とにかく不味い。慌てて声の場所に向かって走り出すも、服が血で濡れていて非常に動きにくい。すっ転びそうになりながら廊下を走り、巨木を叩きつけるような轟音が響く先へと向かう。 「前条さん!」  曲がり角から飛び出した先で、黒い怪鳥が真っ白な腕を踏みつけていた。いや、怪鳥に見えただけで、実際は人だ。人、である筈だ。  鉤爪を食い込ませ、暴れる腕をへし折ろうと体重をかける前条さんの身体は、もはや半分ほどしか人の形が残っていなかった。右側は完全に溶け、骨格から別の生き物になろうとしている。見覚えのある黒い羽根から連想するのは、あの日、事務所の前で前条さんと対峙した異形の鳥──砂上だ。彼の身体が例の怪異によって変質したものであるとは知っている。ただ、此処まで変容したところは見たことがなかった。  あまりの光景に呆然とする僕の前で、白い腕が容易くへし折られる。また叫び声が上がり、縄が解けるように溶けた腕の中から、小さく蹲った女の子が現れた。四肢を歪に伸ばされた、十歳前後の女の子。多分、あれが花野陽鞠ちゃんだ。  蹲った身体は、痛みと恐怖からか震えている。傍らには陽鞠ちゃんが庇ったのか、それとも陽鞠ちゃんを庇おうとしたのか、実鞠さんの身体が投げ出されていた。彼女の方は完全に意識が無い。  もはや抵抗も出来ない様子の陽鞠ちゃんを感情の一つも浮かばない目で見下ろした前条さんは、鉤爪のついた足を振り上げ、   「ちょっ、待ッ、昂さん! それは、それだけはやっちゃダメです!」  滑り込んだ僕の手前でぴたりと止めた。  黒く鋭利な爪の先が、僕の額の寸前で止まる。風圧だけで気絶するかと思ったが、なんとか堪えた。  息を詰める僕の眼前で、鉤爪がゆっくりと下される。地面を掻いた爪先は、木製の床を豆腐か何かのように裂いた。溶けた半身が羽根のように伸び、苛立たしげに軽く振られる。 「なんで?」  不格好に陽鞠ちゃんを庇う僕を見下ろした前条さんの瞳には、やはり何の感情も浮かんでいなかった。殺意も、憎悪も、怒りも、何一つなく、ただ虚のような穴が開いている。  ただ、とりあえず、言葉は通じる。意思の疎通は出来る。そのことにまず安堵した。 「……ほ、ほら、僕、この通り戻ってきましたし、もう、終わったことじゃないですか。こんなことをする必要は、ない、というか」  返事はない。おそらく、彼の中では少しも終わったことではないからだろう。勿論、僕の中でも終わったことではなかったけれど、ここで前条さんが陽鞠ちゃんや実鞠さんを手にかけずに済むなら、僕の中では終わったことにしてよかった。 「そっ、それに、死んでも大丈夫なようになってたじゃないですか、だからもう、」 「大丈夫じゃない」 「……ええと、いや、前条さんが言ったんですよ、大丈夫なようにしてあるって、」 「大丈夫じゃない」  ここで、平坦だった声に、僅かな揺らぎが生じた。痙攣するように震える陽鞠ちゃんの気配を背に感じつつ、前条さんの様子を伺う。  唇を噛んだ前条さんは、幾度か形にならない音を吐息に混ぜ、短く息を吸ってから、震える声で呟いた。 「おれは、ちゃんと、大丈夫にしたのに、なのに、大丈夫じゃなかった、全然、だって、けーちゃんが、」  暗がりのような瞳が微かに揺れ、瞬きと共に光を帯びて歪む。その輝きが、瞳に薄く幕を張った涙によるものだと気づく頃には、彼の頬には幾重にも滴が筋を描いていた。  俯いた前条さんの頬を伝い落ちた涙は、止まる気配もなく床を濡らす。やがて覆い被さるように抱きついてきた前条さんは、そのまましばらく泣き続け、驚きのあまり硬直していた僕が抱き締め返すことも出来ないうちに、力が抜けたように真横に倒れ込んだ。 「あ、あれっ、あ、昂さん!? だ、大丈夫ですか!」  慌てて揺さぶるも、返事はない。少なくとも息はしているが、この状態が無事なのかどうか、僕には一切分からなかった。  どうしよう、どうすればいい? 医者に見せに行くことの無意味さは言うまでもない。これまでと同じように自己治癒でなんとかなる、と楽観視するには、今回は身体があまりに変化しすぎていた。  そもそも僕一人では前条さんを運ぶことも出来ない。横たわる彼の身体は半分が異形と化していて、触れるだけで痛みを覚えるほどの冷気が肌を刺した。 「……ど、どうしよう」 「おっと、お困りですか? お手伝いしましょうか」 「あ、はあ、よろしくお願いしま──……布施さん、今まで何処に?」  突然の有難い申し出に振り返った僕の目に、にっこりと微笑む布施さんが映る。未だ腫れの残る両頬はさぞ痛むだろうに、喜色の滲む満面の笑みだった。  今の今まで姿を見ていなかったのにあまりにタイミングよく現れた布施さんに、つい責めるような語調になってしまう。いや、でも、これは流石に責めても許されるだろう。流石に。というか、本当に、殴っても許されるだろう。 「けーちゃんくんが全然戻ってこないので、これは確実に殺されるなあ、と思って避難してました」 「……そうですか」 「戻ってきてくれて良かったです。折角昂くんに来てもらって旅館から出られるようになったのに、昂くんのせいで死んでしまっては本末転倒です」 「…………その場合は自業自得って言うんだと、思いますよ」 「あるいは因果応報、かもしれませんねえ」  拍子抜けするほどあっさり肯定した布施さんは、手に提げていた革のボストンバックを開けると、鮮やかな赤色の組紐を取り出し、前条さんの片羽根に括り付けた。  触れた部分の冷気が幾分軽減されるのを感じる。少なくとも、触れただけで動けなくなるほどではなくなった。また別の色の組紐を括り終えた布施さんが、まだ人の形を保っている方の腕の下に身体を割り込ませる。 「さ、けーちゃんくんは右側を支えてください、ぼくは此方を支えます。駅まで行けば何とでもなりますから、とりあえず少し歩きましょう。頑張れそうですか?」 「は、はあ、それは大丈夫ですけど、あの、此処は、このままで良いんですか……?」  半壊した旅館に蹲る陽鞠ちゃんと、中庭で意識を失っている実鞠さん。どう取り繕って言おうと惨状以外の何物でもなかった。  僕らは巻き込まれた被害者ではあるけれど、同時に加害者にもなってしまった気がする。 「けーちゃんくん、こういう時はですね、逃げちゃうといいんですよ」 「…………布施さんは彼女たちを助けるために此処にいたんですよね」 「彼女達はもう充分に救われました。蘇りを望み、それが叶ったのですから。その後にどんな不運があろうと、それは彼女達の責任です。今は昂くんを助けることを考えましょう。君にとっても、それが一番重要な筈だと思っていますが、違いますか?」  アンタがそれを言うのか、とは言いたいが、確かに状況を見ればそうだった。  一刻を争うかも知れない状況で、前条さん以外のことを気に掛けている余裕は無い。呼び掛けに一切応えることなく、だらりと四肢を垂らした前条さんの喉からは、ざらついた呼吸音だけが漏れ聞こえていた。  踏み出す足に力を込め、啜り泣く幼子の声を背に出口へと向かう。旅館の扉を抜けた先には、茜色の空が広がっていた。  夕焼けが僕らを照らしている。旅館の中から見た空はあんなにも青く晴れていたのに、なんだか逆に異界に入り込んだような、妙な気分だった。 「…………ところで布施さん、ひとつお願いがあるんですけど」 「はい、なんでしょう」 「あとでぶん殴ってもいいですか」 「どうぞどうぞ、何発でも」 「…………もしかして、ふざけてます?」 「いえ、至って真面目、なんですけどねえ。あ、そうです、けーちゃんくん、コートを羽織った方がいいですよ。血染めが趣味の人みたいになっているので」 「…………それは、……そうですね」  一刻を争う時なのに、血塗れの僕で職務質問されてしまっては堪ったものではない。というか、この血はやっぱり、僕が潰された時の物なんだろうか。  布施さんが持ってくれていたらしいコートを羽織ってから、前条さんを支え直し、来るときには二人で歩いた道を、布施さんと共に前条さんを抱えて三人で戻る。僕ら二人よりも前条さんの方が背が高いせいで引きずる形になってしまっていたが、そもそも変質した片羽根は引きずりっぱなしだったのでもはや気にしていられなかった。  人気の無い道を進み、駅に近づくと共に、通行人の姿を見かけるようになる。 「……この状態の前条さんって、普通の人にはどう見えるんですか」 「皆さんきっと見ませんね。見たくない物は、見ないようにしてしまうものです」 「…………なるほど」  言葉の通り、誰も彼もが無関心を貫いてはすれ違っていく。一度乗車券を買いに離れた布施さんは、戻ってくるなり、「ちょっと血の匂いがしますね」などと言いながら前条さんを抱え直した。  改札を抜け、乗り込んだ列車の席につく。僕の隣に座らせた前条さんの身体をゆっくり横たえたところで、対面に座った布施さんが乗車券を見ながら呟いた。 「ああ、まだ十日を過ぎていないんですね。これはちょっと、油断できません」 「……今日って何日ですか?」 「九日です」 「は? えっ、ぼ、僕、そんなに居なくなってました?」 「いえいえ、ほんの三十分くらいです。三十分であの有様なんですから、昂くんはやはり、敵に回すと恐ろしいですねえ」  横になっていた方がまだ良いだろうか、と膝枕で支えていた前条さんの頭が、僕が驚きで動いたせいで軽く揺れてしまう。慌てて支え直しつつ、記憶を辿る。  僕の記憶が正しければ、現場を回り始めた時はまだ六日だった筈だ。だが、乗車券の日付は確かに九日になっている。訝しむ僕に、布施さんはなんてことのない声で言った。 「まあ、異界ですからね、日付だってずれます。重要なのはまだ十日を迎えていない、ということなんですが……困りましたね」 「やっぱりまだ危険ってことですか」 「ええ、そうです。ここで十日を越えていれば脅威は去ったということになるのですが、現状が九日であり、旅館から既に出ている以上、恐らく此処で言う『前条か布施が死ぬ』の意味が、『昂くんがぼくをぶっ殺す』、か、『ぼくのせいで昂くんが死ぬ』になってしまっていると思うんですよね」 「…………………………」  困りましたねえ、なんて呟く布施さんは、その実少しも困っているようには見えなかった。こうなってくると、彼が本当に旅館に閉じ込められていたのかさえ怪しくなってくる。  もしかして僕らはこの、人助けが生き甲斐だという男に、実鞠さんを『救う』為に利用されただけなんじゃないか? そのせいで前条さんは精神的にも肉体的にも傷ついて、なんなら僕は一度死ぬ羽目になって、司はハーゲンダッツを食べ損ねたんじゃないのか? 全部この人が仕組んだことなんじゃ? 「おっと、けーちゃんくん。それは誤解です」 「……まだ何も言ってませんが」 「顔に出ていますからねえ。本当に、昂くんが言った通りの子ですね、君は」  微笑んだ布施さんは、僕が胡乱げな視線を隠しもせずに送り続けると、僅かにバツが悪そうに肩を竦めてみせた。 「本当に、ちょっと困りました。つまりぼくは、此処でけーちゃんくんに『助けてもいい人間』だと思われないと、昂くんにぶっ殺されるか、昂くんがぼくのせいで死ぬか、という状況になってしまった訳です」 「…………一応言っておくと、現状では8:2くらいで助けたくない人間です」 「ふふ、ですよね」  一体何が面白いのか、笑い始めた布施さんはしばらくくふくふと喉を鳴らしてから、気を取り直すように小さく咳払いを響かせた。 「此処はひとつ、誠実にお話しをしないといけませんね」 「…………出来ればそうしてもらえると嬉しいですね」 「ではまずぼくがどういう人間かをお話ししましょう。まあ、ぼくは端的に言えば分類上は禍津神に当たるんですけどね、分かります? 禍津神」 「…………えっと、神様、なんですか?」 「『人々に災いをもたらす邪神』というのが一番簡単な説明です。いやはや、自分のことを神だなんて紹介するのは、毎度のことながら、死んでしまいたいくらいに恥ずかしいですね」  人々に災いをもたらす邪神。確かに、自己紹介としては大分尖りすぎている文言だった。  照れ笑いを浮かべる布施さんは、今ひとつぴんと来ていないらしい僕の顔を見て、説明が足りていないことに気づいたように小さく頷く。 「……ま、簡単に言えば、ぼくが不幸を願った人間はそのまま、際限なく不幸になるんですよ。ちなみに、幸福を願っても何の意味もありません。人を蘇らせることも治すことも癒やすことも出来ません。ただ人の不幸を願い、死を望んだ時だけ、ぼくの祈りが現実となるわけです」 「…………それって、呪いをかけるのとか、そういうのとは違うんですか?」 「似ていますが、違いますね。仮にそう喩えるのなら、ぼくにとっては呪いは呼吸に等しいものです。仰々しい儀式やまどろっこしい手順の必要性は皆無です。ぼくはただ生きているだけで『人間』に災いを呼び込むことが出来るわけですね。ええ、はい、なんとまあ、非常に危険ですね」  言い切ってから、布施さんは微かに眉根を寄せて、首を傾げた。 「おっと、これではぼくは、大分死んだ方が良い人間になってしまいます」 「…………そう、ですね。大分」  仮に今回の件がなかったとしても、生きてるだけで災いを呼ぶ、願っただけで人を殺せるような存在を野放しにしておくのはどうか、としか思えなかった。  思わず頷いてしまった僕に、布施さんは特に気にする様子もなく続ける。 「ただね、ぼくも一応、人の子として生まれた訳ですから、流石にそれは悲しいなあ、と思う訳なんですよ」 「は、はあ」 「自分が人類を不幸にするために生まれてきた存在だと突きつけられるのは、仕方が無いとはいえ、気分としては最悪なんですよね」 「…………」 「だから、ぼくは今まで一度だって人の不幸を願ったことはありませんし、これからもそのつもりです。ぼくにも誰かを救うことが出来るはずだと信じていたいんですよ、我儘かもしれませんけど」 「……それは、…………」 「実際、昂くんを助けるのは本当に上手くいったと思ってるんですよ? ま、けーちゃんくんの存在あってこそ、なんですけどね」  軽い調子で言い放った布施さんは、窓の外を流れる景色を眺めながら、やはりごく明るい声で言葉を紡いだ。 「助けた、なんていうのは本当に烏滸がましい話です。昂くんはただ君の存在を肯定してくれる人が欲しくて、ぼくはただそこに当て嵌まっただけの人間ですから。本当は分かってるんですけどねえ……でも、言いたくないじゃないですか。言葉にしていれば、もしかしたらいつかはそうなれるかもしれない、と、信じてしまうんですよね。ほら、言霊ってあるでしょう? やっぱり」 「…………」 「……ふふ、けーちゃんくん、そんなんじゃ多分また、昂くんに怒られますよ」  僕の表情から心中を正しく読み取ったらしい布施さんは、少しだけ呆れたように笑った。 「……別に、許した訳じゃないですし」 「でも、もう、『布施さんも大変なんだな』とか、考えてしまっているでしょう?」 「…………だって実際大変でしょう?」 「けーちゃんくんは素直ですね、ぼくがまた嘘をついている、という可能性を少しも考えないんですから」 「ついてるんですか? 嘘」 「…………いえいえ、今ここで嘘をついても、ぼくには特にメリットがありません。昂くんを騙した挙句、けーちゃんくんを騙したともなれば、今度こそぼくはおしまいです。地獄の果てまで追いかけられて必ず殺されてしまいます」  布施さんが、降参するかのように両手を上げてみせる。彼はざらついた呼吸音を微かに響かせる前条さんを見下ろし、痛ましげに目を細めた。  やがて見ていられない、とでもいうように目を閉じた布施さんが、小さく頭を振り、首を傾げる。 「うーん……本当に、騙すつもりはなかったんですが、どうしてこんなことになってしまったのやら」 「……だったら一体どういうつもりで呼んだのか、聞いてもいいですか」 「ああ、そうですね。その点をきちんとお話しするべきなんでしょう。まあ、怒られるかもしれませんが、僕はもう嘘はつかない、と昂くんと約束しましたし」 「…………」  そういえばそうだった。流石にあの状況でした約束を破る、なんてことはないだろう。そこまで来たら、もう一切が信用出来なくなってしまう。  前条さんが少なからず信頼している人を同じように思えないのは、素直に寂しい。 「ぼくが昂くんを呼んだのは、確かに『彼ならなんとか出来るはず』だと思っていたからです。けーちゃんくんは、けーちゃんくんですから、既にご存知かと思いますが、昂くんはそもそも既に魂の形も種類も数も、人のそれではありません」 「……まあ、そうとも言えますね」 「対してぼくは、まあ、分類上は禍津神とは言えますが、魂はひとつきりの普通の人間です。昂くんならもし仮に贄となっても生存確率はぼくの三倍ですし、何なら、昂くん自身が例の座敷童子さんの力を上回れば、物理的に出ることも可能だと考えた訳です」 「…………じゃあやっぱり、半分くらいは贄にするつもりで呼んだんですよね」 「そうとも言えますね」  反射的に殴ろうとして、膝に乗せた前条さんの存在を思い出した。握っていた拳を五秒かけて開き、苦しげに息を吐く前条さんの頭を撫でることでなんとか怒りを誤魔化す。 「……一つ言っておきたいんですけど」 「はい、なんでしょう」 「僕は貴方のことが大分嫌いです」  三回ほど深呼吸した僕をなんだか楽しそうに見つめていた布施さんは、吐き捨てるように口にした言葉を聞くや否や、口元の笑みを更に深くした。穏やかでありながら、なんとも嬉しそうな笑みだ。腹が立つ。 「けーちゃんくんは素敵ですね。きちんと自己紹介をしてから嫌われたのはこれで四度目ですが、君ほど何も持っていない方から言われるのは初めてです」 「……そうですか、良かったですね」 「普通の方は早々にぼくと関わるのをやめます。向き合ってくれたりはしません。誰だって、願っただけで自分を殺せるような相手とは関わりたくないですからね」 「……まあ、片手で僕のこと殺せちゃう人と付き合ってますから、そんなのは今更です。それに、布施さんはそんな自分が嫌で人助けしてるんだから、絶対にそれだけはしないんでしょう?」  願っただけで人を呪い殺せる体質だったとしても、布施さんの人格は別だ。そして、更に言えば、僕が布施さんの人格を嫌う理由に、体質は少しも関係がない。  仮にやむを得ない事情があったとしても布施さんが前条さんを傷つけたのは事実だし、こんなことになる状況に追い込んだのも事実だ。多分、それには僕も少し加担しているけども。  そこは僕もまた反省しなければならない。前条さんには要らない心配を沢山かけてしまった筈だ。 「昂くんが君を絶対に手放したくない理由が少し分かった気がします」 「……ええと、それは、どういう?」 「んー、内緒です」  あとで殴ろう。具体的には、対岸町についたら殴ろう。  密かに決意を固める僕の表情は全然、これっぽっちも密かではなかったのか、布施さんは「まあまあ」なんて、怒りを収めようと宥めてきた。逆効果なんですが。 「絶対の絶対に大丈夫だという確信があったのに、実際君が死んだのを見たら感情が制御出来なくなってしまうんですから、やはり愛とは恐ろしいですね。けーちゃんくん、君は死んでも大丈夫なようになっていますが、多分死なない方がいいと思いますよ」  しみじみと呟いた布施さんがあまりに他人事のようにいうので、一瞬何もかもが詰まって、言葉が出てこなかった。怒りとか、苛立ちとか、憤りとか、そういうものが大渋滞を起こしている。  この人、絶対に人助けには向いてない。人を助けるという行為自体に向いてない。人を助けようとする行いそのものが災いになりかけている、とまで思って、流石に、いくら何でもこれをぶつけるのはな、とやはり言葉を飲み込んだ。  結果、拳を握り締めて唸るだけになった僕に、布施さんは穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。 「もしくは、死ぬ時は昂くんに殺されてあげてください。その後もずっと一緒ですから、きっと終わり方としてはそれが一番無難でしょう」 「それは……楔とやらと関係がある話、ですよね」 「ええ、そうです。けーちゃんくんは、契約の話は覚えていますか?」  布施さんの指が宙に長方形を描いた。ジェスチャーが『契約書』を指していることを察し、頷く。 「昂くんは、君とある契約を結びました。魂にまで刻み込む、所有の楔です。君の存在は契約を結んだ時から一切が昂くんのものであり、そして、この契約には『死後』までが含まれます。むしろ、肉体という枷が無い分、死後の方がより強く縛りつけることが可能です」 「…………」  知らず胸元を見下ろしてしまった。今はもう、何も見えないけれど、此処には確かに黒い楔が刺さっていた筈だ。  『死後』を含んだ所有の証。「けーちゃんの命は頭の天辺から足の爪先まで俺のものなんだぜ?」という、いつぞや聞いた台詞が脳裏に過ぎり、知らず妙な吐息が溢れた。 「実を言うとぼくが『昂くんなら大丈夫だろう』と、君たちが訪ねてきてからも確信していた理由がこれなんですよ。この契約に必要なのは昂くんの寿命、要するに魂であり、楔の素材もそうです。仮に昂くんが魂を捧げたとしても、形を成しているうちに君の魂に打ち込んだ楔を回収すれば、まず間違いなく、安全に彼処を出ることは可能でした。ぼくもその方がいいんじゃないかなあ、と思っていたのですが、昂くんにとっては契約の破棄の方が耐え難かったようですね」  返す言葉も見つけられない僕を置いて、布施さんは半ば独り言のように呟く。 「魂を拘束する程の契約は、昂くんのような存在が何年もかけて用意し、同意を得られて初めて成り立つ非常に高度で、難解な呪術ですから。取り込み、契約を破棄すればもう二度とは結べません。君という存在を縛る鎖は永遠にかけ直せない訳です。  この先の一生を天秤にかけて、今回の死は受け入れることにしたのでしょう。ただ、いざその時になったら耐えられなくなってしまったのが、昂くんの可愛いところですね。いやはや、あれは本当に肝が冷えました。何年かぶりに死ぬかと思いましたね」 「…………あの、一つ聞きたいんですけど」 「はいはい、なんでしょう?」 「前条さんが契約のために用意した『寿命』ってのは、何年分くらいとか、分かるんですか?」  聞いたところで半分も頭に入らないような、僕には理解の及ばない話ではあったが、そこだけは確実に確かめておかなければならなかった。  布施さんに聞いて分かるものなんだろうか。分からなかったら一体誰に聞けばいいんだろう、なんて不安になりつつ尋ねた僕に、布施さんはぱちり、と目を瞬いた。  鮮やかな碧眼が、色眼鏡越しに僕を真っ直ぐに見つめている。 「……けーちゃんくんって、本当に素敵なんですねえ」 「は、はあ、……え?」 「ぼくがあと二十は若ければ、お付き合いを申し込んでいたかもしれません。まあ、ぼくがあと二十も若かったら、多分昂くんとは出会ってませんし、そうなると、けーちゃんくんも居ないわけで、有り得ない世界の話ではありますが」  ……この場合、僕は一体どういうリアクションをすればいいんだろう。  縋るように前条さんの手を握る。皮膚を食い破るように飛び出た羽根が、柔らかく僕の掌を押し返していた。 「ま、それは冗談として、寿命の話でしたか。一応、年数としては十五年です。これが短いか長いかは、ちょっと何とも言えません。昂くんの身体でいう『十五年』が人のものと同じかどうかも、ぼくには少し分かりかねますし」 「十五年……」  言葉にすると、重みのある年数だった。僕は今年で二十歳になるわけで、十五年と言ったらその四分の三の年月だ。  前条さんは僕の存在ごと所有するために、十五年を対価にして契約を結ばせた。統二のように、失ってから苦しむのでは遅いと分かっていたから。 「全然返せる気がしない……」  無意識に溜息が零れ落ちる。  サーカスで出会ったあのひとときの為に、十年の期間と、十五年の寿命を払うような相手に、僕は一体何を返せるんだろう。少しも同じ気持ちを返せている気がしない。  僕は本当に前条さんを幸せに出来ているんだろうか。『一緒にいるだけで幸せ』だなんて、彼は言ってくれるけれど、それだけじゃ全く足りないんじゃないか?  悩みがそのまま唸り声として漏れ始めた僕に、布施さんがにこやかな顔で首を傾けた。 「けーちゃんくん、ぼくからも一つ聞きたいことがあります」 「え、あ、はい。なんでしょう」 「けーちゃんくんは、もしかして自分のことを普通の人だと思ってます?」 「……思ってる、というか、普通の人ですけど。いや、普通というか、人よりちょっと、取り柄に乏しいな……くらいには思ってます」 「そうですか」  普通、というより、何もない人間だとは思っている。さっき布施さんが口にした通り、僕には何か特別な力がある訳でもないし。 「……なんだってそんなことを?」 「いえ、何、昂くんは、面白い人を選んだなあ、と思いまして」 「…………」  この状況で何を面白がってるんだ、という思いがそのまま視線に現れた僕に、布施さんは答えることなくただ微笑んだ。  こういう笑みを浮かべている人が、僕の質問にきちんと答えてくれた試しはない。諦め、口を噤んだ僕は、やがて疲れからか眠気に負けて目を閉じていた。  対岸町に着く頃には、既に二十時を回っていた。布施さんに起こされ、軋む身体を起こして前条さんを抱えて降りる。  エスカレーターに羽根が挟まらないか気が気じゃないままホームから上がり、改札の手前まで来たところで、先導していた布施さんが立ち止まった。 「さて、けーちゃんくん。此処から先は津夜子に手伝わせますので、君は昂くんを謙一くんの家に運んでもらえますか?」 「謙一さんの家、ですか?」 「ええ、ぼくは実のところ人を治すには少しも向いていない人間なので、こういう時は彼女が適任です」 「………………」  やや呆れた顔で黙り込んだ僕に、布施さんはやっぱり微笑んだまま前条さんの身体を預けた。改札の向こうで、津夜子さんが僕らを待っている。 「……あれ、いや、布施さんは一緒に来ないんですか?」 「ええ、ぼくは謙一くんには蛇蝎の如く嫌われているので」 「…………ソウデスカ」  もはやそれ以外に返せる言葉はなかった。不信を隠しもしない僕に、布施さんはやはり何処か嬉しそうに笑う。 「昂くんについていてあげてください。ぼくがこの場から逃げようとしているのに目覚めないということは、恐らくこの先は昂くんの命を繋ぐ必要が出てきます。けーちゃんくんがいれば避けられる事態のようですから、どうか側にいてあげてくださいね」 「は? 逃げようとしてるんですか?」 「ええ、逃げようとしています」 「……」  両手は前条さんで塞がっていたので、僕はとりあえず思い切り布施さんの足を踏んだ。布施さんが善意で持ち出してくれていた僕の靴は、しっかりと草履の足を踏みつけることに成功した。 「あいたた」 「あいたたじゃないですよ、何逃げようとしてるんですか。最後まで面倒見るのが大人の責任ってものじゃないんですか!」 「そうしたいのは山々ですが、ぼくは残念ながら銀徳と非常に相性が悪いので、恐らくいない方がいいかと思いますよ。彼はそもそも昂くんのことすら気に食わないと思っていますし、まあ、君と昂くんだけで行った方が、謙一くんも幾分寛容になるでしょう。では、そういうことで」 「は、ちょ、待──……ックソ!」  最後の最後まで人の良さそうな笑みを浮かべていた布施さんは、心の底からそれが正しい、と思っている口振りで言い切ると、鮮やかな足取りでホームへと降りていってしまった。おそらく、乗車券を買った時に元からそのつもりで用意していたのだろう。  悪態をつくも、あっという間に姿が見えなくなった布施さんに前条さんを抱えたまま追いつける筈もない。溜息と共に肩を落としたところで、改札を抜けていたらしい津夜子さんが僕が支え切れていない前条さんの片側を支えるように手を差し入れた。 「……布施が迷惑をかけました」 「い、いえっ、その、……あー、はい」  とんでもないです、と言いかけるも、実際ここ半年でも統二に次ぐ迷惑さだったので、素直に頷いてしまった。こういう時に変に気を遣って、何かよかった試しもない。  誤魔化しもなく頷いてしまった僕に、津夜子さんは表情に乏しい口元に微かに笑みを浮かべた。こうして見ると、事務所を訪ねてきたときの様子は夢か何かのようだった。  穴だらけだった顔を思い出しかけ、妙な表情になったらしい僕を見て、津夜子さんが軽く頭を下げる。 「先日はお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。せめて案内は努めさせていただきます」 「え、あ、はい、よ、よろしくお願いします。……あ、あの、でも、津夜子さん、前条さんに触れてるのは辛くないんですか?」 「私どもがかけた迷惑に比べれば、こんなものは苦でもありません」  淡々と言い切った津夜子さんは、僕と共に前条さんを抱えてロータリーまで降りると、停めてあった車に僕ら二人を押し込み、運転席へと回った。 「う、運転、出来るんですね」 「あると便利だったので、免許を取りました」 「……な、なるほど」  怪異がどうやって免許を取るのだろうか。気にしている場合ではないことばかり気になってしまうのは、そうでもしないと気を紛らわす術がないからだ。  赤い組紐が、腐り落ちるように解けている。後部座席で横たわる前条さんの身体は、旅館で触れた時と同じくらいに冷え始めていた。  じきに車内も凍えるような寒さになるだろう。慣れた手つきで車を走らせる津夜子さんが、確かに怯えの滲む目でミラーを確認するのが見えた。 「櫛宮さん」 「は、はい」 「免許はお持ちですか」 「お、お持ちでないです……」 「承知しました。何とか間に合わせますので、櫛宮さんは彼の相手をお願いします」  信号待ちの最中、冷えた指を解すように組んでいた津夜子さんが静かに僕に問いかけた。なんとも情けない返答しかできない自分が悔やまれる。  藍色の着物を見に纏った津夜子さんの襟元からするりと一匹のゲジが覗き、前条さんを指してから引っ込んだ。  後部座席に横たえた身体が、骨の軋むような音を立てて歪み始めている。旅館にいる時は半分ほどで止まっていた変容が、此処に来て進み出しているようだった。  相手、と言われても僕に出来ることなんて限られている。凍りつくような温度の身体を宥めるように撫で、膨らむ羽根を押さえつけようと抱きしめる僕の視界の端で、黒手袋を突き破った鉤爪がシートを裂くのが見えた。  ……多分、僕の身体なんてゼリーより容易くぐちゃぐちゃに出来てしまうだろう。別に前条さんに殺されること自体は構わないが、今このタイミングでそうなるのは避けたい。僕はまだ前条さんを全然幸せに出来ている気がしないし、死後に一緒にいるよりは、まだ生きてるうちに共に楽しみたいことが沢山ある。 「昂さん、すみません、もう少しだけ頑張ってください」  縋るように抱きしめ、必死に身体を撫でる。こうしていると少しだけ変化する部分が落ち着く、ような気がした。気休めかもしれないが、しないよりはマシな筈だ。  震えながら摩り続けてしばらく、見慣れた道を通って謙一さんの家にまで辿り着いたところで、津夜子さんは耐え切れなかったのか車外へ出ると同時にその場に膝をついた。  吹き出た冷や汗を拭う津夜子さんが、眉を下げて僕らを見上げる。その足は、事務所で見た時と同じように人の形を失いつつあった。 「私にお手伝いできるのは此処までです、あとはよろしくお願いします」 「はい、えっと、ありがとうございました」 「……礼は要りません。むしろ此方が詫びなければならないのに」 「いえ、でも、その、助けて頂いたので」 「…………布施にはきつく言っておきます、聞くとは思えませんが」 「それは、もう、……よろしくお願いします」  一番真剣な顔で言い放ってしまった。いやもう、思い出すだけで大分殴りたい。前条さんがそれなりに大事に思っている人なのは分かっているけれど、その上で殴りたい。今度会ったら殴るしかない。  歯を食いしばりながら前条さんを背負い、門扉へ向かう。さほど距離があるわけでもないのに一キロくらい歩いた気分だった。  拳を叩きつけるようにして扉をノックし、呼びかける。櫛宮です、すみません、助けてください、と数度繰り返すうち、ゆっくりと扉が開いた。 「す、すみません、急に、ちょっと、助けてもらいたくて……あの、謙一さんはいますか?」  門扉を開いた先に立つ使用人さんは、僕が背負った前条さんの姿を認めるとやや焦った様子で両手を伸ばしてきた。差し出された手のひらが示す要求にワンテンポ遅れて気づき、慌てて前条さんを背から下ろす。  やはり、津夜子さんを抱えた時と同じように軽い反物でも抱えるように受け取った使用人さんは、そのまま僕を振り返ることなく屋敷の中へと駆けて行ってしまった。  門扉を閉め、急いで後を追う。前条さんを背負ったせいか情けないほどに頼りない足取りになってしまった。玄関扉を越え、記憶を頼りに謙一さんの部屋へと向かう。  早く事情を伝えなければ、と焦る思いで挨拶もそこそこに襖を開けた僕は、そこでたった今部屋を出ようとしていたらしい謙一さんと目が合い、足を止めるかどうかで迷って変な体勢で固まった。 「あっ、け、謙一さん! すみません、突然! あの、ちょっと、前条さんのことでお願いが──」 「謝る必要はない、昂は奥座敷に運んだ。案内する、来てくれ」  言うや否や僕の傍を抜けた謙一さんが屋敷の更に奥へと向かう。翻った裾の片側から、白い絹糸が解けるように散っていく。迷わないように後を追う中、片足が絹糸で作られている、と気づいた頃には、一際広く取られた部屋の前に立っていた。  小さな手が乱雑な仕草で襖を開く。開かれた先の座敷は、雪景色か何かと一瞬勘違いしそうになる程、白い絹糸で隙間なく覆われていた。 「昂の様子は?」  足を踏み入れ、鋭い声で言い放った謙一さんの声に、作業していたらしい使用人さんが緩く首を振る。言葉を持たないらしい使用人さんは、ただ無言で、室内の中央を指し示した。  その先には、寝台に寝かせられた前条さんがいる。部屋中に溢れた白い絹糸は座敷の中央に収束し、横たわる前条さんに触れようとしては、端からどろりと腐り落ちるように溶けていた。  小さく、舌打ちの音が響く。 「す、すみません、謙一さん、実は、僕のせいでこんなことになってしまったんです……」 「君のせい? まさか、『君のおかげ』ということはあっても、せいということはない。断じて」  強い口調で言い切った謙一さんが、僕を振り返る。 「君がその場にいたおかげで、この程度で済んだのだろう。全く、だから妙な男に関わるなと……まあいい、とりあえず、櫛宮くん、手伝ってくれるか」 「えっ、あ、はい、僕に出来ることなら」  頷く僕を見上げていた謙一さんが、今し方腐り落ちたばかりの絹糸を片手で掬い上げ、僕に見せるように掲げた。 「この通り、此奴は私から受ける干渉の全てを拒絶している。これでは治しようがない。君が媒介となってくれ」 「媒介、ですか?」  何一つ理解していない顔で目を瞬かせる僕の元に、赤く平たい盆を持った使用人さんが駆け寄る。 「簡単に言うなら、君の血をくれ。この糸が全て染まり切るまでの量を、だ」  盆には、絹糸の束が円を描くように収まっていた。使用人さんが両手で抱えるほどの盆だ。これを染め切るとなると、かなりの量が必要になる。 「これ全部、ですか」 「……難しいか」 「いえ、やります」  僕が血を渡すくらいのことで前条さんが助かるなら安いものだ。コートを脱いだ僕に、謙一さんが明らかに眉を顰める。細められた目の先にあるのが僕自身の血で血塗れの服だと気づいたのは、小さな手のひらが確かめるように此方の肌に触れてからだった。 「君も何処か負傷しているのか」 「あ、いや、ちょっと死んだだけです」 「は?」 「えーと、い、色々あって」  胡乱げな目が睨み上げてくる。その目に浮かぶ剣呑な光は僕に向けられたもの、というよりは、もっと別の誰か──恐らくは布施さんに対してのものだろう、と何となく察せられた。  俯いた謙一さんが微かに何事か呟く。聞き取れなかったそれについて尋ねるより早く、彼女の手が着物の懐から黒い小刀を取り出した。 「まあいい、後で聞く。とりあえず掌を出せ」  端的に告げた謙一さんは、訳も分からず差し出した僕の左手を軽く握ると、手の平に四本、薄く筋を入れるように刃を滑らせた。  鋭い痛みが走り、反射的に身体が強張る。溢れ出した血がぽつり、と盆に垂れた。謙一さんはそのまま、握り締めていた僕の手首を引くことで、絹糸の束へと手を誘導する。 「束を握り込むように押さえろ、あとは此方で済ませる」 「は、はい」  綺麗に纏められた絹糸を、手の平で押さえる。じわりと広がった赤色は、対面で謙一さんが小さく何かを呟くのと同時に、まるで吸い上げられるかのように一気に広がった。  頭蓋の奥を締め付けられるような痛みと、喉の奥から嘔吐くような不快感が沸き起こり、視界が歪に歪む。貧血か、と思い至る頃には、盆の中身は不気味な程に鮮やかな赤色に染まっていた。未だ血液の伝い落ちる手の平に、部屋を覆う絹色の束のひとつがくるりと巻き付く。盆の中身とは異なり、僕の手を覆った束には少しの血も滲むことは無かった。 「すまない、櫛宮くん。少し急いだ」 「いっ、いえ、大丈夫です、それで、あの、前条さんは……」 「問題無い。千登利をつけるから、少し外で待っていてくれ」  立ち上がることも出来ず、ただ吐かずに済むように白い床を見つめて耐える。細く息を吐き、少しは頭痛がマシになったかというところで、蹲る僕の傍らに使用人さんがそっと膝をついた。  細い腕が僕の肩を支える。驚くほどあっさりと僕を持ち上げた使用人さん──千登利さん?は、呆気にとられる僕に表情一つ変えることなく部屋を出ると、後ろ手で襖を閉めた。 「あ、ま、待ってください。ちょっと、こ、此処に居ても良いですか」  そのまま何処か、恐らくは客室へ向かおうとする千登利さんを、慌てて引き留める。言葉は通じるのか、足を止めた千登利さんは不思議そうに首を傾げた後、静かに僕を下ろしてくれた。  立っているのは流石にしんどい。襖を背に座り込んだ僕の前に、千登利さんが出迎えの時と変わりない無表情さで立っている。じっと見下ろす瞳が何かを尋ねているようにも見えたので、とりあえず誤魔化し笑いと共に口を開いた。 「心配なので、とりあえず、此処に居ようかなって……その、何が出来る訳でもないんですけど」  僕にやれることは既に終わった──と思う。前条さんの身体に関しては謙一さんの方が僕より余程詳しいはずだ。僕に出来るのはあとは待つくらいのことで、それなら部屋で休んでいても変わらないのかもしれないけれど、それでも、少しでも傍に居たい、とは思ってしまう。  丁度体育座りの格好で襖の前に座る僕に首を傾げていた千登利さんは、僕が動く気が無いことを察すると、やはりというか、特に言葉はないまま、僕の隣にちょこんと座った。  どうやら、一緒に居てくれるつもりらしい。素直に有り難いな、と思いながらそっと息を吐き出したその時、僕の耳に甲高い、ざらついた鳴き声が届いた。  錆び付き、軋んだ鳴き声。聞き覚えのあるそれに背筋が凍る。どう聞いても、砂上の鳴き声そのものだった。鳴き声に漏れ聞こえる罵声、硬質な破裂音、巨体がぶつかったような打撃音が続く。 「ど、だ、えっ……だ、大丈夫、なんですかね?」  思わず、引きつった顔で尋ねていた僕に、千登利さんは真顔で視線を返したあと、しっかりと頷いた。  大丈夫、ということらしい。本当だろうか? 襖を開こうとする手は、千登利さんに握られてしまってびくともしない。  嫌な音を立てて脈打つ心臓が、残った血液を無理に回し始める。ただでさえ回らない頭は血が足りなければ尚更鈍くなり、僕はただ信じることに決め、ぎこちなく頷きを返した。

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