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第110話

「ありがとう、百合亜」 「…っ」  瞬きをした百合亜ちゃんの目から、ぼろぼろっと涙が零れ落ちた。  悔しそうに唇を噛んでいるが、睨み付ける視線を碧生へ向けてはいない。  あの百合亜ちゃんが、あんな顔をするなんて。  見たことない。…あんな、女の子みたいな顔。  学校内で猫を被っている時の顔だって、百合亜ちゃんは自分のプライドだけは絶対に崩さず。  いつだって、孤高の美人さんのような表情だった。  今目の前で起こっている色々なことが、更に俺を動揺させる。  呼吸出来ているのが、不思議なほど。 「…わかった。出過ぎた真似をしてごめんなさい」 「俺に、じゃないよ」 「…」  ゆっくりと、百合亜ちゃんが俺の方へ顔を向けた。  袖で涙を拭い、真っ赤な眼でキッと睨む。 「…ごめん」 「えっ、あ…、えっと…」 「おやすみっ」  百合亜ちゃんは俺の反応を待つこともなく、バンっとドアを力いっぱい鳴らして部屋の中へ入って行った。  ゆ、百合亜ちゃんが「ごめん」って言った…。  今のって幻聴?夢…?  16年間生きて来て、初めて聞いた。  碧生が、謝らせた。  この二人の関係って、なに。 「…毬也」  百合亜ちゃんに向けられていた優しい微笑みは消え、強張った表情の碧生が小さな声で俺の名前を呼ぶ。  気が付けば、広いとはいえない2階の廊下に二人きり。  あんなことを言ってしまった直後のふたりきり。  あんな光景を見てしまった数秒後のふたりきり。  心臓がドキッと大きく跳ねた。 「あ…碧生、その…俺」 「…毬也、ごめん」 「え」 「気が付かなくてごめん。…ごめん」 「…碧生…、」 「毬也が無理してたのに、一緒に居てごめん」 「…」  違う違う違う。  そうじゃない。碧生のせいじゃない。  そう伝えたいのに、口を挟む隙間もないまま碧生は続けた。 「俺はいつも毬也のそういう所に気が付けない」 「…」 「俺はいつもそうやって毬也の邪魔をして困らせてる」 「あ、碧生、…俺は」 「…でも、本当は気付いてた」 「…え」 「毬也が悩んでるのも困ってるのも無理してるのも、気付いてた。…離れれば良かったのは分かってた」 「…」 「でも、毬也から離れたくなかった。…他の誰かじゃなくて毬也と一緒に居たかった」 「碧生…、」 「ごめん……ありがとう」  碧生の足がゆっくりと動かされて、近付く。  スローモーションのように俺の横を通り過ぎて、引き留める言葉も浮かばないまま階段へ差し掛かった。  一段下りた時、首だけ一瞬振り返る。 「…っ」  前髪に隠れてわずかに見えたその顔からは、一筋の涙。  思考が、真っ白に染まった。 

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