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月下部と前条の話
初めて前条に会った時の印象を、俺はよく覚えていない。覚えていたくない、というのが正しいような気もする。世の中にはわざわざ首を突っ込まなくても良いことが山程あって、多分あいつはその筆頭だった。
出来ることなら首どころか髪の毛先一本だって突っ込みたくなんかない。それでも、銀糸の拘束を溶かして呪詛じみた声を上げるその男の世話を引き受ける気になったのは、俺の恩人が努めて平静を装って、俺なんかに頼み事をしてきたからだ。
『私の甥に当たる男なんだが、どうにもまともな人間になりそうにない。〝真っ当な人間〟にしろなどとは言わん、せめて〝人間〟にしてくれないか』
淡々と、普段となんら変わりない声音で告げた謙一さんの握り締められた両手を見て、断りを入れるような気には到底なれなかった。謙一さんほどの人が俺に頼むなら、多分もう充分に手は尽くしていて、その上で駄目だったということだ。
俺が役に立つのかはさっぱり分からないが、謙一さんが、この、聞いているだけで目眩がしそうな呪いを吐き出し続ける男を預ける先として俺を選んだのなら、俺は出来る限りそれに応えたいと思った。いや。出来るなら断りたかったけど。出来るなら。
紡ぎ直す端から腐り落ちていく絹糸を解いた謙一さんは、途端に立ち上がった男がふらつきながら部屋を出るのを一瞥すると、小さく溜息を落とした。
吐息に混じるようにして響いた謝罪を背に受け、別に全然、と返しながら男を追う。別に全然、の後に平気です、と続けられなかったのは、まあ、平気ではなかったからだが、言わずに済ませるだけの覚悟はあった。
「おい、ちょっと待て。どこ行くんだよ」
「けーちゃんを探しに行く」
「あ?」
平衡感覚に異常を来しているのかあちこちぶつかりながら歩く男は、空間の境目に手を入れ、苛立ち任せに引き裂きながら端的に答えた。響きこそ明瞭だったが、答えの意味は俺には理解できなかった。
蔦でも引きちぎるようにして旦那の糸を引きちぎっていた男が、歪な動きで振り返る。得体の知れない何かが人の身体を動かしているような、そんな仕草だ。シンプルに、気色悪いな、と思う。顔だけ妙に美しいのが尚更、気味が悪かった。
「けーちゃんを探しに行く」
「誰だよ」
同じ言葉を繰り返した男は、意味が分からず苛立った俺が溢した呟きを拾い上げた途端、その端正な顔立ちにぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべてみせた。
ぎしりと床の軋む音がして、そこでようやく、男が俺の腕を掴んでいることに気付いた。
「けーちゃんは小さくてかわいくてちょっと馬鹿で俺のことが好きなの、だから幸せにしてくれるんだけどけーちゃんはいるからいないのに探さなきゃいけないしだから石楠花の下に見つけないといけないけどお前もけーちゃんのこと覚えてくれていいよ覚えてね、だってあんなにきらきらで悲しくて優しかったんだから居るんだよ俺は覚えているから梔子の群れとお前は知らないかも知れないけど俺は覚えているし私はそうでないと幸せになれないからいつまでも私ばかりおかしいんだっていつか言ってやるけどもういなくてけーちゃんだけが見つからないんだ、だってもう幸せになれるはずなのに、どうしても部屋の鍵は開かなかったけどまだ使いようだってあったのに待っていたわたしを置いて行ったのはお前じゃないか、あの冬の夜に会いに来てくれるはずだったのにあの女は人魚の肉にもなれないくせに俺のけーちゃんはいるけどいないから探しに行くんだよ」
「…………」
吐くかと思った。今からでも引きずっていって謙一さんとこに戻したら不味いかな、とか割と本気で考えた。
別に意味不明な言葉を羅列していること自体はどうでもいい。俺みたいな仕事をしてればそんなやつとは沢山会うし、何ならもっとやばいことを言ってるやつだって居た。
こいつの不味いところは、言葉の裏で此方の潜在意識に働きかけていることだ。肉体の殻を無視して、内部に直接干渉しようとしている。ざらついた声の裏で、伸びてきた見えない手が心を掴もうとしている。どう考えても手段が人間のそれではない。気色悪い。
これを『人間』にしろってのは、大分無茶な話じゃないっすか。謙一さん。そりゃ、俺はあんたの為なら何だってするつもりで、いやまあ、俺がしたい範囲でだけど、とりあえず、まあ命くらいならかけてもいいんすけど、でも、それにしたってこいつはなぁ。
「けーちゃんはね、小さくて、このくらい、ふわふわで髪の毛は少し固くて可愛い声をしていて俺を幸せにしてくれるんだよ別に幸せにしてくれなくたって一緒にいてくれればそれでいいんだけど俺はえやみぐさには軋みを伝えてくれれば橙がやってくれるんでしょう、西の海には」
「…………お前さ、とりあえず、俺の潜在意識に働きかけるのやめろ」
やっとの思いで吐き出した俺を、黒く澱んだ瞳が今日、初めて捉えた。
俺の腕を掴んでいるこいつは、今初めて、目の前に人間が立っていることを認識したようだった。
神様はどうしてこんな奴の顔を、こんなにも綺麗に作ったんだろうか。覗き込めば暗がりしかないような瞳が、美しい顔にぽっかり穴を開けている。
ぶっちゃけ、見ないままでいてくれた方が百倍良かった。『目の前に人間が立っている』ということに気づかないままでいてくれた方が五百倍はよかった。
だが俺はもう気づかれてしまったし、何より謙一さんは俺にこいつの世話をしてくれと頼んだ訳だし、マジで嫌だし帰りに何処かに捨てて行きてえくらいだったけど、無視するのも怖えからもう関わるしかなかった。
人語を解す熊が「こんばんは」って涎垂らして窓から覗き込んできたら、無視するの怖いだろ。そんな気分だよ、俺は。要するに死を覚悟するくらいには最悪ってことだ。誰か代わってくんねえかな、と思ったが、生憎と他に押し付けられそうなやつは一人もいなかった。
「けーちゃんを探しに行く」
「……あー、うん」
「知ってる?」
「…………いや」
「お前、岸辺に立ってるな。今に沈むぞ」
「…………」
知らない、と言いかけて、知らないこともない、と思ったところで、ざらついた指で肌を撫でられるような感覚が喉元を緩く締め付けた。
こいつの言葉が一体何処までこいつ自身の言葉なのか、俺には少しも分からなかった。不快感の残る歪だけが胃の腑の辺りに重く伸し掛かる。
「……ほっとけ、沈むのには慣れてっから」
「みんな飲まれたのにお前だけ残ったんだ、手を伸ばしても届かないくせにお前は望まれてそこにいる」
別に俺は望んでないけどな、と言いかけて、望んでも手に入らなかったものについて考えて、黙った。黙ってしまった。ムカついたので軽く殴ろうか迷ったが、殴った途端にこれが人間をやめたりしたら最悪だな、と思ってやめた。
生きててよかったとも、生まれてきてよかったとも思ったことはないが、生きたいとは思っているし、死にたくはない。次のライブのチケット取れたからまだ生きてないと不味いし。
「何処にあるの? けーちゃんもいるかな」
澱んだ泥のような目が真っ直ぐに俺を見つめていた。会話が成り立つ気配を感じたせいか、先程よりは余程人間に思えた。思いたかったのかもしれない。
「行きたいなら連れてってやるけど、どうする」
「行く」
端的かつ意思の疎通が図れる返答に、俺はそこでやっと、詰めていた息を吐くことが出来た。
対岸町と呼ばれる町が、ずっと昔に湖だったことを知る人間は案外少ない。資料が殆ど残っていないというのもあるが、そもそも知っている人間は進んでそれを口にしたがらない。
昼夜問わず月を写し続けた底の見えない湖は、何百年か前に一度大きく広がり周辺一帯を飲み込んだあと、すっかり干上がって今の形になった────と俺は聞いている。
詳細を確かめようにも、俺を連れて逃げるようにこの街を後にした母親はもうすっかり何もかもを忘れているし、十七の俺に『この先も生きたいなら、二十歳までには戻りなさい』と告げた祖母は、その後すぐに一度倒れて、色んなことが抜けちまった。それが病気のせいか、何か他の理由のせいなのかは、俺には今一つ判別できない。これもまた、首を突っ込まない方がいい事柄のうちの一つだった。
助手席に乗せた男の存在を出来る限り無視しながら車を走らせる。とりあえず自宅が割れるのは絶対に御免だったので、適当なところで一度降ろした。
此処で待ってろ、と言って車を置いてきたのに戻ったときにはいなかったから、正直このまま居なくなったことにしたら不味いか?と割と本気で考えてしまった。
連絡を取る手段もないのでそのまま待つこと十五分、先程よりはしっかりした足取りで歩いてきた男は、待たせた詫びもなく開口一番訪ねてきた。
「名前は?」
「…………月下部」
「下の名前」
多分本名を言わないと問答無用で殺されるんだろうな、という確信があった。こんな男に名を知られること自体が最悪だが、既にこの状況自体が最悪だったので八方塞がりもいいところだった。最悪の中から最もマシな選択肢を選ばなければならない。
「……人に名前聞くならまず名乗れよ」
「前条昂」
「…………」
どんな字を書くのか考えかけて、べったりと張り付くような不快感に考えるのをやめた。名前っつうのは守りにも呪いにもなると思ってるが、こいつの場合は大分後者の気配がした。謙一さんにも同じ気配がある。
知らず、溜息が落ちた。諦念を含んだ息だ。別に含ませる気なんざ欠片もなかったが、それでも漏れ出る程度には諦めてしまった。
「……しおんだ、月下部しおん」
「しおんちゃん」
「おい、名前で呼ぶな」
「けーちゃんは?」
「…………」
「けーちゃんは?」
知らない、と言いかけてやめた。『知っているだろう』、と裏に潜むものが俺の首に手をかけている。実際俺は恐らく知っているし、知っていることを知られてしまった。どう考えても詰みだ。
謙一さんには悪いが、本当に、非常に申し訳ないくらいに悪いが、これを人間にしろってのは、大分無理がある。何度でも言いたい。無茶だ。炒り卵を生卵に戻してくれ、くらいの無茶だ。謙一さんだって分かってんだろうに。
分かっていて尚、俺なんかに頼みに来るほど大事なんだろう。こんな、訳の分からないやつが。
「……一緒に探してやるから、とりあえず待てよ」
「ほんと?」
その時の前条の顔を、俺はなるべく思い出さないようにしている。思い出すと、なんだかよく分からねえ部分が、よく分からねえことになるからだ。こんな奴に振り回されて、何もかも失うなんて馬鹿げた話だからだ。
こんな得体の知れない訳の分からんやつを、一瞬でも可愛いと思っただなんて、そんなことは、無い──厳密に言えば、あり得たら不味いから、とにかく、早急に忘れることにした。
それから五年、自分が吐き出したその場しのぎの言葉を死ぬほど後悔することになる付き合いが待っているのだが、その時の俺には知るよしも無かった。
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