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第33話
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墨汁を塗りたくったような黒い空には灰色の雲が浮かび、その合間から月の光が漏れている。
その幻想的な夜空に見惚れながら、煌鬼は衣装部屋の前まで辿り着いた。
(まさか……またしても、ここに来るだなんて思いもしなかった……とはいえ、流石に早く来すぎたせいか衣装部屋も開いていないようだし、王専属の守子との待ち合わせの時刻にはまだ少し間がある……さて、どうしたものか____)
あれから、巻物を読み終えた煌鬼は周りの守子達に同化するようにして天子誕生の儀式を見守っていた。
《湖雨》の第二王子が酌をしろ、と命令した夕膳の儀までは大分時間が空くため、一度長めの休息が入るのだが異国の第二王子をもてなす酌をするという役割以外には暇を持て余していた煌鬼は余裕を持つべく早めに衣装部屋へと訪ねたのだ。
しかしながら、辺りには誰もいないことが分かると仕方なしに一度自分の寝所へ戻り、暫くそこで待機するべく一旦は衣装部屋を後にして己の部屋に続く廊下を歩いていく。
すると____、
「あ……っ___!?」
己がぼうっとしていたせいか、はたまた、すれ違おうとしていた相手が夢見心地の如くぼうっとしていたせいか――互いにぶつかってしまい、煌鬼は何ともなかったが相手がしりもちをついてしまったのだ。
「す、済まない……ぼうっとしてしまっていて____」
などと、謝罪の言葉を口にしつつ煌鬼はしりもちをついてしまった相手に手を差し伸べて体を引き上げてやろうと身を屈める。そして、ぶつかってしまった相手が誰なのかということを知ったのだが、それが予想外な相手だったため鳩が豆鉄砲をくらったかのような途徹もない驚きをあらわにしつつ釘付けとなったまま固まってしまう。
「な、何故――貴方様が此所にいらっしゃるのでございますか……確か、天子様の誕生の儀が終わるまで……牢にいる筈では……っ……!?無子様……」
「余が…………外の世界にいては、いけないと……いうことか?」
「い……いや、そういうわけではなくてですね……」
やはり、雨を降らせるために生け贄として育て上げられた無子なる王子は扱いにくいと煌鬼は思った。
ひねくれ者同士、允琥とはさぞかし気が合うのではなかろうか――などと阿保らしいことを思いながら、ふと床に目を落とした時にある物が落ちていることに気付いたため、それを拾い上げる。
「無子様、これは……貴方様のものですか?」
「…………っ____!!」
陽の光に照らされ、きらりと光るそれは透明な硝子瓶で中には僅かに桃色がかった液体が入っていることに気付いた。微かに甘い香りが漂っている気がする。
そして、それを無子に尋ねた時――何故かは分からないが黙り込んでしまった後に、それをばっと乱暴に煌鬼の腕から奪うと、そのまま脱兎の如く逃げ出してしまった。
煌鬼には、無子が顔を真っ赤にしながら瓶を乱暴に奪った理由も――ましてや、その後に脱兎の如く逃げ去ってしまった理由も、まるで分からずに首を傾げるばかりだった。
*
「……い、おい____聞こえているのか?」
はっ、と煌鬼は我にかえった____。
先程の、無子とのやり取りを思い出していたせいで心ここに有らずだったため、珀王専属の付き人からずっと呼びかけられていることに全く気付けなかったのだ。
「誠に申し訳ございません……他に考え事をしていたため、気付きませんでした。私に何かお話でもあるのでございますか?」
「珀王様からのお達しだ…………湖雨の第二王子の言動には、くれぐれも気を付けろとのことだ。また、貴様も決して気分を損ねさせたりするような言動をとるなとのこと……。全く、何故に珀王様は貴様のような……β種とΩ種の混合種などという奇異な存在である貴様に関心を寄せるのか……甚だ、理解できぬ____」
吐き捨てるように言い放った珀王の付き人から逃れるべく、咄嗟に目線を逸らす。
《β種とΩ種の混合種》____。
それは、煌鬼にとって呪いの言葉だ。とはいえ、元からそのような体質ではなかった。
ある日、突然にΩ特有の【満月の夜になると欲情し体から誘発香を放ち周りの者を誘惑する】という、おぞましい現象に襲われてしまい散々な目にあったのだ。
β種も混合しているため、【満月の夜】以外ではさほど生き辛さやそれによる苦悩は感じていなかったのだが、やはり他人からそのことを指摘されたり、からかわれたりすると過去のことが思い出されてしまい、この世から消え去りたくなってしまうのも事実だ。
「さては…………貴様____気付いておらぬのか?今宵は、満月……貴様の化けの皮が剥がされる宵よ。その顔を見て察するに、愚か者の貴様は欲情を抑える丸薬を持っておらぬようだな……まだ、夕膳の儀には時間がある。どれ、珀王様を誘惑するその体……しかと、味見させてみよ……どうせ、この場には我々しかいないのだからな」
「……っ…………お、お止めください……っ……!!」
衣装部屋は、宮殿の中央広場から少し離れた端にあるため滅多に人が来ることはない。しかも、衣装部屋で支度するように珀王から命じられた付き人は目の前にいる男しかいなかったため他の者に助けを求めることも出来ないのだ。
しかも、煌鬼の格好は舞福の儀で身に着けた衣装を纏うために着替えをしていた最中で裸同然のものだったせいで、それが更に男の欲情を誘った。
とうとう、壁際にまで追い詰められ最大の危機に曝されてしまった時のことだ。
衣装部屋の戸を、外側から何者かが叩く音が聞こえてくるのだった。
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