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Ⅱ-3:旅館の話⑦

 三十分後。背を預けていた襖が開き、支えがなくなった。  おわ、と間の抜けた声でひっくり返った僕の視界に、少しばかり疲弊の滲む顔で此方を見下ろす謙一さんが映る。  常日頃はきちんと結い上げている銀色の髪は、完全に解けて乱れていた。白い簪が、絡んだ髪の隙間に引っ掛かっている。白い着物は裂け、絹糸で出来た義足が完全に晒されていた。 「だ、だ、大丈夫、ですか」 「問題ない、気にしないでくれ」 「でっ、でも、その」 「昔はあれより酷かった。今日のはマシな方だ」  後ろ手に襖を閉め、吐き捨てるように言った謙一さんは、溜息を共に髪に引っ掛かった簪を拾い上げる。小ぶりな花のついた簪を口に咥え、苛立ちをぶつけるように歯噛みすると、乱れた髪を手櫛で纏め直した。  挿し直された簪の花が一部欠けている。気づいた千登利さんが震える両手を握り締め、堪えるように軽く唇に歯を立てた。 「意識は失っているが、一先ずこれで安定する筈だ。念の為、明日までこのまま部屋は開けるな。まあ、とにかく、君が居てくれて助かった」 「いえ、僕は何も……」 「傷を負わせてしまった後で済まないが、湯浴みの用意をしておいた。よければ使ってくれ」 「あ、ありがとうございます」 「少しばかり血を抜いたからな、風呂場で倒れては事だ。一応、入り口に千登利をつけておく。千登利、十五分経ったら気分が悪くないか確かめるように」  流れるように告げる謙一さんに、千登利さんが小さく頷く。きちんと伝わったことを確かめた謙一さんは、そこでようやく一息つくように大きく溜息を吐いてから、欠伸を噛み殺し、眉を寄せて告げた。 「では、私は今日は寝る。おやすみ」 「え、あ、はい、おやすみなさい」  挨拶を返して、謙一さんが廊下の奥へと消えていくのを見送ってから、九時を回っていることに気づいた。今日一日で色々とありすぎたせいで、正直僕も眠い。だが、流石に血塗れの服を着ていた身体で、しかも他所様の家でそのまま休む気にはなれなかった。  ついでに言えば、お腹も空いている。前条さんほどではないにしろ、満身創痍だ。  立ち上がるのにも気合いが要る。一呼吸置き、ようやくの思いで立ち上がった僕の手を、千登利さんが軽く引いた。  風呂場に案内してくれるつもりらしい。先導する千登利さんの後に続き、入り組んだ屋敷の中をぼんやりと歩きながら、風呂の中で寝そうだな、なんて思った所で、僕の記憶は途切れた。  翌朝。目が覚めた僕は、日本家屋の室内に一瞬、自分が例の『旅館』に居るのでは、と勘違いしかけて飛び起きた。明るく差し込む日差しと、いつの間に用意されていたのかも覚えていない着物を身につけている自分に気づいて、中庭に面した障子戸を思い切り開け放ってから、此処が謙一さんの家であることを思いだした。  思わず気が抜けて座り込んだ僕の視界に、此方に向かって歩いてくる謙一さんの姿が映る。普段着なのか、いつもより緩く髪を結った謙一さんは、僕の姿を認めると僅かに目元を和らげた。 「ああ、おはよう。元気そうで何よりだ」 「お、おはようございます! えっと、前条さんは、あのいや、ていうか僕どうして着替えて、あの、だ、大丈夫ですか!?」 「…………今のところは何の問題もないよ、安心しなさい」  大丈夫か聞きたいのは此方の方だな、みたいな顔をされてしまった。寝起きの頭で話そうとしたばっかりに。  恥ずかしくなり、いったん黙ろう、と思ったところで、黙った僕の代わりに、僕の腹が空腹を主張した。結局どちらにせよ恥ずかしい結果にはなる運命のようだ。居たたまれなさに唇を噛み締め黙り込んだ僕に、謙一さんが小さく笑う。 「朝食に呼ぼうと思って来たところだ、丁度良かったな」 「あ、ありがとうございます。あ、でも、えっと、さ、先に前条さんの顔を見てきたいんですけど……だ、駄目でしょうか」  明日までは開くな、と言っていた部屋だ。日付が変わった今なら見に行っても大丈夫だと思ったのだが、謙一さんは少し困ったように眉を寄せ、未だ主張を続ける僕の腹に耳を傾けてから、小さく吐息を零した。 「……分かった、あの子の部屋に食事を運ばせるから、そこで食べなさい」 「…………すみません、ありがとうございます」  恥ずかしさに縮こまった僕を、謙一さんはやはり少し困ったような笑みを浮かべて見つめる。何か言おうとして、結局開いた唇をそのまま閉じた謙一さんは、そのままくるりと踵を返すと、「ついてきなさい」とだけ告げて歩き出した。  辿り着いた奥座敷には、昨晩とは違い絹糸らしきものは一本たりとも見当たらなかった。綺麗に片付けられた、簡素だが落ち着いた雰囲気の部屋の真ん中で、白い着物を着た前条さんが布団に横たえられている。  その身体に起きていた変容は、一切合切がすっかり収まっているように見えた。整えてくれた人が前髪を避けていたのか、晒された顔もただ穏やかに寝入っているようにしか見えない。 「……服装の一式は既に使い物にならなかったので此方で用意した。起きたら文句を言うだろうから、君の方で上手く宥めてやってくれ」 「あ、はい、えーと……はい」 「一応、体質上必要があって身につけているものだからな、早々同じ物は用意できない。恐らく昂の方の伝手で作ることになる筈だ」  ごく冷静に告げる謙一さんの後ろから、膳を持った千登利さんが現れる。音も立てずに足を進めた千登利さんは前条さんの布団から三歩ほど離れた所に食事の支度を済ませると、頭を下げ、また音も無く部屋を後にした。 「片付けは千登利に任せると良い。急ぐことはないからゆっくり食べなさい」 「すみません、ありがとうございます」 「……それと、食事が終わったら少し話がしたい。時間が出来たら、そこの壁にかけてある呼び鐘を鳴らしてくれ」 「話、ですか? 分かりました」  一体何の話だろうか。よく分からないものの頷き、謙一さんを見送る。話をするにしても、まずは食事を取らないことには頭も回らない。  菜飯と味噌汁、鮭の塩焼きが並んだ朝食は、どれも何処かほっとする味がした。  お新香を摘まみながら、そういえば冷蔵庫の豆腐は賞味期限が切れてしまったな、と思い出す。  前条さんのリクエストは覚えている。たこ飯とサバの味噌煮と豚汁。彼の目が覚めて、帰ったら真っ先に作ろう。 「あ、ついでに司も迎えに行かないと不味いな」  今はトンネルにいるんだろうか。かえる、という状態がどういうものなのは僕にはよく分からないが、前条さんが一緒なら何とかなるだろう。  死んだように眠る前条さんの顔を眺めながら、目覚めない彼の横で待つのは二度目だ、と思う。あの時も、僕はもっと強く、きちんと彼に『好きだ』と伝えたい、と思っていた。  思いの深さと強さが足りないなら、せめて伝えることで彼に報いたい。報いる、とか、いや、まあ、好きってきっとそういうことではない、ような気もするのだけれど。  多分きっと、前条さんも僕にそこまでは望んでいない。そうなると、望まれていない、ということそのものが、なんだか悔しかったりもする。 「とりあえず、僕が美人に死ぬほど弱いのを何とかしないと、まず信頼がな…………」  第一の反省ポイントはそこだ。前条さんはなんというか、僕は結局『前条さんの顔だけが好き』なんだと思っている節がある。惚れたきっかけがきっかけなので、前条さんの顔が好きである、という事実自体を否定するのは不可能だ。ここで重要なのは、僕が別に前条さんの顔『だけ』が好きなわけではない、と真摯に伝えて、信じて貰うことだ。  そうなると、やっぱり紙袋を被って生活して貰った方が良い気がする。もしくは紙袋でもやることをやるしかないのでは……ないだろうか……。  馬鹿なことを考えながら最後の一口を飲み込む。前条さんは、まだ目覚める気配は無かった。  食事を終えた食器を片付け、部屋の隅の呼び鐘を鳴らす。無数の細い糸が続いているらしい鐘は小さな音を響かせ、繋がれた糸の内のひとつを揺らした。  幾ばくもしないうちに茶菓子を乗せた盆を手にした千登利さんが現れ、僕の手から膳を受け取り、頭を下げて去って行く。その背が小さくなって角を曲がる頃、謙一さんが開いたままの襖から顔を覗かせた。 「君に会えば目を覚ますかと思ったが、大分消耗が激しかったようだな。まあ、心配することはない。いずれ目を覚ますよ。念の為伝えておくが、早めたいのなら方法は前と同じだ」 「い、いえ、流石に人様の家でそれは……ちょっと……」 「そうか。まあ、そうだろうな」  ぶっきら棒に告げた謙一さんが、僕の対面に人一人分の距離を開けて腰を下ろす。背を正した謙一さんに釣られ、同じように正座の形に座り直した。  向かい合い、視線を交わして数秒。そういえば何の話をするんだったか、と思った僕に、謙一さんは迷いの無い声で告げた。 「櫛宮君、私は君にひとつ、謝らなければならないことがある」 「謝らないといけないこと、ですか?」 「ああ、そうだ。私は過去に一度、君の存在を完全に昂の中から消そうとした。これがどういう意味か、今の君になら分かるはずだ」 「…………ええ、と、それは、」  僕を見つめる謙一さんの瞳には、一切の揺らぎも無かった。凪いだ瞳が、ただ静かに僕を見つめている。  前条さんの記憶の中から僕を消す。過去、というからにはきっと、僕と前条さんがまだ再会する前のことだろう。それはつまり、前条さんが覚えていることによってこの世に繋ぎ止められていた僕の消滅を意味する台詞だった。  ……成る程、だから前条さんは、謙一さんのことが嫌いだったのか。  旅館に向かう前、謙一さんと顔を合わせた時の前条さんは、謙一さんが僕のことを『殺しかけた』と口にした。存在の消滅を死とするなら、確かに謙一さんは直接手を下そうとしたわけではないにしろ、僕を殺そうとしたことになる。  それだけを聞けば何とも物騒な話だが、しかし、短い付き合いだろうと僕にも謙一さんの人柄は感じ取れている。彼女は何の意味もなくそんなことをするような人ではない。 「……何か意味があってそうしたんですよね」  確かめるように尋ねた僕に、謙一さんは此方を見据えていた瞳を一度閉じ、細く息を吐いた。 「君も実際に見たから実感したと思うが、以前も伝えたように、サーカスから戻って以降の昂の身体は酷く不安定な代物だ。こうして人の形を保っているのが奇跡のような存在だとも言える。昨晩のような変貌はまだマシだ、昔は殆ど人の形をしていなかった」  謙一さんの目が、眠り続ける前条さんへと向かう。 「自己を保つだけでも手一杯のような存在に、『消える』ことを定められた人間を覚えていようとする余裕など無い。何方も手にしようとして自己が崩壊してしまうくらいなら、何方かは切り捨てるべきだ。そして、それは当然、自身以外であるべきだと思わないか?  あんな男のせいで親族は皆殺しになり、唯一残った私もこんな有様で、その上居るかも分からない人間に執着して己を壊すなんて、あんまりじゃないか」  握られた拳が、膝の上で微かに震えていた。 「『けーちゃん』などという存在を覚えていようとするからそんなことになるんだ。それは分かり切っている事実だった。  だが、昂は『けーちゃん』だけが自分を幸せにしてくれるのだと信じて疑わなかったよ。もしかしたらこの先、もっと素晴らしい人間に出会うかもしれないのに、出会えるかもしれないのに、その機会全てが『けーちゃん』などという存在のせいで閉ざされようとしていた。  だから、私は昂の記憶を編み直すことにした。『けーちゃん』のことなどすっかり忘れてしまえれば、少なくとも人として形を保つのは容易くなる筈だった。そう思い込んで、実行した結果が、これだ」  謙一さんは絹糸で出来た足を、何の感慨もない目で見下ろした。 「昂は私の片足を捥ぎ取って、絹糸を全て薙ぎ払って家を出た。十七の年だ。そこから四年、戻らなかった。  その間何をしていたのかは知らない。ただ、戻ってくるまでに身体を保つ方法を覚えたのは確かだ。随分と安定していて、その代わりに、精神が殆ど壊れていた。もう私にはどうすることも出来なかったよ。きっといつか壊れきって、戻らなくなるだろう、と思った。月下部の者ならなんとかなるだろうか、としおんに預けたのがその頃だ。  落ち着いたのは、事務所を立ち上げ始めてからだと聞いている。あの男……布施に出会ってからだな」  忌々しげに布施さんの名を口にした謙一さんは、そこで一度言葉を切ると、真っ直ぐに僕を見据えた。 「きっと私は、この子が好いている『けーちゃん』とやらを受け入れてやるべきだったんだろう。結果を見た今ではそう思う。  だが、あの頃の私にとっては見たこともない、いるかも分からない『けーちゃん』よりも、この子の方が何倍も大事だった。きっと、私は何度やり直したとしても、記憶を編み直そうとする。だから、君には謝らなければならない、と思った」  すまない、と頭を下げる謙一さんに、慌てて歩み寄る。手を添えた肩はやはり少女のものにしか思えない。謙一さんはこの細い肩に、様々な重圧を抱えてやってきたんだろう。唯一残った肉親が得体の知れない身体になって帰ってきて、助けることも出来ずに壊れていく様を見るしか出来ないなんて、僕には想像もつかないほど辛いことだと思う。  それに、多分、僕が謙一さんと同じ立場だったら、きっと同じ事をした筈だ。居るかも分からないような人間より、家族の方が大事に決まっている。決まり切っている。 「い、いや、いいです、大丈夫です。謝らないで下さい、謙一さんには沢山助けて貰いましたし、僕、凄く感謝してるんです」 「…………」 「なんていうか、こう、誰でも間違えることってあるじゃないですか。僕も沢山間違えてきましたし、みんながみんな正解を選び取れるなんてことないっていうか、その、なんだろう、この、えーとですね、今まで間違えてきた、その、今が、もしかしたら僕らにとっては一番の正解なんじゃないか、って思うこと、あるんです」 「……そんなことがあるだろうか」 「あります、きっと。僕が彼女にフラれたのも、認められないからってやる気無くしてたのも、あの時の僕にとっては間違いでしたけど、でも、今の僕にとってはそれも正解ですし、だから、なんか、最終的になんとかなれば、途中の間違いはいいやって、思えるっていうか、お、思いました」  おかしいな。また感想文になってしまった。  何を言いたいのかも分からずに言葉にする僕を、謙一さんが何処か呆けたように見上げている。絶対に馬鹿だと思われている。  けれども、僕にとっては本気の、心の底からの思いだった。 「だって、その、間違いを絶対に許せなくて、今を楽しめなかったら、昂さんが幸せになれないじゃないですか」  前条さんの過去は、全部が全部『あったよかったこと』ではない。きっと、無かったことにしたい思い出ばかりだろう。間違ってきたことも沢山ある。でも、その間違いにばかり目を向けていたら、きっと彼を幸せにすることは出来ない。 「だからもう、今がちゃんと幸せなら、僕はそれでいいです。それで、出来たら、謙一さんも一緒に、昂さんを幸せにしてくれたら、僕は嬉しいです」 「………………君は、なんというか……、……いや、いい。分かった、君たち二人が『幸せ』になれるよう尽力しよう。困ったときは頼りなさい、出来る限りのことをさせてもらうよ」 「はい、よろしくお願いします」  苦笑する謙一さんに微笑みを返す。そこでふと、僕らの上に影がかかっていることに気づいた。  長身の人影だ。目をやれば、ゆらりと立った前条さんが、首を傾け、細めた目で僕らを見下ろしていた。 「あ、ああああ昂さん!? 起きたんですか! 良かった、──あッ、いや、これはですね、たった今和解をッ、和解をしたところなんです! もう全部終わった感じのやつで──」 「おなかすいた」 「──はい?」 「おなかすいた」 「は、はあ」  寝ぼけきった声が、端的に六文字を繰り返した。寒い、より先に空腹が来るのは珍しい。寝ぼけたまま足を進めた前条さんが、覆い被さるようにして僕の身体を跨いで座る。寸前のところで後ろでをついて堪えたが、油断していたら完全に押し倒されていた。  腰の上に座った前条さんが、冷えた手の平で僕の身体を弄る。いや、おい、ちょっと、しませんよ!? 「なんかおいしいものたべたきがする」 「え?」 「あかくてほそいやつ」 「…………あー……」  それは僕の血です、とは流石に言えなかった。流石に。もう一度食べたい、と言われても困る。きっと僕は食べさせてしまうだろうから、困る。  それこそけーちゃんが食べたい、と言われてしまっても、多分僕は捧げてしまうだろう。だって、僕が彼の愛に差し出せるものなんて、もはやこの身くらいしかないのだから。 「けーちゃん」 「はい」 「キスしたいな」 「……こ、ここでですか」 「うん」  謙一さんがいるんですけど、と思ったが、気づいた時には姿が無かった。は、早い。いや、もしかしたら前条さんの分の食事を取りに行ってくれたのかもしれないけど。  屈み込んでくる前条さんに合わせて、精一杯背を逸らす。軽い、子供がするようなキスを何度か繰り返した前条さんは、やはり未だに寝ぼけた目で僕を見つめ、ご機嫌に笑った。 「けーちゃん、すき」 「知ってますよ。……いや、知らなかったのかもしれない、ですけど」  一生知り尽くせる気なんてしない。海底を知り尽くすくらいには無理難題な気がしてきた。  けれども、少なくとも、彼がどうすれば喜ぶのかは分かっているつもりだ。まずは、僕の中にある、僕自身に分かっている自分の気持ちを伝え切ることから始めよう。  徐々に怪しい方向に深くなり始める口づけをいったん止め、両頬を包んで目を合わせる。 「昂さん」 「ん?」 「結婚式をしましょう」 「……ん?」  包んだ頬が、そのまま傾いた。ようやく眠りの世界から戻ってきたらしい前条さんの目が、また訳分からないこと言い出したなこいつ、なんて笑っている。 「結婚式です、しましょう。したいので」 「したいんだ?」 「したいです、します」 「決定かよ」 「招待状も出しましょう。布施さんも招待します」 「あー、そんで殴る?」 「殴ります」 「いいね」  唇の端を吊り上げた前条さんが、喉を鳴らして笑う。どうせまた逃げたんだろ?なんて聞いてくるので、ええそうですよ、華麗に逃げましたよ、いつもああなんですかあの人、とぼやきを返す。いつもああだよ、ともう許してしまったことが分かる笑い声が響くものだから、もう僕は頭を抱えるしかなかった。 「……僕、正直あの人許せないんですけど」 「ん? あれ、終わりが良ければいいんじゃなかったっけ?」 「それはあくまでも僕が受けた害の話なんですよ」 「じゃあ俺が受けた害を俺が許すのもいいんだよな?」 「うぐぐ……」  そう言われてしまうともう、僕に反論は出来なかった。僕は前条さんの報復を僕の『嫌』で押しとどめてきたのだ。自分がされたら嫌だというのは、それはもう、なんというか、よくない。  仕方ないから、披露宴で殴るくらいで勘弁しておこう。前条さんはどう足掻いても布施さんを許容してしまうし、それの理由が僕だというなら、しょうがない、ということにするしかない。  深い溜息を吐き出しながら、それとなく前条さんの手から逃げる。このまま行くと完全にいかがわしい流れになってしまうので、流石にそれは避けなければならなかった。朝食を持ってきた千登利さんが一度襖を開けかけて閉めたのが見えたし。 「ほら、昂さん、お腹空いたんでしょう。食事の用意出来てますよ」 「たこ飯?」 「…………それは夜にしましょう。これから司を迎えに行って、何処かの店でお昼にして、帰りに買っていきますから。あ、あとハーゲンダッツ買わないと」 「ハーゲンダッツ? なんで?」 「なんか、月下部さんが買ってきてくれたやつ食べようとした時に僕が死んだらしいですよ」  千登利さんから受け取った膳を置きながら言えば、少しもそんなことは思っていない「可哀想に」が返ってきた。半分笑ってるじゃないですか。  食べたいって言っていた味はなんだったか。ストロベリーと、抹茶と? チョコ? まあいいか、会った時に聞けば。  食事を終え、布団を整えた僕らが帰り支度を始めた頃、千登利さんが着替えを手に奥座敷へとやってきた。  僕らの服で使えるものは一つもなかったはずだ。用意されていたのは着物と羽織で、僕と前条さん用なのか、藍色のものと黒色のものがそれぞれ重ねられていた。帯の色が揃いだ。 「すみません、何から何まで……ありがとうございます」  千登利さんを見送り、受け取った着物を広げてみる。そういえば僕、ちゃんと着物着たことないな、と気づいた時には、彼女の背中は既に見えなくなってしまっていた。  どうしよう、困った。畳んだ筈の布団に包まっている前条さんを振り返る。 「……昂さん、着方とか分かります?」 「貸してみ」  伸ばされた手に用意されたセットを手渡す。此方に放られた足袋を履いている間に選り分けたらしい前条さんは、僕を立たせると慣れた手つきで着付け始めた。  普段着慣れているようには見えないのだけれど、器用なところもあるんだな、なんて思いながら眺める僕に、前条さんが少しばかり詰まらなそうな声で呟く。 「此処、昔から着物しか無かったからな」 「…………そう、なんですね」  帯を締め、確かめるように離れて眺めた前条さんが、よし、と頷き、もう一組、前条さんに用意されているらしい黒い着物に手を伸ばす。僕に着付けた時と同じく慣れた手つきで袖を通した前条さんは、羽織まで身につけた後、「寒い」とだけぼやいた。 「ねえ、けーちゃん。本当に行くの? 別によくない?」 「いやいや、流石に着替えに食事まで用意して貰って、挨拶無しに出てはいけないでしょうよ」 「どうせ気にしないって」 「僕が気にするんです!」  言い切り、記憶を頼りに進む僕を後方から何ともやる気の無い足取りで追っていた前条さんが、何度目かの右折の時に僕の腕を取った。  逆、と告げる前条さんに引かれ、白い襖の前へと辿り着く。前に来たときは確か此処が一番奥だと思っていた気がする。もしや、来る度に道が違うんだろうか。よく覚えていない。 「謙一さん、櫛宮です。そろそろお暇しようかと思って、一応、挨拶に来ました」 「入りなさい」  座卓の前に座る謙一さんは、僕と前条さんの姿を見やると、感心したように片眉を上げた。室内に入ってからも、視線が、僕と前条さんを見比べている。どこか変だったろうか、と心配する僕に、謙一さんはあくまでも淡々とした声で告げた。 「案外似合うものだな。丁度良い、それは君らにやろう。好きに使いなさい」 「え、……えっ? い、いや、悪いです、そんな、」 「いいじゃん、どうせ返す気ないから捨てるしか無いし」 「捨てる!? これを!?」  こんな上等な着物を!? 一体全体何を考えてるんですかアンタ!?  返しに来たくないという思いは分かるが、別に捨てる必要は無いはずだ。着心地だけで上等な代物だと分かるのに、流石に一回袖を通しただけで捨てるなんて真似は出来ないし、そもそもこんな良い物を貰うなんて真似も出来ない。管理とかどうすればいいんだ。小市民にはあまりにも荷が重いですよ! 「返して貰ったところで私に合うサイズでもないからな」 「そ、それはそうでしょうけど……」 「まあ、今までの礼だとでも思ってくれ」 「はは、詫びの間違いだろ」  胡座をかいた前条さんが嘲笑うように口にする。その声をただ静かに受け止めた謙一さんはそっと目を伏せると、確かにそうだな、とだけ返した。  舌打ちが響く。何処か気が削がれたように謙一さんへ目を向けていた前条さんは、それ以上特に何を言い返すでもない謙一さんに、溜息交じりに言い放った。 「お前さあ、あの場で言うの大分卑怯じゃない? 何処が真っ当な大人なんだよ」 「ああでもしないと聞かないだろう、お前は」 「うわ、やっぱり聞かせようと思って言いやがったな。小賢しいやつ、どうせ口だけのくせに」 「口だけかどうかは、これから先証明してみせるさ。実際、私が寄越した御守りは、役に立たなくとも、害も成さなかっただろう?」 「………………」  何とも嫌そうな顔で黙り込んだ前条さんは、視線の先の謙一さんが少しも堪えた様子なくお茶を啜る様を数秒眺めてから、小さく鼻を鳴らした。  そのまま何を言うでもなく立ち上がると、僕の腕を掴んで踵を返してしまう。半ば引きずられるようにして退室する僕に、謙一さんはほんの少しだけ表情を緩め、また来なさい、と僕に聞こえる程度の声で言った。  また来ます、と口だけで返事をする。そのまま、途中で何とか体勢を立て直してついていき、玄関を出たところで、気づいた。 「あ、そういえば此処まで車で来たんですけど、多分津夜子さん…………帰っちゃってますね」 「なんだよ、車だけ置いて良きゃいいのに」 「多分返して貰えないと思ってんじゃないですか」 「着物より車が欲しい」 「我が儘言わないで下さい。此処からだと、確か林を抜けたところにバス停ありましたよね」 「一時間に一本しか無いよ、あそこ」 「え、次って何分ですか」 「四十二分」  スマホを確かめようとして、とっくに電源が切れた真っ黒な画面に自分が反射する。 「今って何時でしたっけ」 「七時三十分」 「……十二分で抜けられます?」 「俺が全力で走ればいけないことないけど、走る?」 「…………いえ、のんびり行きましょう」  司を待たせることになってしまうかもしれないが、別にハーゲンダッツは逃げたりしないのだし、多少の遅刻は勘弁して欲しい。  間に合わせるのは早々に諦め、そっと袖口から伸びる手を握り締めた僕に、前条さんはいいよ、のんびり行こうぜ、と指を絡め返した。    了

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