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第2話

 ◇◇◇  その日、御厨肇(みくりやはじめ)は母親と盛大に言い争った結果、勢いのまま家を飛び出し快速電車に飛び乗っていた。  地元を離れ、二時間ほど揺られて訪れた街には、兄の暮らすマンションがあった。兄は大学卒業後、少しでも通勤時間を減らしたいからと職場近くでひとり暮らしを始め、近年は盆と正月休みくらいしか帰ってこない。  頻繁に連絡は取り合うものの兄の部屋に赴くのはこれが初めてで、肇はスマホのマップとメールで送ってもらった住所を頼りに見知らぬ街をさ迷い歩いた。  どうにかたどりついた兄の部屋に転がり込んだときには、すっかり夜の帳もおり頭が冷えていた。迎え入れてくれた兄に経緯を説明すると、呆れられつつも泊まっていくようすすめられた。  夕食後、温かい玄米茶を啜りながらため息をこぼしていると、兄の佑(たすく)が隣に腰をおろして肩をぶつけてきた。 「こっちに泊めるって家には連絡しておいたぞ。さっきも言ったけど、入ったばっかの大学辞めて製菓の専門行きたいなんて言われたらさ、そりゃ母さんじゃなくたって驚くし引きとめるだろうよ」 「うん……」 「父さんにはまだ相談してないんだろ?」 「ン。帰ってくる前に飛び出してきちゃったから」 「そうか。まあ、もうちょっとよく考えてみろよ。このまま大卒まで待ってからでも専門行くのは遅かねえんだし」 「でもやる気ないのに大学続けても金の無駄じゃん。それに俺、少しでも早く技術習得して働きたいんだよ。将来的には自分の店も持ちたいし」 「ふーん……。聞きたいんだけど、なんでいきなり製菓? おまえそっち方面に興味あったっけ」  兄が抱いて当然の疑問を投げかけてきて、肇は一瞬言葉に詰まった。 「……あったっていうか、最近知れたっていうか」 「なに、女?」 「違う! と、友だちの従兄弟がチョコレート職人で、工房を見学させてもらったんだ。大柄で手の大きな人だったんだけど、信じらんないくらい繊細で綺麗なショコラ作る人でさ。特別に少しだけ体験させてもらえて、俺には菓子作りの才能があるって言ってくれて……」  そのときのことを思い返しているのか、肇の頬が興奮に赤く上気した。希望を抱いてキラキラ輝く瞳は、かつてより見守ってきた佑でさえ初めて目にするものだった。 「楽しかったか」 「うん! 菓子作りがあんなに楽しいものだとは思わなかった。それにさ、自分で作ったほうがおいしいんだよ。市販のもマズイとは言わないけど、歯応えとか香りとかぜんぜん違ってて。それに俺、黙々と同じ作業してるのが得意みたいだ。友だちの存在忘れて、ずっと従兄弟の人にくっついて菓子作り教わってた」 「そうか。だったら今度、教わった菓子を作ってきてもらおうかな。本当におまえに才能があるとわかったら、俺も専門に行けるよう後押ししてやる」 「本当? やった、ありがと兄ちゃん!」 「サトリ世代でイマイチ向上心の見られなかったおまえがさ、必死になってやりてぇって思うこと見つけられたんだ。応援しねえわけねえだろ。でももし生半端な覚悟だったとわかったら、そんときは怖いからな?」 「大丈夫だってば」  感激して抱きつこうとする肇の頭を押し退け、佑はテレビ画面の時計表示を見てそろそろ寝仕度をと腰をあげた。  着の身着のまま飛び出してきた手ぶらの弟に服を貸し与え、先に風呂に入らせて新品の歯ブラシや下着を用意してやる。脱いだ服は自分のものと一緒に洗濯し、明日すぐに着られるよう乾燥機にかけてやった。  至れり尽くせりで、いっそ自宅よりも居心地のいい兄の部屋で遠慮なくくつろぐうちに、肇はうとうとと船を漕ぎ出す。 「肇」  リビングの大きなソファで寝入りそうになっていると、肇の後に浴室を使った兄が、濡れ髪をタオルドライしながら肩を揺さぶってきた。 「寝るなら寝室行け」 「んん……兄ちゃんは?」 「俺はまだ起きてる」  つれないことを言う兄の腕にしがみつき、幼い時分によくしていた仕草で頭をすりつける。 「一緒に寝てくンねえとやだ」 「なにをガキみてえなこと」 「だって久しぶりに会えたのに。もっと兄ちゃんと話したい。兄ちゃんが寝ないなら俺もまだここにいる」  眠気を引きずった鼻声で甘える弟の髪を撫で、佑が堪えきれずに吐息で笑う。 「しょうがねぇな……。ほら、添い寝してやっからベッド行くぞ」  ふらふらと覚束ない足取りの肇を支え、ふたりでリビング続きの寝室へと移動する。成人男性が余裕で三人は横になれそうなベッドに転がされると、瞬く間に肇は寝息を立て始めた。 「ったく、いつまで経っても子どもの頃のまんまで......可愛いったらありゃしねえな」  すやすやと無垢な寝顔を無防備にさらす弟の隣にもぐり込むと、佑はリモコンを操って消灯した。  翌日は平日で、出勤のため早朝に目を覚ました兄につられて肇も起きあがった。今日は自主休講することを事前に伝えていたため、兄にはまだ寝ていろと言われたが一宿の礼に朝食を拵えてやった。  洗面を済ませて戻ってきた兄が、テーブルに並ぶ皿を認めて歓声をあげる。 「おお、オムレツなんて作れるようになったのか。チーズオムレツ? しゃれてんな。普段は面倒でここまで用意できねえから嬉しいよ。ありがとな」  席についてフォークを手にした兄が、早速湯気をあげるオムレツを割って中からあふれ出すチーズと共に口へと運んだ。  兄にコーヒーをサーブし、自分にはカフェオレを用意して肇も食卓につく。 「今日さ、もうちょっとだけ兄ちゃんの部屋借りてていい? 家帰ったらちゃんと母さんと話せるように、頭ん中整理していきたい」 「いいぞ。どうせ明日は土曜だし、なんだったらもう一泊してけばいい。帰りは七時頃になるから」  兄は合鍵を置いて出勤していった。ひとりになって考える時間を与えられた肇は、自分が本当にやりたいことを見つめ直し、ショコラティエの従兄弟を持つ友人に進路変更の相談を持ちかけては驚かれながら、着々と己の意思を固めていった。  朝早くから頭を使っていたせいか、昼近くになって唐突な眠気に襲われた肇は、レトルトのクラムチャウダーを食べて少し休むことにした。  友人には、結論を急ぐことはないが、肇が本気なら応援すると言われた。兄も頭ごなしに否定することはなく、その道でやっていけそうならバックアップすると言ってくれた。両親にも肇がどれほど感銘を受け、心を刺激されたか、自分の可能性を見いだせたかを伝え、理解してもらいたい。確かに今すぐ大学を辞めることはないかもしれないが、肇の頭の中は新しいことに挑戦したいという期待でいっぱいだ。この熱が冷めやらぬうちにたくさんの知識を取り込みたい。他の人間に遅れを取りたくない。この歳になってようやく、自分の存在意義を知れた気がするのだ。  使いすぎた脳みそが重く感じる。しかしそのかいあってか、暗雲立ち込めていた胸のうちはスッキリとしていた。  起きたときのまま乱れたシーツに身を横たえ、薄手のキルトケットを肩まで被る。自宅で昼寝なんかしてると母親にうるさく嫌みを言われるが、肇しかいないこの空間では健やかな安眠を得られる。手足の末端からジワジワとあたたまり、たゆたうような微睡みに思考を沈めていく。この瞬間が一番気持ちいい。  十分な睡眠を取ったはずの体は、貪欲に肇の意識を刈り取っていった。

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